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2010年12月

2010年12月30日 (木)

細川氏の守護領国

 実は、いろんな一族の興亡を描いているうちに室町期の各国守護家の歴史を書いてやろうという秘かな野望を抱いたんです(笑)。まあ一部有名どころはすでに書いているので、残るのはマイナーなものばかりですが(爆)、その流れで各国守護を調べていていくつか分かったことがあります。
 まず、薩摩島津氏は薩摩・大隅はもちろん名目上日向の守護もほとんど占めていたことです。一時南朝方に付いて今川了俊に奪われますが、帰順後はずっと日向守護は島津氏です。意外にも伊東氏は日向一円支配をほぼ達成しながら一度も守護になっていません。
 あと肥前守護も、少弐氏は数えるほどしか就任していません。おそらく九州探題の知行国となっていたんでしょう。一色、今川、渋川という歴代九州探題が肥前守護を兼任しています。少弐が肥前に根拠地を移したのは本国筑前を大内氏に圧迫されたからだと思います。
 東国に目を向けると下総の守護をずっと千葉氏が世襲していたのに対し、上総守護はバラバラです。なんと一時は佐々木道誉が守護になったりしています。千葉氏は上総のイメージがあったんですが意外でした。
 下総なら結城氏あたりがなってもおかしくないと思うんですがね。
 安芸武田もイメージ的にはずっと安芸守護だった感じがしますが、守護職は初期だけで後は細川、山名に守護職を奪われていたようです。一説では安芸半国守護と言われますから一国支配には程遠い状況だったのでしょう。
 で、やっと本題です(爆)。
 私は、応仁の乱以後他の守護家が急速に衰退する中細川氏だけが強大な権力握り幕政を壟断できた秘密を常々疑問に思っていました。一つは細川氏だけが嫡流(京兆家)の後継者に恵まれ、一族団結できたのが大きかったのでしょうが、枢要な国の守護職を世襲でき領国化できたのも大きな要因だと思います。
 本拠四国は、伊予以外の三国(阿波、讃岐、土佐)の守護を独占し、畿内への橋頭保である淡路、和泉、摂津もほぼ一族で固めています。さらに山陽道の備中・備後、そして丹波もほぼ細川領国です。
 山名氏を六分の一殿(11カ国の守護)と言いますが、細川氏は9国。しかも山陰の比較的貧しい国が多い山名と違い豊かな国ばかりです。これでは台頭しないほうがおかしいくらいです。
 ただあまりにも豊かだっただけに、家宰の三好氏の力も強大化し最後は下剋上されるわけですが…。
 誰も文句言うものはいなかったんでしょうか?斯波、畠山に比べあまりにも優遇されすぎです。言いたくても言えなかったのかも?強大な細川に睨まれると怖いですからね(苦笑)。畠山義就みたいに(爆)。

畠山金吾家    三管領の一つで、河内・紀伊守護

 畠山氏は源氏の名門、足利一族です。実は平姓畠山で有名な畠山重忠が北条氏の陰謀で滅ぼされたとき、重忠の未亡人(北条時政娘)と結婚してその遺領を継いだのが足利義兼の庶長子・足利義純でした。
 義純は、新田義兼の娘と結婚し子まで成していましたがそれを義絶しての婚姻でした。ちなみにこの時義絶された子から岩松・田中氏が出ています。
 北条と足利の思惑が一致した政略結婚だったのでしょうが、畠山の名跡と武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)の所領を得たのですから義純にとっては大幸運でした。
 名族畠山氏の名跡を継いだので、義純の子孫は足利一門の内でも斯波氏に次ぐ家格を与えられました。
 もともとの嫡流は、三代時国の長子高国でした。高国は伊勢守護をはじめ幕府要職を歴任し1346年には吉良貞家とともに奥州探題にも補された実力者です。しかし観応の擾乱で直義派についた吉良貞家の攻撃を受け岩切城の合戦で敗北、一族郎党ともども自害して果てます。
 国氏(高国の嫡子)の子大石丸だけが逃れて安達太良山に隠れ住んで生き伸びました。のち遺臣らに担がれお家を再興、一族の敵吉良氏と新たに奥州に下向した斯波氏の連合軍に再び敗れ最後は二本松に落ち着きます。これが後に伊達氏に苛めぬかれ義継が伊達輝宗を拉致し、政宗に鉄砲で撃ち殺される二本松畠山氏になりました。
 これを見ると吉良氏も結構奥州で頑張っていたようですが、その後奥州においては勢力を失いました。
 高国一族が滅んだので、弟貞国系に嫡流が移り貞国の孫国清の時代には関東管領として東国で絶大な権勢を誇るようになります。しかし鎌倉公方足利基氏と対立、同僚の関東武士団からも罷免要求が出されるほど嫌われて、伊豆で挙兵しますが敗北殺されてしまいます。
 畠山氏はこれまでの功績で河内、和泉、紀伊、越中の守護に任じられていました。幕府もこれを滅ぼすことはできず国清の弟義深に家督を継がせます。この家系は歴代衛門督や衛門佐の官位を世襲しましたから衛門督の唐名執金吾から、畠山金吾家と呼ばれました。
 義深の子基国は、足利三代将軍義満に仕え明徳の乱応永の乱で功を立て将軍の深い信頼を勝ち取ります。功により能登守護も獲得、次男満則(満慶みつのり)に受け継がれました(能登畠山氏)。
 一方、基国は斯波武衛家、細川京兆家が対立するなかで第三の勢力として台頭、両家の牽制の意味もあって初めて幕府管領に任じられます。これにより畠山金吾家は斯波武衛家、細川京兆家とともに三管領家の一つとして幕府に重きをなす家柄となりました。
 河内、紀伊の守護(和泉国は途中で細川氏に奪われる)を世襲し、河内高屋城を中心に支配を固めました。
 基国、満家、持国の頃が畠山金吾家の絶頂期だったかもしれません。持国には子がなく、甥の政長を養子にして跡を継がせるように決めていました。ところが側室との間に実子義就が生まれたためお決まりのお家騒動が起こります。
 実は義就の母は当時の高級娼婦だったとも言われ、他に小笠原政康や飛騨江間氏との間にも子を産んでいます。このことから持国の実子だったかどうかも疑われ、畠山家中を二分するほどの大紛争になりました。
 当時の室町政界の実力者、管領細川勝元は政長を、山名宗全は義就を支援しこれがのちの応仁の乱に発展します。
 嫡流畠山金吾家ですが、それぞれの官職から尾州家(政長・尾張守)総州家(義就・上総介)と呼ばれるようになりました。
 応仁の乱の間、両者は山城や河内で激しく戦います。一時は1447年持国の死を受けて義就が家督を継ぎましたが、次第に政長方が盛り返し1490年義就の死とともに衰退。一時は息子の義豊が河内守護にもなりますが、政長の子尚順の反撃で1499年戦死、孫の義英の代には完全に管領細川政元の傀儡と化しました。
 1532年総州家四代義堯の代に細川晴元、尾州家畠山稙長、義堯の元重臣木沢長政の連合軍に敗北、木沢長政の居城飯盛山城攻撃中に長政支援に現れた一向一揆と戦って敗れ自刃、応仁の乱以来の畠山宗家を二分した争いは総州家の滅亡により終わりました。
 一方、尾州家ですが政長が一時管領に就任していたことが大きかったのかもしれません。ただ政長自身は政敵細川政元との争いに敗れ明応の政変で河内国正覚寺城を包囲され自刃しています。
 尾州家は政長の嫡子、尚順(ひさのり)が継ぎました。尚の字で分かる通り将軍足利義尚の一字を拝領して元服するなどライバル総州家と決定的な差が付いていました。世間でも政長系の尾州家を畠山嫡流と認めていたのでしょう。
 一時は細川政元のクーデターで紀伊に逃亡しますが、この地で力を蓄え1497年河内奪回の兵を挙げます。1499年には高屋城を奪い、十七箇所城に逃れた総州家義豊を殺しました。
 1504年には細川政元に対抗するためなんと宿敵総州家義英と和睦、1506年政元の軍勢と戦いますが敗北一時没落します。
 中央の混乱で将軍職を追われていた足利義稙を奉じ1507年周防の大内義興が上洛するとこれに通じ勢力を回復、1515年家督を嫡男の稙長に譲ると以後は領国の統治に専念しました。
 稙長の代に総州家義堯を討ってやっと悲願の河内統一を達成するも、その支配は細川、三好の争いに巻き込まれ不安定なものでした。
 稙長の後、政国、高政と続きますが河内・紀伊の領国を維持するのが精一杯でしかもその支配も安定を欠き三好長慶の侵略を受け続けます。
 本国河内を三好勢に追い出される苦境にも陥りますが、近江の六角氏と結び逆襲、1562年の久米田合戦で長慶の弟、義賢を敗死させ高屋城を奪還しました。しかし続く教興寺合戦で敗れ河内を失い紀伊に逃げ込みます。
 以後畠山氏は振るわず、三好義継(長慶の養子)と和睦、織田信長に従いますが重臣の遊佐信教に河内を追放され、高政は1576年失意のうちに死去しました。晩年はキリスト教に救いを求めていたとか。享年50歳。
 ここに管領畠山氏は滅亡しました。高政の弟政尚の子貞政はのちに秀吉に従い、最後は徳川家で高家として残ったそうです。

篠原長房    悪女に溺れた弟に殺された名将

 先日書いた小少将悪女話の続きです。
 阿波守護代三好義賢(三好長慶の弟)には、篠原長房という家老がいました。三好家の分国法新加制式の変纂をした能吏であり軍事指揮官としても高名な武将でした。
 彼が健在な間は松永久秀も好き勝手なことができなかったといいますから、それだけ恐れられていたんでしょう。三好一族の没落には、篠原長房の死も大きなファクターだったのかもしれません。
 で、小少将です。阿波守護家下屋形細川持隆に見染められ側室となり、その家臣三好義賢と私通し夫の死後はちゃっかり義賢の妻になった事は書きました。
 順番から言うと、今度は長房と浮気することになるはずでしたが堅物の長房は見向きもしません。おそらく小少将の事ですから、モーションはかけたはずですが知恵者の長房には通用しなかったのでしょう。
 すると彼女は、長房の弟自遁(じとん)に近づきます。兄と違い知恵の足りない自遁は、傾国の美女と言われた小少将に夢中になります。主君の妻と密通しているという背徳の喜びもあったのでしょう。
 長房は、このことを知り苦々しく思います。弟に何回かは忠告したそうですが、悪女の毒牙にかかっている弟は聞き入れませんでした。
 そして悪女の呪いから、夫三好義賢戦死。自遁は主君の悲劇も気にせず小少将と結婚してしまいます。このままでは小少将に三好一族がとり殺されてしまうと危惧した長房は、弟に彼女と離縁するよう激しく詰め寄りました。
 しかし、自遁は逆に兄に対して叛意を抱くようになります。小少将も自分を目の敵にする長房に怒りを爆発させました。
 自遁と小少将は、義賢の後を継いだ三好長治(小少将の息子)に、長房が謀反を企んでいると讒言したのです。
 まだ年少で経験の浅かった長治はこれを真に受けました。長房追討の軍は居城上桜城を囲みます。多勢に無勢、長房は無実の罪と知りつつ自害して果てました。
 こうして大黒柱を失った三好家は自壊の道を突き進みます。隣国土佐の長宗我部元親の侵略を受け滅ぼされました。小少将は元親の側室に収まりましたが、自遁は遁走し野たれ死んだと言われています。

高屋城   畠山金吾家(嫡流)の城

 グーグルマップで大阪府羽曳野市を拡大してもらうと分かりますが、古市あたりに安閑天皇陵という前方後円墳があります。実はここ、室町~戦国時代には高屋城の城域でした。それも古墳部がまるまる本丸になっています。
 罰あたりともいえますが、戦国期には近畿に点在する古墳は城として利用されるケースが多かったそうです。大坂夏の陣で徳川家康が本陣にした茶臼山も古墳です。さらに有名な仁徳天皇陵も戦国時代には城として利用されていたそうです。
 現代人の我々からするとちょっと理解できない感覚ですが、穢れの最たるものである墓にあえて築城することで『穢れの逆転』が起こり加護を得るという思想があったとも言われています。
 もっとも罰あたり云々を除外して考えると平野部で盛り上がった小山、しかも堀まであるとすれば城として利用しない手はないと当時の武将が考えても不思議ではありません。私が当時の人間なら絶対に嫌ですが(苦笑)。
 生きるか死ぬかの世界で生きていた当時の武将にとっては、「罰あたり」とか「祟り」とかいってる状況じゃなかったのでしょう。
 高屋城は、室町幕府三管領の一つ、畠山金吾家(嫡流)の本拠地です。応永年間(1394年~1427年)に時の管領畠山基国が築いたとされます。
 管領のほかに、河内・和泉・紀伊・能登の守護を歴任した畠山氏は河内の高屋城を中心に領国を支配しました。いずれ畠山氏の歴史は詳しく書く予定ですが、高屋城があまりにもユニークなため先に紹介しておこうと思った次第です(笑)。
 この城は、河内の要衝にあることから何回も支配者を変えています。畠山から細川、三好と目まぐるしく城主を変え、そのたびに多くの血が流れました。古代人の墓の上で、戦国の者たちが血を流すのですから、その意味では罰があたったのかもしれません。
 当時の人たちはどんな気持ちで戦っていたのか気になります。中には神仏の祟りを恐れながら籠城した人もいたはず。とくに夜の見回りなんて絶対したくありません!(爆)。
 私なら本丸は怖いので、三の丸あたりに配置してもらうなあ(苦笑)。

戦国時代四国にいた傾国の美女

 細川氏関係の記事を書くために調べていてたまたま仕入れたんですが、阿波(現在の徳島県)にとんでもない美女(悪女)がいたみたいですね。
 名前は小少将といいます。同名の朝倉義景の愛妾がいたようですが、こちらは別人です。
 細川京兆家に次ぐ家格を持つ下屋形、阿波守護家細川氏の当主細川持隆(1497年~1553年)は、領内を巡っていた時目の覚めるような美少女を見染めます。
 持隆は早速召しだし側室にしました。小少将と名付けられた少女はこの時おそらく14~15歳だったと推定されます。二人の間に子ができ、真之と名付けられました。後にこの子は持隆の後を継ぐことになります。
 持隆の正室は大内義興の娘だったと言われますが、子供が生まれなかったのでしょう。
 このままおとなしくしておけば、彼女も歴史に埋もれたのでしょうが、夫が畿内に出兵している隙に、家宰の三好義賢とできてしまうのです。どちらから誘ったのかは分かりませんが、彼女の後の行動を見るとどうも自分から誘った可能性が高いと思います。
 義賢は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの三好長慶の弟でしたから将来性に賭けたのかもしれません。1549年、京兆家の晴元が三好長慶に敗れ没落すると、持隆は足利義栄を擁して上洛しようとしますが、これが義賢に洩れ殺されてしまいました。
 夫の死後、ちゃっかり義賢の妻に収まった小少将は三好長治、十河存保という二人の子まで設けます。
 これで阿波守護家を継いだ真之と三好長治、十河存保は異父兄弟になってしまいました。
 守護とは言うものの、守護代三好義賢の傀儡にすぎない真之は不満を募らせます。父の敵義賢はあろうことか自分の母まで妾にしているのですから。
 真之に小少将が母親の愛情を示した事はなさそうですから、情の冷たい天性の娼婦だったのかもしれません。
 真之の傀儡政権は義賢が戦死して、長治が継いでも変わりませんでした。自分の力ではどうすることもできないと悟った真之は、隣国土佐の長宗我部元親と結び、土佐勢を招き入れます。
 元親の後押しで長治を討った真之でしたが、怒った讃岐の十河家に養子に入っていた存保が阿波に攻め入り細川方の城を攻撃します。異父兄弟同士の壮絶な戦いでした。
 その間小少将がどうしていたか謎ですが、三好氏の本拠勝瑞城にいたのは確かみたいです。
 阿波の混乱に付け入った長宗我部元親は、1582年軍勢を率いて侵入、三好勢を中富川の合戦で撃破しました。
 しかし元親も本気で真之を助ける気はなく、単なる阿波侵入の口実でしたから、三好方と細川方の争いには介入しませんでした。元親に見殺しにされた真之は居城茅ヶ岡城を三好方に攻められ八幡原で自害、ここに名門阿波守護下屋形細川氏は滅亡します。
 三好方と細川方の争いでへとへとになったのを見届けて長宗我部元親は阿波を征服、三好方の総大将十河存保を四国から追い出してしまいました。
 三好氏の本拠勝瑞城を接収した元親は、城にいた小少将を見染めます。元親この時44歳。小少将はどう考えてもこの時50歳近い高齢でした。ちょっと考えにくいのですが、元親は彼女を側室にし、土佐に連れ帰りました。
 驚くのはここからです。なんと彼女は元親の子(右近太夫)まで産むのです!高齢出産が本当にできるのか?同名の別人ではないのか?とかなり眉唾ですが記録でそうなっているので信じるしかありません。
 ウィキには義賢の死後は三好氏の重臣である篠原自遁篠原長房の弟)の妻になったとありますが、おそらくこのケースも夫の生前から通じていたに違いありません。
 本能のままに生きた小少将。私は関わり合いになりたくありませんが、本人は案外幸せだったのかもしれません。ただ関わる男(自分の子も含めて)がことごとく不幸になり非業の死を遂げた者も多いのです。
 歴史には時々このようなとんでもない女性が登場しますね。そこがまた魅力の一つなのでしょう。

細川京兆家    幕府管領を輩出した細川氏の嫡流

 細川氏は足利氏の一門です。鎌倉時代三河(愛知県東部)守護に任じられた足利宗家に従い、三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことで細川氏を名乗りました。
 細川氏は早くから分かれたため決して家格は高いとは言えず、例えば足利一門で最も家格の高い斯波氏などからは家来扱いでした。南北朝時代の斯波氏の当主高経が将軍から管領就任を要請されたとき「管領といえども足利家の家来にすぎない。細川などと同列に扱われてたまるか」と断ったという有名なエピソードがあります。
 斯波氏のプライドの高さには呆れるばかりですが、例に出された細川氏にとってはたまったものではありません(苦笑)。だからといって細川氏が斯波氏に復讐したという話は聞かないので、一門の中でもそういうものだと思われていたのでしょう。ただし細川頼之と高経の子義将は政敵でしたが…(苦笑)。
 細川家が足利幕府で権勢をふるうようになったのは、家格ではなく一族の献身的奉仕が理由でした。公頼の子、和氏・頼春と頼貞の子顕氏・定禅(じょうぜん)は足利尊氏を助けて各地を転戦します。
 尊氏が奥州から攻めのぼった北畠顕家に敗れ九州に落ちると、和氏、顕氏は尊氏の命で四国に渡ります。二人は四国の兵をまとめ、九州から捲土重来した尊氏の軍と合流、湊川合戦勝利に大きく貢献しました。
 幕府が成立すると、この功により細川一族は各地の守護に任じられます。嫡流の和氏が引付頭人、ついで侍所頭人そして初代阿波守護に任じられたのをはじめ、弟の頼春は阿波、備後守護、その下の弟師氏は淡路守護に、従兄弟の顕氏は讃岐・河内・和泉三カ国の守護、その弟定禅は土佐守護と実に一族で7カ国もの守護を兼ねる大勢力になりました。
 しかし1350年尊氏の執事高師直と弟足利直義の対立から尊氏・直義の兄弟対立に発展した観応の擾乱が起こると、細川氏も安泰ではいられなくなります。和氏は1342年47歳で急死、嫡子の清氏が後を継いでいました。
 清氏、頼春らが尊氏方に付く中、顕氏は直義派につき、再び尊氏方に帰順するなど目まぐるしく動きます。1352年南朝方の攻撃で京が失陥すると将軍足利義詮を奉じて撤退しますが、このとき頼春は戦死しました。
 再び足利方が京を奪還した事を見届けて顕氏は1352年7月病死。顕氏の系統は陸奥守の官位から奥州家と呼ばれました。
 細川一族の有力者が次々と戦死、病死するなか次第に権力は清氏に集まってきます。1358年管領(当時は執事)に任じられた清氏でしたが、その強引な施策から政敵も多く讒言を受けて失脚します。清氏は本拠の四国へ下ると腹いせとばかり南朝に帰順、従兄弟の頼之(頼春の嫡子)が阿波守護として現地にいたためこれを攻撃、公然と幕府に反旗を翻しました。
 清氏には讃岐(塩飽)水軍なども味方に付いてたため、頼之は苦戦しますが激戦のすえこれを撃破、清氏を滅ぼしました。
 こうして権力は生き残った頼之のもとに集まります。清氏に代わって頼之が嫡流となったのです。頼之の正室が三代将軍義満の乳母になったことも大きかったともいます。
 細川頼之は二代将軍義詮の絶大な信頼を受け、遺言により三代義満が将軍に就任すると管領になってこれを補佐しました。頼之は名管領として南北朝合一に力を尽くし、途中政敵による失脚もありましたが細川家の権力を確立します。頼之には子がなかったため弟の頼元が後を継ぎました。
 頼元の家系は、代々細川家嫡流として摂津・丹波の守護を持ち管領を歴任したことから細川京兆家と呼ばれるようになります。これは世襲の官位右京大夫の唐名「京兆尹」からきています。
 頼元から数えて四代後が有名な細川勝元です。応仁の乱では東軍の総大将として舅の山名宗全と日本を二分する大戦争を戦います。これで幕府権力は地に落ち戦国時代が始まったといわれます。
 勝元の子、政元の時代が細川京兆家最後の絶頂期だと言えるでしょう。政元は管領として絶大な権力をふるいますが、実子がなく澄元澄之高国という三人の養子を迎えました。
 この養子三人が家督を争い、政元自身もそれに巻き込まれて1507年殺されました。
 その後、澄元が澄之を討ち管領になりますが、政元に追放されていた前将軍義尹(義稙)が1507年周防の大内義興の支援を受けて上洛してくると、高国はこれと結び、澄元と将軍足利義澄は近江に逃れました。
 大内、高国と澄元は戦い続けますが1518年大内義興が帰国するとついに京都を奪回、高国を近江に追放して再び管領に返り咲きました。しかしまもなく高国の反撃を受け、政権は崩壊、家宰の三好之長は捕えられて処刑され、自身も播磨、そして本拠地の四国阿波に逃亡します。1520年澄元は阿波勝瑞城で失意のうちに病死しました。享年32歳。
 澄元の死後嫡子の晴元が継ぎます。三好之長の孫三好元長とともに再び畿内へ進出、高国を討ちますが高国の子氏綱と争っているうちに、元長の子三好長慶が氏綱方に付いたため敗北、勢力を失い最後は出家して摂津普門寺に隠棲したそうです。
 晴元の嫡子、昭元はすっかり没落し、信長、秀吉に近臣として仕えます。秀吉のもとでは山名豊国、斯波義銀とともに没落した元名門としてお伽衆になったそうです。1592年病没。子孫は三春藩秋田家に仕え家老として続きます。
  庶流の細川藤孝(頼之の弟頼有の子孫)、忠興が織田・豊臣・徳川政権を上手く泳ぎ切り最後は肥後54万石の大封を得たのと比べるとあまりにもさびしい晩年でした。

美濃土岐一族

 鎌倉、室町時代を通じて美濃(現在の岐阜県)に勢力をはり、室町時代には美濃守護として幕府に重きをなした土岐氏。その末期には権臣斉藤道三に乗っ取られます。
 土岐氏はどのようにして誕生し、滅んだのでしょうか?私はややマイナーながらこの一族に興味を覚えました。
 土岐氏は、酒呑童子伝説で有名な摂津源氏源頼光五世の子孫、光信が美濃国土岐郡土岐郷に居住して土岐氏を名乗ったのが始まりとされます。
 鎌倉初期の当主、光衝は源頼朝に協力し御家人となります。土岐氏は鎌倉時代には美濃守護にはなりませんでしたが、この地に勢力を扶植したのは間違いないでしょう。
 そして鎌倉末期、土岐一族はいち早く後醍醐天皇と通じ幕府に謀反を起こしますが六波羅探題の攻撃で敗れます。しかしまもなく足利尊氏、新田義貞らの活躍で幕府が倒されたため、土岐氏は生き残ることができ、足利方の有力武将として美濃守護に任じられます。
 南北朝初期の当主が、バサラ大名で有名な土岐頼遠です。足利将軍家を助け大功を上げたためか、驕慢で傍若無人な振る舞いが多かったそうです。同じバサラ大名でも佐々木道誉と決定的に違っていたのは、道誉がバサラをあくまでポーズとして取っていたのに対し、彼は本気でバサラを貫いたところです。
 頼遠のバサラがある日決定的な事件を起こしました。ある時光厳上皇の牛車に出会った頼遠は道を譲らなかったばかりか、酒に酔った勢いもあってあろうことか弓を射かけたのです。
 さすがにこれは幕府も見逃すことはできませんでした。激怒した尊氏の弟直義は、1342年頼遠を逮捕し六条河原で処刑します。
 美濃守護職は、頼遠の甥、頼康が継ぎました。三代将軍義満の時代になると、彼の有力守護圧迫政策のあおりを受けて土岐康行が謀反を起こしますが、これも簡単に鎮圧されました。
 守護は、叔父の頼忠に持って行かれ、以後彼の子孫が土岐氏の嫡流となります。
 応仁の乱に入ると、美濃守護土岐家は守護代斉藤妙椿(みょうちん)が力をつけ、守護家を凌ぐようになります。斉藤氏は美濃目代として越前から移り住んだ一族ですが、土岐家の守護代として美濃国内で勢力を扶植し妙椿の時代についに力関係が逆転します。
 このあたり越前の斯波氏・朝倉氏の関係とそっくりですが、妙椿の死後斉藤氏は家督争いを繰り返すうちに衰え、かろうじて土岐家は守護として存続しました。
 斉藤氏が衰えるにつれ、その家宰であった長井氏が台頭し美濃は下剋上の風潮が蔓延します。戦国時代、この長井氏のもとに一人の男が流れ着きました。油商人とも浪人とも称する怪しげな男でしたが、持ち前の才覚で長井氏の信任を得、まず家臣の西村氏の名跡を継いで西村勘九郎、次いで長井氏から名字を貰い長井新九郎と名乗りました。
 これが下剋上の代表ともいうべき斉藤道三の若き日の姿ですが、最近の研究では彼一代の成果ではなく親子二代で成し遂げた美濃乗っ取りだったといわれています。
 当記事では、あえて道三一人の業績として記しますが、長井氏は新九郎の異才に驚き守護家の部屋住み頼芸(よりあき)に推挙しました。新九郎は巧みに頼芸に取り入り、本来なら守護になれない主君を謀略の限りを尽くして美濃守護職につけます。
 こうして頼芸は守護であった兄政頼を追放し美濃を奪いました。この時には長井新九郎は名門斉藤氏を継いで斉藤新九郎利政となっていました。だいたい1539年ころの話だといいます。翌1540年には居城として有名な稲葉山城を築きます。
 利政の野望はここに止まるはずもありません。傀儡政権としての価値もなくなった美濃守護土岐頼芸は1552年ついに追放されました。ここに美濃守護家土岐氏は滅びます。利政は出家して道三と名乗ります。有名な斉藤道三の誕生でした。
 頼芸は各地を放浪したそうですが、その子頼次が秀吉、家康に仕え旗本として残りました。
 斉藤道三とその子義龍、織田信長の間には面白いエピソードもあるんですが史実かどうか自信がないのでここでは紹介しません。詳しくは司馬遼太郎『国盗り物語』を見てね!(笑)

『大陸打通作戦』   その理想と現実

 1944年4月、太平洋戦線での劣勢を挽回するため帝国陸軍は唯一とも言うべき活路を目指して、支那大陸で乾坤一擲の大作戦を実行します。いわゆる大陸打通作戦(日本軍呼称『一号作戦』)です。
 参加将兵50万、支那派遣軍隷下の25個師団、11個旅団のうち実に18個師団(うち1個は戦車師団)、6個旅団を投入した大戦中最大、いや帝国陸軍創設以来最大規模の作戦でした。
 そもそも大陸打通作戦はなぜ企図されたのでしょうか?
 大東亜戦争は、ガタルカナル消耗戦の後悪化の一途を辿っていました。太平洋における制空権も制海権も失い、連合軍潜水艦の跳梁跋扈によって南方資源地帯と本土を結ぶ海上連絡線はズタズタにされていました。また支那大陸奥地の飛行場からB‐29による空襲をうけ空と陸から日本は締めあげられつつありました。
 その時系列を示すと
1943年5月 アッツ島玉砕
    9月 イタリア降伏
    10月 べララベラ海戦
    11月 ブーゲンビル島沖海戦
        マキン、タラワ玉砕
    12月 マーシャル諸島沖航空戦
1944年2月 クェゼリン島玉砕
        トラック島空襲
    3月 インパール作戦開始
 もはや太平洋における挽回は不可能でした。陸軍は勝ってはいないにしても負けてはいない支那戦線において一か八かの大攻勢をかけることによって戦局の大転換を図ったのです。
 作戦目的は大きく二つ。
①絶望的な海上輸送に代わって支那大陸を南北に打通する鉄道敷設によって安全な補給路を確保する。
②途中にある連合軍航空基地を覆滅し、B-29の本土爆撃を不可能にする。
 そのために蒋介石の国府軍を撃滅し、抗戦意欲を失わせ降伏させるという夢のような目的もありました。
 ここで当時の日本の国力を理解している方なら当然疑問が生じるでしょう。
 まず、直線距離1600km総延長4600kmに及ぶ鉄道を敷設するだけの資材があるのか?
 次に、占領したとしてその維持はどうするのか?守るには膨大な戦力を張り付けておかなくてはならない。
 米軍は太平洋方面で攻勢を強めており、サイパンが失陥すればそこからB‐29は本土空襲可能であり、支那方面の飛行場を占領しても無意味である。
 当然これらの疑問は出てきており、蒋介石の抗戦意欲を失わせるのが主目的なら重慶攻略作戦のほうが現実的なのではないか?という至極まっとうな意見もあったのです。しかし服部卓四郎などの大本営のエリート参謀たちは机上の空論だけでこの強引な作戦を押し切ります。
 こうして成功しても戦略的効果が疑問だった大作戦は発動しました。大陸打通作戦は大きく二つの支作戦に分けられます。まず北京と漢口を結ぶ京漢線を打通する京漢作戦。次いで漢口から長沙、桂林を通ってベトナム国境まで打通する湘桂作戦。
 まず京漢作戦では、要衝許昌、次いで洛陽を占領しほぼ作戦目的を達成します。しかし問題は湘桂作戦でした。俗に支那大陸は南船北馬といわれます。広大な平野の広がる華北と違い、長江以南は無数の河川と山岳が続き行軍は困難を極めました。
 実は長沙はこれまでも何度か攻略しようとして悪路と瘴癘な気候による疫病で失敗した経緯がありました。長沙攻略がこの作戦の成否を決める天王山でした。
 攻略を担当する第11軍は、隷下の8個師団に応援の3個師団を加えしゃにむに攻撃を開始、激戦の末ついに長沙占領を果たします。しかしそこから衡陽、桂林と進むにつれ深刻な問題が生じました。
 山岳地帯を進むにつれ、次第に補給に困難をきたし始めたのです。自動車でなく馬匹を利用した状況でさえこうなんです。鉄道敷設が机上の空論だったのはこの事実を見ても分かります。
 湖南地方は「湖広熟すれば天下足る」と称されるほどの大穀倉地帯でしたが、農民が穀物を持って山に逃げたため現地調達もできず、日本軍は飢えはじめました。しかも現地は酷暑、湿地帯で疫病が蔓延、インパール、ニューギニアと同様戦闘よりも病気で倒れる将兵が続出しました。
 それでも我が皇軍は、大きな犠牲を払いながらも翌1945年1月作戦目的をほぼ達成、悲願の大陸打通を成し遂げました。
 ところが1944年7月にはマリアナ諸島が失陥していたためB‐29の出撃基地覆滅という作戦目的の一つは無意味となっていました。さらに打通は成功したものの連絡線の維持のために膨大な兵力が投入され逆に北支において中共軍の勢力伸長を許してしまいます。物資移動もこのルートからはほとんど利用されませんでした。敵である国府軍の損害もかなりありましたが、援蒋ルートによるアメリカの膨大な援助で回復可能でした。
 困難な作戦目的を達成した皇軍将兵には頭が下がりますが、甘い情勢分析と夢物語に近い作戦目的を立てながら、厳しい現実に直面し崩壊させた軍上層部の無能は糾弾されるべきでしょう。
 であるなら、やはり重慶攻略に全力を注ぐべきだったのかもしれません。ただ地図を見てもらえば分かる通りそれもかなり難しかったのは事実。
 結局グランドデザインなしに支那事変を始めた陸軍上層部の無能さのツケが、ここでも足を引っ張ったと言えるかもしれません。

2010年12月 3日 (金)

英彦山(ひこさん)七年戦争  大友義統の侵略を撃退した霊山

 福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる修験道の聖地、英彦山(ひこさん)。出羽羽黒山、熊野大峰山とともに日本三大修験山として有名です。
 実は英彦山は、比叡山、高野山がそうだったように戦国時代には三千の僧徒と八百の坊を誇る一種の宗教独立国家を成していました。鎌倉時代の初代座主長助法親王は光巌天皇の弟で、代々その子孫が座主を受け継ぎます。初代長助法親王が豊前宇都宮氏の娘を妻に迎えたをはじめ歴代座主は武家と結ぶことで権力の基盤としました。これによって英彦山の力は宗教界ばかりではなく世俗にも強い影響力を持つことになります。
 このあたりの歴史は、肥後の阿蘇氏や信濃の諏訪氏と似ています。ただ英彦山座主が阿蘇氏、諏訪氏らと異なる点は武士団化せず、あくまで宗教的権威を第一としたところです。
 戦国時代の北部九州は、大内、大友、竜造寺とめまぐるしく支配者を変えました。十四代座主舜有(しゅんゆう)は近隣の筑前古処山城主秋月種実と結ぶことでこの難局を切り抜けようとします。天正七年(1579年)両家の間に盟約が交わされました。
 すなわち男子のいない座主舜有の養子に種実の三男竹千代を迎え、座主家からは二名の人質を秋月家に送るという内容でした。これを聞きつけた豊後の大友義統(父宗麟から家督を譲られていた)は、向背が定まらない秋月種実と英彦山が結べば一大事とばかり、自分の弟三位公を養子にして座主を継がせろと強引に申し込みます。
 困った舜有は、「座主は始祖以来の血統のものに限らている」とこれを拒否し、代わりに自分の娘を秋月種実の嫡子種長と婚姻させ、その間に生まれた子に後を継がせるということで大友氏に乗ぜられる隙をなくしました。
 しかしこれを知った大友義統は烈火のごとく怒り、天正九年(1581年)二万の大軍を率いて英彦山に押し寄せます。かつて大友宗麟に居城を追われ父を殺された恨みがある秋月種実は大友方を離れ肥前の竜造寺と組んでいました。この時も英彦山を助けるため援軍を派遣します。
 衰えたりとはいえ一時は九州六カ国を領した大友軍は、英彦山に激しく攻撃を加えますが地の利を生かし必死に防戦する山側を攻めあぐねます。秋月軍も肥前竜造寺の援軍と共に筑後から豊後の入り口日田の境にある針宮(くぐみや)で大友軍と戦いました。
 英彦山を完全に屈服できなかった大友軍は、一時兵を引きますがその後幾度となく英彦山に攻め込みました。両者の争いは豊臣秀吉が1587年九州に侵攻するまで続きます。英彦山・秋月連合軍は竜造寺、島津と主人を変えながらも反大友という点では一貫していました。その間舜有は秋月種長と舜有の娘の間にできた昌千代(娘)に公家日野忠有を婿養子に迎え後継ぎとしていました。
 しかし秀吉の大軍の前には、ついに力尽きました。秋月が降ると英彦山も抵抗を諦め、罪を謝するため山を降り秀吉のいる肥後南関に赴きます。この時の成果がどうだったのか不明ですが、舜有は帰着するとにわかに病死してしまいました。
 神領はことごとく没収され座主職は断絶しました。昌千代は座主代行として悲運の英彦山法灯を守り抜きましす。筑前の領主として小早川隆景が入るとこれを保護し祈祷料として二千石寄進したそうです。その後豊前に入った細川氏、次いで小笠原氏から合わせて四百石を与えられました。英彦山は武力を放棄し純粋な霊山として今日まで生き残るのです。
 ちなみに昌千代の夫忠有を種長の甥秋月種貞としている資料もありますが、英彦山別当(座主)系図で日野家の出身とありますのでこちらを採用しました。もしかしたら日野忠有が早死にし秋月種貞は再婚相手で、出家して忠有の名を継いだのかもしれませんがこのあたりは資料がなくて何とも言えません。
 高鍋藩初代藩主・秋月種長に男子がいなかったので昌千代と忠有の間にできた種春が養子になり二代藩主となりました。
 ウィキの記述が妙に具体的なのでちょっと気になります。
秋月 種貞(あきづき たねさだ、生年不詳 - 寛永5年8月2日1628年8月30日))は、日向高鍋藩の世嗣。長野種信の子。母は秋月種実の娘。正室は秋月種長の娘・オチョウ。子は秋月種春(長男)。通称、釆女。
高鍋藩初代藩主・秋月種長には男子がなかったため、慶長12年(1607年)に甥である種貞が婿養子に迎えられた。しかし、病弱を理由に慶長18年(1613年)に廃嫡。代わって、種貞の長男・種春が高鍋藩の後継者となった。
その後出家し、法名を彦山座主忠有と名乗った。】(ウィキペディアより)
 武家家伝秋月氏系図とウィキの秋月氏の記述が矛盾しているのです。忠有は何者か?二人いたのか?種貞をいったん日野家に養子に出し、その後英彦山に収まったというウルトラC的解釈もありますが、ちょっと現実性がありません(苦笑)。これは今後の研究課題です。
 いやいや、別資料では種春が舜有の子供だという系図も出てきたぞ?これはいったいどういうこっちゃ!保科媛さんが手に負えないはずだ(爆)。ごめんなさい、これくらいしかわからんかった。許してね~

阿波小笠原・三好一族

 室町時代から戦国時代にかけて、管領細川氏の家宰、阿波守護代として台頭してきた三好氏。一時は長慶のとき阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・大和・山城の八カ国にまたがる大勢力を誇りましたが、その滅亡もまたあっけないものでした。
 三好氏は小笠原一族だと伝えられています。阿波と信濃守護で有名な甲斐源氏小笠原氏となぜ関係が?と疑問に思ったのですが調べてみると鎌倉時代小笠原氏は阿波守護を歴任していました。
 もともと鎌倉時代初期、阿波守護には近江源氏佐々木経高が任じられていました。この経高もどこかで聞いたことのある武将だと思ったら、京極佐々木氏の記事で出てきた六角・京極氏の祖信綱の父定綱の弟(信綱の叔父)でした。
 経高は阿波の他に土佐、淡路の守護も兼任する鎌倉幕府の要人だったようです。しかし1221年承久の変が起こると鎌倉方ではなく宮方に転じます。彼がなぜ宮方に付いたのか謎ですが、京と佐々木氏の本国である近江の関係、頼朝亡き後専横を極める北条氏に対する反感があったのだと思います。
 ただ佐々木氏嫡流の甥、信綱は子供たちとともに最初から幕府方として参戦していますから、もしかしたら一族間の確執もあったのかもしれません。調べてみると信綱の兄広綱も宮方に付いています。承久の変では他の豪族と同じく一族相争ったのでしょう。
 承久の変が幕府側の勝利に終わると、佐々木一族でも宮方に付いた者はことごとく処刑されます。幕府の総大将として京に乗り込んでいた北条泰時は、経高の命だけは助けるつもりだったと伝えられます。「降伏して謹慎していろ」という命を自害しろということだと受け取った経高は切腹し泰時のいる六波羅に向かいました。
 泰時は、瀕死の経高に会い本意ではなかったと詫びたそうですが、真相は分かりません。宮方の有力武将でしたから生かされることは考えにくいと思います。他の武将も公家も厳しい処断でしたから。泰時が許しても父義時は絶対に許さなかったでしょう。
 ともかく、佐々木経高の一族は承久の変でことごとく滅びました。幕府は空白になった阿波の守護として小笠原長清を入れます。長清は信濃小笠原氏の祖でもありますが、長清の孫長忠の代に弟の長房に阿波守護職を譲り、以後長房の子孫が阿波守護家として続きました。
 一族は阿波各地に分布し、そのなかで三好郡に土着した一族が三好氏を名乗ったようです。ただしはっきりとした系図が残っていないため本当に血縁関係があったのかは謎ですが…(苦笑)。
 南北朝時代、阿波守護小笠原氏は南朝方に付いたため足利尊氏は阿波守護に一族の細川氏を任命し以後阿波は細川氏の領有となります。旧守護小笠原家がどうなったのか不明ですが、分裂した小笠原一族のうちいくらかは細川氏に従ったみたいです。その中に三好氏の名前も出てきます。
 三好氏がはっきりと歴史の表舞台に登場したのは、三好義長の時代でした。細川氏の阿波守護代として文献に登場しています。
 三好氏は阿波守護代だけではなく細川氏の家宰として応仁の乱以後畿内での権力争いに登場し、あいつぐ戦乱で衰えた主家細川氏を凌ぐようになっていきます。
 義長6世の子孫、長慶のときには主君であった管領細川晴元を将軍足利義晴ともども京都から追放するほどの実力者になりました。
 長慶は、追放した晴元に代わって細川氏綱を擁立しこれを傀儡政権として幕政を壟断します。将軍義輝も長慶の権力には逆らえませんでした。この時が三好氏の絶頂期です。しかし権勢を誇った長慶の死後、一族が相争い家老の三好三人衆と松永久秀が争うようになり衰えました。
 1668年、織田信長が上洛してくると長慶の後を継いでいた養子の義継と松永久秀は早々と信長に降伏し、対立した三好三人衆は織田軍と戦って滅ぼされました。義継と久秀も心から信長に信服していたわけではなく、後に反逆し滅ぼされます。義継の死を持って三好家嫡流は途絶えました。
 三好一族では、三好康長(出家して笑岩)と十河存保(そごうまさやす)だけが信長に仕えて生き残りました。ところが泣きっ面に蜂、今度は土佐の長宗我部元親に三好一族に残された阿波・讃岐を侵略され1582年中富川の合戦で大敗します。
 この時は本能寺の変後政権を取った羽柴秀吉に臣従し、秀吉の四国征伐で救われました。が戦後処理で十河存保に認められたのは讃岐十河3万石のみ、三好笑岩も河内の所領だけで他は阿波一国が蜂須賀正勝など豊臣恩顧の武将に分割されました。
 その後笑岩は武将としての野心は捨てたようで茶人として余生を過ごしひっそりと死んだとされます。十河存保は三好家最後の生き残りとなりましたが、九州征伐の折かっての宿敵長宗我部元親の嫡男、信親を巻き添えにして戸次川の戦いで戦死します。
 存保の子、存英(ながひで)は秀吉から所領相続を認められず改易という憂き目にあいました。
 幼くして流浪し最後は大坂夏の陣で豊臣方として参戦、摂津尼崎で戦死したそうです。享年40歳。
 あと、三好三人衆最後の生き残り、三好政康も大坂の陣で豊臣方として戦死しています。三好氏の傍流は他の大名家に仕えて生き残ったようですが、大名としての三好家は十河氏の改易によって完全に滅びました。

大友能直(よしなお) 頼朝御落胤説

 鎌倉以来の名家で、代々豊後国(大分県)に勢力を扶植し戦国時代になると一時九州6ヶ国を支配した大友氏。戦国期の当主大友宗麟が有名ですが、初代大友能直(1172年~1223年)は無名の御家人から豊後の守護という大役に抜擢されたため古くから頼朝の御落胤ではないかとまことしやかに言われていました。

 今日ではこれを否定する研究者が多いのですが、そう取られても仕方のない事実がありました。といいますのも能直の母、利根局はもともと源頼朝の愛妾だったからです。しかし正室北条政子に嫉妬され、無理やり離縁させられ御家人古庄(近藤)能成に嫁がされます。

 そこで生まれたのが能直。長じて相模国大友郷(母の生家波多野経家の所領)を継承し土地の名を取って大友氏を名乗りました。さらに近藤氏の親戚で幕府重臣でもあった中原親能の養子になります。


 能直が本当に御落胤だったかどうかはそれこそ当事者でないと分かりませんが、少なくとも頼朝にとってはかつて愛した女性の子供ということで、能直が可愛くて可愛くてしょうがなかったようです(笑)。


 ウィキペディアでみると【文治4年(1188年)に17歳で元服。この年の10月14日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。病のため相模の大友郷にあり、12月17日になって大倉御所に初めて出仕し、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べている。『吾妻鏡』は能直を、頼朝の「無双の寵仁(並ぶ者のないお気に入り)」と記している。翌文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。頼朝の近習を務め、建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちでは、曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守った。】とあります。


 頼朝の過保護ぶりは、能直が豊後守護になった後も続きます。能直を後見させるために、近臣の中原親能(能直の養父)を肥後・筑後の守護にして一時九州に派遣しているくらいです。


 ちなみに、能直の父近藤能成の弟(叔父)が武藤頼平で、その猶子(義理の親子関係)が武藤資頼(筑前少弐氏の祖)ですから、直接の血縁関係ではありませんが家系上は繋がりがあるわけです。



 頼朝の嫡子頼家や実朝は非業の最期を遂げましたが、庶子かもしれない能直は遠国九州に赴任していたため北条氏の警戒を受けず生き残れたのでしょう。


 能直は、豊後、筑後の守護を歴任し鎮西奉行にもなっています。その後京と鎌倉を往復し、最後は1223年京で死去したそうです。享年53歳。


 大友能直は鎌倉時代でも一二を争う幸運児だったのかもしれません。

日本古代の甲冑

 日本の甲冑に関心を持つと、大鎧の前の奈良時代はどうだったか?その前の古墳時代は?弥生時代はどうなのかと興味は尽きません。


 武士の甲冑として有名な大鎧は平安時代に誕生しました。その前の奈良時代はどうだったのか調べましたが不明でした。ただその前の古墳時代は短甲や挂甲(古墳時代の武人埴輪のような甲冑)が使われていたことは発掘などで分かっています。


  短甲が最も古く弥生時代から古墳時代にかけて使われたそうです。原則として胴の部分のみを保護した鎧で、時代が進むにつれ木製(おそらく弥生時代)から革製、鉄製と発達しました。
 よく吉野ヶ里遺跡などで描かれる兵士の着ている鎧ですね。


 挂甲(けいこう)がどんなものかというと、分かりやすく説明すれば埴輪の武人像の甲冑といえば理解できるでしょうか?オールドファンなら大魔神(佐々木じゃなくて本物のほう)の甲冑だと説明するほうがいいかもしれません。鉄や皮でできた板を紐でつなぎ合わせて作られたもので、のちの大鎧に発展しました。

 じつは挂甲には騎馬民族の甲冑の影響があると指摘されています。人が渡ってきたか技術だけ渡ってきたのか分かりませんが、これの発展形である大鎧が騎射戦を行う武士の甲冑となったのも頷けますね。


 奈良時代はおそらく挂甲と大鎧の中間の形をしていたはずですが、詳細はわかりません。


 あとマイナーなところで綿襖甲(めんおうこう)というのもあるそうです。 二枚の布の間に綿などを挟み込んだ鎧だそうですが、モンゴル人が着ている服のようなイメージがあります。ウィキペディアの説明ではキルティングアーマーの一種だそうです。形状は外套状。外側から金属製の鋲を打って内側に鉄や革製の礼(さね)を止めているそうです。中国を中心とする東アジアで広く使われているそうで、生産が比較的容易だそうですが、日本ではあまり普及しなかったそうです。


 う~ん、古代の甲冑は資料が見つからなくて難しいですね。

粛慎(しゅくしん)の謎

 粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ)、この民族の名を聞いたことのある方は少ないと思います。どこか遠く、大陸の彼方に住んでいるような民族をなぜ日本史書庫に?と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。


 ところがこの民族は、日本史と深く関わりを持っているのです。


 658年から3年間、朝廷の命で日本海側を北上して蝦夷を服属させたという黎明期の日本水軍大将、阿倍比羅夫のことを聞いた事のある方もいるかもしれません。この後663年唐・新羅の連合軍と戦った白村江の海戦で日本水軍を指揮したのも彼でした。

 阿倍比羅夫の遠征報告の中で、渡島(今の北海道)まで足を伸ばした阿部水軍が蝦夷と対立していた粛慎という民族を討ったという記録があります。



 報告書では、すくなくとも粛慎と蝦夷は別の民族として書かれています。実はこの粛慎はどこから来た民族かも、どこに住んでいたかも謎の民族なんです。

 中国の文献にも登場することから、満州からシベリアにかけて住んでいたツングース民族の一派ではなかったかと推定されています。


 日本でも「欽明天皇の時(544年)に佐渡島へ粛慎が来た」という記録がある事から、日本海、オホーツク海沿岸にすんでいた民族であることは間違いないと思います。しかも内陸ではなく沿岸部を活動の拠点にしていたことも。




 ここで私は北海道のオホーツク沿岸に栄えたオホーツク文化を担った人々のことを考えてしまいます。

【オホーツク文化とは…3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。

海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。】(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 

 このオホーツク人と言われる人々も13世紀に忽然と消えているのです。私はオホーツク人こそ粛慎ではなかったかと推測します。蝦夷ではなく北海道にゆかりの民族で、時代的にもちょうど合うような気がします。


 また研究者の中には、北海道アイヌの伝説にあるコロボックル(アイヌ語で「蕗の葉の下の人」の意味)伝説を粛慎(=オホーツク人)だったと考えている人もいるそうです。


 なぜオホーツク人が北海道から消えたかについては謎だそうですが、一応アイヌの進出によって生活圏を奪われ同化されたか北海道から出て行ったのだろうと言われています。




 コロボックルの伝説では
【アイヌがこの土地に住み始める前から、この土地にはコロポックルという種族が住んでいた。彼らは背丈が低く、動きがすばやく、漁に巧みであった。又屋根をフキの葉で葺いた竪穴にすんでいた。
彼らは情け深くアイヌに友好的で、鹿や魚などの獲物をアイヌの人々に贈ったりアイヌの人々と物品の交換をしたりしていたが、姿を見せることを極端に嫌っており、それらのやりとりは夜に窓などからこっそり差し入れるという形態であった。】(ウィキペディアより)

とされることから、平和を愛する牧歌的な民族だったような印象です。



 日本列島に、かつてこのような異民族が住んでいたということも驚きですが、粛慎がコロボックル伝説のモデルかもしれないと思うと浪漫がありますね。将来謎が解明されることを期待します!

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