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2011年11月 3日 (木)

「鬼玄蕃」と秋田・庄内戦争   (後編)

 庄内軍の作戦は一番、二番大隊が山道口、三番、四番大隊が海道口を進み最終的には秋田藩の首都久保田城を包囲するというものでした。
 
 一方官軍方に転じたものの、碌な準備もしていなかった秋田藩側は慌てます。九条総督や沢副総督の矢のような出兵催促も無い袖は振れなかったのです。
 
 奥羽鎮撫総督府は、新政府に危機を伝え援軍派遣を要請しました。しかし1868年7月といえば北越戦線ではやっと長岡藩に敗色が見え始めた頃。南陸奥方面では二本松城の戦いが7月末頃。新政府としても主要な戦線ではない北出羽戦線に兵力をおくる余裕はありませんでした。
 
 しかし新政府も、奥羽鎮撫総督府と数少ない奥州の勤王諸藩を見殺しにはできないので厳しい台所事情からやり繰りして薩長や西国諸藩の援軍を海路送り込んできました。
 
 こういう事情から援軍は逐次投入という兵家の最も忌むやり方になりました。しかもそれを率いる将も北越戦線と会津戦線に比べると二線級でどうしても支作戦というイメージしか湧きません。
 
 が、当事者である秋田藩の領民にとっては死活問題ともいうべき危機だったのです。秋田藩や援軍である新政府軍を指揮したのは奥羽鎮撫総督府の参謀、薩摩藩大山格之助、長州藩桂太郎らでした。大山はともかく桂は当時若造といってもよい存在でした。新政府軍がこの戦線をいかに重視していなかったか分かります。
 
 山道口を進む酒井玄蕃の二番大隊を先陣とする庄内軍は破竹の勢いで新庄、横手、大曲と北上しました。一方、海道口の庄内軍も連携を欠く新政府軍を追いながら本庄、亀田と勝ち進みます。
 
 大山らは、佐幕派から勤王派に寝返った秋田藩を信用していませんでした。そのために連携を欠き庄内軍に衝かれ敗退を繰り返します。
 
 
 間の悪い事に、8月9日には楢山佐渡率いる盛岡軍が東部国境を越え鹿角、大館方面に攻め込みました。
 
 
 新政府軍は、薩摩、長州軍の他に当時最新式の7連発スペンサー騎銃やアームストロング砲を装備した佐賀藩兵、大村藩、島原藩、福岡藩らの援軍で八千とも一万ともいわれる大軍に膨れ上がっていました。
 
 庄内軍にも米沢藩や仙台藩の援兵が加わりましたが、旧式装備の上に当事者意識がないのか戦意が低く全く当てになりませんでした。有能な指揮官を欠くとはいってもなんといっても新政府軍は大軍です。わずか2千あまりの庄内軍はしだいに苦戦し始めていました。
 
 
 それでも酒井玄蕃は、側面や背後から別動隊を奇襲させるなど奇策の限りを尽くして新政府軍を翻弄します。この頃は兵器の質は互角になっていましたから庄内軍が攻勢を仕掛けていたという事実はまさに玄蕃の軍才が優れていたからでしょう。
 
 
 新政府軍も鬼玄蕃と呼んで彼と彼の軍隊を恐れました。庄内軍は、東から迫る盛岡軍と連絡するため角館城を攻撃します。しかし、守る新政府軍も必死でした。東から迫る盛岡軍を撃退し新式銃の銃身を真っ赤にして防御しました。多勢に無勢、庄内軍は角館城を攻めあぐねついに撤退します。どうも盛岡軍は庄内藩を助けるというより、戦国以来の天敵である津軽藩を攻める方が主目的のように見受けられました。作戦方向も南ではなく津軽藩を包囲できる能代方面を志向していました。
 
 庄内軍最初のつまずきでした。庄内軍は作戦を変更し雄物川を渡河、刈和野、椿台を経由して秋田藩の本拠地久保田城攻略を目指します。
 
 
 秋田藩は、領土の大半を庄内軍に占領され風前の灯でした。藩主佐竹公は悲壮な覚悟で前線部隊を督戦します。九条総督、沢副総督も絶体絶命の危機に死さえ覚悟するようになります。
 
 が、庄内軍の攻勢終末点はそろそろ近づいていました。逆に新政府軍は本拠久保田近辺の戦いであったため皮肉な事に潤沢な補給を受けられるようになります。一方補給線の伸びきった庄内軍は武器弾薬が欠乏するようになりました。
 
 
 そして頼みの綱であった酒井玄蕃も、激戦の疲れで病に倒れます。刈和野、椿台の戦いはこの戦役中でも有数の激戦になりました。あとのない新政府軍はここで初めて頑強な抵抗を示します。
 
 
 自軍の劣勢を案じた玄蕃は、病身の身を輿に乗って指揮したそうですがついに決定的勝利は得られませんでした。
 
 
 そんな中、角館戦役で敗退した盛岡藩兵は本国に帰り8月28日には列藩同盟の盟主の一つである米沢藩まで新政府に降伏していたとの報が入ります。
 
 米沢藩は、新政府軍の機嫌を取るため他の諸藩にも降伏勧告の使者を派遣しました。9月13日列藩同盟の一方の盟主仙台藩さえも降伏恭順に傾きます。
 
 
 庄内藩が一人頑張っても戦況は絶望的状況になりました。9月14日、庄内軍は軍議を開き善後策を協議します。
 
 そして撤退し、本国を固めるという方針を選びました。酒井玄蕃は撤退戦も見事に指揮しました。嵩にかかって攻めてくる新政府軍の追撃を振り切り、時には痛撃を与えながらほぼ無傷で庄内領内に撤退を完了させます。
 
 
 まさに名将中の名将でした。わずか26歳の青年とは思えない戦績には本当に驚かされます。
 
 
 庄内藩は新政府軍に降伏する道を選択します。9月27日、西郷隆盛、黒田了助率いる新政府軍が庄内藩鶴岡城に入城。藩は明治新政府に降伏しました。9月25日盛岡藩降伏。
 
 早くから勤王派に転じた秋田藩は、藩士の3分の2が兵火にかかり人家の4割が消失するという甚大な被害を出します。しかも援軍に来た新政府軍の軍費も負担したため60万両以上という巨費を費やしました。盛岡藩の天敵津軽藩は秋田藩が防波堤になったためにほとんど被害を受けませんでした。しかも箱館戦争で活躍したために一万石の加増さえ受けています。戦国時代以来要領の悪い盛岡藩南部家と、逆に時代の節目節目に抜群の要領のよさを示す弘前藩津軽家。まさに歴史の皮肉を見せつけられる思いです(苦笑)。盛岡藩は新政府軍に負けたことより津軽が勝ち組に付いた事の方を恨んだでしょう。
 
 
 西郷、黒田らは意外にも庄内藩を寛大に扱います。藩主酒井忠篤(ただすみ)謹慎、弟忠宝に相続が認められ12万石に減知という軽い処分ですみました。事実上藩が消滅した会津藩と比べると信じられないほどの処分です。
 
 
 これは庄内藩が直接京都で勤王の志士を弾圧したわけではない事もあったでしょうが、西郷の人格も影響していたと思います。そのために庄内では藩をあげて西郷に感謝し維新後西郷が鹿児島に帰って私学校を設立した時には留学生を送ったほどでした。そして西南戦争が起こると西郷軍に参加しようとして郷里を飛び出した旧庄内藩士も多かったと聞きます。ただあまりにも遠隔地で実際に参加する前に戦争は終わっていました。
 
 
 
 
 最後に、酒井玄蕃のその後を記します。
 
◇庄内藩降伏後、引き続き仕え廃藩置県後は大泉県権大参事となる。
◇明治4年、上京し兵部省出仕。
◇明治7年、政府の命で清国偵察。
◇明治9年、肺病を患い東京にて死去、享年34歳。
 西南戦争(明治10年、1877年)まで彼が健在だったら、どのような行動を起こしていたでしょうか?非常に興味のある歴史のIFではあります。
                        (完)
 

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