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2011年6月

2011年6月 6日 (月)

肥後愛藤寺(相藤寺)城 その3   多分完結編?

 コアすぎて誰も付いてこれないかもしれませんが、今回で多分完結編です(苦笑)。
 実際に愛藤寺城跡に行こうと思って詳しい地図を探していたんですが、ネットで山岳登山用の詳細地図を見つけました!
 それによると、城跡は思っていたよりかなり北寄りでした。中心の四角い区画(変形五角形ですが…)が本丸あるいは天守台跡(多分加藤時代)だと思います。
 記録では三重の天守があったと伝えられています。主要部分は石垣で覆われていたそうですからかなり堅固な山城ですね。
 くどいようですが、津留集落のすぐ上、白糸台地の突端先のほうが要害になりそうな気はします(苦笑)。背後は断崖なので後ろ堅固の名城になりそうな予感が?(爆)私ならこっちに築城するなあ。
 イメージ的には三河長篠城のような縄張りを想像してください。まあ実際の地形を知らずあくまで地図上の見方なので、現実的には何か良くない要素(土質が脆いとか?)があるのかもしれません(苦笑)。
 ともかく、実際訪れても大丈夫なくらい情報は集めました!これで最後、とにかく最後にします(汗)。

肥後愛藤寺(相藤寺)城 その2

 誰も興味なさそうな記事の、しかも続編を書くのは非常に気が引けるんですが(苦笑)、愛藤寺城、城代の結城弥平次、そして4000人が住んでいたという切支丹信者について考えてみたくなりました。
 まず、愛藤寺城のある場所に付いて。私は小西行長が肥後南半国の領主として宇土城を築いた時、この愛藤寺城を何故支城として整備したのか疑問なんです。
 といいますのも、当時の街道がどこを通っていたかは不明ですが現在の道路を基準に考えるとこの城は主要街道から外れているんです。
 おそらく熊本県矢部地方を通る主要幹線道路は、熊本平野から矢部を通って日向国高千穂地方に抜ける日向街道(国道445号線~218号線)だったと思います。
 でしたら日向街道と阿蘇盆地から外輪山を越え南下し五木に抜ける街道の交点という要衝にあり、かっての支配者阿蘇氏の本拠浜の館とその詰めの城だった岩尾城を整備すれば事足りるはずなんです。いくつも城を整備するより地方ごとにまとめて最小限の数に絞りその城を強化すればよいと考えます。
 ところが小西行長は、矢部地方では岩尾城と愛藤寺城の二つを整備するという非効率な事をしています。
 一応、なされている説明では緑川の上流にあり、その水運と五家の荘(五木村)に抜ける街道の交点で交通の要衝であったとしていますが、緑川がいかに大河とはいえここまで上流になると船が航行できるか非常に疑問なのと、五家の荘は平家の落人伝説があるくらいの秘境でそれほど戦略的価値があったのかどうか?ということを考えるのです。
 しかも愛藤寺城は白糸台地の最南端にあり江戸末期に通潤橋ができるまで不毛の大地だったとされますからなおさらです。その証拠に愛藤寺城の城下町は崖の下の緑川にへばりつくように形成された(現津留地区)ほどでした。
 私の考えでは、もしかしたら愛藤寺城は岩尾城のさらに詰めの城としての性格を持っていたのではないかと思います。阿蘇氏時代の性格がそういうものであったから、受け継いだ小西行長も同じ方針を決めたのかもしれません。
 矢部から直線距離で5キロ。白糸台地の最南端に位置する山城なら、籠城するにしても便利ですからね。さらに緑川の水運を利用したら小西行長の本拠宇土城に万一の事が起こっても逃げ込みやすかったのではないかと考えます。
 つぎに城代、結城弥平次に関して。京都南蛮寺の建設にも携わり朝鮮の役では明使来日時の世話役を務めているくらいですから、教養豊かな文官タイプだったのでしょう。
 城下に切支丹信徒が4000人いたというのは、山深い矢部地方だけの人口ではないでしょう。おそらく九州各地や畿内で迫害された切支丹信徒のうち切支丹大名だった小西行長を頼って肥後に下った者も多かったに違いありません。
 矢部地方だけではなく小西領各地に迫害を逃れてきた大勢の切支丹信徒が移住してきたことでしょう。
 伝説では、弥平次と信徒たちは愛藤寺城から東南に見える天主山をデウスに見立てて礼拝していたとされますからロマンを感じますね。弥平次は信徒とともに山間の新天地で、開墾をしながら慎ましい生活をしていたのかもしれません。
 しかし小西行長が関ヶ原で敗れ、小西家が改易になったことで切支丹信徒に悲劇が起こりました。旧小西領は行長と仲の悪かった加藤清正が拝領したからたまりません。熱心な法華信者であった清正は切支丹信徒を激しく弾圧したといいますから哀れを誘います。
 天草島原の乱の原因の一つに、この清正による弾圧があったのかもしれません。
 
 関ヶ原合戦時、愛藤寺城がどういう戦いを展開したのかははっきりしていません。主君行長は遠く関ヶ原、主力を欠く状態で弥平次は切支丹信徒とともに信仰の牙城愛藤寺城に籠ったのでしょう。加藤清正は、この城を直接攻めれば大きな被害が出ると考え、唇歯の関係にある岩尾城の城将を裏切らせて愛藤寺城を攻めさせ、しかもそのすきに岩尾城を乗っ取るという少々汚い手を使っています。
 弥平次は切支丹信徒の生命の保証と引き換えに開城したと想像します。清正は約束を守ってこの時は信徒迫害をしなかったと信じたいですが(信長なら騙して皆殺しします)、弥平次が清正に仕えたのはこのためでしょう。清正にとっても能吏である弥平次は殺すには惜しい人材だったはず。
 が、やはり棄教しなかったために加藤家を追放された弥平次は同じ切支丹大名だった有馬晴信に仕えることになりました。有馬家でも重く用いられたそうですが、弥平次のその後は不明です。
 
 結城弥平次と切支丹の天地があった愛藤寺城、ますます行きたくなりました(笑)。地図を見ると矢部の通潤橋の近くから南に延びる県道180号線を南に5キロほど下ると着きそうです。ただ道が非常に狭いそうですから運転は気をつけなくてはいけませんね。180号線から途中右に分かれる小道がかっての愛藤寺城の登城口だったそうです。
 いつの日か訪れたいですね!

肥後愛藤寺(相藤寺)城

 今日たまたま寄った本屋の郷土史コーナーで、宇土市教育委員会(だったと思う、たぶん…)の「小西行長をかんがえる」とかなんとかいうタイトルの本があったので立ち読みしました。
 丁度お金の持ち合わせがなく、学研の歴史群像の方を買ったので買えなかったんですが(爆)、そのなかに愛藤寺城という山城の写真が載っていました。
 私は結構郷土史には詳しいつもりでしたが、恥ずかしながらこの城の名前は記憶になく興味を持って家に帰ってから調べてみました。
 ネットで調べた情報では、もともと阿蘇氏の属城だったのを小西行長が肥後南半国の領主として入部した時近世城郭に改修し本拠宇土城を囲む支城ネットワークの一つとして整備したものらしいです。熊本県内最大(規模?)の山城で、県内で唯一クルス瓦などキリシタン大名だった小西行長の関連遺物が出土し注目される城跡だそうです。
ウィキペディアでは
【愛藤寺城は阿蘇氏によって白糸台地の南端に築かれた山城である。小西行長によって近世城に改築され、さらに加藤清正の修築を受けた。目下のところ熊本県におけるクルス瓦(キリシタン瓦)の唯一の出土地点として知られている。
城地は昭和46年(1971年)11月25日に山都町指定史跡となり、クルス瓦は同49年(1974年)1月14日に山都町指定文化財になった。】
と紹介されたいます。
 上の写真は、私が載せた物ですが場所は自信ありません。場所は熊本県中東部。阿蘇山系と九州山地にはさまれた山岳地帯。緑川と千滝川の合流点近く、峡谷に挟まれた狭隘な台地上に築かれたという記述から、たぶんここら辺かな?と思い載せました。白糸局の上の盛り上がった台地のところだと思います、たぶん(汗)。いずれ上の郷土史本は買う予定ですので間違ってたらその時修正します。
 愛藤寺城の起源はかなり古そうですね。貞応元年(1222年)、阿蘇大宮司阿蘇惟次天台宗系寺院の愛藤寺を移転させた跡地に城を築いた事によると伝えられる(ウィキペディアより)そうです。
 文正元年(1466年)、には肥後守護菊池為邦(ためくに、1430年~1488年)に反乱を起こした阿蘇大宮司惟忠(1415年~1485年)がこの城に籠城して抵抗したそうですから阿蘇氏の持ち城の中でもかなり要害だったのでしょう。
 でなければ阿蘇氏の本拠岩尾城(山都町。通潤橋の近く)に籠るはずですからね。
 1588年に、小西行長がこの城を近世城郭に改修し結城弥平次を城代に置いたと記録があります。彼はキリシタンだったと伝えられますのでクルス瓦は彼に所縁のものでしょう。弥平次は愛藤寺城代に任ぜられてすぐキリスト教に入信し城内の邸宅に伝道所を設け布教に努めたそうです。信者は4000人、宣教師もこんな山深く(失礼)に来たそうですから凄いですね。
 関が原後小西家は改易、弥平次は加藤清正に仕えたそうですが、キリスト教を棄教しなかったため追放、その後は有馬晴信に仕えました。有馬晴信死後(1613年)以降の消息は不明です。
 全国の皆様には、まったく興味のないローカルな話題で申し訳ございません。あまりに気になったものですから記事にしてみました(汗)。

会津守護 蘆名一族

 蘆名氏と言えば、会津盆地を中心に南陸奥に勢威を振い最盛期には40万石とも50万石ともいわれる領国を誇った戦国大名です。
 蘆名(あしな)氏は、芦名とか葦名とも書かれますが相模国三浦郡蘆名郷に所領があったことからの名乗りです。もともとは相模の大族三浦氏の一族でした。
 三浦一族は源頼朝の鎌倉幕府創立に大功を上げ多くの一族が恩賞をうけました。三浦義明の七男佐原義連もその一人で、相模国蘆名など多くの所領を得、子孫はそれぞれの土地の名前を名乗るようになります。
 初めて蘆名氏を名乗ったのは義連の孫光盛の代からだと言われますが、最初一族は鎌倉に住んで遠国の領地には赴任していなかったようです。
 しかし鎌倉幕府内の権力争いで、三浦一族の有力者和田義盛や、三浦氏嫡流も宝治合戦で北条氏に滅ぼされると、難を避ける意味もあって鎌倉を出たのだと思います。
 蘆名氏と会津の関係は、頼朝の奥州征伐に始まります。これに参加した佐原義連は戦功によって会津・河沼・耶麻の諸郡を得ました。豊かな会津盆地は佐原氏の嫡流である蘆名氏に受け継がれたようです。
 宝治合戦で一時滅びた三浦氏ですが、蘆名光盛の弟盛時が三浦氏を再興します。ですから蘆名氏と戦国時代まで生き残った三浦氏はかなり近しい一族という事です。ちなみにこの後三浦氏も北条氏(後北条氏)に滅ぼされるのですから歴史の皮肉です。
 一方会津盆地に土着した蘆名氏ですが、北条氏が三浦氏嫡流を滅ぼした宝治合戦では、蘆名光盛は執権北条時頼に味方します。兄弟、従兄弟同士が敵味方になって戦う壮絶な生き残り戦術でした。
 そのあとの鎌倉時代は泣かず飛ばず。中先代の乱では蘆名盛員は北条時行に味方し足利尊氏と鎌倉で戦い討死します。
 南北朝の戦乱のなかで蘆名氏は着実に力を付けたようです。室町幕府によって南北合一がなると蘆名一族は幕府にも実力を認められます。蘆名氏は会津守護を名乗りますが幕府の職制では奥州は守護不設置の地で、奥州探題斯波氏(大崎氏)の所管でしたが、奥州全土を現実的には支配できなかった関係から黙認の状況でした。
 守護の職権である軍事指揮権・権断権・反銭の徴収権などを会津地方で行使していたのでしょう。蘆名氏の最盛期は一六代盛氏(1521年~1580年)の時でした。伊達稙宗の娘を妻に迎え山内氏を討って会津地方に勢力を拡大します。
 稙宗と息子の晴宗が争った天文の乱では、初め稙宗に付きながら途中で晴宗方についたため優位が確定し晴宗方が勝利したとされるほどの実力者でした。
 盛氏は一族や家臣団の反乱を鎮圧しつつ、会津盆地のほぼ全域、仙道(福島県中通り地方)の安積郡・岩瀬郡、越後の小河荘を制圧し、蘆名氏の全盛期を築いて死去しました。
 しかし、満つれば欠けるのが世の習い。盛氏の後を継ぐはずだった嫡男盛興は1574年27歳で若死していたため、やむなく人質だった二階堂盛隆を、盛興の後室を盛氏の養女ということにして婿にし後を継がせるという苦肉の策を施します。
 しかし、これでは家臣団を統制できるはずもなく内紛の末、盛隆は1584年寵臣大庭三左衛門に斬殺され非業の最期を迎えました。その子亀若丸も1586年痘を患いわずか三歳で夭折してしまいます。
 当主を失った蘆名家臣団は動揺しました。後嗣として伊達政宗の弟竺丸と常陸の佐竹義重の次男義広が候補に挙がり、後継者問題で家中を二分する激しい争いとなります。
 結局、佐竹派が勝ち義広が蘆名家に入り二十代を継ぎますが、この抗争により蘆名家は最盛期の力を失ってしまいました。
 一方、伊達政宗は弟を養子に入れて蘆名氏を支配する野望を阻止され怒り狂います。以後露骨に侵略の手を伸ばし後継者争いで負けた伊達派の諸将に調略の手を伸ばしました。
 その誘いにまんまと乗った蘆名一族の猪苗代盛国などの内応で、蘆名氏が弱体したのを見ると1589年摺上原の戦いで蘆名氏を破ります。
 政宗は敗走する蘆名勢を追って、蘆名氏累代の居城である黒川城(会津若松市。若松城の前身)を落としました。義広はたまらず兄佐竹義宣の常陸に逃亡、ここに頼朝公以来四百年の歴史を誇る名門蘆名氏は滅びます。
 
政宗は、黒川を居城として米沢から移り、以後奥州の覇者として君臨するようになります。一方追い出された義広ですが、秀吉の奥州仕置でもお家再興は叶わず、会津盆地は蒲生氏郷に与えられました。
 関が原後、出羽久保田に転封になった兄義宣に従った義広はその後も蘆名の名を名乗り続けたそうです。盛重、義勝と名を改め、兄から角館一万五千石に封じられます。
 しかし、この義勝と蘆名盛興(盛氏の嫡男)の娘、岩姫との間に生まれた盛泰が1612年22歳の若さで夭折したため蘆名氏の血脈は完全に断たれました。

太田道灌と江戸城

 現在の皇居、江戸城といえば最初に築城したのは室町時代の名将太田道灌です。
 しかしその後徳川家康が大改修したため当時の原型は残っていません。ただ記録などでなんとか当時の姿を想像できるくらいです。
 太田道灌【1432年~1486年。室町時代武将武蔵国守護代摂津源氏の流れを汲む太田氏資長扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。】(ウィキペディアより)
 私は最近、古本屋で「歴史研究」という雑誌を10冊くらい買い込んだんですが、その中の1冊に太田道灌特集がありました。当時の江戸城の様子についても記事がありたいへん興味深かったのでご紹介します。
 15世紀中ごろの江戸地方は海岸線が大きく後退し、日比谷入り江が大きく入り込んでいました。太田道灌はこの日比谷入り江に東側で接し、西側を川(隅田川の支流?)で挟まれた舌状台地の先端に目をつけ築城します。
 これが古江戸城です。1457年(長禄元年)のことです。
 道灌は舌状台地の先端を三つの区画に分け、一番先端部を本丸である根城、次の区画を中城、三番目を外城と分け空堀で区切ったそうです。規模的にはほぼ現在の江戸城本丸にあたるくらいだそうです。
 根城には、富士見櫓である静勝軒という建築物があったと伝えられます。静勝軒は金閣や銀閣のような数寄を凝らした建物だったようです。
 当時も江戸は交通の要衝であったようで、江戸湊と日比谷入り江に挟まれた岬である八重洲には城下町が形成されました。
 記録では、二十の城門を持ちそのうちの五つは虎口(こぐち。城門がある区画)を石垣で固めていたそうですからなかなかの規模です。塁壁も急崖だったといいますから難攻不落の名城でした。
 たかが扇谷上杉氏の家宰で相模守護代にすぎない太田道灌には過ぎたる城だったのかもしれません。
 私は道灌が主君である扇谷上杉定正に危険視され暗殺された理由の一つに江戸城があった気がしてなりません。
 有能で世間の評判も高く遠く京からの来客さえあった道灌に対し、主君定正は蔑にされ無視されていると僻んだのでしょう。京の文人墨客は当時相模にあった扇谷上杉家の屋敷を素通りして道灌の江戸城を訪問してたそうですし。しかも道灌は難攻不落の江戸城に籠っている。
 そのうち自分の地位を取って代わられるという恐怖が、暗殺という暗い手段に訴えた真相かもしれません。もし謀反を起こされても戦では絶対敵いませんからね。
 また道灌も己が才を誇っていたふしがあります。天才の自分から見ると周りの人間が馬鹿に見えて仕方なかったのでしょう。その驕慢が自らの身を滅ぼしました。
 道灌暗殺後、江戸城は主家扇谷上杉家の所有となりますがまもなく小田原北条氏に奪われます。いくら難攻不落でも守将が凡庸であれば意味がないということでしょう。
 その北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、関東の首府として江戸を本拠にするよう徳川家康に勧めたそうですから、慧眼恐るべしですね!経済に明るい秀吉には、将来の江戸の発展が見えていたのでしょう。
 

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