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2011年6月 6日 (月)

肥後愛藤寺(相藤寺)城 その2

 誰も興味なさそうな記事の、しかも続編を書くのは非常に気が引けるんですが(苦笑)、愛藤寺城、城代の結城弥平次、そして4000人が住んでいたという切支丹信者について考えてみたくなりました。
 まず、愛藤寺城のある場所に付いて。私は小西行長が肥後南半国の領主として宇土城を築いた時、この愛藤寺城を何故支城として整備したのか疑問なんです。
 といいますのも、当時の街道がどこを通っていたかは不明ですが現在の道路を基準に考えるとこの城は主要街道から外れているんです。
 おそらく熊本県矢部地方を通る主要幹線道路は、熊本平野から矢部を通って日向国高千穂地方に抜ける日向街道(国道445号線~218号線)だったと思います。
 でしたら日向街道と阿蘇盆地から外輪山を越え南下し五木に抜ける街道の交点という要衝にあり、かっての支配者阿蘇氏の本拠浜の館とその詰めの城だった岩尾城を整備すれば事足りるはずなんです。いくつも城を整備するより地方ごとにまとめて最小限の数に絞りその城を強化すればよいと考えます。
 ところが小西行長は、矢部地方では岩尾城と愛藤寺城の二つを整備するという非効率な事をしています。
 一応、なされている説明では緑川の上流にあり、その水運と五家の荘(五木村)に抜ける街道の交点で交通の要衝であったとしていますが、緑川がいかに大河とはいえここまで上流になると船が航行できるか非常に疑問なのと、五家の荘は平家の落人伝説があるくらいの秘境でそれほど戦略的価値があったのかどうか?ということを考えるのです。
 しかも愛藤寺城は白糸台地の最南端にあり江戸末期に通潤橋ができるまで不毛の大地だったとされますからなおさらです。その証拠に愛藤寺城の城下町は崖の下の緑川にへばりつくように形成された(現津留地区)ほどでした。
 私の考えでは、もしかしたら愛藤寺城は岩尾城のさらに詰めの城としての性格を持っていたのではないかと思います。阿蘇氏時代の性格がそういうものであったから、受け継いだ小西行長も同じ方針を決めたのかもしれません。
 矢部から直線距離で5キロ。白糸台地の最南端に位置する山城なら、籠城するにしても便利ですからね。さらに緑川の水運を利用したら小西行長の本拠宇土城に万一の事が起こっても逃げ込みやすかったのではないかと考えます。
 つぎに城代、結城弥平次に関して。京都南蛮寺の建設にも携わり朝鮮の役では明使来日時の世話役を務めているくらいですから、教養豊かな文官タイプだったのでしょう。
 城下に切支丹信徒が4000人いたというのは、山深い矢部地方だけの人口ではないでしょう。おそらく九州各地や畿内で迫害された切支丹信徒のうち切支丹大名だった小西行長を頼って肥後に下った者も多かったに違いありません。
 矢部地方だけではなく小西領各地に迫害を逃れてきた大勢の切支丹信徒が移住してきたことでしょう。
 伝説では、弥平次と信徒たちは愛藤寺城から東南に見える天主山をデウスに見立てて礼拝していたとされますからロマンを感じますね。弥平次は信徒とともに山間の新天地で、開墾をしながら慎ましい生活をしていたのかもしれません。
 しかし小西行長が関ヶ原で敗れ、小西家が改易になったことで切支丹信徒に悲劇が起こりました。旧小西領は行長と仲の悪かった加藤清正が拝領したからたまりません。熱心な法華信者であった清正は切支丹信徒を激しく弾圧したといいますから哀れを誘います。
 天草島原の乱の原因の一つに、この清正による弾圧があったのかもしれません。
 
 関ヶ原合戦時、愛藤寺城がどういう戦いを展開したのかははっきりしていません。主君行長は遠く関ヶ原、主力を欠く状態で弥平次は切支丹信徒とともに信仰の牙城愛藤寺城に籠ったのでしょう。加藤清正は、この城を直接攻めれば大きな被害が出ると考え、唇歯の関係にある岩尾城の城将を裏切らせて愛藤寺城を攻めさせ、しかもそのすきに岩尾城を乗っ取るという少々汚い手を使っています。
 弥平次は切支丹信徒の生命の保証と引き換えに開城したと想像します。清正は約束を守ってこの時は信徒迫害をしなかったと信じたいですが(信長なら騙して皆殺しします)、弥平次が清正に仕えたのはこのためでしょう。清正にとっても能吏である弥平次は殺すには惜しい人材だったはず。
 が、やはり棄教しなかったために加藤家を追放された弥平次は同じ切支丹大名だった有馬晴信に仕えることになりました。有馬家でも重く用いられたそうですが、弥平次のその後は不明です。
 
 結城弥平次と切支丹の天地があった愛藤寺城、ますます行きたくなりました(笑)。地図を見ると矢部の通潤橋の近くから南に延びる県道180号線を南に5キロほど下ると着きそうです。ただ道が非常に狭いそうですから運転は気をつけなくてはいけませんね。180号線から途中右に分かれる小道がかっての愛藤寺城の登城口だったそうです。
 いつの日か訪れたいですね!

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