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2011年12月 1日 (木)

大村益次郎      - 明治陸軍の父 -    (前編)

 国民的歴史作家、司馬遼太郎の代表作の一つ「花神」(中国の伝説でいう花咲じじいのこと)で有名な大村益次郎。ただし、一般にはあまり知られていないようでむしろ歴史通によれば玄人受けする人物です。
 
 大村益次郎は若いころ村田蔵六と名乗っていました。そのまえは良庵。代々周防国(山口県南部)の村医で良庵というのは屋号でした。村人にいちいち「若良庵先生」と呼ばれるのが面倒くさくて自分で良庵と名乗るようになったそうです。なかなか素敵な性格みたいですね(爆)。
 
 
 長州領に生まれながら、江戸時代の身分制度では百姓。平時なら村のお医者さんとして平凡な一生(少し変りものと言われながら)をおくったに違いありません。
 
 
 が、時代の空気だったのでしょうか?蔵六は豊後日田の漢学者広瀬淡窓の咸宜園で学んだのを皮切りに1846年には大阪に出て緒方洪庵適塾で学びます。
 
 
 適塾は医学の塾でしたが、同時に西洋の語学や科学を学ぶ当時の総合大学でもありました。適塾の塾頭といえば諸藩が数百石の石高で雇いに来るほどの存在です。蔵六はここで頭角を現し塾頭にまでなります。適塾は蔵六を始め大鳥圭介、福沢諭吉、高松陵雲、橋本佐内ら錚々たる人材を輩出しました。
 
 
 が、蔵六に運が無かったのかそもそも本人に欲がなかったのか?(私は後者のような気がします)、1850年帰郷しもとの平凡な村医に戻るのです。
 
 
 時代はそんな蔵六を埋もれさせてはいませんでした。適塾やその医学界のルートを辿って宇和島藩からスカウトされます。当時ペリー率いる黒船来航に衝撃を受けた宇和島藩侯伊達宗城は、自分たちの手で黒船を建造すべく蔵六を呼び寄せたのでした。
 
 蔵六は、専門外ながら洋書を読み天才的な職人らと協力し曲がりなりにも動く蒸気船(ただし外洋航海は無理だったらしい)を作り上げるという偉業を達成します。ちなみにこの宇和島でシーボルトの娘で女医であった楠本イネとのロマンスがあったそうです。
 
 
 この噂は江戸にまで伝わり、蔵六が1856年藩侯に従って江戸に出府すると幕府講武所教授に任命されます。一介の村医が宇和島藩士(ただし客分扱い)から今度は直参旗本にさえなれる地位にまで登ったのです。学問の知識一本で!
 
 実際、幕府からは直参にならないかと何度も誘いを受けていたようです。適塾の仲間たちの中にも福沢諭吉や大鳥圭介らはこの誘いを受け幕臣になっています。
 
 
 しかし、郷土をこよなく愛する蔵六には幕臣という選択肢はありませんでした。
 
 尊王攘夷運動で藩内が炎上している長州でも、一部冷静な者たちは洋式装備で藩兵を近代化しなければどうにもならないと思い始めます。調べてみると長州出身の者が幕府講武所の教授をしているとのこと。しかも宇和島藩士の資格さえ有している事が分かります。
 
 長州藩の代表であった桂小五郎(のちの木戸孝允)は蔵六のもとを訪ねました。二人はここで意気投合し、蔵六は長州に戻る事になりました。宇和島侯は蔵六を手放す事を渋りますが、故郷長州に戻りたいという蔵六の強い願いを受けてようやく許されました。
 
 
 幕府講武所教授といえば幕臣として千石をとってもおかしくない存在でしたが、桂以外大村の価値を理解できない長州藩では初め蔵六は冷遇されました。元百姓身分ということが門閥の藩上層部にとっては問題だったのでしょう。正式藩士になったのはかなり後の事でした。
 
 しかし地位や名誉が欲しくて故郷に戻ったわけではありません。蔵六は桂との友情だけを頼りにして秘かに藩の近代化を進めます。
 
 蔵六の写真を見ると分かりますが、随分額が広い顔です。こういう顔は数学的才能が高いそうですが、これが合理的な改革をなし得た理由でしょう。また、もともと医者であった蔵六の軍事的才能は天分だったのかもしれません。
 
 蔵六の本質は戦術家ではなく戦略家ですが、部隊指揮でも活躍しています。ただ蔵六はかなり変わり者だったといわれています。
 
 夏に「今日は暑いですね」と挨拶されて「夏に暑いのは当たり前です」と答えたエピソードもあります。合理精神の権化と言われてはそれまでですが、このような性格ではまともな社会生活は送れません。理解者である桂がいなかったら村田蔵六は存在しなかったと思います。
 
 
 桂と蔵六の秘かな努力は、1865年幕府と長州藩が全面戦争に陥った四境戦争(第2次長州征討)でいかんなく発揮されました。禁門の変、馬関戦争で尊王攘夷から勤王討幕への道を驀進する長州藩。このままでは幕藩体制の根幹さえ揺るがしかねないと危惧した幕府による懲罰戦争でした。
 
 幕府の命によって集まった諸藩の兵は十二万人。一方長州軍は奇兵隊など武士ではなく百姓町人の志願兵からなる諸隊を主力とした七千あまり。普通なら勝負になるはずもありません。
 
 が、薩長同盟によって薩摩藩を介してグラバーから購入したアームストロング砲、ミニエー銃などの新式銃がありました。蔵六はこれら諸隊に洋式訓練を施し万全の準備を持って待ちうけます。
 
 幕府軍は安芸口、石見口、小倉口、大島口の四方向から攻め込みました。作戦を指導する蔵六はそのうち制海権を幕府海軍が握っている以上保持できないし、大勢に影響しない大島口は捨てました。
 
 そのため大島は上陸した幕府海軍と松山藩兵によってあっさりと占領されます。しかし幕府方が島で略奪暴行を繰り返したために島民の反発を生み、高杉晋作率いる奇兵隊が逆上陸して奇襲奪回しました。こうなると何のために占領したのか意味がなくなります。どちらにしても戦局の大勢には影響しない幕間劇ではありました。
 
 
 安芸口では、徳川幕府伝統赤備えの彦根藩井伊家が法螺貝を吹き戦国時代そのままのいでたちで攻め込みました。当時幕府には近代装備の幕府歩兵隊もいたはずですが、おそらく消耗するのを惜しんだのと長州を舐めていたこともあって後方で控えていました。
 
 
 長州軍はこれを山野で待ち伏せ新式のミニエー銃などで狙撃、たまらず幕府軍は潰走します。当時の幕府軍幹部の感想で「長州兵はゴミ拾いのような格好で来た」と言ったそうですが、これこそ近代戦を戦う格好だったのです。長州兵は伏せ撃ちで重い甲冑で動きの鈍い敵を遠くから狙撃したそうですから戦う前から勝負はついていました。
 
 
 また長州は幾多の戦乱の中で、藩主の支配する国というより領民すべてが一つとなる一種の公国を形作っていました。奇兵隊などはまさにその象徴でしょう。そうしないと藩が滅びるということもあったでしょうが、村田蔵六の洋式軍隊育成も大きな要因の一つだったかもしれません。
 
 
 最も蔵六自身にそのような意識があったかは疑問です。彼はあくまで技術屋でした。政治は桂小五郎たちに任せ、自分は専門分野である軍隊育成に力を入れる、おそらくそういう考えだったでしょう。
 
 
 その意味では、長州藩は一足先に明治維新を迎えていたといえます。藩主毛利侯はただの象徴にすぎませんでした。桂や高杉ら勤王討幕派が主導し全藩をあげて旧支配体制に抵抗する革命国家になっていました。
 
 
 幕府軍には会津など一部過激な藩はいましたが、大半は嫌々駆り出されて戦意の低い軍隊でした。薩長同盟を秘かに結んでいた薩摩藩は公然と出兵を拒否。これに近代的洋式軍隊を持ち自信がある佐賀藩も同調します。なによりも安芸口の戦場になっている広島藩浅野家さえ「この戦に大義なし」として出兵するのを拒んだくらいでした。そればかりか広島藩勤王派の巨頭、家老辻将曹は秘かに使者を送って長州藩と結んでいます。
 
 こういった西国雄藩の公然たる非協力に対してさえ、実質なにもできない幕府はすでに瓦壊が始まっていたのかもしれません。そして実際に戦場で戦っている諸藩も心の中では長州に対する同情さえありました。
 
 どの藩にも勢力の大小はあれ勤王派が確実にいたからです。
 
 
 
 安芸口の戦いは、国境線で膠着しました。戦いは幕府老中小笠原長行の率いる小倉口、一橋慶喜の実弟が藩主(松平武聰)をする浜田藩に鳥取藩、紀州藩が応援する石州口に局面が移っていきます。
 
 小倉口では高杉晋作率いる奇兵隊、そして石州口では村田蔵六自らが部隊を率いて戦う事になりました。
 
 
 中編、後編では、これら両戦線での長州軍の戦い、鳥羽伏見から始まる戊辰戦争における村田蔵六(大村益次郎)の戦いを見て行こうと思います。

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