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2011年9月

2011年9月 5日 (月)

渋川(しぶかわ)氏  室町幕府草創期のマイナーな足利一門Ⅱ

 渋川氏は清和源氏足利一門です。しかも宗家に近いかなりの家格を誇りました。私の独断ランキングでは斯波家、畠山家、吉良家に次ぐ4位。御一家と尊崇され吉良家と並ぶ毛並みの良さでした。
 
 しかし、渋川氏は上記の家と比べると知名度がほとんどありません。最盛期に九州探題、肥前・豊前・備前・備中・安芸・摂津の守護を歴任したにもかかわらず、です。
 
 
 なぜ渋川氏がこれらの領国をもって守護大名化せず消え去るように滅んだか?ですが、その理由は一つ。有能な当主が一人も出現しなかったからなんですね。
 
 渋川氏は足利宗家四代泰氏の次男義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まるそうです。三河時代(宗家三代義氏が三河守護に任じられて以来)のごく初期に三河以外で領地を得ているあたり、その勢力が想像されます。
 
 渋川氏が目立ち始めたのは、なんといっても渋川氏四代義季(よしすえ)の娘幸子が足利二代将軍義詮の正室になってからでした。
 
 義季の孫義行(よしゆき)は、叔母の七光りで1365年わずか18歳で九州探題に任命されます。しかし能力ではなく姻戚関係での抜擢でしたのでまともな働きをする事はできませんでした。若年でもありましたし。
 
 この頃の九州情勢は、南朝方が勢力を拡大し北朝支配を脅かしていました。南朝方に懐良親王と菊池武光が出現した事も彼にとっては不幸でした。
 
 幕府は義行のために備中・備後の守護職を与え九州下向の準備をさせる優遇ぶりでしたが、結局南朝勢力の躍進のため一歩も九州に入る事が出来ず、名ばかりの探題となります。そして1370年、ほとんど何もしないまま探題職を更迭されました。
 
 その後任が有名な今川了俊(貞世)でした。了俊の活躍が際立っていて事もあって義行は史書でも黙殺扱いです(苦笑)。
 
 
 が、今川了俊はやりすぎました。南朝勢力を平定したまではよかったんですが、九州で半独立国を形成するほどの勢いでしたので将軍足利義満の警戒を受け解任されてしまいます。
 
 その後を受けたのが義行の次男、満頼でした。すでに九州は平定し、無難に務めてくれればいいということで、やはり七光り人事でした。満頼は1396年から1419年まで九州探題職を務めます。有能ではないにしても無能でもなかった満頼は守護少弐氏の影響力の強い筑前を避け肥前を探題領国とし、李氏朝鮮との海外貿易を積極的に推し進めるなど渋川氏の九州における基盤を築きました。
 
 満頼の後を継いだのは子の義俊(よしとし)でした。彼の代から渋川氏苦難の時代が始まります。北九州に勢力を張る少弐氏との対立が激化したのです。元々鎌倉時代に筑前・豊前・肥前三国の守護を務め足利尊氏も援けた少弐氏でしたから、幕府が派遣した九州探題が主人顔をしてあれこれ指図する事に我慢できなかったのです。
 
 1423年、少弐満貞は渋川氏の館があった博多を攻めます。名ばかりの探題であった義俊はこれを防ぐ事が出来ず、肥前山浦城に逃亡します。以後筑前を回復する事は出来ず肥前東部の一地方勢力に落ちぶれました。
 
 一方、渋川義俊のふがいなさに失望した幕府は、探題を助けるため周防・長門の守護大名大内盛見に出陣を命じます。
 
 大内氏はこれを奇貨とし大っぴらに九州に進出できるようになりました。以後、北九州の支配権を巡って大内氏と少弐氏の血で血を洗う抗争が始まります。
 
 義俊は、1423年本拠として勝尾城(佐賀県鳥栖市)を築きました。このあたりが渋川氏の本拠地だったのでしょう。1425年再び満貞に敗れた義俊は1428年隠棲し、探題職を従兄弟の満直に譲ります。義俊は1434年筑後酒見城で寂しく世を去ったそうです。享年35歳。
 
 
 ちなみに彼の孫、義廉(よしかど)は名門斯波武衛家(斯波宗家)の養子に入り十一代を継いでいます。
 
 
 その後の渋川氏ですが、名ばかりの九州探題職と肥前東部は保ち続けます。しかし頼みの綱大内盛見が1431年少弐満貞に敗れ戦死。満直は一気に旗色が悪くなります。そして1434年肥前神崎で少弐一族の横岳頼房と合戦して敗死、享年45歳。
 
 次の教直の時代はやや盛り返しました。大内勢が少弐氏を筑前から一時駆逐したからです。応仁の乱では大内氏とともに西軍につき、東軍の少弐教頼と筑前・肥前で合戦します。そしてついに1468年宿敵少弐教頼を筑前高祖城で自刃に追い込みました。
 
 教直の探題職は45年も続きます。1479年肥前綾部館で死去。享年58歳。
 
 
 後を継いだ渋川万寿丸は、享年20歳でした。再び勢力を盛り返した少弐政資によって綾部館を攻められ筑前亀尾城に逃亡するも家臣の裏切りにあいあえない最期を遂げます。
 
 そのあとは万寿丸の弟、尹繁(ただしげ)が継ぎました。しかし少弐氏の攻撃は続き、肥前を追われ筑後に逃亡、一時滅亡寸前になります。この時も渋川氏を救ったのは大内義興でした。大内氏としても九州進出の大義名分である渋川氏を滅ぼすわけにはいかなかったのでしょう。
 
 大内軍は各地で少弐軍を破り、少弐政資・高経父子は肥前の逃亡先で敗死しました。
 
 
 しかし不死鳥のごとく蘇るのが少弐氏です。大内軍が去ると生き残った少弐政資の三男、資元は勢力を盛り返し再び渋川氏を攻めます。1504年、尹繁は居城、白虎山城(佐賀県三養基郡みやき町背振山地南方の標高115mの丘陵に位置する)を追われその後は消息不明です。
 
 一説では、少弐方に寝返ったため大内義興に討たれたともいわれています。1534年大内軍に綾部館を攻められ自害とも?(これが真実だとすると隠居して綾部館にいたことになりますね)
 
 大内氏もこの頃では大義名分を必要としなくなっていたのでしょう。実力で筑前・豊前を切り取りむしろ渋川氏は邪魔になっていたのかもしれません。
 
 渋川氏最後の当主義長(尹繁の子)の時代その動きは顕著になってきました。
 
 敵の敵は味方という事で、ここで初めて少弐氏との共闘が成立します。面白いのは少弐氏も本拠筑前を追われ肥前勢福寺城に逃げてきていた事です。強大な大内軍に対抗するため肥前東部に集まった弱小勢力同士というところでしょうか?(苦笑)
 
 が、結局大内氏に対抗する事はできませんでした。大内軍はより弱小であった渋川氏に攻撃の矛先を向けます。1534年、大内の大軍は渋川氏の本拠肥前朝日山城(佐賀県鳥栖市)を囲みました。
 
 大軍を前になすすべもなく、義長は城を落とされ自害します。これで名門渋川氏嫡流は完全に滅びました。
 
 
 ただ、その間に勢力を拡大した少弐冬尚は大内氏滅亡までしぶとく生き残りました。それを滅ぼしたのは元家臣竜造寺氏。このあたりの経緯は以前記事にしていますね♪
 
 渋川氏滅亡後、勝尾城や朝日山城などは少弐氏の所有になっていますからうまく立ち回ったものです。
 
 ちなみに、勝尾城を受け継いだのは少弐一族の筑紫氏。筑紫広門などで有名ですね。
 

仁木(にっき)氏  室町幕府草創期のマイナーな足利一門

 久しぶりの日本史記事がこんなマイナーな題材で御免なさい。コメントは無きものと諦めております(汗)。
 
 私鳳山の悪い癖は、歴史上ある一時期に彗星のごとく現れて活躍しその後の消息不明という人物や一族にとても興味をひかれるのです。その流れで北条時行や足利直冬みたいな人物は大好きで色々資料を漁っては最期を想像したりするのが無上の楽しみとなりました。
 
 
 この仁木(にっき)一族などその典型でしょう。仁木頼章(よりあき)や仁木義長という人物を知っている方はほとんどいないと思います。
 
 しかし運命の歯車がどこかでちょっと狂えば、仁木一族が幕府内で枢要の地位を占め、細川や一色は冷遇されるという歴史もあり得たのです!
 
 
 仁木氏は足利一門です。しかし細川などと同様家格はたいしたことなく南北朝の動乱までは目立たない存在でした。承久の乱の戦功で足利宗家の義氏(三代)が三河守護に任ぜられると、一族の多くが三河に移り住みましたがそのなかで一族の足利実国が三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)を賜って仁木氏を称したのが始まりだそうです。
 
 仁木氏の名を高めたのは、なんといっても頼章・義長兄弟の南北朝時代における活躍でした。宗家足利尊氏を助け各地を転戦、兄頼章は1336年尊氏が九州落ちした時、丹波の守護になり京都近くで尊氏捲土重来を待つ粘り強い戦をします。そして高師直横死後、後任の執事を務めました。
 
 弟義長も中先代の乱、筑前多々良ヶ浜の合戦などで戦功をあげ、一時は一色範氏とともに九州に残り足利方を主宰したほどでした。
 
 尊氏が天下を取ると、功績により兄弟で丹波・伊勢・伊賀など実に九ヶ国の守護に任じられるほど重用されます。最盛期の仁木氏は細川、山名ら有力守護に匹敵する大勢力でした。
 
 
 が、満つれば欠けるは世の習い。温厚で(というイメージ)将軍家や諸将の信頼が厚かった兄頼章が1359年病死した事が一族の運命変転の始まりでした。
 
 「観応の擾乱(1350~52)」(尊氏と直義が争った幕府内部の権力闘争)でも終始一貫して尊氏方であった仁木氏でしたから、幕府内の権力は自然に弟義長に集まります。
 
 このままいったら管領(執事の後身)に就任し仁木一族は我が世の春を謳歌するはずでした。
 
 しかし、兄と違い弟は傲岸不遜な性格でした。今の室町幕府があるのは自分達仁木一族のおかげという驕った姿勢が、同僚や他の足利一門、外様の守護大名を見下す態度となったのです。このあたり高師直とかぶりますね(苦笑)。
 
 おりしも1358年初代将軍尊氏が死去し、二代将軍義詮が将軍職を継いだばかりでしたから、こういう権臣が幕政を壟断する事に諸将の反発があったのでしょう。義長自身も無礼な態度で諸将に嫌われていました。
 
 美濃守護土岐頼康や頼章に代わって執事になっていた細川清氏らと諍いを起こしたりしていましたから、排斥運動が起こるのは時間の問題でした。後ろ盾の尊氏を失っていたことも影響あったと思います。
 
 政敵細川清氏は、土岐頼康、畠山国清らと謀をめぐらします。まず河内の南朝勢力追討という名目で兵力を集めた彼らはそれを義長打倒の軍とするクーデターを計画しました。
 
 一方、追討されるのが自分だと察知した義長は将軍義詮を自陣営に取り込む事で細川一派を逆賊にしようと画策します。が、肝心の将軍義詮を確保し損なうという大失態を演じました。
 
 大義名分を失い、将軍を確保した細川方によって逆賊とされた義長は万策尽き、本国伊勢に落ちて行きます。
 
 このままでは幕府の大軍を迎え撃って滅亡するだけでしたので、義長は1361年南朝に降ります。伊勢南半国は南朝方の国司北畠氏の勢力圏でしたからその縁もあったでしょう。この時の仁木義長の勢力圏は北伊勢、伊賀のみ。丹波など他の守護国は本国と切り離されていたため当てにできませんでした。
 
 この決断はしかし結局彼の命取りになりました。南朝方に降ったといっても目立った動きをせず、反義長派の急先鋒、細川清氏がまもなく没すると帰参を許されます。が多くの守護国を奪われかろうじて伊勢一国の守護を保つのみでした。
 
 まもなく唯一残った伊勢守護職も剥奪され、1376年義長は鳴かず飛ばずのまま失意のうちに死去しました。その後仁木氏は丹波、伊勢、伊賀の三家に分かれますがどの家が誰の子孫か諸説あってはっきりしません。
 
 一応丹波仁木氏は頼章の後胤、伊勢仁木氏は義長の子孫とされます。伊賀仁木氏は頼章後裔説、義長後裔説があってはっきりしません。他の有力守護大名のように守護領国を形成できなかったのでその勢力は緩やかに衰退するのみでした。
 
 最後までかろうじて残ったのは伊賀仁木氏でした。応仁の乱の時に仁木氏の名前がでてきて一応伊賀守護は獲得したようですが、その支配は小国である伊賀一国さえ掌握できず北部のみがかろうじて勢力圏でした。
 
 その後戦国時代にはいると名ばかりの守護となり、いつ滅んだのかもはっきりしません。隣国近江の六角氏綱の子の一人が仁木義政を名乗ったそうですから、伊賀では一応名が通っていたのでしょう。義政は足利義輝や義昭の御相伴衆として活躍したそうです。
 
 
 ちなみに徳川四天王の一人榊原康政を出した榊原氏は仁木氏の庶流とされますから、これが真実だとすると傍系ながらその血は残った事になります。徳川幕府の譜代大名として生き残りましたからね。まあ、あのあたりの血統は徳川宗家をはじめとして当てにできませんけどね(苦笑)。
 

清和源氏足利氏一門の家格

 室町時代、宗家は将軍となり一門で三管領を独占、四職(侍所所司)でも一色氏が入っている足利一族。足利尊氏が幕府を開いたので当然といえば当然ですが、名門といわれる吉良氏などは冷遇されていてそもそも一族の間での序列はどうなっているのか調べてみたくなりました(笑)。
 
 かなり独断と偏見が入ってますが、
「興味のある奴だけついてこぉい!」(by西郷輝彦)
 
 
 
 
◇第一位 「斯波氏」(尾張足利氏)…宗家と同格、というより鎌倉時代は別家扱い。管領に就任して家格を落と
                        したと不満(爆)。斯波高経の恨み節が聞こえてきそう(苦笑)。
 
 
◇第二位 「畠山氏」…武家の名門平姓畠山氏の名跡を継いだため当然か?これも管領になって家格を落とし
           たケース。まあこちらの場合は泣かず飛ばずだったから復活してラッキーだったかも?(笑)
 
 
◇第三位 「吉良氏」(三河足利氏)…本人が言ってるだけの自称。室町時代には奥州で大失敗して没落。(涙)
                   御一家扱いだからお情けの順位。その分家の今川氏は、家格的には一枚劣る。
 
 
◇第四位 「渋川氏」…一応「御一家」扱いだから細川よりは上か?名ばかりの九州探題として衰退。哀れ…
 
 
◇第五位 「細川氏」…三管領筆頭で室町幕府第一の実力者も家格的にはこれくらい。それもかなり贔屓目。
               斯波氏が同列に扱われてキレたくらい(苦笑)。細川は成り上がりのケースか?
 
 
◇第六位「一色氏」…戦国38(嘘)。四職の一角だからね。九州で大失敗したものの奇跡の復活!
              将軍家との個人的付き合いは大切にしましょう!(爆)
 
 
◇第七位~第十位(一門・親類衆)
 
 「今川氏」…吉良氏の分家。でも幕府的にはこっちの方が優遇されてます。駿河・遠江の守護はキープ!
 
 「仁木(にっき)氏」…頼章、義長の時代はよかった。一時は9カ国の守護を兼任してたのにね。人に嫌われ
              ると没落してしまう典型。最後は伊賀国で名ばかりの守護に!(号泣)
 
 「石塔氏」…奥州管領時代が絶頂期か?斯波氏の分家大崎氏が美味しいところは全部持って行きました(涙)
 
 「桃井(もものい)氏」…越中守護の直常が直義派に付いたばっかりに…(号泣)。まあ高兄弟を個人的に嫌っ
               てたからこうなるのも仕方なしかも?以後消息不明…。
 
 
 
 
 ※後はその他有象無象がいます。斯波氏の分家だけで大崎氏や最上氏がいるから全部はとても紹介しきれません。家格的にも↑よりはかなり落ちるし…。
 
 ちなみに、管領云々っていうのはたとえ幕府高官であっても将軍家の家来なので。分かりやすくいうと江戸時代、幕府が徳川御三家を老中に任命したら嫌でしょ?尾張宗春とかブチキレると思いますよ(笑)。室町時代でも管領になって喜んだのは家格が低い細川氏くらいだと思います。
 
 
 高氏や上杉氏は一門じゃないので載せてません。

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