2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 会津守護 蘆名一族 | トップページ | 肥後愛藤寺(相藤寺)城 その2 »

2011年6月 6日 (月)

肥後愛藤寺(相藤寺)城

 今日たまたま寄った本屋の郷土史コーナーで、宇土市教育委員会(だったと思う、たぶん…)の「小西行長をかんがえる」とかなんとかいうタイトルの本があったので立ち読みしました。
 丁度お金の持ち合わせがなく、学研の歴史群像の方を買ったので買えなかったんですが(爆)、そのなかに愛藤寺城という山城の写真が載っていました。
 私は結構郷土史には詳しいつもりでしたが、恥ずかしながらこの城の名前は記憶になく興味を持って家に帰ってから調べてみました。
 ネットで調べた情報では、もともと阿蘇氏の属城だったのを小西行長が肥後南半国の領主として入部した時近世城郭に改修し本拠宇土城を囲む支城ネットワークの一つとして整備したものらしいです。熊本県内最大(規模?)の山城で、県内で唯一クルス瓦などキリシタン大名だった小西行長の関連遺物が出土し注目される城跡だそうです。
ウィキペディアでは
【愛藤寺城は阿蘇氏によって白糸台地の南端に築かれた山城である。小西行長によって近世城に改築され、さらに加藤清正の修築を受けた。目下のところ熊本県におけるクルス瓦(キリシタン瓦)の唯一の出土地点として知られている。
城地は昭和46年(1971年)11月25日に山都町指定史跡となり、クルス瓦は同49年(1974年)1月14日に山都町指定文化財になった。】
と紹介されたいます。
 上の写真は、私が載せた物ですが場所は自信ありません。場所は熊本県中東部。阿蘇山系と九州山地にはさまれた山岳地帯。緑川と千滝川の合流点近く、峡谷に挟まれた狭隘な台地上に築かれたという記述から、たぶんここら辺かな?と思い載せました。白糸局の上の盛り上がった台地のところだと思います、たぶん(汗)。いずれ上の郷土史本は買う予定ですので間違ってたらその時修正します。
 愛藤寺城の起源はかなり古そうですね。貞応元年(1222年)、阿蘇大宮司阿蘇惟次天台宗系寺院の愛藤寺を移転させた跡地に城を築いた事によると伝えられる(ウィキペディアより)そうです。
 文正元年(1466年)、には肥後守護菊池為邦(ためくに、1430年~1488年)に反乱を起こした阿蘇大宮司惟忠(1415年~1485年)がこの城に籠城して抵抗したそうですから阿蘇氏の持ち城の中でもかなり要害だったのでしょう。
 でなければ阿蘇氏の本拠岩尾城(山都町。通潤橋の近く)に籠るはずですからね。
 1588年に、小西行長がこの城を近世城郭に改修し結城弥平次を城代に置いたと記録があります。彼はキリシタンだったと伝えられますのでクルス瓦は彼に所縁のものでしょう。弥平次は愛藤寺城代に任ぜられてすぐキリスト教に入信し城内の邸宅に伝道所を設け布教に努めたそうです。信者は4000人、宣教師もこんな山深く(失礼)に来たそうですから凄いですね。
 関が原後小西家は改易、弥平次は加藤清正に仕えたそうですが、キリスト教を棄教しなかったため追放、その後は有馬晴信に仕えました。有馬晴信死後(1613年)以降の消息は不明です。
 全国の皆様には、まったく興味のないローカルな話題で申し訳ございません。あまりに気になったものですから記事にしてみました(汗)。

« 会津守護 蘆名一族 | トップページ | 肥後愛藤寺(相藤寺)城 その2 »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 肥後愛藤寺(相藤寺)城:

« 会津守護 蘆名一族 | トップページ | 肥後愛藤寺(相藤寺)城 その2 »