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2012年1月

2012年1月 4日 (水)

日向米良(めら)氏の謎

 前記事に引き続き、超マイナーな宮崎ローカル史ネタです。あまり興味を持つ方はいないと思いますが(苦笑)、長年の疑問が解決した嬉しさで記事にしてしまいました!
 
 宮崎県の西部九州脊梁山地の奥深く、米良(めら)地方に米良氏という豪族がおりました。少しでも興味を覚えてもらうために映画「もののけ姫」で主題歌を歌った米良美一氏がたぶん子孫らしいというコアネタを投下しておきます。本名だったら多分そう。宮崎県西都市出身だし。米良地方は今の西米良村と西都市の西半分を含みますから。(ちなみに前記事の椎葉地方の南にあたります。どちらも山岳地帯で貧しい地方でした。)
 
 簡単に米良氏の略歴を記しておくと、肥後守護菊池家嫡流最後の当主能運(よしゆき、1482年~1504年)が一族の有力者だった叔父、宇土為光と家督を巡る争いを起こした時、一時劣勢に陥り最後の決戦前に後顧の憂いを断つため、嫡男重次(重為とも)を含む妻子を弟重房に託し日向米良地方に落としたのが始まりといわれています。
 
 結局菊池能運は宇土為光との決戦には勝ったものの、その時の矢傷がもとで亡くなり以後菊池家は家督を巡って一族が相争い急速に弱体化、最後は豊後の大友宗麟に滅ぼされました。
 
 こういった事情でしたから能運は妻子を呼び戻す余裕も時間もなく、しかたなく重房は甥重次をもりたて米良地方に土着したといいます。この重次が米良氏初代で、以後米良庄を中心に日向内陸部に勢力を張り、一族が各地に広がり伊東氏や相良氏など近隣の大名に仕える者も出てきました。お世話になっている保科媛さんのブログ
で紹介されている大河平(おこびら)氏なども米良庶家のひとつです。
 
 米良氏は戦国の荒波を上手く泳ぎ切り関ヶ原では徳川家康に味方したことから、本領安堵を勝ち取り隣国人吉藩相良氏の付庸(独立は認められているものの宗主国【この場合は相良氏】に従属して保護を受ける関係)となります。その後子孫は表交代寄合の一家となり、代々石高は一万石に満たないものの大名並の扱いを受け幕末に至りました。
 
 
 ところで、米良氏ですが重房、重次下向以前(1503年より前)にどうも菊池系の米良一族がいたらしいのです。重次一行を重房の叔父武照が出迎えたという記録があります。この武照は武家家伝の系図では能運の父、重朝の弟となっています。ただ他の系図では載っていなくてはっきりしません。
 
 
 
 ここからは私の勝手な想像で資料的な裏付けはないんですが、菊池氏は万が一のために日向米良地方を一族の避難場所にしていたのではないかと考えています。
 
 といいますのも、南北朝時代菊池一族は何度か本拠隈府城(わいふ、現菊池市)を追われ行方不明になった時期があるのです。そして敵の勢力が衰えた時忽然と現れ旧領を奪回したということが何度となくあります。
 
 私は五家荘(ごかのしょう、これも熊本県東部の山岳地帯)あたりに隠れていたと想像していましたが、それなら米良まで下っても不思議ではないし、ある程度地盤を持っていなければ再起もおぼつかないだろうと考えた次第です。米良も椎葉も五家荘も平家落人伝説があるくらいですから人跡未踏の秘境です。下界の人間がおいそれと近付く事が出来ないからこそ、戦いに敗れた勢力が逃げ込むには絶好の土地だったのでしょう。
 
 私の想像では、菊池氏が米良地方と関係を持ったのは南北朝時代、もっといえば菊池武光が北朝方の守護、畠山直顕(ただあき、なおあき)討伐で日向に入った時に目を付けたのではないかと考えています。
 
 以後、菊池氏の最後の逃げ込み場所、再起のための隠れ里として米良に一族を派遣し支配を固めていたのではないでしょうか?
 
 ちなみに大河平氏(詳しくは保科媛さんのブログ参照)は菊池氏六代隆直の三男菊池五郎隆俊が八代に入り八代氏を名乗ったのが始まりとされますから宗家とはかなり離れています。しかも米良に下った時期が大友氏との争いの後(おそらく大友氏から菊池氏に養子に入り家督を継いだ大友義武と大友義鎮(宗麟)との合戦)だそうですから、米良と菊池一族とのネットワークを頼って逃げ込んだのだと思います。
 
 
 武家家伝米良氏で、幼君重次を擁して肥後から米良に入った重房一行に対し、鈴木・銀鏡・奥松ら米良の豪族らは山民を引き連れて出迎えたとされます。菊池家嫡流の重次が米良一族の惣領となるのは自然なことだったでしょう。こうして重次の子孫たちが米良一族をまとめ団結して日向内陸部に勢力を扶植していったのだと考えます。
 
 
 これが一番自然な解釈だと思いますが、皆さんどう思われますか?と、その前に誰も読んでないか?(核爆)

椎葉一揆 - 平家落人伝説余話 -

 もうかなり以前の記事になりますが、椎葉村に伝わる平家落人の姫鶴富(小松内大臣重盛の子孫と伝えられる)と扇の的で有名な那須与一の弟大八郎宗久の悲恋伝説を覚えておられるでしょうか?
 
 実は二人の間に生まれた子供の子孫がその後連綿と続き日向国(宮崎県)椎葉地方の領主として戦国時代まで続いてきたのです。
 
 戦国時代当時、椎葉地方には那須大八郎の子孫と称する那須十三人衆と呼ばれる豪族が支配していました。地図を見てもらえば分かると思いますが、九州脊梁山地の奥深く貧しい土地でしたから地域としては広大でも石高はおそらく一万石にも満たない、下手すると五千石くらいだったかもしれません。
 
 そんな土地に十三人も土豪がひしめき合っていたんですから各勢力は庄屋(東日本では名主)に毛が生えた程度の勢力だったと想像されます。
 
 日向平野部の勢力もあえて貧しい山間部に侵攻しようとはせず、反抗しなければ本領を安堵するという緩やかな従属関係で満足していました。戦国時代に日向最大の勢力を誇った伊東氏もそういう関係を那須一族と結んでいたのです。
 
 しかし豊臣秀吉による全国政権が誕生するとそうもいかなくなりました。那須一族は積極的に豊臣政権に近づき本領安堵を勝ち取るべく盛んに運動しました。
 
 そのなかで椎葉向山城主(むかいやま、東臼杵郡椎葉村不土野向山日当)那須弾正と小崎城主(東臼杵郡椎葉村大河内小崎)那須主膳の兄弟と大川内城主(おおかわうち、東臼杵郡椎葉村大河内城)那須兵部大夫は那須三人衆と呼ばれ、それまで対等であった十三人衆の中で優位に立ちます。
 
 というのは那須弾正が秀吉の鷹匠であった落合新八郎を饗応したことで気に入られ鷹巣山管理の御朱印状を与えられたのです。中央政権が徳川家康に代わっても御朱印状は受け継がれそのために那須兄弟と兵部大夫(これも兄弟といわれる。そうでないにしても近しい一族であった事は間違いない)は椎葉領の指導的立場となり他の那須一族を支配しました。
 
 何事もなければ平和な山村の一エピソードとして終わる話ですが、那須弾正という男は御朱印衆という立場に溺れ驕慢の振る舞い甚だしく他の一族に嫌われました。
 
 弾正は子供のころから利発で学識も豊かだったと伝えられます。そのために落合新八郎の価値に気付き手厚い接待をする事で御朱印状を勝ち取るのですから並の男ではありませんでした。
 
 一方、己の才を誇る軽薄才子だったようです。年貢の取り立ても厳しく領民たちを使役して苦しめました。我慢の限界に立った那須一族は一斉に立ち上がり、一度は隣国延岡(縣)藩高橋元種の取りなしで収まります。
 
 が、不満はくすぶっていたのでしょう。元和四年(1618年)椎葉領で最大の一揆が起こります。これを椎葉一揆あるいは椎葉山騒動と呼びます。那須一族他椎葉全村が立ち上がったといいますから凄まじい一揆です。
 
 一番怨嗟の対象になっていたのは弾正でしたから、一揆勢はまず向山城に攻めよせます。弾正は死去し息子久太郎が跡を継いでいたとも言われますがどちらにしろこの時殺されるので同じ事です。
 
 ところでこの城には主膳の息子仙千代もいました。15歳、横笛が巧みで紅顔の美少年だったと伝えられます。叔父弾正は好学の士で書物も豊富でしたのでそれを学ぶために滞在していたそうです。
 
 仙千代は気立ても優しくむしろ領民からは好かれていましたが、殺気立ち理性を失っている一揆勢は弾正と共に仙千代も斬殺してしまいます。城に火をかけられことごとく焼失したといわれますから恨みの深さがわかります。
 
 最愛の一人息子を殺された主膳でしたが、一揆勢に報復することなく単身江戸表にでて幕府にこの事を訴えました。事態を重く見た徳川幕府は阿部四郎五郎正之、大久保四郎左衛門忠成に一揆の鎮圧を命じ九州に下向させます。
 
 実際の鎮圧は隣国人吉藩相良氏に出兵命令が下りますから、もしかしたら人吉までは来たかもしれません。
 
 同じ日向国内の延岡藩ではなく他国であった肥後人吉藩になぜ命令が下ったかですが、延岡藩(当時有馬氏)は地元の大名ではなく、他所者を椎葉領に入れれば火に油を注ぐとの判断でしょう。その点人吉相良氏は鎌倉以来の土着大名で昔から日向との交流もあったことから白羽の矢が立ったものだと推察されます。
 
 自分に関係のない相良氏にとってはいい迷惑だったと思いますが幕府の命には逆らえません。主膳の案内で椎葉領に入り首謀者であった反御朱印派の那須一族を捕え関係者140人余りを斬首したと伝えられます。一揆側の女性たちもことごとく自害するなど戦後処理は過酷を極めました。
 
 一揆の原因を考えれば喧嘩両成敗で主膳らにも御咎めがあるのは当然でしたが、大権現様(家康)の御朱印衆であることを考慮し一揆側だけが弾圧されました。世にこれを「千人ざらえ」と呼びます。
 
 椎葉領は幕府から阿蘇大宮司家に管理を任されますが、一揆の不公平な裁定で統治が上手くいかなかったのでしょう。明暦二年(1656年)からは幕府天領となりその支配を人吉藩相良氏に命じます。
 
 またもや関係ないことで人吉藩にとっては迷惑この上なかったでしょうが、椎葉は明治維新まで天領として続きました。幕府の命令とはいえ不公平な裁定をした張本人でもある人吉藩としてはさぞかしやりにくかっただろうと同情します。
 
 生き残った那須氏(主膳たち)ですが、御朱印衆として鷹巣山管理権だけは残されたかもしれません。このあたり資料が見つからなくて何とも言えませんが…。
 
 
 那須大八郎と鶴富姫のロマンスが、時代を経てこのような凄惨な結末になるのですからやり切れません。
 
 伝説では椎葉の平家落人たちは平和を願う愛すべき人たちだったのですが…。

鉄の道、海の道

 東南アジアを中心に文明の伝播について考えています。前回は稲作について考察したわけですが今回は製鉄技術について考えたいと思います。
 
 
 日本最古の製鉄遺跡といえば今のところ広島県三原市の小丸遺跡だと言われますがだいたい3世紀頃で古墳時代初期か弥生時代晩期とされます。そして製鉄技術は朝鮮半島から渡って来たと一般に言われます。
 
 朝鮮半島では紀元後(何世紀かは不明)半島南部に製鉄遺跡が見つかっていますが、これは中国から渡ってきた技術でした。
 
 では中国ではどうでしょうか?最古の製鉄遺跡はだいたい紀元前8世紀頃のものが河北省で見つかっています。しかしこれは鋳鉄(鋳型に流し込んだだけのもの)で、脆く壊れやすいものでした。
 
 実は鉄器自体は青銅器とそう変わらない時期に見つかっているのです。しかし銅と錫の合金である青銅器のほうがはるかに強靭で鉄よりも融点が低い(鉄1200度に対し700~900度)ので世界中で急速に普及しました。
 
 鉄器が青銅器にとって代わるのはアナトリア(現在のトルコ半島)に勃興した古代帝国ヒッタイトにおいてでした。ヒッタイト人は錬鉄を木炭に混ぜて熱し、ハンマーで叩くという工程を繰り返すことで、青銅より硬くて強靭になる事を発見し所謂「浸炭法」を確立します。紀元前1500年頃のことです。
 
 こうしてできた鋼(はがね)は青銅製の武器を駆逐し、ヒッタイトはオリエント世界においてにわかに強大化しました。しかし浸炭法は莫大な火力を必要としそのための木炭を製造するために森林を伐採したため、国土が荒廃し最期は海の民という謎の民族の侵攻をうけ紀元前1200年滅亡します。
 
 浸炭法を独占していたヒッタイトが滅亡したため、新しい製鉄技術は世界に拡散しました。古代世界においてはインドが最も高い製鉄技術を持っていたと言われますが、これはヒッタイトと同じ印欧語族であるアーリア人に伝わったものでしょう。
 
 
 中国大陸で浸炭法が普及したのはおそらく戦国時代から秦漢時代にかけて。ですからヒッタイト滅亡から1000年ほど後になります。
 
 
 一方東南アジア、タイ東北部にあるバンドンプロン遺跡などは紀元前3世紀から2世紀の製鉄遺跡といわれています。どうもこの技術はインドから渡ってきたらしいのです。中国と同じ時期、あるいはそれより前に東南アジアで鉄器文化が栄えていたとすればどうでしょう?
 
 陸路から渡ってきたというよりインド洋など海路を伝って技術が伝播したとは考えられませんか?タイ東北部といえば6000年前とも言われる稲作と土器を使用したバンチアン遺跡があります。
 
 この地方にそういう技術的、文化的素養があったとしか思えないのです。もしかしたら浸炭法でない鋳鉄製造技術はもともと持っていたのかもしれません。
 
 
 製鉄技術が海路から伝わった傍証として、アンコールワットを建造したクメール王朝(カンボジア)や古代海洋交易民族として名高いベトナム南部にあった占城(チャンパー)王国はインドの影響を強く受けヒンドゥ-教や小乗仏教あるいはそれを基に独自に発展した宗教を信仰していました。
 
 
 また中国においても春秋戦国時代を通じて最も鉄器製造が盛んだったのは呉越の地(江蘇・浙江省)、次いで斉の地(山東省)と皆海に面しているのです。また蜀の地(四川省)も鉄器で有名ですがこれもインドや東南アジアに面しています。
 
 一説では三国志で有名な諸葛亮の南蛮遠征も交易路確保の他に良質な鉄を求める目的もあったといわれているほどです。
 
 ですから日本にも海路を通じて早くから製鉄技術が伝わっていた可能性があります。朝鮮半島南部も倭人が住んでいた可能性があり、こちらの鉄器も大陸からの伝播とばかりは言い切れないと思います。
 
 
 鉄器製造には木炭が必須です。森林が少なく伐採したら再生が難しい朝鮮半島より日本の方が製鉄にはかなり好条件だったのではないでしょうか?
 
 
 もちろん高度な浸炭法は大陸から朝鮮半島を通じてもたらされたとしても、最初の製鉄技術は案外日本と半島で時期的な差はなかったような気がします。
 
 
 皆さんはいかが思われますか?

稲の道、文明の道

 人類の文明発展の歴史を描いた傑作シミュレーション「シヴィライゼーション」では、最初に農耕の技術が与えられます。そして陶器の技術を発明して生産した農作物を貯蔵することで富(この場合は食料)の概念が生まれ、富を公平に分配するために筆記や法律が生まれ次第に文明は発展していきました。
 
 このあたりゲームデザイナー、シド・マイヤーの見識の高さが窺えますが、実際の人類の歴史においてもまず農耕が最初にきて人々が集住しそれがいつしか文明に発展していったのだと思います。
 
 
 日本人にとっては主食である米が文明の基礎にあるのは異論ないところだと思いますが、稲作が一体どこで始まったのか諸説あってはっきり分かりません。そこで私の勝手な推測で稲作伝播の歴史を考えたいと思います。最初に言っておきますが何の学術的根拠もないので悪しからず(苦笑)。
 
 
 中尾佐助著「栽培植物と農耕の起源」(岩波文庫)によると世界では最初に4つの農耕文化が誕生しました。
 
 いちばん有名なのはシリア・アナトリアを起源とし主に小麦・大麦などを栽培する地中海農耕文化です。アフリカ・ニジェール川流域を起源とし胡麻やヒョウタン・シコクビエを栽培するサバンナ農耕文化、マレー半島など東南アジアを起源としバナナ・タロイモ・サトウキビを主に栽培する根菜農耕文化、トウモロコシ・かぼちゃ・ジャガイモを主な栽培植物とする新大陸農耕文化があるとされます。
 
 稲作は地理的にいっても栽培植物の種類(サトウキビはイネ科)からいっても東南アジアおよびその周辺部で発祥した可能性が一番高いと思います。
 
 
 そこで一番に頭に浮かぶのが、このブログでも以前紹介した事のあるタイのバン・チアン遺跡。一説では6000年前の土器が見つかり稲作を行い家畜として豚を飼っていたことが発掘調査で明らかになっています。古代文明でも初期に属する遺跡で稲作の痕跡が見つかった事は意味があると思います。
 
 しかしこの文化を担った民族が良く分からないのです。現在この地に住んでいるタイ族やベトナム(越)族は北方から渡ってきたことが分かっていますので、可能性としてはクメール族か占城(チャンパー)を建国したチャム族なのでしょうが、どうも私見では直接の子孫ではないような気がします。
 
 むしろ何らかの理由(天変地異)で滅んだバン・チアンの人々から農耕を中心とした文化を引き継いだのがこれらの人々ではなかったかと考えています。
 
 バン・チアンのルーツを氷河期の海退でできたスンダ大陸で揺籃した初期の超古代文明に比定することもできますが、ここでは長くなるのと真剣に突き詰めるとかなりとんでも説になりそうなので割愛します(苦笑)。
 
 
 稲作の起源の一つとして良渚遺跡などに代表される長江文明(紀元前3000年~紀元前2200年)をあげる研究者もいますが、稲作技術が長江文明で発展したとしても発祥はもっと南だと私は思っています。
 
 といいますのも初期の稲作は棚田のように傾斜を利用した水田耕作だったはずだからです。むしろ雲南のような山岳丘陵地帯だった可能性が高いと思います。日本でも最初の稲作は棚田方式でしたから。
 
 
 ここでは最大公約数的に東南アジアから雲南を含む華南を稲作の起源地としておきましょう。それが同族であるタイ族や越族の広がった華中の長江流域に伝播し、稲作による文明が発展したのでしょう。
 
 
 しかし、中国古代史に詳しい方なら長江流域は中原地方に住む漢民族にとっては蛮夷の地、人口も少なく未開人の住む所というイメージが強いと思います。
 
 
 大規模な稲作は大きな人口を養う事ができるはずなのに、何故そのまま発展せず長江流域は衰退していたのでしょうか?
 
 
 私はここでも天変地異説を唱えたいのです。地図を見て頂くと分かると思いますが東シナ海に面する江蘇・浙江地方は低湿地が広がります。稲作を行うには好条件ですが大地震とそれに起因する大津波が襲えば壊滅的な被害をもたらすはずです。以前は大洪水説を考えていたのですが今はこちらのほうが可能性は高いと考えています。
 
 
 しかし住民がすべて死に絶えたはずはなく生き残った住民はどこかへ移動したはずです。私は長江文明の生き残りは黄河流域に移動したと推理しています。二里頭遺跡に代表される伝説の夏王朝は中国最初の王朝とされますが、その成立は紀元前2070年頃。一方長江文明が滅んだのは紀元前2200年頃。妙に年代が符合します。しかも夏王朝を開いた兎王の墓は浙江省会稽にあるのです!長江文明の生き残りが黄河流域で発展した麦作農耕民を征服して建てたのが夏王朝。その苛酷な支配に耐えかね反乱をおこして東方民族が夏を滅ぼして商を建国し、さらに同じ経緯を辿ってシナチベット語族系の西方の周民族が建国し数々の民族が混じり合って現在の漢民族を形成したのでしょう。
 
 一方、長江文明下で発展した稲作技術は周辺諸国にも伝播し、黒潮によって日本にももたらされたと考えます。旧来の説である朝鮮半島経由で稲作が伝わったという説は誤りなのではないでしょうか?長江文明からの伝播、あるいは華南・東南アジアからの海路を伝っての直接の伝播が現実的のように思います。
 
 さらに長江文明が滅んだ後は、稲作とともに人も多く逃れてきた可能性があります。
 
 朝鮮半島南部の稲作もむしろ日本列島から北上した可能性が高い。といいますのも半島南部に倭人が住んでいた可能性を否定できないのです。任那日本府とは日本の植民地ではなくそのものずばり日本民族が住んでいた土地だったはずなのです。
 
 
 いかがでした?以上日本に稲作が伝わった歴史を勝手に推理しましたが、皆様はいかが思われますか?

「マーケット・ガーデン作戦」  - 連合軍の『遠すぎた橋』 -

 30年以上前でしょうか。名匠リチャード・アッテンボロー監督、主演ロバート・レッドフォードを始めジーン・ハックマン、ローレンス・オリビエ、マイケル・ケイン、ショーン・コネリーなど趙豪華キャストで描いた「遠すぎた橋」という戦争映画がありました。
 
 ノルマンディ上陸作戦から3カ月、パットンに強いライバル心を抱いたモントゴメリーによる強引な作戦で大きな被害を出す連合軍。一将軍の功名心だけのために犠牲になった兵士のやるせなさを描いた作品でした。
 
 この映画のもとになったのがマーケット・ガーデン作戦です。
 
 
 作戦はどうして発動したのでしょうか?それには補給という深い事情がありました。ノルマンディ上陸作戦を成功させパリを開放、ドイツ国境に迫った連合軍でしたが内陸に進むにつれしだいに補給に苦しみ出すようになります。
 
 莫大な物量を誇る連合軍が補給不足だということに不思議な感覚を抱く方も多いでしょう。しかし機械化された師団は一日に300トンの物資を必要とします。アメリカ軍だけで48個師団130万の兵力の兵站線を維持するのはいかに大国アメリカといえども負担です。しかもドイツ軍もそれを見越して重要港湾都市には守備隊を残し、それらが頑強に抵抗しましたから輸送船から陸揚げするのも一苦労でした。
 
 しかも西ヨーロッパ最大の補給港であるアントワープはオランダ駐屯のドイツ軍が強力なため利用できずにいました。
 
 
 戦争の主役をアメリカ軍に持って行かれ面白くないモントゴメリーは、英軍主力の第21軍集団を使ってオランダのドイツ軍を排除、アントワープ港を使用可能とするとともに、あわよくばそこからドイツの心臓部というべきルール工業地帯に進撃し戦争の帰趨を決めてしまおうと考えます。
 
 しかし、あまりに博打にすぎるため連合軍最高司令官アイゼンハワーはこの作戦案を拒否しました。が米英の微妙な関係とモントゴメリーの強引さにアイゼンハワーはついに政治的に妥協してしまいます。
 
 
 こうしてマーケット・ガーデン作戦は実行される事となったのです。実は空挺作戦のマーケットと、それに呼応した地上軍のガーデンの二つの作戦名を合わせたものでした。
 
 まず空挺3個師団からなる降下部隊が国道69号線沿いの主要な5つの橋とアルンヘムを空から奇襲し占領する。
 
 次に、占領を確実なものにするため英第2軍の主力である第30軍団が機甲部隊を先頭にして北上、途中ドイツ軍を駆逐しつつアルンヘム占領中の空挺部隊と合流、オランダ守備のドイツ軍を包囲撃破し、あわよくばそのまま東進、ルール工業地帯に達するという野心的な作戦でした。
 
 
 これを読んだ皆さんは、一見して無理な作戦だと気付かれるでしょう。
 
 
 空挺部隊は地上の援軍が到着するまで占領地帯を死守しなければなりません。時間との勝負になります。一方守るドイツ軍は、地上軍の進撃を遅滞防御で遅らせ、その間に貧弱な装備しか持たない空挺部隊を料理すればいいのです。
 
 
 モントゴメリーが無茶とも言えるこの作戦を発案したのには、現地のドイツ軍守備隊が弱体化しているという先入観があったのだと思います。実際、正規師団はノルマンディ以来の激戦で消耗しオランダにいたのは空軍野戦師団や外人部隊、傷病から復帰した者を集めた師団など寄せ集めの部隊でした。
 
 
 しかし彼はドイツ軍を舐めていたとしか思えません。この方面を担当するドイツB軍集団司令官は東部戦線の火消し役として活躍した名将ヴァルター・モーデル元帥。現地の指揮官は空挺部隊出身のクルト・シュトゥデント上級大将でした。
 
 シュトゥデントは陸軍ではありません。空軍の将軍です。しかしイタリア戦線のケッセルリンクと同様空軍出身でありながら見事な指揮をする名将でした。
 
 
 彼は隷下の部隊を弱体化した師団中心ではなく、各地から集めてきた機甲部隊を核とするいくつかの戦闘団(カンプグルッペ)に編成し直しました。これで柔軟な運用をしようという意図です。
 
 
 マーケット・ガーデン作戦は1944年9月17日開始されます。
 
 まず空挺作戦は見事に成功しました。英軍降下部隊は次々と要所を占領します。散発的なドイツ軍の抵抗はあったもののほぼ成功と言える展開でした。
 
 一方、地上軍ですがこれも緒戦は順調に進みます。国道69号線を北上する戦車部隊は散発的な抵抗をするドイツ軍を排除しあとにつづく歩兵部隊はこの作戦の核とも言うべき橋を次々と占領しました。
 
 
 しかし、これこそ罠だったのです。快進撃を続ける機甲部隊と歩兵部隊の間隙が致命的な距離に達した時、伸びきった戦線を横撃するように東から戦車を中心とするドイツ軍の戦闘団が次々と波状攻撃をかけてきました。
 
 
 小回りのきくカンプグルッペ(戦闘団)は正面からは攻撃せず、一番脆弱な側面を攻撃しました。とくに補給部隊などは格好の攻撃目標です。
 
 それに対処するため英軍は進撃を止めて、襲撃部隊の相手をしなければならなくなります。貴重な時間はその度に費やされました。
 
 それでも強引に進んだ英軍は5つの橋のうち4つまでは達したといいます。しかしそれが限界でした。最後のアルンヘムの町を前にして進撃は停止、その間孤立した空挺部隊はドイツ軍の包囲をうけ全滅してしまいます。
 
 これ以上作戦を続けても犠牲が増えるばかりだと諦めたモントゴメリーは9月24日作戦の中止を命令。占領地の維持も難しいと判断され撤退する事に決まります。しかしここでも大きな犠牲が払われました。
 
 
 勝ち戦の中での敗北、米軍はモントゴメリーの軽率さを笑いましたが、しかしその直後米軍もアルデンヌの森で油断によって大きな犠牲を払う事になるのです。
 
 
 
 慎重居士として有名なモントゴメリーらしからぬ判断ミスでした。華々しい活躍をするパットンへの嫉妬心があったとも戦後イギリスの発言権を得るためとも言われていますが真相は分かりません。
 
 ただそのために死地に追いやられた将兵にとってはたまったものではなかったでしょう。
 
 
 
 最後に懐かしのアニメンタリー決断のOPナレーションをもじって終わりましょう。
 
「人生の最も貴重な瞬間は決断の時である。戦争はそのための多くの教訓を残している…」 

極東アジアの歴史 東胡、突厥(とっけつ)、蒙古

 日本古代史を考える上で極東アジアの古代史を理解しなければならないと思います。
 
 
 さまざまな民族の興亡史調べていくと、どうしても日本海からカスピ海にまたがる遊牧民族の歴史を無視できなくなります。
 
 古代においては特に文字をもたない彼らの歴史は、その周辺に位置する農耕民族の記録に頼るしかありませんでした。西洋ではオリエント諸国、ギリシャ、ローマ。彼らの史書によってスキタイという有力な遊牧騎馬民族が浮かび上がってきます。東洋においても然り。おもに中国の歴史書に記されています。東洋でも匈奴、鮮卑などが強大な勢力を築き、一時は中国を支配する事さえありました。
 
 もちろん農耕民族は略奪など被害を受ける側でしたから、これら遊牧民族を文化程度の低い凶暴な民族として悪いイメージでしか描いていません。確かに生産手段を持たない彼らは交易に頼るか略奪しかないのでそう描かれても仕方ない一面はありました。
 
 遊牧騎馬民族のなかでまず最初に中国の史書に現れるのは東胡(とうこ)という民族です。それ以前も狄など遊牧民族に近いと想像される異民族はいましたが、はっきり遊牧民族として支那人が認識したのは東胡が最初だったと思います。
 
 東胡はツングースの音訳とも言われる通り、ツングース系民族だとされます。匈奴よりもさきに強大化し戦国時代当時の燕、趙、秦の北辺を脅かします。後に強大化する匈奴さえ、英雄冒頓単于が登場する以前は東胡に服属するほどでした。
 
 しかし冒頓が登場すると策略を持って東胡を滅ぼします。東方に逃げた東胡の遺民のうち烏桓山に逃れた一派が烏桓、鮮卑山に逃れた一派が鮮卑となったとされます。
 
 
 ここで中国史に詳しい方は、鮮卑はモンゴル系だからツングース民族である東胡の末裔というのはおかしいじゃないか?と疑問に思われると思います。
 
 私も最初悩みました。しかし、遊牧民族の実態を知るにつれ一般に言う民族の概念と遊牧民族は違うという事が理解でしました。
 
 例えば匈奴の末裔と言われるフン族を見てみましょうか。イメージ的にはモンゴル系の顔立ちをした集団だと思いがちです。しかし実態はモンゴル系もいればコーカソイドもいるし、セム系もいるといった雑多な集団だったと考えられています。
 
 といいますのも、遊牧民族はすぐれた指導者がいれば民族に関係なく集まってきて集団を形成するという傾向があるのです。そうでないと厳しい草原で生き残っていけません。
 
 鮮卑の民族問題も、ツングース系もいれば蒙古系もいる。五胡十六国時代には鮮卑の指導層をモンゴル系が占めていたというだけだと考えます。
 
 古代満州の地にいた扶余族も鮮卑や契丹が強大になるにつれ生き残りのために合流したか、武力で吸収されたかどちらかだったと思います。一説では扶余の言語と鮮卑の言語が似ていたという説もありもともとは鮮卑もツングース系であったことの傍証になるかと愚考します。
 
 かつてモンゴル高原の主人公は突厥(とっくつ、とっけつ)でした。Turuk(チュルク)の音訳でしょうから、これはトルコ民族でした。蒙古がモンゴル高原の主人公になるのはチンギスハ-ン登場まで待たなければなりません。丁零、鉄勒も支配した一族が違うだけでトルコ民族である事は変わりません。名前の違いは時の中国王朝の当て字の違いです。ちなみに鉄勒から出たというウイグルもトルコ民族の一派です。突厥以前に、匈奴、鮮卑、柔然があるじゃないかと思った皆さん。貴方がたは歴史通です!
 ただ、かれらはたしかにモンゴル高原を勢力範囲に収めていましたが本拠地としてはやや南、中華文明に近いところに置いていたふしがあります。モンゴル高原を発祥の地とし本拠地として草原とシルクロードを支配することによって日本海からカスピ海にまたがる大帝国を築いたという意味では突厥が最初だったと私は考えています。それまでの遊牧国家は中国文明との関係でしか成り立っていませんでしたから。
 
 トルコ民族が日本海からカスピ海にまたがる大帝国を築き、その本拠を西に移したことから(セルジュークトルコ、オスマントルコ)手薄になったモンゴル高原に勢力を拡大したのがモンゴル族でした。
 
 
 このあたりは学術的知識が乏しいので自信ありませんが、おそらくトルコ族全盛期のモンゴル族は高原の周辺部から満州西部にかけて分布していたように思います。
 
 
 こうしてトルコ族の故地であったモンゴル高原は、文字通りモンゴル人の土地となりました。
 
 
 これら遊牧民族が民族としての記録を残していない事は残念でなりません。もし残っていればユーラシア大陸を東西に移動したさまざまな民族の歴史が明らかになるからです。
 
 
 
 そうなればイスラエルの失われた10支族も秦氏のルーツも解明できます。世界史のかなりの謎が分かるでしょう。私のようなアマチュア歴史ファンが悩まなくていいんですから(嘆)。

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