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2011年1月

2011年1月20日 (木)

信濃小笠原一族

 武田信玄を描いた小説などでやられ役として登場する信濃守護小笠原長時。たしかに小笠原氏は信濃守護でありながら強固な支配権を築いたわけでもなく、同族が争い大塔合戦で信濃国人連合との合戦で大敗したことで衰退し、塩尻峠で武田軍に完敗したことで一時滅亡しました。
 しかし甲斐源氏の名門で鎌倉以来信濃に勢力を張った一族であるのは事実。調べていくと小笠原氏は不運が重なって守護から守護大名に成長できなかった面もありました。私はこういう味のある一族が大好きだったりします(笑)。
 小笠原氏は、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのに始まるそうです。甲斐源氏の嫡流は武田氏ですが、小笠原氏も庶流でありながら鎌倉初期にうまく立ち回り甲斐源氏の中でも有力な一族になりました。
 ちなみに小笠原初代長清の弟、光行が陸奥南部氏の祖です。
 鎌倉初期小笠原氏は源氏の名門として頼朝に推挙されて1185年信濃守に補されるなど有力な一族でした。しかし頼朝の死後比企氏に接近したことから、比企の乱に巻き込まれ一時没落します。
 承久の変で長清・長経父子が戦功をあげ阿波守護の地位を得るものの本拠地信濃の守護は北条氏に独占され逼塞を余儀なくされました。
 信濃小笠原一族が再び興隆するのは南北朝時代です。小笠原氏の惣領宗長は足利尊氏の誘いで足利方に転じ1335年信濃守護に任ぜられました。ところが北条方の多い信濃では、中先代の乱で守護所を北条方の諏訪氏に攻撃されるなど散々でした。
 南朝勢力も南信濃を中心に活動するなど小笠原氏の統治は困難を極めました。1355年桔梗ヶ原の合戦でようやく南朝方を撃破、これを機に南朝勢力は衰退し小笠原氏の信濃支配が固まることになります。
 そして1400年信濃守護に任命された小笠原長秀が、信濃に入国した時に事件が起こります。当時バサラ大名として有名だった長秀は善光寺で国人たちと対面した時非常に無礼で横柄な態度をとったそうです。
 京の都では良くても信濃のような田舎でもそれが通用すると思った長秀は愚かでした。もともと心から小笠原氏に信服していたわけではない国人たちは当然烈火のごとく怒ります。
 長秀が川中島で強引に年貢を取り立てようとしたのがきっかけで、村上氏、仁科氏、海野氏、高梨氏などおもだった国人が連合(大文字一揆)して守護小笠原氏に対して立ち上がりました。守護方に付いたのは信濃南部の国人のみ。両軍は善光寺平南部で激突します。いわゆる大塔合戦です。
 守護方は800騎、対して連合軍は3000騎とされますから劣勢は明らかでした。当然守護方が大敗、守護代大井氏の仲裁で辛くも窮地を脱し、長秀は京に逃げ帰ってしまいます。
 長秀はこの失態で信濃守護を罷免されました。あまりにも愚かな失敗でした。1416年上杉禅秀の乱で功を上げたことにより長秀の弟政康が信濃守護に返り咲きますが、信濃は国人勢力が台頭しかつてのような強力な支配は築けませんでした。
 小笠原氏は惣領の地位を巡って一族で相争います。そしてそのまま戦国時代に突入。その後はご存知の通り。隣国甲斐の武田信玄の侵略を受け1548年塩尻峠の合戦で大敗、時の信濃守護小笠原長時は本拠林城を追われ村上氏を頼ります。しかし村上氏も武田氏に滅ぼされたため最後は京都に逃げました。
 ここに信濃守護、小笠原氏は一時滅亡するのですが、長時の三男貞慶が織田信長、次いで徳川家康に仕えたことから再び運が向いてきます。
 1582年本能寺の変後の混乱を受けて徳川軍が信濃侵攻した時に同行、悲願の府中回復を果たしました。長時は息子の府中回復を見届けて死にます。貞慶の子秀政が1590年下総古河三万石を与えられたのを皮切りに徳川家の譜代大名となり秀政の次男忠真が豊前小倉十五万石に封じられたのをはじめ子孫が多くの大名になっています。
 何度も滅亡の危機にありながら不死鳥のごとく蘇ってきた小笠原一族。考えてみれば不思議な一族です。ただ小笠原氏は父祖の地である信濃復帰を最後まで望んでいたそうですが、さすがにこれだけは許されなかったようです。一時的には信濃松本城主になっているんですけどね(笑)。

奥州(武蔵)吉良氏の興亡

 足利一門の名家吉良氏。「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われながら本拠三河の守護でさえ定着せず、興隆する他の一門を眺めながら緩やかな衰退の道を辿りました。
 しかし吉良氏とて決してチャンスがなかったのではありません。信濃守護にもなっているし、奥州探題として一時は絶頂期さえ迎えているのです。それでも守護大名として成長しなかったのは歴代当主が凡庸だったのでしょう。運もあったと思います。
 ところで吉良氏はちょっと複雑で、通常吉良氏の初代と言えば足利義氏の庶長子、長氏ですが義氏の四男義継も同じ吉良庄を貰って吉良氏を名乗っています。吉良氏は発祥当時から長氏流と義継流のニ家があったわけです。
 なぜこうなったかと言うと吉良庄自体がもともと西条、東条と二つに分かれていたので西条庄を長氏が、東条庄を義継が賜ったというわけです。
 ただ長氏の四代後の満貞の時代、弟の尊義が東条吉良庄を横領し勝手に東条吉良氏を名乗ったので義継流はそれと区別するために任地の名を取って奥州吉良氏と呼ばれました。
 
 ですから奥州吉良氏と三河吉良氏を同族扱いするのはやや抵抗があるのですが(苦笑)、同じ吉良なのでまあ良しとしましょう(笑)。
 大飛躍する可能性があったのは奥州吉良氏のほうでした。義継の曾孫、貞家は1345年畠山国氏とともに奥州管領に任命され下向します。貞氏は畠山国氏とともに奥州を鎮定し一応足利幕府の統制化に置きます。
 ところが1350年、観応の擾乱が起こると貞家は東国で優勢だった足利直義派に付き、尊氏派に残った畠山国氏を高師直一派討伐という名目で攻撃します。不意を討たれた畠山一族が一時滅亡したことは前回書きました。
 せっかく静まっていた奥州でしたが、足利幕府内の内紛でガタガタになったところを南朝の北畠顕信(北畠親房の次男。顕家の弟)に衝かれ国府(多賀城)を奪われるという失態を演じました。
 間もなく奪回には成功したのですが、1353年死亡。子の満家が奥州管領職を世襲します。中央での混乱が収まると、幕府は吉良氏に奥州を任せることに不安を感じ、新たに斯波家兼を奥州管領に任じ下向させました。
 石塔義憲もこれに前後して奥州に赴任していたため、吉良、畠山(国氏の孫国詮)、斯波、石塔と互いに奥州管領を称する足利一門四家が並立するいわゆる奥州四大将時代が到来します。
 しかし次第に斯波氏が優位に立ち、他の三家を圧倒するようになって行きます。陸奥大崎五郡を中心に支配を固めたので以後家兼の子孫は大崎氏を名乗りました。
 奥州吉良氏は満家の死後、子の持家が後を継ぎますが幼少のため後見人を巡って大叔父貞経(貞家の弟)と叔父治家(満家の弟)が争い、斜陽の家がますます衰えていくようになります。
 一時は事態を憂慮した幕府から、治家に追討軍が送られるまでになったのですが、これは治家が吉良氏の勢力拡大を目指して将軍足利義詮に謀反を起こしたからだとも言われています。1367年追討軍の大将結城顕朝の軍に敗れた治家は没落し、奥州吉良家の勢力はほとんど失われました。
 このままでは歴史に埋もれて消えていく運命にあった奥州吉良氏でしたが、捨てる神あれば拾う神ありで、鎌倉公方足利基氏に1390年治家が招かれ上野国飽間郷に領地を与えられたことで滅亡を免れます。
 奥州吉良氏は、「鎌倉公方の御一家」ということで別格の扱いを受け 「足利御一家衆」「無御盃衆」と呼ばれて優遇されました。
 治家から五代後の成高の時代に武蔵国荏原郡世田谷(東京都世田谷区)に世田谷城を構え移り住みます。蒔田にも居館をもっていたので「世田谷御所」とも「蒔田御所」とも呼ばれました。
 この世田谷吉良氏は、山内、扇谷両上杉の争い、北条氏の侵略を上手く泳ぎ切ります。驚くことに北条氏は一度も吉良氏を攻撃したふしがないのです。むしろ姻戚関係を結ぶことで取り込もうとしました。世田谷吉良氏がそれなりに権威を有していた証拠かもしれません。
 北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入ると世田谷吉良氏は家格の高さから家康に召しだされ蒔田氏として高家に取り立てられます。
 江戸時代有名な元禄赤穂事件が起こると三河吉良氏が断絶したのを受けて吉良氏に復姓しました。以後幕末まで続きます。

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