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2011年11月 3日 (木)

「鬼玄蕃」と秋田・庄内戦争   (前編)

 京において勤皇の志士を弾圧した会津藩、江戸において浪士を使い騒乱を起こした薩摩藩邸を幕府の命を受けて焼き討ちした庄内藩は戊辰戦争がはじまると朝敵として追討を受ける立場となりました。両藩の赦免を要求し仙台・米沢両藩の肝いりで結成されたのが奥羽越列藩同盟でした。
 
 しかし京で多くの同志を殺され恨み骨髄に達していた薩長はこのような世迷言を受け入れる道理もなく、薩長主導の新政府軍は列藩同盟を朝敵として追討する準備に入りました。
 
 そもそも初めは新政府も同盟側も戦争をするつもりは無かったと思います。九条通孝を総督とする奥羽鎮撫総督府が仙台に入ったくらいですから。同盟側はこれを上手く宥めて会庄の赦免を勝ち取る腹積もりでした。
 
 しかし総督府参謀として同行していた長州の世良修蔵があまりにも悪すぎました。朝廷の権威を嵩にきて暴虐の限りを尽くし奥羽諸藩の反感を買ったのです。しかも総督府が率いる兵もほとんどいませんでした。我慢の限界に達した仙台藩は世良を殺害、このために列藩同盟と新政府は敵対関係となりました。
 
 仙台にいた九条総督以下新政府の面々は命からがら脱出し、秋田藩に入ります。
 
 戊辰戦争時の諸藩は、勤皇と佐幕ではっきり分かれていたというイメージを持たれる方もいると思いますが、実はどの藩にも勤王派と佐幕派はいました。会津や長岡に勤王派がいれば薩長にも佐幕派がいたのです。これら両派は各藩で激しい権力争いを繰り返し勝った方が藩論を決めていただけだったのです。
 
 奥羽鎮撫総督府が入った秋田藩(正式には当時久保田藩と呼ばれていましたが分かりにくいので秋田藩で通します)も例外ではありませんでした。尊王思想家の一人平田篤胤生没の地であっただけに勤王派が優勢でさえありました。
 
 周囲の諸藩が佐幕派に転じたために嫌々同盟に参加していましたが、総督府の秋田入りで完全に勤王派に転じます。これに機を見るに敏な津軽(弘前)藩や周囲の小藩が参加、列藩同盟は前後に敵を受ける不利な体勢に陥りました。
 
 これに一番危機感を抱いたのは庄内藩(酒井氏・出羽庄内17万石)です。会津や越後に新政府軍が迫りつつある中、背後を秋田藩に衝かれれば滅亡するからです。
 
 庄内藩は、先手を打ち4個大隊(約2000名)を動員し海道口と山道口から北上し秋田藩領に侵攻します。1868年7月の事です。
 
 ここで秋田、庄内両藩の軍備を比べてみましょう。秋田藩の勤王はあくまで観念論のみで軍備といえば戦国時代そのまま、武器も火縄銃に槍と刀というお粗末なものでした。あまりの惨状に隣国津軽藩から新式銃(といってもおそらく旧式洋銃のゲベール銃)50挺の援助を受けたほどでした。
 
 一方、庄内藩は当時としては最新式の洋式軍隊を持っていました。日本でも有数の豪商本間家から戦費として9万3千両の援助を受けるなど潤沢な資金で最新式の洋式銃や大砲を購入し洋式訓練を施した精強な軍隊を持っていました。これは幕府から蝦夷地の警備や江戸の警備を命じられ早くから危機意識が高かった事も大きかったと思います。
 
 
 ここに一人の人物が登場します。庄内藩家老、酒井了恒(さかいのりつね)。代々玄蕃(げんば)と通称し当時は吉之丞を名乗っていました。庄内藩二番大隊長として連戦連勝し新政府軍から鬼玄蕃と恐れられた人物です。
 
 鬼玄蕃というと荒々しい猛将をイメージしますが1868年当時26歳、当時の写真を見ると戦績からは想像もできない優男でした。
 
 酒井玄蕃家は藩公酒井氏の分家で、代々家老職を務める名家です。幼少より書物と剣を好み15歳で長沼流兵学を学び頭角を現します。その後庄内藩が江戸市中取締りを命ぜられると番頭の一人として江戸の治安を守りました。
 
 酒井玄蕃の軍才はもしかしたらこの時に培われたのでしょう。彼と洋式軍隊との接点が今一掴めないのですが、庄内藩自体が安政2年(1855年)から蘭式、慶応3年(1867年)から英式を取り入れたので藩をあげての教育がなされたのかもしれません。
 
 
 後編では酒井玄蕃を中心とする庄内軍の激闘、四面に敵を受けて苦闘する秋田藩、列藩同盟の盟主でありながら戦意のない米沢、仙台両藩、東から秋田藩領に攻め入った盛岡藩の真意などを描こうと思います。

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