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2011年11月

2011年11月 3日 (木)

「鬼玄蕃」と秋田・庄内戦争   (後編)

 庄内軍の作戦は一番、二番大隊が山道口、三番、四番大隊が海道口を進み最終的には秋田藩の首都久保田城を包囲するというものでした。
 
 一方官軍方に転じたものの、碌な準備もしていなかった秋田藩側は慌てます。九条総督や沢副総督の矢のような出兵催促も無い袖は振れなかったのです。
 
 奥羽鎮撫総督府は、新政府に危機を伝え援軍派遣を要請しました。しかし1868年7月といえば北越戦線ではやっと長岡藩に敗色が見え始めた頃。南陸奥方面では二本松城の戦いが7月末頃。新政府としても主要な戦線ではない北出羽戦線に兵力をおくる余裕はありませんでした。
 
 しかし新政府も、奥羽鎮撫総督府と数少ない奥州の勤王諸藩を見殺しにはできないので厳しい台所事情からやり繰りして薩長や西国諸藩の援軍を海路送り込んできました。
 
 こういう事情から援軍は逐次投入という兵家の最も忌むやり方になりました。しかもそれを率いる将も北越戦線と会津戦線に比べると二線級でどうしても支作戦というイメージしか湧きません。
 
 が、当事者である秋田藩の領民にとっては死活問題ともいうべき危機だったのです。秋田藩や援軍である新政府軍を指揮したのは奥羽鎮撫総督府の参謀、薩摩藩大山格之助、長州藩桂太郎らでした。大山はともかく桂は当時若造といってもよい存在でした。新政府軍がこの戦線をいかに重視していなかったか分かります。
 
 山道口を進む酒井玄蕃の二番大隊を先陣とする庄内軍は破竹の勢いで新庄、横手、大曲と北上しました。一方、海道口の庄内軍も連携を欠く新政府軍を追いながら本庄、亀田と勝ち進みます。
 
 大山らは、佐幕派から勤王派に寝返った秋田藩を信用していませんでした。そのために連携を欠き庄内軍に衝かれ敗退を繰り返します。
 
 
 間の悪い事に、8月9日には楢山佐渡率いる盛岡軍が東部国境を越え鹿角、大館方面に攻め込みました。
 
 
 新政府軍は、薩摩、長州軍の他に当時最新式の7連発スペンサー騎銃やアームストロング砲を装備した佐賀藩兵、大村藩、島原藩、福岡藩らの援軍で八千とも一万ともいわれる大軍に膨れ上がっていました。
 
 庄内軍にも米沢藩や仙台藩の援兵が加わりましたが、旧式装備の上に当事者意識がないのか戦意が低く全く当てになりませんでした。有能な指揮官を欠くとはいってもなんといっても新政府軍は大軍です。わずか2千あまりの庄内軍はしだいに苦戦し始めていました。
 
 
 それでも酒井玄蕃は、側面や背後から別動隊を奇襲させるなど奇策の限りを尽くして新政府軍を翻弄します。この頃は兵器の質は互角になっていましたから庄内軍が攻勢を仕掛けていたという事実はまさに玄蕃の軍才が優れていたからでしょう。
 
 
 新政府軍も鬼玄蕃と呼んで彼と彼の軍隊を恐れました。庄内軍は、東から迫る盛岡軍と連絡するため角館城を攻撃します。しかし、守る新政府軍も必死でした。東から迫る盛岡軍を撃退し新式銃の銃身を真っ赤にして防御しました。多勢に無勢、庄内軍は角館城を攻めあぐねついに撤退します。どうも盛岡軍は庄内藩を助けるというより、戦国以来の天敵である津軽藩を攻める方が主目的のように見受けられました。作戦方向も南ではなく津軽藩を包囲できる能代方面を志向していました。
 
 庄内軍最初のつまずきでした。庄内軍は作戦を変更し雄物川を渡河、刈和野、椿台を経由して秋田藩の本拠地久保田城攻略を目指します。
 
 
 秋田藩は、領土の大半を庄内軍に占領され風前の灯でした。藩主佐竹公は悲壮な覚悟で前線部隊を督戦します。九条総督、沢副総督も絶体絶命の危機に死さえ覚悟するようになります。
 
 が、庄内軍の攻勢終末点はそろそろ近づいていました。逆に新政府軍は本拠久保田近辺の戦いであったため皮肉な事に潤沢な補給を受けられるようになります。一方補給線の伸びきった庄内軍は武器弾薬が欠乏するようになりました。
 
 
 そして頼みの綱であった酒井玄蕃も、激戦の疲れで病に倒れます。刈和野、椿台の戦いはこの戦役中でも有数の激戦になりました。あとのない新政府軍はここで初めて頑強な抵抗を示します。
 
 
 自軍の劣勢を案じた玄蕃は、病身の身を輿に乗って指揮したそうですがついに決定的勝利は得られませんでした。
 
 
 そんな中、角館戦役で敗退した盛岡藩兵は本国に帰り8月28日には列藩同盟の盟主の一つである米沢藩まで新政府に降伏していたとの報が入ります。
 
 米沢藩は、新政府軍の機嫌を取るため他の諸藩にも降伏勧告の使者を派遣しました。9月13日列藩同盟の一方の盟主仙台藩さえも降伏恭順に傾きます。
 
 
 庄内藩が一人頑張っても戦況は絶望的状況になりました。9月14日、庄内軍は軍議を開き善後策を協議します。
 
 そして撤退し、本国を固めるという方針を選びました。酒井玄蕃は撤退戦も見事に指揮しました。嵩にかかって攻めてくる新政府軍の追撃を振り切り、時には痛撃を与えながらほぼ無傷で庄内領内に撤退を完了させます。
 
 
 まさに名将中の名将でした。わずか26歳の青年とは思えない戦績には本当に驚かされます。
 
 
 庄内藩は新政府軍に降伏する道を選択します。9月27日、西郷隆盛、黒田了助率いる新政府軍が庄内藩鶴岡城に入城。藩は明治新政府に降伏しました。9月25日盛岡藩降伏。
 
 早くから勤王派に転じた秋田藩は、藩士の3分の2が兵火にかかり人家の4割が消失するという甚大な被害を出します。しかも援軍に来た新政府軍の軍費も負担したため60万両以上という巨費を費やしました。盛岡藩の天敵津軽藩は秋田藩が防波堤になったためにほとんど被害を受けませんでした。しかも箱館戦争で活躍したために一万石の加増さえ受けています。戦国時代以来要領の悪い盛岡藩南部家と、逆に時代の節目節目に抜群の要領のよさを示す弘前藩津軽家。まさに歴史の皮肉を見せつけられる思いです(苦笑)。盛岡藩は新政府軍に負けたことより津軽が勝ち組に付いた事の方を恨んだでしょう。
 
 
 西郷、黒田らは意外にも庄内藩を寛大に扱います。藩主酒井忠篤(ただすみ)謹慎、弟忠宝に相続が認められ12万石に減知という軽い処分ですみました。事実上藩が消滅した会津藩と比べると信じられないほどの処分です。
 
 
 これは庄内藩が直接京都で勤王の志士を弾圧したわけではない事もあったでしょうが、西郷の人格も影響していたと思います。そのために庄内では藩をあげて西郷に感謝し維新後西郷が鹿児島に帰って私学校を設立した時には留学生を送ったほどでした。そして西南戦争が起こると西郷軍に参加しようとして郷里を飛び出した旧庄内藩士も多かったと聞きます。ただあまりにも遠隔地で実際に参加する前に戦争は終わっていました。
 
 
 
 
 最後に、酒井玄蕃のその後を記します。
 
◇庄内藩降伏後、引き続き仕え廃藩置県後は大泉県権大参事となる。
◇明治4年、上京し兵部省出仕。
◇明治7年、政府の命で清国偵察。
◇明治9年、肺病を患い東京にて死去、享年34歳。
 西南戦争(明治10年、1877年)まで彼が健在だったら、どのような行動を起こしていたでしょうか?非常に興味のある歴史のIFではあります。
                        (完)
 

「鬼玄蕃」と秋田・庄内戦争   (前編)

 京において勤皇の志士を弾圧した会津藩、江戸において浪士を使い騒乱を起こした薩摩藩邸を幕府の命を受けて焼き討ちした庄内藩は戊辰戦争がはじまると朝敵として追討を受ける立場となりました。両藩の赦免を要求し仙台・米沢両藩の肝いりで結成されたのが奥羽越列藩同盟でした。
 
 しかし京で多くの同志を殺され恨み骨髄に達していた薩長はこのような世迷言を受け入れる道理もなく、薩長主導の新政府軍は列藩同盟を朝敵として追討する準備に入りました。
 
 そもそも初めは新政府も同盟側も戦争をするつもりは無かったと思います。九条通孝を総督とする奥羽鎮撫総督府が仙台に入ったくらいですから。同盟側はこれを上手く宥めて会庄の赦免を勝ち取る腹積もりでした。
 
 しかし総督府参謀として同行していた長州の世良修蔵があまりにも悪すぎました。朝廷の権威を嵩にきて暴虐の限りを尽くし奥羽諸藩の反感を買ったのです。しかも総督府が率いる兵もほとんどいませんでした。我慢の限界に達した仙台藩は世良を殺害、このために列藩同盟と新政府は敵対関係となりました。
 
 仙台にいた九条総督以下新政府の面々は命からがら脱出し、秋田藩に入ります。
 
 戊辰戦争時の諸藩は、勤皇と佐幕ではっきり分かれていたというイメージを持たれる方もいると思いますが、実はどの藩にも勤王派と佐幕派はいました。会津や長岡に勤王派がいれば薩長にも佐幕派がいたのです。これら両派は各藩で激しい権力争いを繰り返し勝った方が藩論を決めていただけだったのです。
 
 奥羽鎮撫総督府が入った秋田藩(正式には当時久保田藩と呼ばれていましたが分かりにくいので秋田藩で通します)も例外ではありませんでした。尊王思想家の一人平田篤胤生没の地であっただけに勤王派が優勢でさえありました。
 
 周囲の諸藩が佐幕派に転じたために嫌々同盟に参加していましたが、総督府の秋田入りで完全に勤王派に転じます。これに機を見るに敏な津軽(弘前)藩や周囲の小藩が参加、列藩同盟は前後に敵を受ける不利な体勢に陥りました。
 
 これに一番危機感を抱いたのは庄内藩(酒井氏・出羽庄内17万石)です。会津や越後に新政府軍が迫りつつある中、背後を秋田藩に衝かれれば滅亡するからです。
 
 庄内藩は、先手を打ち4個大隊(約2000名)を動員し海道口と山道口から北上し秋田藩領に侵攻します。1868年7月の事です。
 
 ここで秋田、庄内両藩の軍備を比べてみましょう。秋田藩の勤王はあくまで観念論のみで軍備といえば戦国時代そのまま、武器も火縄銃に槍と刀というお粗末なものでした。あまりの惨状に隣国津軽藩から新式銃(といってもおそらく旧式洋銃のゲベール銃)50挺の援助を受けたほどでした。
 
 一方、庄内藩は当時としては最新式の洋式軍隊を持っていました。日本でも有数の豪商本間家から戦費として9万3千両の援助を受けるなど潤沢な資金で最新式の洋式銃や大砲を購入し洋式訓練を施した精強な軍隊を持っていました。これは幕府から蝦夷地の警備や江戸の警備を命じられ早くから危機意識が高かった事も大きかったと思います。
 
 
 ここに一人の人物が登場します。庄内藩家老、酒井了恒(さかいのりつね)。代々玄蕃(げんば)と通称し当時は吉之丞を名乗っていました。庄内藩二番大隊長として連戦連勝し新政府軍から鬼玄蕃と恐れられた人物です。
 
 鬼玄蕃というと荒々しい猛将をイメージしますが1868年当時26歳、当時の写真を見ると戦績からは想像もできない優男でした。
 
 酒井玄蕃家は藩公酒井氏の分家で、代々家老職を務める名家です。幼少より書物と剣を好み15歳で長沼流兵学を学び頭角を現します。その後庄内藩が江戸市中取締りを命ぜられると番頭の一人として江戸の治安を守りました。
 
 酒井玄蕃の軍才はもしかしたらこの時に培われたのでしょう。彼と洋式軍隊との接点が今一掴めないのですが、庄内藩自体が安政2年(1855年)から蘭式、慶応3年(1867年)から英式を取り入れたので藩をあげての教育がなされたのかもしれません。
 
 
 後編では酒井玄蕃を中心とする庄内軍の激闘、四面に敵を受けて苦闘する秋田藩、列藩同盟の盟主でありながら戦意のない米沢、仙台両藩、東から秋田藩領に攻め入った盛岡藩の真意などを描こうと思います。

軍事面から見た隋の高句麗遠征

 紀元612年、隋の二代皇帝煬帝は103万(一説では130万)の大軍をもって高句麗に侵攻します。水陸から攻め込んだ隋の大軍は高句麗の英雄的な働きによって退けられ、この敗戦によって国力を費やした隋は、諸国に反乱が起こり滅んだとされます。
 
 はたして真相はどうなのでしょうか?素人考えでは100万の大軍があったら少々の抵抗はあっても数の暴力で圧倒し、簡単に征服できる気もします。
 
 私はこの大遠征失敗の要因は、高句麗よりも隋軍そのものにあったような気がします。
 
 もちろん、世界史上100万もの大軍を集めることができたのは中国とペルシャ、そして人口的にはローマ帝国もでしょう。ペルシャは100万の大軍を動員したという伝説はあるものの不思議にローマはありません。最大でも20万内外くらい。
 
 私はこれをローマ帝国の戦上手と解釈します。といいいますのもローマ人は兵站の意味を十分理解していたのです。100万の大軍はそれ自体強力な力を発揮しますが、その巨体によるもろさを同時に合わせもちます。
 
 古代世界ですから、装備は弓・刀・剣・槍くらいで最悪現地調達も可能でしょう。燃料もいらないためさしあたって補給の必要があるのは食料と軍馬の秣。
 
 分かりやすくするために兵士一人の1日の食糧を1キロとします。100万人だと1日1000トン必要となります。荷馬車でこれを運ぶとして搭載量を1トンくらいと仮定すると1日の必要荷馬車数は1000台!これは純粋な戦闘部隊と違いますから余計にかかるという事です。こういう輸送部隊まで含めての数が100万だとは思いますが、それにしても補給の負担はあまり変わりません。食べる人間の量は変わらないからです。
 
 しかも軍馬が何頭いたか知りませんが、軍馬の秣は人間の数倍必要です。
 
 現地で略奪すれば良いと思われる方もいるでしょうが、それだけ莫大な量だと一地方では数日から一月くらいで食べ尽くしてしまいます。まるでイナゴの大群が移動するように、動いた後には何も残りません。
 
 歴史上、数十万の大軍を動かした例として、漢の匈奴遠征が挙げられますが、漢軍は補給の負担を軽減するために数万ずつを別々の場所から進軍させ、補給路もその分だけ用意しました。それでも国家財政に与える圧迫はものすごく、ために漢は疲弊したとされるくらいです。
 
 アケメネス朝ペルシャのダレイオス大王のスキタイ遠征も補給の負担に耐えられず自滅した可能性が高いと思っています。
 
 とすれば、100万の大軍を動員した隋の高句麗遠征も莫大な補給上の負担があったに違いありません。
 
 海軍を利用して補給したとしても、内陸に兵站を伸ばさざるを得ませんから敵国内奥深く侵攻すればするほど兵站上の負担がじわじわと効いてきます。おそらく劣勢の高句麗軍は隋軍と正面からは当たらず後方の補給路を叩いたでしょうから時間がたてばたつほど隋軍は弱ってきます。
 
 そしてついにはその数によって自滅せざるを得ないのです。隋軍は100万という大軍そのものの持つ弱点によって滅び去ったといえるでしょう。
 
 
 一方、ローマ軍は数に頼ることなく自国兵站の負担にならない兵力で遠征したため、敵国で補給に苦しんだという話をあまり聞きません。ただしあまりに少ない兵力で進撃したため苦労したという話は良く聞きますが(苦笑)。カエサルのガリア遠征など最大でも10万超えませんからね。おそらく平均では4~5万位しか動かしていないでしょう。しかも兵站線の確保に最大の注意を払っている事が戦史に記されています。
 
 
 よくローマ帝国と漢がもし戦ったら?というIFを聞きますが、私は最終的にローマ軍の圧勝に終わるのではないかと考えます。兵の質も戦術も武器も上ですし、異民族戦争の経験もはるかに上ですからね。
 
 
 2ちゃんねる歴史板で、諸葛亮率いる三国志の蜀軍とハンニバル率いるカルタゴ軍がもし戦ったら?というIFが語られていますが、これも同様。勝負にならないと思います。もちろんカルタゴ軍の圧勝。いくら諸葛亮に智謀があってもそれだけでは兵の質・武器・戦術ドクトリンの差は逆転不可能です。というより諸葛亮が三国志演義のような大軍師なら直接戦うことは回避するはずです。
 
 ローマ軍と勝負になるのは、アレクサンドロス率いるマケドニア軍くらいかもしれませんね。
 
 中国史ファン、三国志ファンには申し訳ないですが、世界史全般を見ている私からすると、これが結論です。

ウィーン       - 辺境から帝都へ -

 久々の世界史「世界の都市」シリーズですが、今回は「音楽の都」あるいは「森の都」と呼ばれるオーストリアの首都ウィーンです。
 
 ヨーロッパの主要都市は、ローマ帝国に起源をもつものが多いのですが、ここウィーンもそうです。
 
 しかも都市ではなく、もともとはローマ軍団が駐屯したカヌントゥムを防備するために築かれた城塞でした。当時の名をヴィンドボナといいましたが、これはそこにあったケルト人の集落の名前でした。ヴィンドボナの名前自体ケルト語に由来するといわれています。
 
 このあたりは天然の障壁が少なく、ドナウ川とウィーンの森にはさまれ唯一の要害と呼べる場所だったそうです。だいたい紀元1世紀ころヴィンドボナは築かれました。
 
 ローマ帝国の北の辺境に当たり、しばしばゲルマン人の侵入に悩まされます。それでも入植がすすみ最盛期には周辺も含めて35000人の人口があったそうです。212年にはカラカラ帝から自治都市として承認されるほど発展します。
 
 しかし、豊かになったことでかえって蛮族の略奪の対象になったのですからどっちが良かったのかわかりません。433年、ローマ帝国はフン族の侵入に耐えかねヴィンドボナを含むパンノニア州をフン族に割譲します。
 
 ヴィンドボナはそれまでに徹底的に略奪と破壊を受けていましたから、割譲を機に住民はローマに移り住みました。
 
 しかし、一部現地に残った住民はまだ破壊を免れていたヴィンドボナ北東部分に改めて強固な城砦を築き移り住みます。そしてこれが現在のウィーンの基となりました。
 
 
 976年、東フランク王国のオットー2世はこのあたりをオストマルク辺境伯領としてバイエルンから独立させ、バーベンベルク家を辺境伯に任命します。
 
 辺境伯はメルクに居城をかまえウィーンは中心都市ではありませんでしたが、ドナウ川の水運と交通の要衝であることからしだいに発展し経済の中心地になります。
 
 ウィーンの発展を決定づけたのは何と言っても十字軍でした。ドイツ諸侯が中東に出陣する時は必ずウィーンに立ち寄ったそうですから、戦争特需で繁栄したそうです。
 
 1155年、辺境伯ハインリヒ2世は首都をウィーンに移します。ではいつウィーンがオーストリアの首都となったかですが、これは1273年に大空位時代を経てスイスの田舎貴族ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に就任してからです。
 
 ルドルフは反対勢力をおさえてウィーンを確保すると、この地を統治下に置き、ウィーンはハプスブルク家の発展とともに帝都としての体裁を整えます。
 
 ハプスブルク家は音楽家を保護したため、モーツァルトなど高名な作曲家を数多く生み出し、ウィーンは音楽の都とうたわれました。
 
 オスマン帝国による二度の包囲などいくつかの危機はありましたが、以後ウィーンは神聖ローマ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国の首都として、そして第2次大戦後はオーストリア共和国の首都として現在に至っています。

フォークランド紛争に見るイギリスの凄み

 1982年アルゼンチンは南米大陸大西洋岸アルゼンチン本土から500kmの位置にある英領フォークランド諸島に突如上陸占領します。
 
 アルゼンチンにも言い分はありました。スペインから独立した時、スペイン領だったフォークランド諸島も当然自国に帰属するという主張です。しかし現実にはそうならず太陽の没せぬ国、大英帝国領に組み込まれ現在に至っていました。
 
 第2次大戦後、アルゼンチンは平和的にフォークランド諸島の帰属権を巡ってイギリスと交渉しますが、当初イギリスはこれを相手にしませんでした。
 
 1976年、アルゼンチンに軍事政権が誕生すると国内政策の行き詰まりによる国民の不満をそらすため強硬策に傾きます。1982年ガルチェリ大統領はフォークランドを実力で奪取することで交渉を有利に進めようと目論みました。
 
 わずか79名の英海兵隊が守る絶海の孤島に900名のアルゼンチン軍が上陸します。小規模とはいえ多勢に無勢、島は完全にアルゼンチン軍に占領されました。
 
 ガルチェリ大統領の目算では
 
①経済が疲弊したイギリスが本気で取り返す可能性は少ない
②英本土から1万キロ以上も離れており補給が困難なため大規模な部隊は派遣できない
③アメリカは少なくとも中立を保つし、NATO諸国の協力も得られない
④本格的戦争になったらイギリスにも多くの犠牲者が出るはずだから英政府は武力奪還を決断できない
 
などの理由から戦争の推移を楽観視していました。いずれイギリスは音を上げ交渉のテーブルにつくだろうと。
 
 
 しかし、時のイギリス首相、マーガレット・サッチャーは違いました。鉄の女の異名を持ち、イギリス戦後史上最高の首相とのちに言われた彼女は素早く決断を下します。
 
◇外交交渉は一度譲歩すると相手にどんどん付け込まれる
◇毅然たる態度を示さない国家には誰も援助の手を差し伸べない
◇外交は一時の損得勘定でするものではない。将来の利得を得るためには犠牲を厭わず覚悟を示すべきだ
 
 4月18日イギリスは空母ハーミズを旗艦とする機動部隊をフォークランド近海に派遣します。サッチャーの覚悟は本気でした。攻撃型原潜でフォークランド諸島周辺海域を封鎖、イギリス本土からはバルカン爆撃機が空中給油を繰り返しながら長駆島を爆撃します。
 
 島を封鎖し、アルゼンチン軍の補給を断ったことで戦略的には勝負ありとなりました。
 
 外交的にもサッチャーは着々と手をうちます。EC諸国を動かしアルゼンチン経済制裁を決議させ、調停を申し出たアメリカがアルゼンチンから拒否されると、これも交渉によって味方につけます。アメリカは直接介入こそしませんでしたが偵察衛星による情報をイギリスに流し続けるなど協力を惜しみませんでした。
 
 さらにアルゼンチンと仲の悪い隣国チリのピノチェト大統領も動かしアルゼンチンを侵略者と非難させたばかりか、自国の基地の使用権までイギリスに認めさせました。
 
 しかし、アルゼンチン本土から500kmという距離がイギリスを苦しめました。アルゼンチン空軍は本土からフランス製シュペル・エタンダール攻撃機を発進させエグゾセミサイルで攻撃します。
 
 これにはType42駆逐艦シェフィールドが撃沈されるなど少なくない被害を受けました。
 
 イギリスには垂直離着陸機シーハリアーがあるだろう?と思われた方もいるでしょうが、シーハリアーは万能戦闘機ではないのです。世界初の実用V/STOL機ではありますが、そのために搭載量と航続距離を犠牲にし、艦隊防空も万全ではありませんでした。特に地上部隊を載せた上陸船団はアルゼンチン空軍の攻撃で大きな被害を出します。
 
 しかし、次第に錬度と兵器の性能で勝るイギリス軍が苦しみながらもアルゼンチン軍を圧倒するようになります。制海権と制空権を手に入れたイギリス軍がSAS(英陸軍特殊空挺部隊)を中心に上陸作戦を決行する時が来ました。
 
 ハリアーに上空を守られた英軍部隊は各所でアルゼンチン軍と激戦を繰り返しながらも6月14日島の完全奪回に成功します。
 
 ガルチェリは、6月15日「戦闘終結宣言」を出しますが2日後に失脚、20日にはイギリス政府による停戦宣言が出されました。
 
 紛争開始から72日間、こうして両国に大きな犠牲を出したフォークランド紛争は終わります。
 
 勝者であるサッチャーは、、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命財産の存在する根拠が失われるという意)と発言しイギリス国内はもとより国際的にも高い評価を受けました。
 
 
 一方、アルゼンチンの危ない火遊びの代償は高くつきます。失脚したガルチェリは自分にとって代わった反対勢力から死刑の判決を受けますが、後に減刑され懲役12年。敗戦により国民の不満はさらに高まり、国際的地位は地に堕ちました。
 
 
 
 
 鉄の女マーガレット・サッチャー、財政赤字を減らしイギリス経済を立て直した救世主と評価される一方、左翼からは失業者を増大させ地方経済を破壊した冷血な人間だと激しく非難されています。
 
 しかし国際政治、いや世界史からみた場合、老大国イギリスの威信を傷つけず、後世に大きな財産を残した偉大な政治家だと私は高く評価します。
 
 
 竹島や北方領土を巡る日本政府のなさけない態度と、犠牲を厭わずイギリスの誇りを守り抜いたサッチャーの毅然たる態度、どちらが立派か皆さんも比べてみてください。
 
 題名をイギリスの凄みと書きましたが、それはサッチャーの凄みでもありました。

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