2022年1月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »

2011年12月

2011年12月 1日 (木)

大村益次郎      - 明治陸軍の父 -    (後編)

 前編、中編で予想外に紙面を費やしたのではしょります(汗)。
 
 慶応3年(1867年)10月14日、徳川15代将軍慶喜は朝廷に政権を返上しました。いわゆる大政奉還です。
 
 しかしあくまで徳川家を武力討伐しなければ革命は成らないと決意した薩長は対決姿勢を崩しません。大坂城に集結した幕府軍と、京都に集まった薩長軍の開戦は時間の問題でした。
 
 この時京にいる薩長軍の兵力は合わせて五千ほど。一方大阪城の幕府軍は一万五千もいたそうです。
 
 
 大村は、戦闘が勃発しても緒戦は負ける可能性が高いと想定します。明治天皇を擁して山陽道を下った薩長軍が広島あたりで幕府軍と決戦すると想定し、そのための準備を始めていました。というのは古来京都が守りにくい土地だったからです。
 
 盆地であり、その入り口を封鎖すれば中にいる軍は立ち枯れるのです。足利尊氏もそのために九州に落ちて行ったほどでした。
 
 しかし幕府軍は、最も楽で有効な京都封鎖作戦を採りませんでした。あくまで大義名分にこだわる慶喜は愚直にも一直線に北上し京都に攻め登るという愚策中の愚策を選択します。
 
 
 伏見街道を封鎖する薩長軍と「通せ」「通さない」というつまらない小競り合いから戦は始まりました。1868年1月3日の事です。近代装備の薩長軍と旧式装備の幕府軍と言う前に、戦を覚悟している者とあわよくば戦をせずに朝廷を包囲し武力で威圧しようとした者との覚悟の違いが大きかったと思います。
 
 慶喜が本気なら、自ら先頭に立って進むべきした。戦闘が洋式装備の薩長軍優位で進む中、錦旗が翻ります。岩倉具視が大久保一蔵らと秘かに準備していたものでした。これで薩長は官軍になりました。
 
 新撰組や会津、桑名両藩は頑強に抵抗しますが、錦の御旗を見て一気に戦意が失せます。幕府軍は事実上崩壊したのです。
 
 幕府軍の拠点伏見奉行所を砲撃できる高台に布陣していた彦根藩は、薩長の使者を受けて秘かに撤退しました。当然直後に薩長軍が入り、伏見奉行所を砲撃します。さらに最悪なのは天王山に砲台を築いていた津藩でした。一夜にして寝返った津藩は大砲を南に向けかつての味方を砲撃し始めたのです。
 
 彦根藩井伊家は譜代筆頭で徳川家康が江戸への表玄関である近江の守りに置いた藩、一方津藩藤堂家は裏口である伊賀伊勢の守りとして特に家康の信頼厚い準譜代の藤堂高虎に与えた領地でした。
 
 徳川幕府崩壊の始まりです。戦況不利となる中一時撤退した幕府軍は、味方である淀城に籠って体勢を立て直そうとします。しかし淀城の城門は開きませんでした。淀藩主稲葉正邦は現職の老中でした。淀藩は藩主が江戸にいて不在にもかかわらず勝手に官軍に寝返ったのです。淀城からも追い出された幕府軍は大坂城に撤退するしかありませんでした。
 
 それでも城に籠って徹底抗戦するというものが多く、また長期間籠城したら戦況はどう転ぶかも分かりません。しかし最高司令官である慶喜は、錦の御旗が敵軍に翻り自分が賊軍になった事に衝撃を受けていました。
 
 慶喜は近臣だけを引き連れ、多くの部下を見捨てて江戸城に海路逃げ帰りました。時勢なのでしょう。徳川宗家に殉ずるべき御三家筆頭尾張藩や親藩の越前藩などは初めから中立でした。しかも幕府と薩長の間を取り持つなどと称していましたから戦う気など初めからなく錦旗が薩長に翻るや官軍としての立場を鮮明にします。
 
 最初から最後まで幕府と徳川宗家のために戦ったのは会津藩と桑名藩のみ。関ヶ原で豊臣恩顧の大名が大挙して家康に寝返ったように、今度は徳川家を親藩・譜代を含む大半の大名が見限ったのです。戊辰の戦いは忠義とは何か?という問題を深く考えさせられます。
 
 ともかく総大将に見捨てられた大坂城は、将兵が脱出し戦わずして落ちました。
 
 
 以後、新政府は各地に討伐軍を派遣し江戸は有名な勝・西郷の会談によって戦火から免れます。大村は、桂の意向もあり後方で兵站を担当しました。あくまでも薩摩を立て長州は従であるという立場からです。そのほうが呉越同舟であった連合軍をまとめやすかったのです。
 
 しかし、江戸無血開城後、不平旗本が彰義隊を結成し上野寛永寺に籠るとこれを討伐する必要が生じました。大村はここで初めて江戸に赴き新政府軍を指揮するようになります。薩摩は西郷が勝との会談で江戸の治安を勝に一任していたため動けなかったからです。あくまでプロに徹する大村は冷静に薩摩の将に指示を下します。西郷はさすがに何も言いませんでしたが、大西郷に対しても上から命令を下す新参の大村に薩摩の将は怒りました。とくに海江田信義などは露骨に敵意をみせ「大村を斬る」とまで息巻きます。それをなだめたのは西郷でした。
 
 「ここは大村さんに任せもっそ」という西郷の鶴の一声で丸く収まります。が海江田らの恨みは深く残りました。
 
 
 こういう内面のいざこざはあったものの彰義隊討伐自体は問題も無く成功しました。以後大村は事実上の新政府軍総司令官として各地の戦線を指揮します。
 
 あるとき薩摩の隊長が「弾薬が無くなりそうだから即刻送って欲しい」と大村に使者を送ります。それに対して大村は「君には○日分の弾薬を渡してある。一回の戦闘でこれくらい消費するからまだ△日分あるはずだ。嘘を言ってはいけません。次回の補給は○月□日に送るからそれまで頑張るように」と返事を送りました。
 
 確かに大村の言う通りですが、これでは円滑な人間関係は築けません。西郷に対してさえ命令口調で話す大村でしたから、新政府軍特に薩摩の連中には恨まれました。
 
 大村としては、総大将として当然の事をしたまでだと反論するでしょう。そのために引き受けたのだから、と。
 
 
 長州藩の者は付き合いも長いので大村の性格を知り苦笑するだけでしたが、初めて接する薩摩藩では尊敬する西郷までが侮辱されたと誤解する者も多かったと思います。大村は軍事にかけては天才的でしたがこういった人情の機微には疎かったようです。
 
 
 北越、会津、箱舘と大村の指揮で戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わりました。戦後、大村は兵部大輔を拝命し新政府軍の軍制を担当します。薩摩・長州・土佐・の藩兵を中心とした御親兵を政府軍としたい大久保らに対し、大村は国民皆兵による徴兵制を強く主張しました。
 
 実は大村は、次に反乱をおこすのが西郷を中心とする薩摩勢力であることを見抜いていたのです。大村は愛弟子であった山田顕義に語っています。
「次は足利尊氏のようなものが九州でたちあがる」
 
 
 結局大村の主張は通り、藩の廃止、廃刀令、鎮台の設置、兵学校創設など次々と諸改革が実行されます。大村が東京ではなく大坂に兵学校や武器工場を置いたのは薩摩に対するためでした。
 
 まだ西郷が下野する前です。恐るべき慧眼と言わざるを得ません。
 
 
 しかしこれらの改革は、それまでの支配階級である武士の特権を奪う事でもありました。全国の不平士族は大村の事を激しく恨みます。
 
 
 そんな中、大村は明治2年大坂や京都に建設中の兵学寮や造兵廠を視察するため関西方面に出張する事を計画します。大村暗殺の噂を聞き心配する木戸孝允は中止するか延期するよう大村に強く意見したそうですが、大村はこれを聞き入れませんでした。
 
 時の京都弾正台忠(今でいう警察署長のようなもの)は大村と軋轢のあった海江田信義でした。海江田は不平士族を多数食客として養っていました。そしてむしろ大村暗殺をけしかけるような事も言ったと伝えられます。
 
 
 9月4日、大村は京都三条木屋町の旅館で8名の刺客に襲われます。重症を負いながらも命だけは助かり大坂の病院に収容されました。しかし名医ボードウィンらの治療もむなしく11月1日傷口から菌が入り敗血症で死去しました。享年46歳。
 
 
 大村暗殺の実行犯は間もなく捕まります。海江田は捜査や裁判を妨害したとして謹慎処分になりました。暗殺事件に関与した決定的証拠が見つからなかったのでそれ以上罪に問われる事はありませんでしたが、木戸や長州の者たちは海江田に対する疑いを生涯捨てませんでした。華族制度施行の時海江田が伯爵になれず子爵にされた事も長州閥の反対があったからだと伝えられています。
 
 
 入院中、横浜で開業していた楠本イネが病床に訪ねてきた事は大村にとってせめてもの慰めだったかもしれません。大村は妻帯していましたから互いにプラトニックラブだったと思いますが(大村の性格上も肉体関係はあり得ない)、互いに尊敬し合える仲だったのではないでしょうか?
 
 
 明治10年、大村の予言通り西郷が挙兵。日本最後の内戦である西南戦争が勃発しました。大村の育て上げた徴兵制の軍隊が薩摩の士族軍を撃ち破ります。大村はあの世からどんな気持ちでこれを見つめていたでしょう?
 
 
 案外、「私はそのために準備していたんです」と淡々と語ったかもしれませんね。

大村益次郎      - 明治陸軍の父 -    (中編)

 蔵六は、正式に長州藩士となり100石取りになった時に藩命で大村益次郎と改名していますから、以後は大村と呼びます。
 
 
 四境戦争における長州軍の兵力配分は(あくまで想像ですが)安芸口2000、想定主戦場の小倉口に奇兵隊を主力とする3000、石州口に1000弱。戦力総予備として1000ほどでしょうか。
 
 その中で一番の精鋭は、老中小笠原長行が率いる九州諸藩、なかでも主力の小倉藩(同じ小笠原氏だが長行は唐津藩主)に対峙する小倉口でしょう。小笠原は九州諸藩の大軍を率いて馬関(下関)海峡を挟んで長州軍と睨み合っていました。
 
 
 海上では圧倒的な力を持つ幕府海軍が存在し、幕府方はいつでも敵前上陸できる力を持っていました。そしてそうなれば制海権も無く数で押されて長州は滅亡するしかありませんでした。
 
 
 しかし幕府がその戦法を選択しなかったのは、完全に指揮官である老中小笠原長行の戦意不足だったと思います。乾坤一擲、この一戦に命をかける覚悟が全くありませんでした。
 
 一方高杉晋作とその指揮下の奇兵隊にはそれがありました。幕府軍が渡海を逡巡している間に、6月27日逆に長州軍が田野浦に上陸します。7月2日には大里に長州軍上陸。
 
 せっかく優勢な兵力を有しながら幕府軍は敵前上陸を許したのです。決死の覚悟の長州軍は戦いの主導権を握るべく先制攻撃を仕掛けます。一方幕府軍では九州諸藩の戦意は低いものでした。当事者である小倉藩兵はさすがに必死に抵抗しましたが、他藩兵は傍観するだけでした。一部熊本藩兵だけが激しく戦ったそうです。
 
 
 同郷人としては、融通のきかない肥後人の頑迷固陋ぶりに苦笑するばかりですが、「あくまで幕府と長州の私戦であり、このような戦で無駄に消耗する事は無い」と判断して戦わなかった他藩兵の選択が正解でした。
 
 その証拠に薩摩や佐賀は応援の兵力さえ送ってこなかったではありませんか!安芸口の広島藩でさえ兵力を出してない厳しい現実を見て悟るべきでした。もしかしたら傍観した諸藩には薩長同盟の噂くらいは入っていたのかもしれません。出兵しない雄藩に対し何の処分もできない姿に幕権の凋落ぶりを見れば、分かるものには分かるのです。肥後もっこすは時勢を見る目が無かったのかもしれません(閑話休題)。
 
 
 7月下旬、赤坂、鳥越の戦いでは熊本藩兵が長州軍を一時圧倒するほどでしたが、当事者であるはずの小笠原の消極的態度は変わりませんでした。
 
 これを見て、必死で戦っている熊本藩兵は馬鹿馬鹿しくなり頭に来て撤兵してしまいます。傍観している他の九州諸藩も撤退。取り残された小倉藩は単独で戦わざるを得なくなりました。
 
 
 しかも小笠原自身、将軍家茂の逝去を理由に勝手に戦場を抜け出し江戸に逃げ帰る始末。この戦の愚かしさはどうでしょう?肝心の主将である老中が敵前逃亡したのですから。小倉藩は老中逃亡後も家老を中心に粘り強く抵抗します。が、それも時間の問題でした。小倉軍は小倉城を焼いて退去します。長州軍は企救郡を保証占領し、日田県(小倉領を含む)に戻るのは明治2年(1869年)のことでした。
 
 
 次に石見戦線を見てみましょう。初め大村はこの方面では戦略持久策を取るつもりでした。が一橋慶喜の実弟が藩主を務める浜田藩に親藩である紀州藩、そして外様の雄藩鳥取藩が侵攻の気配を見せたため、一度痛撃を与えて侵攻の意図を挫く必要がありました。
 
 精鋭部隊は小倉口と安芸口に集めていたため、この方面は二線級の部隊しか用意できませんでした。大村は自らが指揮することによって作戦成功を目指します。
 
 石見侵攻部隊は750人ほど。武士階級出身ではない大村は、馬に乗れないため部隊の後方から数名の伝令兵とともに指揮杖を振りながら徒歩でついて行ったそうです。何となくユーモラスな光景が浮かびますね。
 
 石州口最初の敵は津和野藩(亀井氏四万三千石)でした。しかし長州に同情し、また抵抗しても無駄である津和野藩は長州軍の通過を黙認する態度に出ます。
 
 浜田藩でも、戦意ある武士は少数派でした。友軍の紀州藩や鳥取藩の手前戦っているふりをしている部隊も多かったと伝えられます。わずか六万一千石では抵抗してもたかが知れていますから。
 
 浜田藩の領民にとっては、幕府方の紀州藩や鳥取藩のほうが迷惑な存在でした。勝手に略奪し食料や物資を奪うので憎しみも生まれました。領民の中にはむしろ長州軍を解放軍として歓迎する者も出てきます。
 
 それでも幕府軍は侵攻してきた長州軍と各地で激しく戦います。大村は梯子を用意させ高いところに登って指揮したそうです。こういう戦略家型の人物は得てして戦術指揮は苦手という例も多いのですが、大村だけは違いました。
 
 戦略もでき戦術もできるのが大村益次郎でした。はじめ百姓出身という事でかならずしも信服していなかった将兵も大村の作戦がずばりずばりと当たるので、次第に畏敬の念を持って接するようになります。そうなると戦闘力は何倍にもはね上がりました。
 
 
 大村の指揮で、長州軍は浜田城に迫ります。無駄な抵抗をする事は無いと大村は開城を勧めますがさすがにこれは武士の意地が許さなかったのでしょう。藩主一同隣国の松江藩に脱出し、城に火をかけました。
 
 元々戦意の低かった紀州藩も鳥取藩もこうなれば戦う意義を失い撤退しました。長州軍は石見銀山まで進出し占領したそうです。
 
 
 四境戦争は日本全土に影響を及ぼしました。戦に備えて各藩が米を買い占めたために米価をはじめ物価が高騰し各地で一揆や打ちこわしが勃発します。徳川家茂に代わって総指揮を引き継いだ一橋慶喜は「大討ち入り」などと威勢の良い事を唱えますが結局口だけでした。
 
 どの戦線においても劣勢に立たされた幕府軍は、参加する諸藩の戦意をますます低くしました。外様だけでなく譜代・親藩の間でさえ幕府や徳川宗家に殉じる事が馬鹿馬鹿しく思えるようになっていきました。攻勢をとる藩は皆無で、なんとか理由を付けて上手く撤退しようとそればかり考えるようになっていました。
 
 
 こうなると戦争を続けることはできません。9月2日、幕府はついに折れ長州と停戦交渉に入ります。どんな理由を付けても負けは負けでした。この結果、日本中で長州藩だけが戦国時代の群雄割拠そのものの独立国となったのです。
 
 幕府の凋落は誰の目にも明らかになりました。徳川幕府滅亡は事実上この四境戦争の敗北から始まったといっても過言ではありません。
 
 
 大村は、以後長州藩の事実上の軍事司令官となっていきます。戊辰戦争がはじまると明治新政府軍そのものの総指揮官も兼務するようになりました。
 
 後編では、戊辰戦争における大村、そしてその死を描こうと思います。

大村益次郎      - 明治陸軍の父 -    (前編)

 国民的歴史作家、司馬遼太郎の代表作の一つ「花神」(中国の伝説でいう花咲じじいのこと)で有名な大村益次郎。ただし、一般にはあまり知られていないようでむしろ歴史通によれば玄人受けする人物です。
 
 大村益次郎は若いころ村田蔵六と名乗っていました。そのまえは良庵。代々周防国(山口県南部)の村医で良庵というのは屋号でした。村人にいちいち「若良庵先生」と呼ばれるのが面倒くさくて自分で良庵と名乗るようになったそうです。なかなか素敵な性格みたいですね(爆)。
 
 
 長州領に生まれながら、江戸時代の身分制度では百姓。平時なら村のお医者さんとして平凡な一生(少し変りものと言われながら)をおくったに違いありません。
 
 
 が、時代の空気だったのでしょうか?蔵六は豊後日田の漢学者広瀬淡窓の咸宜園で学んだのを皮切りに1846年には大阪に出て緒方洪庵適塾で学びます。
 
 
 適塾は医学の塾でしたが、同時に西洋の語学や科学を学ぶ当時の総合大学でもありました。適塾の塾頭といえば諸藩が数百石の石高で雇いに来るほどの存在です。蔵六はここで頭角を現し塾頭にまでなります。適塾は蔵六を始め大鳥圭介、福沢諭吉、高松陵雲、橋本佐内ら錚々たる人材を輩出しました。
 
 
 が、蔵六に運が無かったのかそもそも本人に欲がなかったのか?(私は後者のような気がします)、1850年帰郷しもとの平凡な村医に戻るのです。
 
 
 時代はそんな蔵六を埋もれさせてはいませんでした。適塾やその医学界のルートを辿って宇和島藩からスカウトされます。当時ペリー率いる黒船来航に衝撃を受けた宇和島藩侯伊達宗城は、自分たちの手で黒船を建造すべく蔵六を呼び寄せたのでした。
 
 蔵六は、専門外ながら洋書を読み天才的な職人らと協力し曲がりなりにも動く蒸気船(ただし外洋航海は無理だったらしい)を作り上げるという偉業を達成します。ちなみにこの宇和島でシーボルトの娘で女医であった楠本イネとのロマンスがあったそうです。
 
 
 この噂は江戸にまで伝わり、蔵六が1856年藩侯に従って江戸に出府すると幕府講武所教授に任命されます。一介の村医が宇和島藩士(ただし客分扱い)から今度は直参旗本にさえなれる地位にまで登ったのです。学問の知識一本で!
 
 実際、幕府からは直参にならないかと何度も誘いを受けていたようです。適塾の仲間たちの中にも福沢諭吉や大鳥圭介らはこの誘いを受け幕臣になっています。
 
 
 しかし、郷土をこよなく愛する蔵六には幕臣という選択肢はありませんでした。
 
 尊王攘夷運動で藩内が炎上している長州でも、一部冷静な者たちは洋式装備で藩兵を近代化しなければどうにもならないと思い始めます。調べてみると長州出身の者が幕府講武所の教授をしているとのこと。しかも宇和島藩士の資格さえ有している事が分かります。
 
 長州藩の代表であった桂小五郎(のちの木戸孝允)は蔵六のもとを訪ねました。二人はここで意気投合し、蔵六は長州に戻る事になりました。宇和島侯は蔵六を手放す事を渋りますが、故郷長州に戻りたいという蔵六の強い願いを受けてようやく許されました。
 
 
 幕府講武所教授といえば幕臣として千石をとってもおかしくない存在でしたが、桂以外大村の価値を理解できない長州藩では初め蔵六は冷遇されました。元百姓身分ということが門閥の藩上層部にとっては問題だったのでしょう。正式藩士になったのはかなり後の事でした。
 
 しかし地位や名誉が欲しくて故郷に戻ったわけではありません。蔵六は桂との友情だけを頼りにして秘かに藩の近代化を進めます。
 
 蔵六の写真を見ると分かりますが、随分額が広い顔です。こういう顔は数学的才能が高いそうですが、これが合理的な改革をなし得た理由でしょう。また、もともと医者であった蔵六の軍事的才能は天分だったのかもしれません。
 
 蔵六の本質は戦術家ではなく戦略家ですが、部隊指揮でも活躍しています。ただ蔵六はかなり変わり者だったといわれています。
 
 夏に「今日は暑いですね」と挨拶されて「夏に暑いのは当たり前です」と答えたエピソードもあります。合理精神の権化と言われてはそれまでですが、このような性格ではまともな社会生活は送れません。理解者である桂がいなかったら村田蔵六は存在しなかったと思います。
 
 
 桂と蔵六の秘かな努力は、1865年幕府と長州藩が全面戦争に陥った四境戦争(第2次長州征討)でいかんなく発揮されました。禁門の変、馬関戦争で尊王攘夷から勤王討幕への道を驀進する長州藩。このままでは幕藩体制の根幹さえ揺るがしかねないと危惧した幕府による懲罰戦争でした。
 
 幕府の命によって集まった諸藩の兵は十二万人。一方長州軍は奇兵隊など武士ではなく百姓町人の志願兵からなる諸隊を主力とした七千あまり。普通なら勝負になるはずもありません。
 
 が、薩長同盟によって薩摩藩を介してグラバーから購入したアームストロング砲、ミニエー銃などの新式銃がありました。蔵六はこれら諸隊に洋式訓練を施し万全の準備を持って待ちうけます。
 
 幕府軍は安芸口、石見口、小倉口、大島口の四方向から攻め込みました。作戦を指導する蔵六はそのうち制海権を幕府海軍が握っている以上保持できないし、大勢に影響しない大島口は捨てました。
 
 そのため大島は上陸した幕府海軍と松山藩兵によってあっさりと占領されます。しかし幕府方が島で略奪暴行を繰り返したために島民の反発を生み、高杉晋作率いる奇兵隊が逆上陸して奇襲奪回しました。こうなると何のために占領したのか意味がなくなります。どちらにしても戦局の大勢には影響しない幕間劇ではありました。
 
 
 安芸口では、徳川幕府伝統赤備えの彦根藩井伊家が法螺貝を吹き戦国時代そのままのいでたちで攻め込みました。当時幕府には近代装備の幕府歩兵隊もいたはずですが、おそらく消耗するのを惜しんだのと長州を舐めていたこともあって後方で控えていました。
 
 
 長州軍はこれを山野で待ち伏せ新式のミニエー銃などで狙撃、たまらず幕府軍は潰走します。当時の幕府軍幹部の感想で「長州兵はゴミ拾いのような格好で来た」と言ったそうですが、これこそ近代戦を戦う格好だったのです。長州兵は伏せ撃ちで重い甲冑で動きの鈍い敵を遠くから狙撃したそうですから戦う前から勝負はついていました。
 
 
 また長州は幾多の戦乱の中で、藩主の支配する国というより領民すべてが一つとなる一種の公国を形作っていました。奇兵隊などはまさにその象徴でしょう。そうしないと藩が滅びるということもあったでしょうが、村田蔵六の洋式軍隊育成も大きな要因の一つだったかもしれません。
 
 
 最も蔵六自身にそのような意識があったかは疑問です。彼はあくまで技術屋でした。政治は桂小五郎たちに任せ、自分は専門分野である軍隊育成に力を入れる、おそらくそういう考えだったでしょう。
 
 
 その意味では、長州藩は一足先に明治維新を迎えていたといえます。藩主毛利侯はただの象徴にすぎませんでした。桂や高杉ら勤王討幕派が主導し全藩をあげて旧支配体制に抵抗する革命国家になっていました。
 
 
 幕府軍には会津など一部過激な藩はいましたが、大半は嫌々駆り出されて戦意の低い軍隊でした。薩長同盟を秘かに結んでいた薩摩藩は公然と出兵を拒否。これに近代的洋式軍隊を持ち自信がある佐賀藩も同調します。なによりも安芸口の戦場になっている広島藩浅野家さえ「この戦に大義なし」として出兵するのを拒んだくらいでした。そればかりか広島藩勤王派の巨頭、家老辻将曹は秘かに使者を送って長州藩と結んでいます。
 
 こういった西国雄藩の公然たる非協力に対してさえ、実質なにもできない幕府はすでに瓦壊が始まっていたのかもしれません。そして実際に戦場で戦っている諸藩も心の中では長州に対する同情さえありました。
 
 どの藩にも勢力の大小はあれ勤王派が確実にいたからです。
 
 
 
 安芸口の戦いは、国境線で膠着しました。戦いは幕府老中小笠原長行の率いる小倉口、一橋慶喜の実弟が藩主(松平武聰)をする浜田藩に鳥取藩、紀州藩が応援する石州口に局面が移っていきます。
 
 小倉口では高杉晋作率いる奇兵隊、そして石州口では村田蔵六自らが部隊を率いて戦う事になりました。
 
 
 中編、後編では、これら両戦線での長州軍の戦い、鳥羽伏見から始まる戊辰戦争における村田蔵六(大村益次郎)の戦いを見て行こうと思います。

アームストロング砲

 幕末維新期、近代的洋式装備の象徴としてこの時代を描いた小説やドラマで必ず紹介されるアームストロング砲。
 
 錬鉄製の砲身内部にライフリングを施し近代的閉鎖装置によって後装式発射を実現し、たしかに一時代を築いた大砲でした。
 
 1858年イギリスで制式化され、薩英戦争でその威力を味わった日本人が争って求めたことでも有名です。が、輸出禁止の時期で幕府は入手できず、その後西国雄藩が手に入れ戊辰戦争の勝利につながりました。
 
 アームストロング砲の国産化に成功した佐賀藩では、あまりに威力のために同じ日本人を殺傷する国内戦での使用をためらったという話もあります。
 
 上野彰義隊戦争で初めて実戦に本格使用され、威力の高さから彰義隊がパニックになり潰走したとも伝えられます。半ば伝説化した大砲ですが、調べてみると実態は伝えられるほどのものではなかったようです。
 
 
 アームストロング砲は、欧州の同時期の後装砲と比べても軽量で扱いやすい大砲でしたが、そのために構造上脆弱で砲身寿命が短いなどの欠点がありました。発射ガスで尾栓が破裂しやすかったともいわれます。
 
 
 このため、イギリスではあまり使用されずすぐに改良した大砲が作られましたが幕末日本では最新鋭の大砲だった(というよりこれしかなかった)ために諸藩が争って求めたようです。
 
 
 イギリス製だけに、英国商人グラバーが一手に引き受け英国は薩長を応援していたため幕府方は手に入れる事が困難だったのでしょう。
 
 日本に持ち込まれたアームストロング砲は、12ポンド、9ポンド、6ポンドの三種。大型の物は艦載砲でしょうから野戦で使用されたのは6ポンド砲だけだったように思います。佐賀藩がコピーしたのも9ポンドと6ポンド。上野戦争では6ポンド砲が使用されました。
 
 では6ポンド砲の実態を見てみましょう。6ポンドというのは砲弾の重さで分かりやすくするために口径で表すと約64㎜。大したことありませんね。(野砲の標準は75㎜になりつつあった)同時期に広く使用されたフランス製12ポンド榴弾砲(前装式)のほうが当たれば威力は高そうです。
 
 ただ後装砲だけに、発射速度は6倍から10倍早かったでしょう。射程もアームストロング砲が3600mに対し12ポンド榴弾砲は1500m。初速も速いでしょうから貫徹力はアームストロング砲のほうが高いでしょう。近距離では弾道が直進して木造の城門などは一発で破壊できたかもしれません。
 
 
 アームストロング砲の強みは、砲弾の威力より長射程と発射速度の速さ。これによって時間当たりの砲弾投射量で前装砲を圧倒できたのでしょう。
 
 しかも保有している側は、西洋で最新式のアームストロング砲を装備していると盛んに宣伝したでしょうから、心理的に相手にプレッシャーを与える効果もあったと思います。
 
 
 結論としては、伝説で言われるほどの威力は無かったがそれなりの効果(それもかなり有用な)はあったというところでしょうか。

クールラント公国

 バルト三国の一つラトビアの西部は半島とも思えないようなクールラント半島があります。第2次大戦末期敗走するドイツ軍の一部がここに籠城しクールラント・ポケットと呼ばれるソ連軍の重包囲下に置かれながらベルリン陥落まで頑強に抵抗したことでも有名(一部の戦史マニア限定ですが…苦笑)ですね。
 
 私は、単にここら辺りが寒いからクールラントなんだと単純に思っていましたが実は違いました(爆)。16世紀から18世紀にかけてドイツ騎士団が建国したクールラント(クルゼメ)公国があったことが、名称の由来みたいですね。
 
 もともとこのあたりにはバルト語系のラトビア人支族クール人が住んでいたようです。9世紀ころまでスカンジナビアから来たヴァイキングに支配されていたとも言われますが、ドイツ騎士団の東方植民の波にのまれ1237年ドイツ騎士団領に編入されます。
 
 1561年世俗国家を形成しクールラント公国となりました。しかしドイツ騎士団領としては東の辺境、ポーランド、スウェーデン、ロシアなどの周辺諸国の係争に巻き込まれ数奇な運命を辿りました。
 
 まずポーランド・リトアニア連合王国の支配下に置かれます。1700年~1721年の北方戦争で一時スウェーデンに占領され、1791年完全独立を果たしますが4年後の1795年には第3次ポーランド分割でロシアに編入されるという哀れさでした。小国の悲哀そのものです。これで公国は消滅します。
 
 ロシア革命のどさくさで一時独立の機運も高まりますが、結局は失敗。民族国家ラトビアの一部となるもソ連に再征服され第2次世界大戦では激戦地になるという悲惨な歴史をもっています。
 
 現地に住んでいるクール人の末裔はどう思っているんでしょうかね?ラトビア人だと思っているんでしょうか?それともクール人としての民族意識があるのでしょうか?
 
 前者ならソ連解体後独立を果たし喜んでいるでしょうが、後者なら悲劇はまだまだ続きます。クールラント国家はまずできそうにありませんから。クルド人やバスク人と同じような心境かもしれませんね。
 
 
 
 
 
 
******************************************************************************************
 
追伸:
 
 ハーツオブアイアンⅡドゥ-ムズデイの1944年シナリオドイツ軍プレイでクールラントポケットを不可抗力で再現した事があります(笑)。消耗しきった東部戦線のドイツ軍部隊を再編成するためにポーランド国境まで後退させた時、貴重な装甲師団と装甲擲団兵師団以外の要らない歩兵師団や騎兵師団を囮でクールラント半島に残して捨て殺し(←酷い 爆)したんです。
 
 ところがソ連軍の勢いが強すぎて1944年末にはベルリンの間近まで迫られピンチに陥りました。1945年の5月までもたせた史実のドイツ軍は偉いと感心しながらやっとのことでポーランドまで押し戻したんですが、放置プレイだったクールラントのドイツ軍部隊がまだ生き残っているではありませんか!
 
 半島の先っちょに追い詰められてはいましたが、健気に頑張っている姿に涙がちょちょぎれましたよ(笑)。といってこういう状況に追い込んだのは私ですけどね(爆)。
 
 結局ぎりぎり間に合って救出できたんですが、よく頑張ったなあ♪あんたらは偉い!
 
 
 
 
さらに追伸:
 
 歩兵師団はともかく騎兵師団なんてただの継子扱いだからね(苦笑)。攻撃力も低いし防御力も無いし、取り柄はスピードが速いことだけ。こんなの作るくらいなら装甲師団を作ったほうがまし。
 
 ただ技術開発で航空騎兵(ヘリコプター)師団を開発すると化けるんだよねえ。もっともその頃はゲームも終盤で大勢は決しているけど(苦笑)。
 
 以上、雑談タイムでした(核爆)。

銃剣の発明と槍兵の終焉

 かつて歩兵の花型だった槍兵はいつ消滅したのでしょうか?なんとなくマスケット銃の普及とともに消えたのは分かります。しかしそれが具体的にいつのタイミングかというと曖昧です。
 
 日本の場合ははっきりしています。江戸時代の長い太平の世が終わり幕末維新期にゲベール銃やミニエー銃などの新式銃が採用されてからです。
 
 一方西洋では長らくマスケット銃兵とパイク(長槍)兵の併用の時代がありました。1534年から1704年までスペインが採用したテルシオ陣形はその強力さで一時代を築きましたが、その編成はマスケット銃兵を中心にしながらも、発射速度が遅いという欠点を補うためバイク兵が護衛についていたのです。
 
 さらにその前、原始的銃の時代(フス戦争のころ)は発射速度の遅い銃兵を守るため弓兵も護衛についていたほどでした。
 
 マスケット銃の発達とともにまず弓兵が廃れ、ついで槍兵が消滅したのです。
 
 ではなぜ、槍兵が消えたかというと銃剣というものが発明されたからです。マスケット銃の先にナイフあるいは刺突剣をくっつけることで槍の代用ができるようになり槍兵はお役御免になったというわけです。
 
 パイク兵を減らして全部マスケット銃にすれば火力は大幅に向上します。敵が銃火を掻い潜って接近しても銃剣で対抗すればよいのですから便利になったものです。また突撃時にも槍の代用になります。
 
 
 銃剣はいつごろ発明されたのでしょう?調べてみるとその始まりは偶然によるものでした。17世紀、フランスのバイヨンヌ、農民同士の争いでマスケット銃の銃口にナイフを差し込んで戦ったのが最初だったと伝えられます。
 
 しかしこのままだと槍にはなっても、銃口がふさがっているためマスケット銃としては使えないという本末転倒なことになります。そこで銃口の下に装着することによって銃としても槍としても使える現在の銃剣が誕生しました。
 
 以後、銃剣は白兵戦の花形になります。特に歩兵重視の日本などではなくてはならないものになっていきました。しかし、近年自動小銃が発明されるとあまり銃剣は使われなくなります。くっ付けることはできるとおもいますが…。まあ弾をばらまいた方が早いですからね。近接戦闘ではハンドガンがあるし。
 
 現代の兵隊さんは銃剣突撃自体嫌がりそう(苦笑)。危ないですからねえ(爆)。

「春の目覚め作戦」   - 東部戦線におけるラストギャンブル -

 第2次世界大戦の西部戦線、劣勢のドイツ軍が防備の薄いアルデンヌ地方に攻勢をかけ最終的には連合軍の一大補給港アントワープを占領して連合軍の兵站に危機をもたらすという大胆な作戦「アルデンヌ攻勢」(バルジの戦い。独軍呼称「ラインの守り作戦」)は有名です。
 
 一方東部戦線はスターリングラード攻防戦、クルスク機甲戦で敗れた後、ドイツ軍は一方的にソ連軍に押しまくられベルリン陥落まで一直線という印象があります。
 
 しかしドイツ軍は後退しながらもソ連軍に痛撃を与え続け、ただ敗走していただけではなかったようです。事実ベルリン攻防戦でもむしろ損害はソ連軍の方が多く1のドイツ軍を撃破するために10の損害が生じるという状況でした。
 
 そんな中、ドイツ軍は東部戦線においても一大攻勢作戦を企図します。作戦名は「春の目覚め」。ドイツ軍の作戦ネーミングセンスにはいつも感心させられますが、これも出色です。
 
 1945年3月という押し迫った時、作戦は発動しました。目的はハンガリー、バラトン湖東岸を突進しソ連軍第27軍と第28軍の間を分断し、バラトン湖南西岸から進出した部隊がソ連第56軍を拘束、包囲殲滅することによってハンガリー油田地帯を確保するというものです。
 
 しかしソ連軍主力はベルリン東方100キロの地点まで迫っていました。陸軍参謀本部は首都防衛が最優先だと最後の戦略予備を副次的戦線に投入することに反対しました。しかし「戦争は石油の確保が最優先だ」というヒトラーに押し切られます。
 
 バラトン湖東岸進出部隊の主力はSS(武装親衛隊)第6装甲軍、それを左翼から第6軍が補佐し、南岸進出部隊には第2装甲軍が当てられました。
 
 ここで戦史に詳しい方には懐かしい部隊が出てきますね。SS第6装甲軍はバルジの戦いの主役、第6軍はスターリングラードで降伏した部隊です。ともに消耗した部隊の再編中でした。おそらく充足率は50%前後だったと思います。
 
 この攻勢の主役であるSS第6装甲軍の攻撃は3月6日開始されます。完全充足の部隊なら恐るべき力を発揮するはずでした。(8個師団のうち7個が装甲師団なのですから!通常は全師団の半分くらいしか装甲師団はいない)しかし実際は再編途中、ソ連軍もドイツの攻勢を察知してクルスクと同様対戦車縦深陣地いわゆるパックフロントを築き待ち構えていました。
 
 季節は春、しかしハンガリーはいまだ雪解けの泥濘の中でした。それでもSS第6装甲軍は3月15日には40キロの地点に進出します。ところが助攻の第2装甲軍の進撃がうまくいかず南部戦線は膠着状態に陥りました。
 
 翌16日、満を持したソ連軍は逆襲に転じます。この作戦の成否は装甲師団による機動力にありました。しかし泥濘とソ連のパックフロントによって足を取られた今となっては、数で勝るソ連軍の鉄の暴力にただ耐えるだけの状態に陥ったのです。
 
 結局ドイツ軍は、ソ連軍の攻勢を支えきれず戦線は各所で分断されます。力尽きたドイツ軍が後退するあとを追うようにソ連軍の進撃が続き、前線は作戦開始時より100キロ後退、作戦は完全に失敗しました。
 
 こうしてハンガリー戦線は崩壊、ただベルリン陥落を早めるだけの結果に終わります。
 
 
 だとすればこの戦略予備を、ベルリン東方を守るゴットハルト・ハインリキ上級大将のヴィクセル軍集団に配属してほしかった!!!名将である彼にこの部隊を預ければ史実以上の見事な防衛戦を演じてくれたに違いありません。
 
 ゼップ・デートリッヒ(SS第6装甲軍司令官)に、このような大作戦を指揮させるのは荷が重かったのでは?実際バルジの戦いでも活躍したのはマントイフェル率いる第5装甲軍のほうでしたからね。
 
 
 ヒトラーの国防軍不信、武装親衛隊(SS)重視の弊害は戦史上多くの失敗をもたらしていますね。

« 2011年11月 | トップページ | 2012年1月 »