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2011年3月

2011年3月 4日 (金)

戦国土佐ギャグ

 2ちゃんねるで仕入れたので信憑性はかなり微妙なんですが…
 戦国時代の土佐国。
 大飢饉がおこり国中が立ち行かなくなりました。
 ここで普通なら徳政一揆とか年貢軽減一揆とか起こりそうなものですが土佐国は違いました。
農民A「隣国の伊予国に略奪に行くから大将貸してくれ」
領主一条氏「儲けは折半な」
 こんなノリで攻め込まれた伊予国はたまったもんじゃありません(苦笑)。でも案外長宗我部元親の侵略もこんなノリだったかもしれませんね。ガセネタだと完全に否定できないところが恐ろしい!(爆)

土佐七人守護

土佐七雄(とさしちゆう)とはかつて土佐国に存在した土佐一条氏を除く七豪族の事である。この中から戦国時代末期に四国を統一した長宗我部氏が出た。
土佐は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代細川頼益守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。】(ウィキペディアより)
一条氏 - 幡多郡16000貫を支配した。一条兼定など。
本山氏 - 長岡郡5000貫を支配した。本山茂宗など。
吉良氏 - 吾川郡5000貫を支配した。吉良親貞吉良親実など。
安芸氏 - 安芸郡5000貫を支配した。安芸国虎など。
津野氏 - 高岡郡5000貫を支配した。津野親忠など。
香宗我部氏 - 香美郡4000貫を支配した。香宗我部親泰など。
大平氏 - 高岡郡4000貫を支配した。大平元国など。
長宗我部氏 - 長岡郡3000貫を支配した。長宗我部国親長宗我部元親など。
 最近戦国時代の土佐に非常に興味が湧いています(笑)。関ヶ原後山内氏が入部した時は表高20万石となっていますが、太閤検地の時は9万8千石でした。実際もそれくらいだったでしょう。
 10万石足らずの土佐に、戦国時代7人(一条氏を加えると8人)の豪族がひしめき合っていたのですから驚かされます。だいたい一郡に一人の割合ですね。
 もともと土佐はこれらの豪族の微妙なバランスの上に成り立っていましたが、中央政界で土佐守護も兼任していた管領細川政元が暗殺されたことでタガが外れたようです。 
 真っ先に動いたのは長岡郡の山間部に勢力を持っていた本山氏でした。管領細川氏の威光をかさに土佐に君臨していた長宗我部兼序(かねつぐ)を滅ぼすため、近隣の吉良、山田氏などと語らい連合して1508年長宗我部氏を攻撃します。これで一時長宗我部氏は滅亡し、兼序の遺児千雄丸(のちの国親)は一条氏を頼って亡命を余儀なくされました。
 本山氏の最盛期を築いたのは本山茂宗(しげむね、1508年~1555年)の時代でした。入道して梅慶と号したのでこちらの名前が有名ですね。
 本山氏は本拠の本山城から平野部に進出し朝倉城を築き支配の拠点とします。梅慶は中村御所一条氏とも敵対し土佐で最も力を持った勢力に成長しました。
 急速に台頭した本山氏への反感もあったのでしょう。一条氏の庇護下にあった千雄丸は、一条氏の肝煎りで再び長岡郡の所領を回復します。梅慶の生きている間は大丈夫でしたが、彼の死後再び力を取り戻した長宗我部国親は不倶戴天の敵として本山氏と対決しました。梅慶の生きている間雌伏し本山氏と政略結婚までしていた国親でしたが、その死後挙兵し梅慶の後を継いだ茂辰(しげとき)と戦います。
 1560年の長浜の合戦で本山軍を破った国親は長浜、浦戸城を本山氏から奪取、朝倉城に迫ります。が、国親は急に病を得て1560年急死しました。享年57歳。
 あとを継いだのは嫡男の元親でした。元親は本山氏を攻撃し続け、圧迫に堪え切れなくなった茂辰は朝倉城を焼いて、本拠の本山城に退去します。
 元親はその後も攻撃の手を緩めず本山氏をついに滅ぼします。こうして土佐中央部に確固たる地位を築いた元親は、安芸氏、次いで一条氏を滅ぼして土佐統一に成功するのです。
 このあたり司馬遼太郎の「夏草の賦」に詳しいので興味のある方は一読をお勧めします。
 七人守護はあるいは降り、あるいは元親に滅ぼされてしまいました。元親は土佐統一のエネルギーを四国平定へと振り向けていくことになります。土佐の戦国時代は非常に面白いですね。

土佐守護細川氏関連話 土佐守護代「細川遠州家」

 マニアックな前記事の続きです。前の記事で細川氏は守護にはなったものの土佐には土着せず長宗我部氏に守護代的な役割を与えて間接支配していたと書きました。
 事実、長宗我部氏は南北朝時代の当主信能(のぶよし)が細川顕氏につき従い長岡郡八幡山東坂本で南朝方と戦ったと武家家伝にありますから細川方の有力武将であったことは間違いないと思います。
 信能はその功績で土佐国内に大桶郷・吉原地頭職、朝倉領家・深淵郷・介良庄中塩田など総計千百三十四町を与えられたとされますから、これが長宗我部家発展の基礎になったのでしょう。
 その子兼能も「細川氏から夢窓疎石の創建した吸江庵の寺奉行(俗別当)に任ぜられた」とありますからかなり有力武将であったと想像されます。
 一方、細川氏が土佐守護に任ぜられると一族の細川頼益(細川頼元の子。ただし頼春の子の右京大夫頼元とは別人。遠州家の祖)が守護代として入部し香美郡田村荘を領したと伝えられます。
 遠州家は頼益-満益-持益-勝益-政益-益氏と続いたそうです。しかし細川政益が土佐守護代を務めたのは1507年までだそうですから、この年は意味を持ちそうです。というのは細川京兆家(宗家)の政元が暗殺された年でもあるからです。
 次の益氏は守護代になった形跡がありません。そして1573年失領とあります。この年も丁度長宗我部元親の土佐統一戦の最中にあたります。
 政元の死とともに土佐守護代としての実権を失った遠州家は香美郡田村荘の一領主として細々と生き残っていたのでしょう。さらには守護代家といっても細川京兆家と結び付く長宗我部氏との力関係は微妙だったのかもしれません。遠州家は系図を見る限り細川一門でもかなり傍流ですから。
 どちらにしろ細川遠州家の土佐支配は、宗家京兆家の威光あってのもの。それが失われた後は急速に没落していったのでしょう。最後は長宗我部元親に滅ぼされたのか?
 いやあ、土佐における細川氏の歴史が分かって良かったです(笑)。

土佐と備中における守護・細川氏

 ちょっとマニアックな記事で非常に恐縮なのですが、戦国時代の土佐でなぜ長宗我部氏が台頭したか調べていたんです。
 すると長宗我部氏はもともと南北朝時代から土佐守護細川氏の被官として活躍し、室町時代も細川家の威光を背景に土佐中央部に君臨し(守護代的立場か?)、権勢を誇っていた事が分かりました。
 細川家が中央の争いで土佐に構っていられない状況になった時、事件は起こりました。細川家の力を頼んで驕慢の振る舞いあった長宗我部兼序は土佐諸豪に憎まれていたため、連合して攻められ一時滅亡したのです。兼序が本山氏をはじめとする土佐諸豪に攻め滅ぼされたのが1508年。丁度後ろ盾だった管領細川政元が暗殺された一年後というのも象徴的ですね。以後土佐は細川氏の支配が及ばなくなり七人守護とよばれる土豪が台頭する戦国時代に突入したそうです。
 普通守護家がしっかりしていれば、たとえ勢力が衰えたとしても有力豪族の傀儡として命脈だけは続くものですが、どうも土佐では細川家自体が雲散霧消したような印象です。
 どういうことなのか調べたところ、歴代土佐守護は京兆家の当主が他の守護と兼任するか野州家や阿波細川家から入ったようで継続支配していたわけではないようです。とすれば長宗我部氏は土佐に土着しているわけではない細川氏の不安定な権力に依存していたわけで、脆弱な基盤しか持ち得なかったのでしょう。かといって守護代になれるほどの実力も無い。とすれば兼序時代の一時的滅亡はあり得べき必然だったのかもしれません。
 これは備中細川家にも言えるようです。一応備中に土着の勢力を築いていたようですが庄氏などの有力国人の力が強すぎて勢力を広げられなかったようです。さらには細川京兆家をはじめとする一族の介入もあり安定した勢力には成長できませんでした。
 また分かりにくいのは、細川野州家も備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めていたそうですからこちらとの力関係はどうなっていたのでしょう?ウィキなどで見ると野州家の細川政春(細川高国の実父)が備中守護を務めていますから、この時代には備中細川家はすっかり没落していたのかもしれません。
 政春の後、備中守護はしばらく任命されていないそうですから、備中もまたこの時以降戦国時代に突入したのでしょう。
 戦国時代尼子晴久に攻められて備中家最後の当主通政が伊予に逃亡したとありますから、細々ながらは生き伸びていたのでしょう。その後甥か子か不明ですが、通重という者が備中奪還を図りますが失敗、最後は毛利家に仕え幕末に至ったそうです。
 ウィキでは通政を野州家としていますが、この系図を信じる限り備中家です。
 こうして見てくると細川一族は多くの国の守護を務めましたが阿波・讃岐・淡路・和泉などを除くと継続支配はできなかったようです。これは他の守護家も同様で複数の守護領国を持つ大名でも大内氏などのように領地が隣接していなければその勢力を保つのは難しかったということでしょう。
 山名家の場合は隣接していたのですが、逆に一族での分割統治を徹底しすぎたため共倒れになったケースだと思います。

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