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2011年10月

2011年10月 1日 (土)

イランの軍事力

 最近核開発を強力に推し進めているイラン。そのターゲットになることが濃厚なイスラエルがいつ空爆してイランの核関連施設を破壊するか時間の問題とも言われていますがあの国はやる時はやります。
 
 国際的非難など意に介さず、国家存亡の危機だと判断したら断行する国です。イラク然り、非公式にはシリアの核関連施設も空からの奇襲で破壊したといわれています。
 
 イスラエル軍の精強さは世界でも知られていますが、一方攻撃される側のイラン軍はどのくらい強いのでしょうか?
 
 軍事に詳しい方はご存知ですが、革命が起こる前のパーレビ朝のころはイランは親米国家で西側の強力な兵器を保有する中東有数の軍事大国でした。
 
 例を上げると、戦闘機はアメリカのF‐14トムキャット、戦車はイギリスの当時の主力戦車チーフテン。もちろんモンキーモデルでしょうがある専門家は兵器だけなら当時の自衛隊を凌ぐ精鋭だったそうです。
 さらに海軍は、アメリカのミサイル駆逐艦キッド級を導入寸前だったそうですから実現していたら恐るべき軍事大国になっていたかもしれません。
 
 しかし、イスラム革命によって反米路線に転じ部品供給を断たれたので現在ではほとんど動けなくなっているそうです。一説ではF‐14トムキャットの主要装備であるフェニックスミサイル(あるいはトムキャットそのもの)の技術と引き換えにソ連から部品供与を受けたともいわれていますが定かではありません。
 
 イラン国内の軍事産業は、大砲や砲弾くらいは作れるそうですが高いテクノロジーが必要な近代兵器は作れないためもっぱら輸入に頼っています。
 
 革命後アメリカに代わってソ連からT-62やT‐72(これはライセンス生産もしてるらしい)などや中国から59式、69式などの戦車を購入してるようですから陸軍はまあまあの戦力は持ってるかもしれません。独自開発のズルフィクァという戦車もあるそうですが詳細は不明です。
 
 ただ空軍に関しては、F‐14はおそらく動かず、旧式のF‐4、F‐5も動くかどうかかなり怪しいです。革命後買ったソ連製のMiG‐29、Su‐24(このなかには湾岸戦争でイラクから亡命?してきた機体を接収したのもあり)、あと中国製のボロ戦闘機(安かろう悪かろうの典型)くらいでしょう。
 
 海軍は論外。小型の哨戒艇くらいじゃないでしょうか?ごめんなさい詳細は不明です。キッド級は惜しかったね。5~6隻位導入する予定だったそうだから実現してたら中東最強の海軍になるはずだったのに(苦笑)。
 
 それよりも何よりも一番の問題は兵士の質だそうです。もともと王党派の多かった正規軍を革命政府は信用せず、ろくに訓練もさせてもらえなかったといわれています。そのために士気は低下しイランイラク戦争では革命防衛隊が表に出ざるを得なかったほど弱体化していたそうですから驚きです。
 
 たしかF‐14も1機撃墜されたんじゃなかったかな?その惨状は目を覆うばかりです。撃墜したのはイラク空軍のMiG‐21だったそうですよ。普通ならまず負けないくらい性能の差があるのにね(苦笑)。飛行訓練もろくにしていなかったのでしょう。
 
 イランばかりじゃなく中東諸国の軍隊が弱いのは、クーデターを恐れて大規模な演習をさせないそうですから本末転倒です。このために連隊以上の規模の戦闘では連携できないそうです。かなり眉唾ですが、中東戦争におけるアラブ諸国の醜態を考えると有りうるのかな?
 
 
 
 
 
 そういうこともあって、不倶戴天の敵であるイスラエルに対抗するのは核開発しかないとのこと。アメリカがどう出るか分かりませんが、今までの例から考えるとイスラエルが空爆しても黙認するかもしれませんね。それでイランがキレて戦争を始めるかもしれません。
 
 中東情勢も見逃せませんね。注目する必要があります。

ドライゼ銃とクルップ砲 

 最近、イギリスの軍事史家マイケル・ハワードの「ヨーロッパ史における戦争」(中公文庫)を読みました。中世の騎士の戦争から傭兵、常備軍と発展する戦争の歴史を軍事技術の面から読み解いた好著です。
 
 
 
 その中で私が最も興味を引いたのは後にドイツ帝国に発展するプロイセンについてでした。
 
 プロイセンは辺境の一小国から発展し、軍事力増強に力を注ぎ1866年普墺戦争、1870~71年普仏戦争と列強を次々と倒しついにはドイツを統一して帝国を築くまでに至ります。
 
 その勝利の要因は、戦略・政略的にはビスマルクの敵を孤立化させる巧みな外交、大モルトケによる精緻な用兵にあったのは明らかです。戦術に限定しても当時発達しつつあった鉄道網を最大限利用した補給態勢、分進攻撃による決勝点における兵力集中などがあげられるでしょう。
 
 一方、装備した武器の優越も勝因の一つにあげられます。
 
 実は、プロイセンは世界初の実用ボルトアクションライフル「ドライゼ銃」と、近代的な鋼鉄製後装砲「クルップ砲」によって勝ったとも言えるのです。
 
 ドライゼ銃は、それまでの前装式マスケット銃に代わって主流になっていた後装式歩兵銃(スナイドル銃など)のなかでも一歩進んだ近代的歩兵銃でした。
 
 モデルガンなどでライフルを扱った方なら分かると思いますが、ボルトアクションライフルは通常の後装銃よりも発射速度が速いのです。だいたい3倍から5倍くらいの発射速度があったといわれています。さらに伏射(地面に伏せて射撃すること)ができたのも大きな特徴でした。
 
 ドライゼ銃は普墺戦争でその真価を発揮します。昔ながらの立射、しゃがみ射ちのオーストリア軍にたいし、伏射するプロイセン軍はほとんど被害を受けずに敵を次々と倒しました。これでは勝負になりません。
 
 列強はプロイセンの勝利を見て、ボルトアクションライフルの有用性に気付き以後急速に普及します。中でもフランスの採用したシャスポー銃はドライゼ銃をさらに洗練させた名銃と言われました。
 
 事実普仏戦争では、シャスポー銃装備のフランス軍はドライゼ銃装備のプロイセン軍を歩兵戦闘では押し気味でした。ところがプロイセン軍は、今度は小銃の射程外からクルップ砲で攻撃し、大混乱に陥れてから突撃するという戦法でフランス軍を圧倒します。
 
 鋼鉄製後装砲であるクルップ砲は、イギリスのアームストロング砲に勝るとも劣らない近代的野砲で発射速度、射程、運用のしやすさでフランス軍の野砲より性能が高かったといわれています。
 
 これらの武器の優越もまたプロイセンを勝利に導いた要因だったのでしょう。
 
 
 
 こうしてみると、戦争は戦略・戦術・兵器の優越どれが欠けても上手くいかないものだと改めて気付かされます。これらのバランスあるいは総合力で敵より優位に立った者だけが勝利を掴めるのでしょう。
 
 現代の我が国にもそれは当てはまると思います。皆さんはどう思われますか?

アケメネス朝ペルシャの軍隊、「不死隊」考

 アッシリアに次いで古代オリエント世界を統一したアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年 - 紀元前330年)。
 
 アケメネス朝を語る時必ず出てくるのが精鋭部隊「不死隊」です。
 
不死隊(ふしたい)とはアケメネス朝ペルシアの定員一万人の精鋭部隊である。ペルシア戦争期にはヒュダルネスが率いた。
一人の兵士が倒されてもまた別の新しい兵士がすぐに補充され戦闘に加わり戦ったことからヘロドトスがこれを指してアタナトイ(不死の意)、もしくは一万騎兵と呼んだものが起源で、英語でイモータルズ(immortals、隊員はイモータル)、不滅隊などとも呼称される。ただしアタナトイの語についてはペルシア語で随伴者を意味する「アヌーシャ」が転訛した可能性も指摘される。】(ウィキペディアより)
 
 
 ただこの不死隊、実態がよく分からないのです。騎兵であったのか歩兵であったのかさえはっきりしません。帝国内の多民族によって構成されたためある者は騎兵、ある者は歩兵というように出身民族ごとにまとめられ必ずしも統一した編成ではなかったとの説もあります。
 
 
 アケメネス朝の前のアッシリアは、わりと軍隊編成がはっきりしています。主力の重装歩兵をはじめ、騎兵、戦車、軽装歩兵、攻城兵、工兵などが整然と組織され10万規模の軍隊であったとされます。
 
 アッシリアは尚武の民族でしたから、常備軍として強力な軍隊が存在しその強大な力によって他民族を征服しオリエント世界を統一できました。
 
 一方、アケメネス朝ペルシャはイメージ的に遊牧民族の流れをくんでいそうで、整然とした軍隊を組織したような感じはしません。単に私の知識不足かもしれませんが王朝初期にはまだ蛮性を保っていた民族の騎馬戦力があったから征服できたと考えます。
 
 ですから文明世界を征服し、支配民族として君臨するうちに贅沢に慣れ民族固有の軍事力が弱体化し役に立たなくなったのでしょう。その代わりに集められたのが不死隊ではなかったかと考えます。
 
 丁度、東洋で清帝国が辿った道と同じケースだったのかもしれません、帝国建国に大いに貢献した女真民族の騎兵も末期には弱体化し漢人の民兵(軍閥の私兵)に頼らざるを得なくなっていたではありませんか。
 
 
 そして不死隊でさえもいつの間にか消滅してしまいます。少なくともアレクサンドロスとの戦争時に存在したという資料は見つかりません。あったのかもしれませんが戦局にはまったく寄与していないのです。
 
 むしろ地方の総督に率いられた各民族の部隊を集めて戦争していたように思います。アケメネス朝はあまりに巨大になりすぎて、コントロールできなくなっていたのでしょう。統一した常備軍ではなく、戦争になったらかき集めてくる徴募兵が主力になっていたと思います。
 
 ですからペルシャではギリシャ人傭兵が軍の中核を成していたし、プロの軍隊であるマケドニア軍に負けたのでしょう。当時のギリシャ世界は国民皆兵が当たり前でしたから。半常備軍化していたと思います。
 
 
 あまりに文明世界に浸っていると軍隊は弱くなりますね。アッシリアが最後まで軍事国家でありえたのは、文明世界に首都を移さずあくまで植民地として支配したからでしょう。一方、アケメネス朝は帝国の中心をいち早くメソポタミアおよびその周辺地方に移したため、文化や経済の面では発展しても逆に軍隊が弱体化したのだと思います。
 
 
 両者の違いは、アッシリアが農耕民族であり(周辺の遊牧民族の血が入っていたとしても)自前の都市(アッシュールやニネべ)を持っていたのに対し、ペルシャが遊牧民族としての血を多分に持っていたことの差でしょう。遊牧民族は征服者としてすんなり都市に入り込む傾向がありますから。モンゴルを見ていると分かりますね。
 
 そして最後は文明世界に取り込まれ、消滅するか反乱によって叩き出されるというところも共通しています。尤も遊牧民族は土地に執着しませんから草原に逃げてまた勢力を盛り返すことも可能でした。
 
 
 こうして見るとどちらが良かったのか…?世界史は面白いですね。

子供の遊びでできた国

 これは司馬遷の記した「史記 晋世家」の一節です。
 
 商(殷)を滅ぼして天下を統一した周の武王。一代の英傑はすでになく幼い彼の息子成王の御世になっていました。当然幼い王に国を統治できるはずもなく、後世聖人と称えられた武王の弟周公旦が摂政として国政を取り仕切っていました。
 
 
 王といってもまだまだ幼い子供です。ある時成王は王宮の庭で弟、虞(ぐ)と遊んでいました。桐の葉を削って珪(けい、諸侯を封ずる印)を作った成王は、それを弟に与えて言いました。
 
「虞よ、汝をこれで侯に封じよう」
 
それを見ていた大史の尹佚(いんいつ)は、成王に吉日を選んで虞を諸侯に封ずる式を挙行するように請いました。
 
 蒼くなった成王は
「朕はそのようなつもりで言ったのではない。あれは虞と遊んでいただけじゃ」と否定します。
 
 しかし尹佚は厳しい顔で言いました。
「天子の声は天の声に等しいものです。一度発せられたら必ず実行しなければなりません。だからこそ天子であり国を統べることができるのです」
 
 どこかの馬鹿総理に聞かせたい言葉ですが、これ以後すっかり懲りた成王は不用意な発言をしなくなったそうです。これこそ教育の賜物でしょう。周公旦をはじめ建国の名臣たちに補佐された成王はまずまずの名君となり国を統治しました。
 
 虞は、王弟なのでいずれはどこかに封じられて諸侯になれたとは思いますが、思わぬことで幼少の身で唐(山西省、黄河湾曲部の東北)の地に封じられます。以後唐叔虞と呼ばれるようになりました。唐は子燮のときに晋水にちなんで国号を晋と改名します。
 
 これが春秋時代の強国晋の始まりです。
 
 
 晋は中原の北のはずれにあり、白狄や赤狄などの異民族に接していたためか尚武の気風を持ちます。このため中原の高い文化の中に安住した中原諸侯を武力で圧するようになり春秋時代中期には周公旦の子孫である魯(ろ)や、太公望姜子牙の封じられた斉さえも従える大国になりました。
 
 こうして見ると歴史は面白いですね。中原諸侯は「子供の遊びでできた国」に支配されるようになった事に対してどのような気分を抱いていたのでしょうか?たいへん興味がわきます(笑)。

戊辰戦争 諸藩軍備

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 上表は廃藩置県(明治3年)時に、全国諸藩が提出した報告のうち有力諸藩を抜き出したものです。
 
 このうち長岡藩の後装銃保有数が少ないように思われますが、おそらく北越戦争で消耗し残ったのがこれだけだったのでしょう。ある資料では河井継之助が購入した銃を後装式スプリングフィールド(=スナイドル銃あるはそれに準ずるもの)としていますし、それとは別にシャープス騎兵銃100挺を購入したという資料もあります。
 
 
 表を見ると幕府の軍備が突出している事が分かります。しかも幕府洋式軍隊が装備する後装銃にはシャスポー銃という近代的ボルトアクションライフル2000挺も含まれるのです。
 
 ただそれ以外の佐幕派雄藩(長岡藩を除く)はまだまだ近代化が遅れていたと言わざるを得ません。桑名藩などは後装銃ゼロ。これで立見 尚文(たつみ なおふみ 当時は鑑三郎)はしばしば薩長軍を破ったといいますから、「どんだけ名将なんだ!」と驚かされます。
 
 
 一方、新政府軍の主力である薩長土肥の軍備は幕府には及ばないものの他藩を圧倒していた事が分かりますね。土佐はやや劣りますが残り三藩は後装銃の装備も他藩に突出しています。
 
 近代的装備と洋式訓練で鍛えられた軍隊が明治維新の原動力なのでしょう。幕府は軍備というより指揮官の質の問題が大きかったのかもしれません。兵士の質は高くともそれを指揮する者が門閥で選ばれたため能力を100%発揮できませんでした。
 
 鳥羽伏見の戦いで、幕府軍先鋒大将が薩長軍の砲撃音に驚いて勝手に退却し部隊が取り残されたという笑えない話も残っていますし。
 
 
 
 会津藩がいくら精強でも、刀・槍・火縄銃ではミニエー銃やスナイドル銃、アームストロング砲には対抗できなかったでしょう。東国諸藩がありがたがって購入した洋式銃のゲベール銃は火縄銃に毛が生えたものにすぎません。西洋でも旧式化して在庫一掃するために日本に持ち込んだようです。
 
 同じ前装銃でも銃身にライフリングを施したミニエー銃は最大射程1000ヤード(約914m)、一方ゲベール銃は300m、これでは勝負になりません。命中精度もミニエー銃のほうがはるかに高かったそうです。
 
 
 軍備を整えるにも情報が一番大切でしたね。でないと質の悪い西洋武器商人の口車に乗せられて粗悪品をつかまされますから。西洋文明に接する機会の高かった西国雄藩、太平の眠りからなかなか覚められず気がついた時には手遅れだった東国諸藩。情報の差が戊辰戦争の勝敗を分けた原因の一つかもしれません。
 

河井継之助と北越戦争

 司馬遼太郎の歴史小説「峠」の主人公としても有名な越後長岡藩(牧野氏、7万4千石)の執政、河井継之助。
 
 彼と長岡藩が薩長を中心とする新政府軍に激しく抵抗した北越戦争は、戊辰戦争の一局面としてしか語られません。しかし彼の生涯を調べて行くととても一筋縄ではいかない事が分かります。
 
 河井は奥羽越列藩同盟に属しましたが、かといって頑迷固陋な佐幕派だったわけではありません。福沢諭吉や山田方谷とも交流があり、むしろ立憲君主制と議会制度を求める公儀思想に近かったといわれています。
 
 が、彼を抜擢した主君牧野忠恭の知遇に応えるためにもまず長岡藩を第一に考えないといけませんでした。長岡藩牧野氏は譜代で代々徳川家の君恩を受けていました。河井は自分の本意とは別に、まず主君の希望通り徳川家に殉ずる道を選ばなくてはならなかったのです。
 
 公儀思想と佐幕思想の折衷点として河井は武装中立を考えます。武装中立論を唱え薩長と徳川家の間を取り持つ、これが彼の理想でした。しかしこれは茨の道でした。理想としては素晴らしくても現実はとても厳しかったのです。
 
 そのためには富国挙兵が最優先課題です。執政(主席家老)に抜擢された河井がまず行った事は、牧野家累代の財宝を叩き売る事でした。さらに交易にも手を出し、安い米を江戸で仕入れ米価の高い函館で売る、あるいは銅銭と小判の交換レートが江戸と越後で違う事に目を付け江戸で銅銭を大量に交換し、新潟港に持って行って小判と両替する事で差額を儲けるなどして莫大な軍資金を得ます。
 
 交易の過程でスネルなどの欧州の交易商とつながりを持ち、彼らを通じて西洋の近代的装備を買い集めます。スナイドル銃などの元込め銃、近代的な元込め式大砲、さらには日本に3門しか来ていなかったガトリング砲のうち2門(残り一門は薩摩藩が買う)を購入するなどしました。
 
 河井は近代的装備をもとに藩兵に洋式訓練を施し、長岡藩は小藩ながら精強な軍隊を作り上げました。
 
 
 この一点だけを見ても彼が一介の佐幕政治家で無かった事がわかるでしょう。
 
 
 時代は、大政奉還から鳥羽伏見の戦いが勃発、戊辰戦争に突入していました。
 
 1868年5月、平和な越後にも薩摩藩黒田了介(清隆)、長州藩山県狂介(有朋)を参軍とする新政府軍が迫っていました。新政府軍は越後の玄関口、高田藩榊原家を拠点に越後攻略の手を伸ばしてきます。
 
 河井は、小千谷(現・新潟県小千谷市)まで迫った新政府軍に対し、自ら赴いて談判します。しかし黒田も山県も不在で応対したのは若造の土佐藩岩村精一郎でした。
 
 これが不幸の始まりでした。岩村は河井を知らず、河井を今まで見てきた頑迷固陋な無能家老の一人だと決めつけまともに応対しませんでした。もしこれが山県か黒田だったら北越戦争は起こらなかったかもしれません。
 
 岩村は、河井の嘆願を拒否し門前払いします。勤皇か佐幕というなかで河井の武装中立論が机上の空論だったのは事実でしょう。が、まともな対応さえしていればここでの激戦は避けられたかもしれないのです。
 
 
 ここまで来ては仕方ありません。河井は奥羽越列藩同盟加盟を決断します。それまで中立を主張し、会津藩兵も領内に入れてなかった長岡藩ですが、以後は彼らを受け入れます。そして河井が鍛え上げた長岡藩兵1500は、油断していた新政府軍に対し戦端を開きました。
 
 まず長岡軍は新政府軍が占領していた榎峠(長岡市~小千谷市)を攻撃して奪回します。長岡軍には会津藩兵、桑名藩兵ら数千が援軍にきていましたが当てになるのは長岡藩の洋式軍隊のみでした。
 
 新政府軍は奪われた榎峠を再奪回するため攻撃を開始します。しかし長岡藩の洋式軍隊と立見鑑三郎率いる桑名藩兵のために撃退され、将の一人時山直八が戦死するほどの被害を受けました。
 
 新政府軍は、増水した信濃川の挟んで奥羽越連合軍と一進一退の攻防を繰り返します。山県は新政府軍を統括する大村益次郎に火の出るような援軍要請を出しますが大村はこれを黙殺しました。
 
 大村は、北越戦線を重視せず敵の首魁である会津藩さえ倒せばそれ以外の敵は自然に立ち枯れると考えていました。大局的にはそれで間違いなかったのですが、山県は北越で一時的にせよ負ける事で嫌々新政府軍につき従ってきた他藩の離反を恐れていました。また新政府の脆弱な基盤が諸外国に露呈し足元を見られる事も危惧していたのです。
 
 このあたり、東京で全軍を指揮している者と前線で戦い空気を感じている者との違いで興味深いものがあります。
 
 山県は、膠着状態を打開するため信濃川を強行渡河し長駆長岡城を衝く事を考えます。この作戦は図に当たり長岡城は新政府軍の手に落ちました。
 
 精強な洋式軍隊とはいえ、わずか1500人。すべての面を防御する事は不可能でした。一方奥羽戦線が安定してきたことから新政府軍には続々と援軍が到着し始めていました。最終的には三万とも六万ともいわれる大軍が越後戦線に集結したといわれます。
 
 河井は、しかし逆襲に転じます。夜陰に乗じて長岡城の弱点である八丁沖方面から奇襲し慌てた新政府軍は碌に戦いもせず敗走しました。
 
 このとき装備のほとんどを遺棄し、長岡軍は莫大な軍需物資を手に入れたそうです。しかし体勢を立て直した新政府軍は総攻撃を開始、長岡軍も4日間は持ちこたえましたが多勢に無勢、ついに撤退します。
 
 そして河井にとっても奥羽越列藩同盟にとっても不幸な出来事が襲いかかりました。激戦の撤退戦で自ら殿を買って出た河井の左膝を敵弾が貫通します。
 
 これで河井は指揮を取れなくなります。さらに不幸は重なり、傍観していた新発田藩が新政府軍側に寝返り長岡軍は東西から挟撃されるようになりました。万事休す、長岡軍は越後国境を越え会津藩領に落ち伸びます。
 
 傷口から破傷風にかかった河井は、長岡領におき捨ててくれと頼みますが、これは聞き入れられず会津にてその波乱の生涯を終えました。1868年8月。享年41歳。
 
 
 政治家としても軍人としても幕末に稀有な存在だった河井継之助。長岡藩などの小藩ではなく薩摩や長州など西国雄藩に生まれていれば明治新政府で大きな働きをした事は確実でしょう。また佐幕派でも会津や仙台藩でならもっと大きな仕事ができたに違いありません。
 
 
 大きな才能を抱きながら滅びゆく徳川家に殉じた河井継之助、まさに越後の龍ともいうべき英傑でした。

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