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2011年6月 6日 (月)

会津守護 蘆名一族

 蘆名氏と言えば、会津盆地を中心に南陸奥に勢威を振い最盛期には40万石とも50万石ともいわれる領国を誇った戦国大名です。
 蘆名(あしな)氏は、芦名とか葦名とも書かれますが相模国三浦郡蘆名郷に所領があったことからの名乗りです。もともとは相模の大族三浦氏の一族でした。
 三浦一族は源頼朝の鎌倉幕府創立に大功を上げ多くの一族が恩賞をうけました。三浦義明の七男佐原義連もその一人で、相模国蘆名など多くの所領を得、子孫はそれぞれの土地の名前を名乗るようになります。
 初めて蘆名氏を名乗ったのは義連の孫光盛の代からだと言われますが、最初一族は鎌倉に住んで遠国の領地には赴任していなかったようです。
 しかし鎌倉幕府内の権力争いで、三浦一族の有力者和田義盛や、三浦氏嫡流も宝治合戦で北条氏に滅ぼされると、難を避ける意味もあって鎌倉を出たのだと思います。
 蘆名氏と会津の関係は、頼朝の奥州征伐に始まります。これに参加した佐原義連は戦功によって会津・河沼・耶麻の諸郡を得ました。豊かな会津盆地は佐原氏の嫡流である蘆名氏に受け継がれたようです。
 宝治合戦で一時滅びた三浦氏ですが、蘆名光盛の弟盛時が三浦氏を再興します。ですから蘆名氏と戦国時代まで生き残った三浦氏はかなり近しい一族という事です。ちなみにこの後三浦氏も北条氏(後北条氏)に滅ぼされるのですから歴史の皮肉です。
 一方会津盆地に土着した蘆名氏ですが、北条氏が三浦氏嫡流を滅ぼした宝治合戦では、蘆名光盛は執権北条時頼に味方します。兄弟、従兄弟同士が敵味方になって戦う壮絶な生き残り戦術でした。
 そのあとの鎌倉時代は泣かず飛ばず。中先代の乱では蘆名盛員は北条時行に味方し足利尊氏と鎌倉で戦い討死します。
 南北朝の戦乱のなかで蘆名氏は着実に力を付けたようです。室町幕府によって南北合一がなると蘆名一族は幕府にも実力を認められます。蘆名氏は会津守護を名乗りますが幕府の職制では奥州は守護不設置の地で、奥州探題斯波氏(大崎氏)の所管でしたが、奥州全土を現実的には支配できなかった関係から黙認の状況でした。
 守護の職権である軍事指揮権・権断権・反銭の徴収権などを会津地方で行使していたのでしょう。蘆名氏の最盛期は一六代盛氏(1521年~1580年)の時でした。伊達稙宗の娘を妻に迎え山内氏を討って会津地方に勢力を拡大します。
 稙宗と息子の晴宗が争った天文の乱では、初め稙宗に付きながら途中で晴宗方についたため優位が確定し晴宗方が勝利したとされるほどの実力者でした。
 盛氏は一族や家臣団の反乱を鎮圧しつつ、会津盆地のほぼ全域、仙道(福島県中通り地方)の安積郡・岩瀬郡、越後の小河荘を制圧し、蘆名氏の全盛期を築いて死去しました。
 しかし、満つれば欠けるのが世の習い。盛氏の後を継ぐはずだった嫡男盛興は1574年27歳で若死していたため、やむなく人質だった二階堂盛隆を、盛興の後室を盛氏の養女ということにして婿にし後を継がせるという苦肉の策を施します。
 しかし、これでは家臣団を統制できるはずもなく内紛の末、盛隆は1584年寵臣大庭三左衛門に斬殺され非業の最期を迎えました。その子亀若丸も1586年痘を患いわずか三歳で夭折してしまいます。
 当主を失った蘆名家臣団は動揺しました。後嗣として伊達政宗の弟竺丸と常陸の佐竹義重の次男義広が候補に挙がり、後継者問題で家中を二分する激しい争いとなります。
 結局、佐竹派が勝ち義広が蘆名家に入り二十代を継ぎますが、この抗争により蘆名家は最盛期の力を失ってしまいました。
 一方、伊達政宗は弟を養子に入れて蘆名氏を支配する野望を阻止され怒り狂います。以後露骨に侵略の手を伸ばし後継者争いで負けた伊達派の諸将に調略の手を伸ばしました。
 その誘いにまんまと乗った蘆名一族の猪苗代盛国などの内応で、蘆名氏が弱体したのを見ると1589年摺上原の戦いで蘆名氏を破ります。
 政宗は敗走する蘆名勢を追って、蘆名氏累代の居城である黒川城(会津若松市。若松城の前身)を落としました。義広はたまらず兄佐竹義宣の常陸に逃亡、ここに頼朝公以来四百年の歴史を誇る名門蘆名氏は滅びます。
 
政宗は、黒川を居城として米沢から移り、以後奥州の覇者として君臨するようになります。一方追い出された義広ですが、秀吉の奥州仕置でもお家再興は叶わず、会津盆地は蒲生氏郷に与えられました。
 関が原後、出羽久保田に転封になった兄義宣に従った義広はその後も蘆名の名を名乗り続けたそうです。盛重、義勝と名を改め、兄から角館一万五千石に封じられます。
 しかし、この義勝と蘆名盛興(盛氏の嫡男)の娘、岩姫との間に生まれた盛泰が1612年22歳の若さで夭折したため蘆名氏の血脈は完全に断たれました。

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