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銃 | 8,218 |
機関銃 | 131,633 |
爆発物 | 345,735 トン |
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機関車 | 1,981 |
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魚雷艇 | 197 |
舶用エンジン | 7,784 |
食糧 | 4,478,000 トン |
機械と装備品 | 1,078,965,000 ドル |
非鉄金属 | 802,000 トン |
石油製品 | 2,670,000 トン |
化学物質 | 842,000 トン |
綿 | 106,893,000 トン |
皮革 | 49,860 トン |
タイヤ | 3,786,000 |
軍靴 | 15,417,001 足 |
ロシア絶対王政(ツァーリズム)を確立した皇帝として史上名高いピョートル1世(1671年~1725年)。
大酒飲みだったとか、髭禁止令を出して違反者の貴族を捕まえて自らハサミで髭を切ったとか、西洋視察の途中庶民に身をやつして船大工ピーターとしてロシアが注文した戦艦の建造に参加したとか愉快なエピソードが多い人物です。
ピョートルが皇帝になったのは北方戦争勝利後で、それまではモスクワ大公を称していました。しかし彼の大公位継承はすんなりいったわけではありません。
1682年異母兄フョードル3世の崩御を受けて即位したピョートルでしたが、大公位を巡るゴタゴタから実権を奪われ異母姉ソフィアが摂政に就任、彼は母とともにモスクワ郊外のプレオブラジェンスコエ村の離宮に押し込められてしまいます。
運の悪い者なら、このまま何者かによって(真犯人はおそらくソフィアでしょうけど…)殺害、歴史の闇に葬られてしまったはずです。
が、幼少のピョートルにはそんな大人の世界の陰謀など分からず、大好きな戦争ごっこに興じて野原を駆け回っていました。
そのころ公室には先々代アレクセイ大公時代にあった3000羽の鷹、200名の鷹匠、6万頭の馬、600人の馬丁が、大公の死でみな失業してしまいました。
ソフィアはほうっておけば公国の不安材料になりかねない彼らの再就職先としてピョートルの遊び係という職を作ります。要は体よく追っ払ったわけですが、何も知らないピョートルは大喜びでこれを迎え入れました。
ピョートルにとっては遊びでしたが、遊戯係になった鷹匠や馬丁たちは、これを首になれば本当に路頭に迷うので必死でピョートルに仕えます。
そのうち遊びはエスカレートして、よりリアルさを追求するためにモスクワの武器庫からマスケット銃や大砲を持ち出してくるようになりました。そして遊戯隊の中に遊戯隊司令部や遊戯隊経理部などという物々しい役職さえ設けられるようになります。
極めつけはプレスブルグという攻城戦遊び用の模擬都市です。歴史上ここまで本格的に戦争ごっこを遊んだ者はいないと思います(苦笑)。
が、遊びはいつしか遊びではなくなる時が来ます。ピョートルが成長するにつれ、戦争ごっこは本格的な軍事訓練になりました。摂政ソフィアが、子供の遊びだと舐めていた遊戯隊はしだいにピョートルの親衛隊と化していったのです。
摂政ソフィアの独裁に反対する貴族勢力とピョートルが結び付いた時、遊戯隊は無言の圧力となってソフィアを脅えさせました。もともと彼女が作ったものだけに、後悔しても後悔しきれなかったでしょう。
1689年、ソフィアはついに実権をピョートルに明け渡します。ピョートル18歳の時でした。
ちなみにこの遊戯隊から、のちに多くのロシア軍の将軍、士官を輩出したそうです。人生、何が功を奏するか分かりませんね。しかもピョートルには深謀遠慮などなく、ただ好きな戦争ごっこをしていただけですから(笑)。
ローマ帝国初代皇帝になったオクタヴィアヌス。もっとも本人はあくまで市民の第一人者を名乗っていました。アウグストゥス(尊厳なる者)と尊称された彼ですが、そのために犠牲になったものは多くいました。
彼の実の姉であるオクタヴィア(紀元前69年
~ 紀元前11年)もしかり。ところでオクタヴィアの名ですが異母姉にも同じ名前の女性がいるため、小オクタヴィア(Octavia Minor)
と呼ばれ区別されています。
画像は、米英合作ドラマ「ROME」に登場したオクタヴィア(ケリー・コンドン)ですが、実物は純粋なラテン民族だったため金髪ではなかったと思います。おそらく黒髪か栗色だったと想像します。赤毛でもなかったでしょう。
ちなみに余談ですが、ドラマでオクタヴィアを演じたケリー・コンドンはアイルランド出身で1983年生まれの現在28歳、なかなか綺麗な女優さんです。私もファンになりました(爆)。
大体この時代のローマを描いた映画・ドラマではオクタヴィア役は美人女優が演じることが多いですが、実物もかなり美人だったと伝えられています。貞淑な女性として同時代からも後世になってもローマ女性の美徳を表す人として尊敬されました。
が、肉親に権力者がいると女性の運命は安泰ではありません。紀元前54年にガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル(小マルケッルス)と15歳の時結婚しますが、夫が大伯父カエサルと敵対関係であったためカエサルに離婚を要請され、しかもあろうことかカエサルよりも年上で当時ローマの最高権力者だったポンペイウスと政略結婚させられそうになります。
この時はポンペイウスが断ったため婚姻は成立しませんでしたが、家の都合により翻弄される運命の彼女がいました。この夫との間には1男2女が生まれます。
その後カエサルの暗殺、実の弟オクタヴィアヌスの台頭と周囲はめまぐるしく変転しますが、またしても肉親によって彼女の運勢は動かされます。
オクタヴィアヌスは、姉に政敵アントニウスとの結婚を命じました。敵対関係を終わらせ同盟するためのまさに政略結婚でした。紀元前40年夫が死んでからわずか数カ月後、29歳のことです。
オクタヴィアは、弟と夫との仲を取り持つため献身的にアントニウスに尽くします。彼との間にも大アントニアと小アントニアの2女をもうけました。
しかし彼女の不幸は続きます。第2回3頭政治は崩れ、夫と弟が対決する新しい局面に入りました。アントニウスは妻をローマに残し、任地であるエジプトに赴きます。そこで女王クレオパトラに籠絡され愛人関係になり、クレオパトラとの間に1男1女をもうけました。
オクタヴィアは、紀元前35年夫アントニウスがパルティア遠征に失敗し、彼女に軍団を編成し派遣するよう要請し実際に彼女が送り出した後に、夫に一方的に離縁されます。
そしてアクティウムの海戦が起こります。この海戦で敗北しエジプトに逃れたアントニウスはクレオパトラとともに自害しました。アントニウスの死を聞かされたオクタヴィアの心境はどうだったのでしょうか?
弟オクタヴィアヌスは、ライバルであったアントニウスを倒したことでローマに敵なしの状態になります。そして紀元前27年帝政開始。
オクタヴィアにもようやく安らかな生活が戻りました。彼女はアントニウスとクレオパトラの忘れ形見であるヘリオス、セレネも引き取り育てます。セレネはのちにヌミディア王ユバ2世の妃になったそうです。
紀元前11年、姪の大ユリアが皇帝ティベリウスと結婚するのを見届けて没します。享年58歳。彼女の葬儀は国葬となりました。またコインにも彼女の横顔が使われたそうです。これは古代ローマにおいて女性がコインに刻まれた最初の例となりました。
ローマ一の美女、ローマの美徳を一身に備えた女性と称えられたオクタヴィアでしたが、その生涯は決して安らかではありませんでした。その意味では少々美しくなくとも(失礼!)平凡な一生を送ったほうが幸せかもしれませんね(笑)。
先日「ROME」(ローマ)という歴史ドラマを見ました。ふと疑問に思った点ですが、騎乗のシーンでは鐙がなかったんですが遠景になるとしっかり鐙を使って馬に乗っていたんです。
それで考えたんですが、やはり生まれながらの騎馬民族じゃない人は鐙がないと馬に乗れないんだなと。
鐙が一般化したは4~5世紀くらいだそうです。イランあたりの遊牧民族が使い始めたとされますが、もっとも古い例は紀元前3世紀のパルティア(これもイラン高原)の弓騎兵だと言われています。
ユーラシア草原地帯の遊牧民族より、イランあたりのほうが騎乗技術が下手だったのでしょう(爆)。文明に接しすぎて軟弱になったのかも?
鐙がないと、直接自分の足で馬の腹を締めて乗らなければいけません。これでは農耕民族は満足に馬を扱えません。走らせるのも一苦労だし、ましてや馬上の戦闘など不可能に近いものがあります。幼いころから馬に接し、馬とともに生きてきた遊牧民族じゃないと馬を操ることはできません。
これが古代において、農耕民族にどれほど強大な国力があっても騎馬民族を征服できず、そればかりか簡単に侵略を受けた原因です。にわか作りの騎兵隊はあってもプロの騎兵には通用しなかったということでしょう。
ですから鐙の発明は軍事史上の画期的発明でした。これで農耕民族もなんとか騎馬民族に対抗できるようになったんですから。イラン高原の遊牧民に感謝しなければいけませんね。
それにしても情けないのは鐙を発明したイランの遊牧民族です。スキタイとか匈奴といった名だたる遊牧民族は、鐙がなくとも馬上で弓を使い農耕民族の軍隊を翻弄していたんですが、私が想像するに古くからの文明地帯に接したイランでは、騎馬民族だけの軍隊では足らなくなって都市や農村の農耕民を徴兵しなければいけなくなったため、必要上鐙を発明したのだと思います。
おかげで仲間の遊牧民族が相対的に弱体化したんだから罪は重いです(笑)。その分農耕民族にとっては救世主ですが(爆)。
私は歴史好きですが、中でもお城は大好物でございます(笑)。近世の城は言うに及ばず中世の土塁と柵だけの城も好きで、近所の城跡はたいてい訪れました。
私の城好きは日本だけに止まらず西洋にまで興味が広がります。そこで今回は西洋のお城の発達史を簡単に振り返りたいと思います。
西洋においても城と呼ぶ物は、はじめは土塁と柵の簡単なものでした。しかしギリシャやローマなどの古代文明が発達してくると都市を石の城壁で囲む都市国家が発達します。これこそ城郭都市と呼べるものでした。
中世に入ると、財力のあるハンザ同盟その他の都市国家はいざ知らず領主たちはそのような大規模な城を築けませんでした。勿論古代の技術も失われていったのでしょう。しかし西洋はノルマン人やマジャール人など異民族の侵入に絶えず悩まされました。領主たちは自分たちも身を守るため何らかの防御施設を造る必要性に駆られたのです。
そして誕生したのが「モット・ベイリー式城郭」です。だいたい10世紀までには骨格が固まっていたとされます。館が発展した形です。マウント部の館を中心に一段低いところに住居・倉庫などの施設を設けていました。周囲を板の塀で囲みさらに空堀(堀)で防御しています。
これが発展してくると本格的石造りの城郭になります。このあたり日本と似ていますね。土塁→石垣と発展したのは日本も同様です。
しかし西洋では火砲が発達し、石造りの城では防御が難しくなります。といいますのも弾丸によって城壁が破壊されその破片で城兵が傷つくからです。
ここで西洋では城というものが二分しました。いわゆる戦争を想定しないで居住・統治のためだけの城いわゆる城館と、大砲を使用する近代戦に対応できるよう特化した稜堡式城郭と呼ばれるものです。
皆さんが西洋のお城と言われて想像するのは、たいていこの2タイプです。白雪姫のお城などまさに中世城閣でありながら城館的要素を持っているように見えますね。
西洋のお城の究極系は稜堡式城郭ですが、
①大砲の直撃に耐えられるよう城壁を低く、厚くし、さらに弾丸のエネルギーを吸収できるよう土塁に戻した。
②防御側の死角をなくすため王冠のような形にした。
③自軍の大砲を城壁上から発射するために、空堀の前に斜堤と呼ばれる傾斜を作って大砲の死角をなくした。
というものでした。その意味では西洋式城郭を参考にしたとされる函館の五稜郭はやや不十分でした。まあ実戦経験のない日本でそこまで要求するのは酷ですが…(苦笑)。
これ以降は、大砲の発達に伴い稜堡式城郭でさえ防御が困難になります。城郭というものは次第に淘汰され、近代要塞へと生まれ変わりました。その代表例がマジノ線やセバストポリ要塞ですが、ここまでくるともはや城というイメージではなくなってしまいます(笑)。
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