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2011年4月

2011年4月 6日 (水)

毛利元春のこと

 戦国時代に詳しい方におかれましては、毛利元春って吉川元春の事じゃないの?何気取ってるの?馬鹿じゃないの???などとお叱りを受けると思いますが、実は別人です(笑)。というより毛利元就のご先祖様の話です。
 今回ご紹介するのは戦国時代中国地方の覇者毛利元就の六代前のご先祖、元春の事です。
 もともと毛利氏は、鎌倉幕府初期の重鎮大江広元の子孫で、四男・季光が相模国毛利庄(現神奈川県厚木市あたり)の地頭になり毛利氏を称したのがはじまりです。毛利氏と安芸(広島県西部)との関わりはいつごろか不明ですが少なくとも鎌倉時代末期までには安芸国吉田荘(安芸高田市の一部。旧吉田町)の地頭職を得ていたようです。
 最初に吉田荘に下向したのは季光の孫時親の時代で、三浦泰村の一族滅亡(1247年宝治合戦、三浦氏と北条・安達氏の権力争いから起こった合戦。毛利一族も三浦氏と縁戚関係だったため多くの一族が討死した)から生き残った経光の子にあたります。この時親が吉田郡山城を始めて築いたとされています。しかし最近では時親の代官として下向した曾孫の元春が築いたという説もあります。
 時親は、河内国加賀田郷などいくつか分散する領地のうち本拠を安芸吉田荘に移した人物で、後から見ると慧眼の士だったと思います。
 ところがその曾孫の元春の時代に南北朝の動乱が巻き起こります。実はこの時時親は老齢ながらまだ生きていたそうですが、建武の中興で肝心の吉田荘を建武政権に取り上げられ花山院家の所領とされたことに元春は怒ります。これと似たようなことが赤松円心のケースでもありましたから建武新政権は失政で武士階級の信頼を失っていたようです。
 一時期、外祖父の三田入道のところに身を寄せていたそうですが、詳しい場所は分かりません。毛利氏は吉田荘の他に河内加賀田郷、越後佐橋南条など先祖累代の土地はかろうじて確保していたようなので滅びはしませんでした。
 足利尊氏が建武政権に反抗するといち早く毛利元春も馳せ参じます。全国的に建武新政権に不満を持つ武士は多かったようですから、これが足利幕府誕生の原動力となりました。
 もともと建武政権には恨み骨髄に達していましたから、元春は獅子奮迅の活躍を見せ、見事吉田荘を回復します。
 しかし、越後佐橋南条にいた祖父貞親と父親衝(親茂)が宮方につくなど骨肉の争いを演じています。一時期父親衝の軍勢に吉田荘に攻め込まれるなど恐ろしい状況もあったそうです。そのほか一族兄弟が武家方宮方に分かれて泥沼の争いをしたそうですから元春には同情します。
 ただ曾祖父の時親だけは元春の器量を買っていたそうです。後見役の時親が1341年没すると元春は毛利宗家を継ぎ郡山殿と称されるようになります。
 元春は一族骨肉の争いを勝ち抜き、惣領の地位を実力で守り抜くことに成功しました。父の親衝がどうなったかですが、殺されはしなかったようです。息子に宗家から叩き出された(笑)形になった親衝は、日下津城を築き別家を建てます。子孫は坂氏を名乗り毛利氏の有力庶家として生き残ったそうです。
 この親衝という人物、反骨精神旺盛の困ったチャンですね。息子の元春もさぞ苦労したことでしょう(苦笑)。
 元春は、今川了俊に従って九州に従軍していた時、大内弘世と結んだ親衝に攻め込まれて嫡子広房を殺されていますから実父とはいえ良い感情は抱いていなかったのかもしれません。
 毛利宗家は元春の嫡孫、光房が継ぎます。元春は孫の成人までこれを後見したそうですが没年は分かりません。
 元春は実質的な安芸毛利家の創始者といえるかもしれません。彼がいなかったら後の大大名毛利氏は存在しなかったはずですから。

美作後南朝と山名氏の関係

 またまた超どマイナーですみません(汗)。突然ですが皆さんは後南朝ってご存知ですか?
後南朝(ごなんちょう)とは、1392年(明徳3年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。
この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後広まったもので戦前までは定着してはいなかった。】(ウィキペディアより)
 後南朝のことは日本の歴史教育ではほとんど教えません。南北朝合一後も南朝の子孫が残って抵抗を続けたという事実は為政者にとっては都合が悪かったのでしょう。
 一応歴史的事実と認められるのは、後亀山天皇の子、小倉宮の子孫(孫?曾孫?)と称する自天王(尊秀王)と弟、忠義王(河野宮)が吉野山中の行宮に籠っていたところ、幕命を受けた赤松家の遺臣たちに襲われ1457年殺害され神璽を奪われ殺された事件(長禄の変)までです。
 この時自天王はまだ18歳だったと伝えられますが、これにより南朝残党の組織的抵抗は途絶え壊滅したとされます。嘉吉の変で将軍義教を暗殺し滅ぼされていた赤松家は功により再興を許されました。
 一方、美作国(岡山県北部)に南朝の残党が移り住み子孫が続いたという伝承もあります。幕府に抵抗し比叡山で討たれた小倉宮の遺児を美作守護である山名教清が秘かに匿いその子孫が美作で続いたというのです。
 確実な資料があるわけではなく、あくまで伝承ですが私は匿ったとされる山名教清に興味を持ちました。
 調べてみると教清は山名氏のうちでも傍流です。祖父の義理が美作・紀伊の守護を拝命するも宗家の氏清が明徳の乱で足利義満に追討されたのに連座して失領、孫の教清の代に嘉吉の変が起こり、山名氏から赤松氏に奪われていた美作国に山名軍の大将として侵攻、戦後功により美作守護に任命された人物です。
 史実ではこれくらいしか載っていない人物ですが、私が考えるに山名一族の中でも美作に地縁があったのではないかと考えます。
 山名氏は大内氏とともに一時は足利直冬(ただふゆ。尊氏の庶子、直義の養子)を奉じて幕府に抵抗した勢力です。そのため幕府に帰順した後も将軍家からは不審の目で見られていたし、山名側も完全に信用していたわけではなかったと思います。事実氏清の代に一度滅ぼされていますし。
 山名側としては、今後万が一の事があるかもしれないと備える必要がありました。幕府側も山名側も疑心暗鬼になっていたのでしょう。
 そのために、来るべき危機が訪れたときの切り札として南朝皇統の血をひく遺児を匿ったのではないでしょうか?こうして見ると美作後南朝説は俄然真実味を帯びてきます。
 応仁の乱時、山名宗全は南朝の子孫と称する皇子を奉じています。どこから来たのか、どのような系譜かも不明ですが、もしかしたら美作に逃れた小倉宮の子孫だったかもしれません。しかし彼がその後どうなったかも分かりません。
 地元の伝承では南朝の子孫と称する一族が江戸時代まで存続していたとされますからロマンがありますね。
 それを利用しようとした山名一族は一族相争って分裂し、美作守護も再び赤松氏に奪い返されてしまいます。
 そして戦国時代に突入、後南朝の子孫たちは激動の時代をどのように過ごしたのでしょうか?歴史の陰に埋もれひっそりと暮らしたのでしょう。
 現在残っているのは伝承のみです。いつの日か現地を訪れて詳しく調べてみたいですね。

安芸武田氏と若狭武田氏の関係

 甲斐源氏武田氏の嫡流は文字通り甲斐守護家として連綿と続き武田信玄という有名人を出しました。一方武田氏は分流が多いことでも有名で、安芸武田、若狭武田、上総武田などが知れれています。
 毛利元就のライバルとして安芸に君臨した武田元繁が比較的知られていますよね。よく小説などでは「安芸武田家は安芸の守護大名であったが、次第に没落し大内氏や尼子氏に翻弄される弱小勢力に落ちぶれた」と説明されることが多いと思います。
 しかし調べてみると実態はどうも違うようです。室町時代の安芸守護は甲斐守護と兼任した十代信武と、その次男で安芸武田家初代の氏信だけしか守護になっていません。
 氏信の時代に安芸に下向したようですが、1368年には幕命により守護職を剥奪されています。理由は不明ですが幕府の不興をかったのかもしれません。あとを継いで守護になったのが今川了俊ですから九州へ攻め込む準備のために(安芸・備後の兵力を組織した)任命されたようです。
 今川了俊が九州探題として赴任した後、安芸武田氏に守護職が戻ったかというとそうでもありませんでした。以後細川氏・渋川氏と続き最後は山名氏が独占します。
 武田氏は本拠銀山城周辺の分郡守護として残るのみでした。ですから最初から安芸全土を支配したわけではなかったようです。とすれば没落も何もありませんね(苦笑)。
 もっとも安芸国人は山名氏の安芸支配には抵抗したようでしばしば反乱をおこしますが、その背後に安芸武田氏の扇動があったことは想像されます。
 安芸武田氏は、山名氏との対抗上細川京兆家と結んでいたようですが、六代将軍足利義教の時大チャンスをつかみました。安芸武田氏四代信繁の長男信栄が将軍の命で若狭守護職・一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を拝命します。
 系図を見ると安芸武田氏は本拠を若狭に移したみたいですね。守護でさえない安芸と守護に任命された若狭では、どちらをとるかは明白でした。
 信栄の弟国信の子孫が代々若狭守護を歴任し、安芸には弟の元綱が残ったようです。元綱は若狭に移った宗家の代官的地位でした。
 元綱の嫡子が有名な(?)元繁です。安芸の佐東・山県・安南の分郡守護代(若狭武田家の)となります。はじめ大内氏に従いましたが尼子氏が台頭してくるとこれと結び安芸全土支配をもくろんで吉川氏領に侵攻します。
 これを迎え撃った毛利元就と吉川氏の連合軍に1517年有田中井手の戦いで敗れ元繁は戦死しました。元就にとってはこれが初陣だったそうですが、5千ともいわれる圧倒的優勢だった武田勢を寡兵で破ったことで一躍名を上げました。
 一方負けた安芸武田氏はしだいに衰退し、最後は若狭武田家から養子に入った信実の代に、大内氏の命を受けた毛利元就に攻撃され1541年居城の銀山城を落とされて滅亡します。
 名門であっただけにその最期は哀れを誘いますね。

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