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2011年2月

2011年2月 9日 (水)

島津常盤  戦国大名島津氏の基礎を作った女傑

 薩摩・大隅守護島津家九代当主忠国(1403年~1470年)は興隆著しい隣国日向の伊東氏を抑えるため1458年一族の新納忠続を飫肥城に入れます。1472年忠続に従って日向南部にいた弟是久に一人の娘が生まれました。
 娘は常盤と名づけられます。美しいばかりでなく利発に育った常盤は縁談が引く手あまたでした。是久はこれも島津庶流(忠国の弟)で同じく守護家の命で櫛間城に入っていた久逸の子、又四郎善久に常盤を嫁がせます。というより善久は伊作家の嫡男でありながら新納是久の婿養子になったみたいです。
 是久が文武に優れた善久に惚れ込んだとも、守護家の命令ともいわれますがともかくこの若い夫婦は仲睦まじかったと言われています。
 しかし二人の幸せな日々は長く続きませんでした。なんと日向戦線で苦労する常盤の父新納是久とその兄忠続に、義父島津久逸が仲違いしてしまうのです。きっかけは些細なことが原因だと言われています。
 新納一族にとって、新参でありながら宗家に近い伊作家の久逸がいることが何かとやりにくかったのでしょう。守護家に願い出て久逸を領地の薩摩伊作城に戻すよう願い出たのが発端でした。
 守護家は忠国の嫡孫、忠昌が当主でしたから、こんな小僧ッコに命じられるのが久逸には片腹痛かったのかもしれません。久逸はなんと敵である伊東氏や豊後の大友氏と結んで謀反を起こしました。
 この反乱は一時守護所のある薩摩清水城(鹿児島市)を脅かすほどの大事となります。
 婿養子先と実家が敵同士になったことに、婿の善久は悩みぬきます。そして意を決して義父是久に
「実の父に背くことはできません。常盤と離縁して伊作城に帰していただくか、それが叶わぬならこの場で腹を切らせてください」と申し出ます。
 婿殿の言うことももっともだと是久はこれを許し、伊作城に善久を帰すことにしました。ところが娘の常盤まで
「女は一旦嫁げば夫に従うものといわれます。父上には不孝と存じますがここは私も夫に従って伊作城に行こうと思います」と言い出す始末。
 是久は娘の申し出に驚きましたが、善久の将来性をかっていたこともあり泣く泣く娘の申し出を受けました。
 この常盤の英断がのちの戦国大名島津家を誕生させるのですから歴史は分かりません。
 久逸の反乱は鎮圧され、降伏。命だけは助けられ領地の伊作城に引っ込みました。常盤は善久との間に一男二女をもうけます。
 しかし1494年、最愛の夫善久が下男に殺害されるという悲劇が起こりました。これも些細な原因でした。馬の飼葉のやり方が悪いと叱ったのを逆恨みされての犯行だったと伝えられます。
 23歳で未亡人となった常盤でしたが、健気にも実家には帰らず子供たちの教育に力を注ぎました。
 不幸は重なり常盤29歳の時(1500年)、頼りにしていた舅久逸までが薩州家の内紛に巻き込まれ戦死してしまいました。
 伊作家の当主はわずか9歳の息子菊三郎忠良が継ぐこととなります。
 美しい未亡人と幼い当主、戦国の世で生き残るには厳しいものがありました。そんな時隣の田布施城主、相州家の運久が彼女に近づいてきます。
 運久は亡き夫善久の従兄弟にあたり島津宗家にも近い名門でしたが、乱暴者で評判の悪い男でした。
 常盤は、運久に正妻があることを理由に求婚を拒み続けます。すると運久はなんと正妻を焼き殺すという暴挙までして常盤に結婚を迫りました。
 これ以上断ると何をされるか分からないと恐れた常盤は諦めて運久の求婚を受けました。しかし、条件をつけます。運久に子供がいなかったため、常盤の子忠良を養子にして相州家の跡取りにするなら結婚を認めるというものでした。
 常盤にぞっこんの運久はこれを二つ返事で承諾、こうして常盤は再婚しました。結婚してみると運久は案外悪い男でもありませんでした。常盤の子ということで忠良を我が子のように可愛がり、21歳で成人すると自分はさっさと隠居して当主の座を忠良に譲ります。
 こうして忠良は伊作家と相州家の領地を合わせた大領主となることができました。島津分家の内でも有力な勢力となり、ついには嫡子貴久を島津宗家に入れることに成功します。
 常盤は54歳で田布施城で亡くなりました。貴久の島津宗家入りが1526年の事なので、その前後に死んだことになります。
 常盤は、孫の宗家相続をどのような気持ちで見守ったのでしょうか?戦国大名から近世大名に続いた島津氏は、みな常盤の子孫たちです。彼女の英断がなかったらのちの戦国大名島津氏はなかったかもしれないと思うと、感慨深いものがあります。

大三島の鶴姫さま

 もう十数年前になるでしょうか?日テレの年末時代劇最後の作品に「鶴姫伝奇」というドラマがありました。瀬戸内海水軍衆の話で題材がマイナーだったためか視聴率も悪くこの作品で年末時代劇が打ち切りになったという時代劇ファンにはトラウマの作品でした。その主人公が大祝(おおはふり おおほおり)鶴姫です。ドラマでは後藤久美子が演じていましたね♪
 鶴姫は、大三島の大山祇神社の神官一族、大祝氏の娘でした。神官と言っても阿蘇氏や諏訪氏と同様武士団化し戦国時代には豪族や大名になっている例もありますから侮れません。
 大祝氏は伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司一族でした。伊予河野氏とルーツを同じくする越智氏の流れです。【越智氏は饒速日命の子孫を称し、越智郡少領武男の孫玉興が越智郡大領となり、その子玉澄、そしてその子にあたるとされる安元が三島大社(大山祇神社)の初代大祝となったと伝える。】(武家家伝大祝氏より)
 越智一族の氏神、大山祇神社の神官として尊崇を集め瀬戸内海に隠然たる勢力を有していたようです。
 神官一族として直接戦をするわけではありませんでしたが、このあたりで戦があると一族の者を陣代として派遣していたといいますから重要な権威をもっていたことは間違いありません。
 大祝氏は、このような経緯から戦国時代には瀬戸内水軍衆の領袖的立場になっていたようです。周防長門を中心に豊前筑前安芸石見を領する西国の大大名大内氏は、対明貿易を独占するため堺を抑える瀬戸内海の制海権を虎視眈々と狙っていました。
 そのために伊予の河野一族と敵対し、大三島にも攻撃を加えるようになります。この時の大宮司は大祝安用でした。安用には安舎、安房、鶴という三人の子がおりました。
 大内氏が来航すると、大祝氏はこれを河野一族に注進し一族を上げて大内勢に対抗していたそうです。大宮司は戦に出れませんから老齢の父に代わって息子たちが戦場に立ちました。
 しかし長兄の安舎が大宮司職を継ぐと、弟安房が陣代となります。天文十年(1541年)の戦は大戦だったようです。大内水軍の水将白井房胤と小原中務率いる大軍を迎え撃った伊予勢は激戦の末何とかこれを撃退することに成功します。
 ところがこの戦でまだ二十歳にも満たない安房が戦死するという悲劇が起こりました。大内軍は何度も攻めよせてきます。陣代の役目は16歳の鶴姫に任されるようになりました。
 鶴姫は、美しい姫君でしたが瀬戸内水軍の娘らしく武勇に優れむしろ凛々しいという表現が似合う女性でした。彼女の事を16世紀の日本のジャンヌ・ダルクと呼ぶ人もいます。
 陣代としてお飾りになるのではなく、自らも長刀をふるって敵船に斬り込むようなたくましい女性だったと伝えられます。
 大内軍の二度目の侵攻のときは敵将小原隆言を討ちとる手柄を上げたそうですから末恐ろしい女性です。イメージ的に幕末千葉道場の佐那さまを重ね合わせているのは私だけでしょうか?(笑)
 彼女は戦だけでなく恋もしたようです。相手は一族の越智安成。どのような男性だったのかは不明ですが、私の勝手なイメージだと幼馴染かな?(笑)彼も一族の男として果敢に戦ったのでしょう。
 二度の敗北に怒った大内義隆は、重臣陶隆房を大将として天文十二年(1543年)大軍を送り込みます。鶴姫たちは一族を上げてこれを迎え撃ちました。
 大内水軍は大軍で、伊予勢は多勢に無勢苦戦したと伝えられます。越智安成も奮戦しますが傷を負い、最後の手段として敵船に突撃し斬り込みを掛けました。安成は激しく戦いますが戦死してしまいます。
 鶴姫は、恋人の死の悲しみも覚めやらないまま手勢をまとめ三島城に撤退しました。そこへ諸将を集め最後の突撃をすることを告げます。鶴姫は残った早船を引き連れ台の浜を出撃。敵が敗走し勝ったと油断していた大内水軍を奇襲しました。
 三島水軍の損害も激しいものでしたが、不意を突かれた大内勢は潰走、大きな犠牲を払いつつも鶴姫はついに大三島を守り抜きました。
 しかしその後、鶴姫は兄や最愛の恋人の戦死を悲しみ海に身を投げて自害したと伝えられます。
 辞世の句は「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」。
 鶴姫が着用したと伝えられる胴丸が大山祇神社に展示されています。女性用だと分かるほっそりとした鎧です。これを見ると在りし日の鶴姫の凛々しいお姿が想像できますね。

忍城の都留姫さま

 埼玉県行田市にある水城公園は戦国時代成田氏が築いた忍城の跡です。もともと沼沢地であったのを利用して築かれ関東七名城に数えられる見事な水城でした。
 成田氏は、武蔵七党横山党の流れともいいますがはっきりしません。系図上はっきりしているのは平安時代末期頃の助隆で、彼の代に初めて成田氏を称したと言われています。小さな在地領主から発展していったようです。
 成田氏は鎌倉御家人として記録に出ていますからいわゆる頼朝公以来の名家ということになるでしょう。
 成田氏がこの地を根拠地にしたのは親泰の時代(?~1545年、ただしその父顕泰の時代という説もあり)でした。同地を治める同じ武蔵七党の児玉氏を滅ぼして本拠を移したと言われています。
 忍城を築いたのもこの親泰の時代だったそうです。成田氏は戦国の荒波を上手く泳ぎ切り山内上杉氏の有力被官から北条氏に靡きます。
 その後秀吉の小田原征伐で一時没落しますが、蒲生氏郷に仕え復活。関ヶ原では東軍について三万七千石の大名になりました。ただ1622年無嗣断絶になったのが惜しまれます。
 で、前置きがものすごく長くなりましたがこれは顕泰の時代の話です。ですから当時忍城主だったかどうか非常に微妙ですが、まあ忍城主としてお読みください(汗)。
 顕泰には一人娘がおりました。名は都留。それはそれは心優しく近隣にも響きわたるほど美しい姫様だったそうです。
 ある時姫は、侍女とともにお城を出て城下に幕をめぐらし歌詠み会を催していました。勝手な想像ですが花の季節、咲き誇る桜を愛でながらの歌会だったのでしょう。
 そこへたまたま成田家の若侍が通りかかりました。幕の中から何やら楽しげな若い娘の笑い声が聞こえたのでふと興味を覚え幕をめくったそうです。
 彼が見たものは、美しい着物よりさらに美しいこの世のものとは思えないほどの美貌の姫。一瞬にして恋に落ちたのはいうまでもありません。
 しかし、よくよく考えると相手は主君の姫君。身分違いの恋が叶うはずもありませんでした。若侍は思い悩みます。何にも手がつかず上の空の毎日です。不審に思った彼の両親が若者に尋ねると、なんと主君の姫君に恋をしているというではありませんか!両親が驚いたのなんの。
 両親は、このままでは主君に知れ手討ちにあうかもしれないと恐怖します。そればかりかお家断絶にでもなりかねないと親戚と相談の上、息子を殺害してしました。
 後日このことを伝え聞いた都留姫はまだ一度も会ったことのない若者の死を不憫に思います。自分のために命を失った若者を憐れみ彼の菩提をともらうため持田に庵をつくり尼となりました。
 常慶院と号し、朝夕仏に祈る日々を過ごします。晩年この地に寺を作るよう遺言しました。これが曹洞宗大用山常慶院の由来だそうです。

万木城のお福女さま

 房総半島の東南部、夷隅地方は夷隅川下流域の広大な農耕地帯を抱え夷隅十万石と称えられていました。戦国時代このあたりは上総土岐氏が万木城を中心に支配を固めています。
 この上総土岐氏は一応美濃土岐氏の一族と言われていますが詳細は不明です。歴史に登場したのは戦国時代。初代頼房が安房里見義実に従って上総に侵攻、この地に落ちついたと言われています。
 上総土岐氏は、北条氏の勢力がこの地に進出してくるにつれ里見氏から北条氏に乗り換えたようです。
 舞台は土岐氏最後の当主頼春の頃です。頼春には一人の美しい娘がいました。年のころは十九か二十歳。当時なら結婚していてもおかしくない年頃でしたが、彼女は幼少より観音菩薩の信仰が厚く常の世に生きる人ではなかったようです。
 しばしば城を抜け出しては乞食や巡礼に姿を変え、領内を巡って戦場で倒れた無名戦士に経を手向けたり貧しい領民に施したりしていました。そうした彼女を領民は慕います。童子たちは後についてきては
「お福女さまが通る♪
 お福女さまが通る♪
 すすきが原の桔梗花(桔梗は土岐氏の家紋)
 観音様のお使いよ♪」
などと囃したてたそうです。
 殺伐とした世の中で、ほのぼのとした牧歌的な光景が浮かびます。
 しかしそんな平和な時代は長くは続きませんでした。1590年豊臣秀吉の小田原征伐です。土岐氏は北条氏に与したため万木城にも敵が攻めよせてきます。北条氏の要請で小田原城に主力を送っていたため、城内に残っているのはわずかな兵だけでした。頼春自体小田原に詰めていたという説と本人は万木城に残っていたという説と二つあるのですが、ここでは万木城籠城説を取ります。
 この時の寄せ手は、隣国安房の里見義康の兵とも徳川家康の重臣本田忠勝の軍勢だったとも言われています。どちらにしろ多勢に無勢、万木城は抵抗むなしく落城しました。
 城主頼春はこの時討ち死にしたとも逃亡したともいわれ定かでありません。万木城は抜け穴の多い城でした。一人娘福姫は侍女二人とともに海雄寺の抜け穴に入りました。それは夷隅川に通じていて小舟で近くの小浜城に逃れるつもりだったようです。
 ところがどこから嗅ぎつけたのか敵兵の足音がひたひたと迫っていました。もはやこれまでと覚悟した福姫は、辱められるよりはと懐剣を取りだし自害して果てたと伝えられます。
 観音菩薩は彼女を哀れに思い、死後も辱められることのないよう彼女を石地蔵に変えたそうです。追手がその場所に来た時一体の石地蔵が横たわるのみでした。
 伝説に現実的解釈をするのは野暮ですが、おそらく彼女の遺体は領民たちによって丁重に葬られたのだと思います。石地蔵伝説はそのことを象徴しているのでしょう。地元では有名な話だそうですが、私もいつか訪れたいと思っています。

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