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2011年5月

2011年5月10日 (火)

竜造寺隆信の肥後侵入

 前に書いた内野城竜造寺隆信陣城説(Yahoo!ブログの方。ココログでは画像の関係で割愛)に関連して、地元の岱明町史(現在玉名市と合併)を紐解いています。
 同書によると肥前佐賀の戦国大名、竜造寺隆信が最初に肥後国(現熊本県)に侵攻したのは天正六年(1578年)だったようです。
 この年は意味があって、薩摩の島津義久が豊後の大友宗麟を破った耳川の合戦の年でもあります。それまで肥後国は大友宗麟の制圧下にありました。大友家は耳川の合戦敗北前までは豊前・豊後・肥前・肥後・筑前・筑後6ヶ国の守護を兼ねる大勢力でした。
 それが薩摩・大隅・日向を領する島津氏に敗北し坂道を転げ落ちるように衰退の道を辿りはじめます。肥後でも権力の空白が生じたのです。
 竜造寺隆信はかつて肥前佐賀の一地方勢力にすぎませんでした。それが元亀元年(1570年)今山の合戦で大友宗麟六万の大軍を撃破し、天正六年までには肥前(現在の佐賀・長崎県)をほぼ統一していました。
 隆信の野心が空き地同然になった隣国、筑前・筑後・肥後に向かったのは当然です。
 隆信はまず天正六年三月野原庄(現熊本県荒尾市と長洲町の大部分)を領する小代親忠に書状を送り帰順を勧めます。しかし二百年近く大友氏と誼があり強力な大友党だった親忠はこれを拒否。肥後に侵攻してきた竜造寺軍と合戦になりました。
 この時の竜造寺軍の兵力は不明ですが、おそらく数万。一方小代軍は二千でした。地理に明るい小代軍は山間部で奇襲を試みますが諜者の知らせでこれを察知した竜造寺軍に待ち伏せされ大敗してしまいます。
 梅尾城(小岱山中腹、小代氏の平時の城)や浄業寺、野原八幡宮も戦火に焼かれたそうですからかなり領内深く攻め込まれたようです。
 衆寡敵せず小代親忠は降伏、自分が人質になることで許され息子の親泰が後を継ぎます。その後も竜造寺軍は肥後に留まり領土拡大を図りました。
 隈本(現熊本)城主城親冬ら有力国人は肥後西北部で五万石を領する小代氏の降伏を受けて竜造寺隆信に抵抗する愚を悟り起請文と人質を出して降ります。五月隆信は肥後隈府(現菊池市)城主赤星氏を攻め降伏させました。
 この前に山鹿・鹿本の城主隈部氏も降伏していましたから旧肥後守護家菊池氏の三家老の家柄で有力国人でもあった城・隈部・赤星氏を軍門に下し肥後北部をほぼ制圧したことになります。
 これが第一回の肥後侵入。第二回は天正八年(1580年)でした。これは耳川の合戦後急速に拡大する島津氏の勢力が肥後に伸びてきたからです。
 天正八年四月、筑後柳川を発して瀬高を経由、荒尾大島より肥後に侵入します。大津山城(南関町)を経て山鹿に布陣しました。一方、水軍は肥前神代(島原半島北部)を発し兵船二百余で有明海を横断海路から肥後を窺います。(筑後口から侵攻した陸軍を率いたのが鍋島直茂、水軍を率いていたのが隆信本人の可能性あり。
1578年あるいは81年に家督を嫡男政家に譲り鹿島に隠居、ただし軍事・政治の実権は握っていたので)
 おそらく第一回の肥後侵攻の際補給基地として内野城を整備していたはずなので、水軍はまずここに入ったと思います。小代氏降伏でこのあたりの支配権を奪っていたのかもしれません。城番を置いていた可能性もありますね。
 島津氏の勢力はすでに肥後南部に伸び、北部にも浸透しつつありました。隆信の猜疑心から人質である幼い息子・娘を惨殺されていた赤星統家にも島津氏の調略の手は伸びていました。
 隆信としては、この際強大な力を示すことで肥後国人衆の引き締めを図ったのでしょう。伝えられるところでは総兵力五万という大軍でした。
 赤星統家は衆寡敵せず、戦わずして隈府城を去り島津氏のもとへ逃れます。竜造寺の大軍に恐れをなし甲斐・合志・阿蘇・相良ら肥後中南部の諸将も降伏したといいますからこの時肥後は竜造寺隆信の手で一時統一されました。
 ところで島津義久が北上し菊池川を挟んで竜造寺軍と睨み合った事件があるのですが、1581年説と1584年説がありはっきりしません。
 私は1584年説はちょっと考えにくいと思っています。といいますのもこの年は沖田畷で竜造寺隆信が島津氏に敗北し討ち取られた年なのです。当主討死で急速に領国が瓦解しつつあるなか肥後に侵攻する余裕があったのか甚だ疑問です。
 私は両軍の睨み合いは1581年ではなかったかと推定しています。島津側から見た場合、せっかく版図に加えた肥後南部が竜造寺隆信に取られているのを指をくわえて見ているはずがないと思うのです。
 しかも自分を頼って逃げてきた赤星統家を見殺しにすれば、島津氏に従っている豪族たちにも動揺が走りかねません。
 1581年、島津義久は自ら一万余の兵力を率い肥後侵攻し竜造寺隆信に降った相良氏、城氏を再び従えたとありますので、この時菊池川対陣があった可能性があります。
 城氏の領地は熊本市周辺、菊池川はそこからわずか20キロ北上しただけですから。
 島津軍一万五千、竜造寺軍五万は菊池川を挟んで睨み合いましたがこの時大規模な合戦はありませんでした。筑前の大名秋月種実が仲介し、結局菊池川の線を両者の国境とすることで落ち着いたとされます。
 1581年から沖田畷で敗北する1584年までが肥前の熊、五州二島の太守・竜造寺隆信の絶頂期だったのでしょう。

太平洋船舶戦争

 先の大戦は連合軍とくに米国の物量に敗れたとされます。また米軍の戦略爆撃、原爆が日本の抗戦意欲を奪ったとも言われます。
 しかし、実態はそんな事をしなくても干上がる寸前だったのです。
 ご存知の通り日本は資源小国で海外からの物資の輸入がなければ立ち枯れするという宿命をもっています。これは島国であるイギリスも同様で、実際第1次、第2次大戦でドイツのUボートの跳梁跋扈を許し一時はたいへんな危機に見舞われました。
 イギリス以上に海外依存度の高い日本の実態はどうだったでしょう?
 開戦前の日本の商船保有量は約560万トン。(630万トンという資料もあるがまともな戦力としてカウントした場合560万トンが実態に近いと思います。海上護衛戦でもこちらの数字を載せていますし)
 そのうち海軍徴用が約200万トン、陸軍が約160万トン、残りの200万トン弱が民需用でした。ただし国民生活を最低限維持するためには300万トンが必要だといわれていました。
 ちなみに同時期の連合軍の数字を上げると、アメリカが約1150万トン、イギリスが約3889万トンでした。アメリカはほとんどの資源を自給できるので少なめですが、それでも日本の倍以上あります。
 日本を締めあげるのに最も安全で効果的な作戦は通商破壊戦だということは素人でも気がつくと思います。日本の潜水艦が連合軍の艦船を主に狙ったのに対し、米英潜水艦は日本の商船隊を徹底的に攻撃しました。
 しかも日本は通商破壊戦に対する認識が甘い、というより皆無だったためろくに護衛もつけずいたずらに被害を増すばかりでした。
 日本の商船船腹が最大でも650万トン前後までだったのは、生産しても生産しても片っ端から沈められたからです。
 大戦中の日本の建造数が336万トン、喪失量800万トン、敗戦時に生き残った船腹量が165万トン、ただし稼働数はその1割も無かったかもしれません。
 数もそうですが質においても日本の商船は大きく劣っていました。2万トン以上の大型船はほとんどなく、12ノット以上の速力を持つ優良貨物船が1割強。ちなみにイギリスは4割以上です。21ノット以上の快足輸送船に至っては日本はゼロでした。(アメリカ12隻、イギリス8隻)
 国力の違いと言ってしまえばそれまでですが、船がないために日本は陸兵を輸送する時貨物船に入れて運んでいました。ちなみに米英は客船。もちろん第1次上陸部隊はLST(Landing Ship Tank 戦車揚陸艦)やLSI(Landing Ship Infantry 歩兵揚陸艦 通常はLSと略されることが多い)ですが。
 貨物船は荷物を運ぶのが専門なだけに、人が乗ると大変だったそうです。物扱いで船倉に閉じ込められ戦場につくまでにへとへとになっていたといわれています。
 日本海軍は日露戦争でもウラジオストックを出港したロシア海軍の小規模艦隊にかなり商船を沈められたはずなのに、なぜ通商破壊戦に備えなかったのか不思議です。
 第1次大戦でのイギリスの惨状も見ていたはずなんですが。
 開戦前極東に新鋭戦艦のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを派遣しようとしたチャーチルは、海軍高官から日本には有力な艦隊があるから危険だと反対され
「いや、日本も我が国と国情が似ている。通商破壊戦に備えなければいけないはずだ。シンガポールに兵力を差し向ける余裕はないのではないか?」
と答えたそうですが、開戦時日本は全く通商破壊戦に注意を向けていなかったため、やられてしまいました。
 ただチャーチルの言う通り、ノーガードで通商破壊戦をまともに食らった日本は急速に弱体化し、干上がっていったのです。
 そして現在も日本は海外からの輸入なくしては国が成り立っていきません。それなのになぜシーレーン防衛に力をいれないのでしょうか?なぜ為政者は戦史から学ばないのでしょうか?
 だから民主党はインド洋給油にもソマリア海賊問題にもまともに取り組もうとしないのかもしれません。危機管理能力以前の問題でしょう。少しでもまともな頭脳を持っていたら海上交通路の安全=日本の生命線だと気付くはずなんですが…。
 それとも日本を滅ぼすために、わざと危険を呼び込んでいるのか?いい加減有権者が目覚めなければいけませんね!こんな屑政治家を選んでいる場合じゃないですよ!

日本軍はなぜ失敗したか?

 先の大戦における日本の失敗を組織論からアプローチした「失敗の本質」(中公文庫)という良書があります。実は先日本棚を整理していましてこの本を2冊も買っていた事に気付き愕然としているところです(苦笑)。
 まあそれだけ良書なんでしょう(汗)。冗談はともかく本書のエッセンスは日米両軍の戦略・組織特性の比較だと思います。
 同書を見ていると、なるほどこれなら日本に勝ち目はないなと痛感させられます。だからといって日本がアメリカのような組織にしなかったのが敗因だと短絡的に考えるのも問題です。
 日本型組織の欠陥は確かにありますが、日本が持つ戦略的状況によって左右されるものもあるのです。例えば戦略思考の項目。資源小国で自国内だけでは戦争資源を賄えない日本は逆立ちしても長期決戦はできないでしょう。必然的に短期決戦にならざるを得ません。
 また戦略策定において帰納法が悪く演繹法が優れているとも一概には言えません。一つ一つの事象から因果関係を推論し一般原理を結論する帰納法、一般的原理から個々の事象をあてはめる演繹法、一長一短があると思います。結果的にはアメリカの演繹法的戦略策定が勝ったわけですが、演繹法からは革新的戦略・戦術は生まれにくいものです。帰納法でもその着想が神がかり的に優れていれば奇跡のような優れた戦略・戦術を生みだす可能性もゼロではありません。
 ようは、思考の柔軟性なのではないでしょうか?残念ながら先の大戦における日本の軍事指導者にそれがあったとは到底思えません。作戦がワンパターンで連合軍にそれが見破られても改めようともしなかったのですから、根本的能力が欠如しているとしか思えません。大変厳しい結論ですが…。
 技術体系の標準化、結果重視の評価体制はまさにその通りで、現代の日本人にも耳の痛い話かもしれません。それもこれもすべてをひっくるめて思考の柔軟性、冷静な現実認識能力に行きつくのかもしれませんね。
 昨今のニュースを見ていても日本人的な組織上の欠陥は改善されているようには思えません。日本的企業こそまさに上記の表の日本軍と何ら変わりませんから。
 憲法9条教徒など、典型的な例ですね。しかも現実をまったく見ていないから、世界中から失笑されても気付かないという哀れさです。
 「人の振り見てわが振り直せ」昔の人は良く言ったものだ。私も気をつけましょう(笑)。

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