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2011年6月 6日 (月)

太田道灌と江戸城

 現在の皇居、江戸城といえば最初に築城したのは室町時代の名将太田道灌です。
 しかしその後徳川家康が大改修したため当時の原型は残っていません。ただ記録などでなんとか当時の姿を想像できるくらいです。
 太田道灌【1432年~1486年。室町時代武将武蔵国守護代摂津源氏の流れを汲む太田氏資長扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。】(ウィキペディアより)
 私は最近、古本屋で「歴史研究」という雑誌を10冊くらい買い込んだんですが、その中の1冊に太田道灌特集がありました。当時の江戸城の様子についても記事がありたいへん興味深かったのでご紹介します。
 15世紀中ごろの江戸地方は海岸線が大きく後退し、日比谷入り江が大きく入り込んでいました。太田道灌はこの日比谷入り江に東側で接し、西側を川(隅田川の支流?)で挟まれた舌状台地の先端に目をつけ築城します。
 これが古江戸城です。1457年(長禄元年)のことです。
 道灌は舌状台地の先端を三つの区画に分け、一番先端部を本丸である根城、次の区画を中城、三番目を外城と分け空堀で区切ったそうです。規模的にはほぼ現在の江戸城本丸にあたるくらいだそうです。
 根城には、富士見櫓である静勝軒という建築物があったと伝えられます。静勝軒は金閣や銀閣のような数寄を凝らした建物だったようです。
 当時も江戸は交通の要衝であったようで、江戸湊と日比谷入り江に挟まれた岬である八重洲には城下町が形成されました。
 記録では、二十の城門を持ちそのうちの五つは虎口(こぐち。城門がある区画)を石垣で固めていたそうですからなかなかの規模です。塁壁も急崖だったといいますから難攻不落の名城でした。
 たかが扇谷上杉氏の家宰で相模守護代にすぎない太田道灌には過ぎたる城だったのかもしれません。
 私は道灌が主君である扇谷上杉定正に危険視され暗殺された理由の一つに江戸城があった気がしてなりません。
 有能で世間の評判も高く遠く京からの来客さえあった道灌に対し、主君定正は蔑にされ無視されていると僻んだのでしょう。京の文人墨客は当時相模にあった扇谷上杉家の屋敷を素通りして道灌の江戸城を訪問してたそうですし。しかも道灌は難攻不落の江戸城に籠っている。
 そのうち自分の地位を取って代わられるという恐怖が、暗殺という暗い手段に訴えた真相かもしれません。もし謀反を起こされても戦では絶対敵いませんからね。
 また道灌も己が才を誇っていたふしがあります。天才の自分から見ると周りの人間が馬鹿に見えて仕方なかったのでしょう。その驕慢が自らの身を滅ぼしました。
 道灌暗殺後、江戸城は主家扇谷上杉家の所有となりますがまもなく小田原北条氏に奪われます。いくら難攻不落でも守将が凡庸であれば意味がないということでしょう。
 その北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、関東の首府として江戸を本拠にするよう徳川家康に勧めたそうですから、慧眼恐るべしですね!経済に明るい秀吉には、将来の江戸の発展が見えていたのでしょう。
 

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