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2012年2月

2012年2月23日 (木)

「炭焼き小五郎伝説」考

【真名野長者伝説】
 
大和朝廷の時代、都に、顔に醜い痣のある姫がいたが、仏のお告げに従って豊後国深田に住む焼き小五郎の許へ行き夫婦になる。
2人は数々の奇跡により富を得て長者となり、1人の娘が生まれた。般若姫と名付けられた娘は都にまで伝わるほどの美女に成長し、1人の男と結婚するが、実はその男は都より忍びで来ていた皇子(後の用明天皇)であった。
皇子は天皇の崩御により都へと帰ることになったが、姫は既に身重であった為、「男の子が産まれたなら、跡継ぎとして都まで一緒に、女の子であったなら長者夫婦の跡継ぎとして残し、姫1人で来なさい」と告げて帰京してしまう。
産まれた子供は女の子であった為、姫は1人で船に乗り都を目指すが、途中嵐に会い周防国大畠に漂着する。村人による介抱も虚しく数日後に姫は逝去してしまう。
姫の死を悲しんだ長者は中国の寺に黄金を送ると共に、深田の岩崖に仏像を彫らせた。その仏像が現在も残る国宝臼杵石仏である。
という物語である。
 
 
 
                        - ウィキペディアより -
 
 
 炭焼き小五郎伝説は大分県を中心に全国各地に分布する伝説です。一種の貴種流離譚であり山で黄金を発見するというストーリーは炭焼きという仕事自体が鉄器製造を象徴し(浸炭法、木炭は鋼鉄の製造に欠かせない)、古代鉄器は黄金に匹敵する貴重品であった事と関係していると思います。
 
 いわば炭焼き自体が黄金を生む仕事だったのです。疋野長者伝説の記事でも書きましたが、炭焼き小五郎伝説の残るところには古代産鉄遺跡が多いと聞きます。少なくとも私の地元の熊本ではそうです。
 
 
 都の姫(美人であれ醜女であれ)が地方に住む炭焼き小五郎に嫁ぐというストーリーも、よく考えれば中央政権が婚姻政策で鉄生産を扱う技術集団を擁する地方の有力豪族と結びつく事を象徴していそうです。
 
 とすれば米野長者伝説でその富強を誇った古代豪族が滅ぶという話は、婚姻政策で取り込んだ古代豪族と中央政権の間に何らかの諍いが起こり豪族が都の兵力に滅ぼされるという事の仮託かもしれませんね。
 
 
 炭焼き小五郎伝説につきものの埋蔵金伝説ですが、これも実際に財宝があるわけではなく古代に失われた高度な産鉄技術を象徴しているのかもしれません。とすれば埋蔵金は永遠に見つかる事のない幻の財宝という事になります。

米原(よなばる)長者伝説  つづき

 前記事の米原長者伝説の続きです。といっても私が勝手に推理しているだけの話ですが…(汗)。
 
 
 熊本県玉名市から山鹿市に抜ける県道16号線沿い、山鹿平野にでる少しまえの丘陵に焼米(やいごめ)城という鎌倉時代の山城跡があります。ここの城主、焼米五郎は実在の人物で蒙古襲来の時に活躍した人だとか。
 
 場所は菊鹿町米原からはちょっと離れていますが、焼米氏という珍しい名前ですからもしかしたら米原長者の後裔かもしれないんです。
 
 前記事では伝説にすぎないと断じたのに子孫って矛盾しているだろ?という突っ込みは当然あると思います。
 
 
 ただ日岡山と米原長者の話は伝説でも、この地を治める古代豪族はいたのではないかと考えます。米原長者が用明天皇から「長者」号を授かったというのはこの地の古代豪族の支配権を朝廷が認めたことの証拠ではないかと思いました。
 
 実際、ここから数キロ南に下った鹿央町の千田聖母八幡には古代に卑弥呼に仮託される女王がこの地を治めていたという伝説もあるくらいですから。これは内田康夫の浅見光彦シリーズ「はちまん」でも紹介されているエピソードなんです。
 
 実はこの小説で千田聖母八幡の存在を知って現地に向かったくらいです(笑)。
 
 焼米氏はもしかしたら、この古代女王の末裔、そして米原長者にも仮託される古代豪族の末裔かもしれませんね。
 
 焼米氏と名乗るくらいですから、少なくとも鎌倉時代には米原長者伝説は存在した事になります。ただ焼米氏自体、その後どうなったか全く資料が見つからないんです。
 
 いつか地元の図書館で郷土史を調べてみたいと思っています。

米原(よなばる)長者伝説と鞠智城(くくちじょう)

 熊本県北部、山鹿市から菊池市に入る途中に山鹿市菊鹿町(旧鹿本郡菊鹿町)米原というところがあります。
 
 この地には昔米原(よなばる)長者がいたという伝説があります。おそらく全国各地に広がる炭焼き長者伝説の一つだとは思いますが簡単に紹介すると
 
 
 
【都のさる高貴な姫が夢枕に現れた観音様のお告げで肥後国菊池郡四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む小三郎という男に嫁ぐよう言われた。
 
姫が都からはるばる下って来ると、小三郎は炭焼きの貧しい生活をおくっていた。信心深い姫は観音様のお告げ通りこの男と結婚した。
 
ある時姫は小三郎に買い物を頼み金二両を渡したが小三郎は途中鷺を取るために投げつけ金を失ってしまった。
 
姫がその事を怒ると、小三郎は「そんなものなら裏山にいくらでもある」と答えた。二人が裏山に入って光り輝く場所を掘ると夥しい黄金が見つかった。
 
二人はこの黄金をもとに数百町の土地を買い米原長者と呼ばれる大金持ちになった。
 
用明天皇(在位585年 - 587年)の頃に朝廷から「長者」の称号を賜った米原長者は、奴婢数千人、牛馬3000を抱える大富豪になった。5000町歩もの田を持ち毎年一日で田植えするのが自慢だった。
 
しかし、ある時作業がはかどらず日没を迎えようとした。長者は黄金の扇を持ち出し、それを扇ぐと太陽を呼び戻した。
 
ところが田植えはそれでも終わらない。今度は西の日岡山に油を満たした樽3000を用意しそれを燃やす事で明かりを取り田植えはようやく終わった。
 
天はこういう長者の驕った態度を許さなかった。日岡山を突然突風が襲い夥しい火の粉が天を舞った。そして長者の広大な屋敷に降り注ぎ米や財宝を満たした倉も含めてことごとく灰燼に帰した。一瞬にして一文無しになった長者のその後は誰も知らない。
 
この影響で日岡山は草木一本生えない不毛の山となり、火の岡山と呼ばれるようになった。日岡山はそこから転じたものである。
 
ところで、今も長者の屋敷跡からは焼け焦げた米が出るという。】
 
 
 通常、炭焼き小五郎あるいは炭焼き長者伝説では「姫と結婚し黄金を発見、二人は幸せに暮らした」ところで終わるものです。
 
 ところが、米原長者伝説ではその後があるのです。なぜそうなったかというと、私は実際米原の地で焼け焦げた米が見つかったからではないかと推理します。
 
 
 
 といいますのも、この地は大和朝廷時代鞠智城(くくちじょう)という古代朝鮮式山城があったのです。大宰府の管轄にあった6城の一つで白村江の敗戦の後築かれたといいます。
 
 それも前線の大野城基肄城の兵站基地として大量の兵糧が備蓄されていたらしいのです。唐、新羅の侵攻に備えて築かれたもののその後の情勢変化で重要性を失い打ち捨てられたのでしょう。しかも失火などで倉が焼けたのではないでしょうか。
 
 
 時代が下り、鞠智城の存在を忘れた地元の人が、焼け焦げた米を発見して炭焼き小五郎伝説と結びつけて語ったのが米原長者伝説だったと考えます。
 
 
 皆さんはどのように思われますか?
 

元朝の成立   アリクブカの乱とフビライ汗(ハーン)

 皆さんはフビライ汗(ハーン)【1215年~1294年】という人物の名を聞いたことがあると思います。モンゴル帝国第5代大汗であり元朝の初代皇帝世祖。日本史では元寇を起こした憎っくき敵として記憶している人も多いと思います。
 
 しかしこのフビライという人物、なかなかの英雄でした。モンゴル帝国第4代モンケ汗の弟であり、兄から漠南漢地大総督として南宋攻略を任されていた人物です。
 
 同じ兄弟で弟のフラグが西アジア(ペルシャ方面)の征服を任されたと並び、モンゴル帝国内で重要な地位を占めていました。
 
 
 しかしあまりにも有能であったため兄モンケ汗から警戒され、南宋攻略は途中からモンケ自身が担当し一時フビライは冷や飯を食う状態に置かれます。
 
 
 ところがそのモンケ汗が1259年、四川省の南宋領を攻略中に病で突然死去してしまったのです。
 
 
 俄然現実味を帯びてきたモンゴル帝国大汗位を巡る争い。後を継ぐ資格があるのはモンケの幼い皇子たちと父ツルイの子のうち嫡流(正室の子)であるフビライ、フラグ、アリクブカの兄弟たち。
 
 このうちモンケの皇子たちはまだ幼いという理由で却下されました。フラグはペルシャで従軍中でしたので間に合わず、フビライとアリクブカが次期大汗位を巡る有資格者となりました。
 
 モンゴルをはじめとする遊牧民族では末子相続が普通です。実際弟アリクブカはモンゴルの本拠地であるモンゴル高原を受け継ぎ首都カラコルムにいました。
 
 一方、フビライは遠征中という非常に不利な立場に立たされます。しかもモンケとフビライが生前対立していたことからモンケの遺臣たちもこぞってアリクブカ支持に回りました。
 
 
 政治的立場では絶体絶命のフビライでしたが、圧倒的多数の軍隊を握っていたというアドバンテージがありました。大モンゴル帝国の東半分の兵力。しかも人口過密地帯の華北華中を手中に収め経済力でもアリクブカ陣営を圧倒していました。総兵力はおそらく数十万から下手したら百万は超えていたかもしれません。
 
 一方アリクブカ陣営は、実戦から離れて久しいモンゴル貴族たちの兵。
 
 フビライは自陣営の強化のためにすぐにはモンゴル高原には向かいませんでした。あえて南宋攻略を続け軍隊の掌握に努めます。
 
 フビライのもとには、漢人、色目人、女真人やモンゴルの成長過程で服属した遊牧民族たちが集っていました。彼らはアリクブカが後継者になれば追放されるか良くても冷遇されるかでした。しかしフビライが勝てば、その戦争で功績をあげることができ新政権で高い地位に就くことができます。
 
 フビライ軍は、これらの諸勢力の運命共同体的性格を帯びたのです。
 
 
 
 フビライが華北の地で大兵力を握って不気味な沈黙を続けていることは、アリクブカ陣営に無言の圧力を与えました。モンゴル貴族のうちでも少なくない者たちがアリクブカを見限りフビライ陣営に投じます。
 
 こうして戦略的に優位に立ったフビライは、やっと重い腰を上げ1260年北上を宣言します。
 
 本拠地であったドロン・ノール(現在の内蒙古自治区中部)でクリルタイ(モンゴルの部族会議)を開き大汗即位を宣言します。
 
 一方、アリクブカはフビライ即位の報を受けて慌ててクリルタイを開く始末でした。この時点でモンゴル帝国に二人の大汗がたったことになります。
 
 モンゴル帝国の兵力は征服事業のために南と西に集結し、本拠地モンゴル高原は兵力が手薄であったこともアリクブカ陣営にとっては誤算だったかもしれません。
 
 
 アリクブカはフビライに潜在的に敵対心を持つオゴタイウルス、チャガタイウルスと同盟すべきでした。チャガタイウルスはフラグの東帰こそ妨害しましたが、アリクブカから積極的働きかけがなかったためいまだに沈黙を保っていました。
 
 1261年、北上するフビライの大軍を迎え撃ったアリクブカはシムルトゥ・ノールの戦いで大敗してしまいます。
 
 モンゴル高原に敗走するアリクブカは、やっとチャガタイウルスとの連携を模索しますが後の祭りでした。しかもチャガタイウルスとの国境での小競り合いでチャガタイ家の人間を捕虜にしたばかりか殺すという致命的なミスを犯します。
 
 チャガタイ家から奪ったイリ渓谷で再起を図りますが、フビライ軍に戦略的に追い詰められ1264年ついにアリクブカは兄に降伏しました。最後には部下にも見限られ軍が解体するという哀れさでした。
 
 アリクブカは命だけは助けられますが、二年後寂しく病死したといいます。
 
 
 フビライは1260年即位のとき、国号を「元」と定めます。漢人官僚を集め中国風の中書省をはじめとする官僚制度を確立、王朝の基礎を築きました。アリクブカとの内乱中の1262年山東省で漢人軍閥の反乱がおこりますが、これを鎮圧しかえって中国支配を強化しました。
 
 
 国政の基礎を固めるとフビライは懸案の南宋攻略を再開しました。1279年には将軍バヤンによって南宋の首都杭州が陥落、事実上南宋を滅ぼします。高麗やビルマのパガン朝などをあるいは征服しあるいは服属させ空前の大帝国を築きました。元の拡大過程で起こったのが二度にわたる元寇です。(文永の役1274年、弘安の役1281年)。
 
 しかし晩年は、征服地で反乱が相次ぎ日本への三度目の遠征は沙汰やみになりました。フビライは1294年崩じます。
 
 
 
 元朝は1368年まで約百年間続きますが、最後は農民反乱(紅巾の乱)で追い詰められ明を建国した朱元璋に長城以北に叩き出され北元としてしばらく命脈を保ちました。
 
 1388年最後の皇帝トグス・テムルが殺されフビライ直系の血は絶えました。フビライ家断絶後はアリクブカの子孫が汗位を継いだりしますが、その後フビライ家が復権したりして良く分かりません。15世紀末明を苦しめたダヤン・ハーンはフビライ家の子孫(ただしオゴタイ家の後裔とも?)だといわれています。

フラグの西征  ④アインジャールートの戦いとイル汗国の成立 (完結編)

 マムルーク朝というのは、前代のアイユーブ朝の王統が絶えたため最後の王の夫人で奴隷身分であったシャジャル・アッ=ドゥッルをマムルーク軍団(軍人奴隷)バフリーヤが擁立、シャッジャルを女スルタンに立てる事で建国した王朝です。その成立から権謀術数が明らかなように、世襲ではなく時の権力者であるマムルーク軍団バフリーヤの実力者が、前スルタンを殺すか排除し即位して継いでいくという軍事国家でした。
 
 そのため侵略者モンゴルとは徹底的に戦うという事でマムルーク軍団幹部の意見は一致します。シリアやエジプトはもともと歩兵が主力ですが、キプチャクやトルコの遊牧民族出身が多かったマムルーク軍は、騎兵が主力でモンゴルの戦い方も見てきていました。モンゴルから戦術を学びその対抗策も考えていたに違いありません。
 
 「モンゴル軍恐るるに足らず」という気概があったのでしょう。
 
 1260年春、西方経略中のフラグのもとにモンケ汗死去の報が入ります。フラグは占領地をキドブハら将軍たちに任せ自らはモンゴル高原帰還の準備を始めました。
 
 
 そんな中、この事を知ってか知らずかキトブハはマムルーク朝に対して降伏するよう使者を派遣します。クトゥズがこれを拒否したためキドブハは兵を率い南下を開始しました。
 
 対するクトゥズはマムルークの主力を率いてこれを迎え撃つべく北上しました。バフリーヤの元同僚でクトゥズと対立してシリアに追放されていたバイバルスもマムルーク軍に加わります。
 
 9月3日、両軍はガリラヤの丘陵地帯で激突しました。兵力ははっきりしませんがマムルーク軍が12万前後、キドブハ率いるモンゴル軍が2万と伝えられます。モンゴル軍の兵力が少なすぎる気もしますが、いままでこれくらいの兵力差でも簡単に敵を撃ち破っていたので相手を舐めていたのかもしれません。
 
 ところが相手は戦争のプロであるマムルーク、しかもモンゴルと同じ遊牧民出身の騎兵軍でした。
 
 戦場には小さな川が流れていました。アラビア語でアインジャールート(ゴリアテの泉)。
 
 
 マムルーク軍は、全軍が直接モンゴル軍と当たるのを避け、まずバイバルス率いる先鋒隊が攻めかかりました。バイバルス部隊はモンゴル軍より少なく、戦闘はあっけなく決着します。バイバルスは敗走し、それをモンゴル軍が追撃しました。
 
 しかしこれはマムルーク軍の罠だったのです。いつのまにかマムルーク軍本隊の待ち受ける中に誘導されたモンゴル軍は絶体絶命の窮地に立たされます。
 
 それでもモンゴル軍はやはり強力でした。太鼓の音を合図に馬上から猛烈な矢の雨を注がれたマムルーク軍は立ち往生します。突撃もせず一瞬ひるんだ自軍に苛立ったスルタン・クトゥズは、馬上から己の冑をなげうつと真っ先に突撃しました。
 
 このあたり軍人スルタンの面目躍如なのでしょうが、さすがに主将にそのような勇気を見せられたらマムルーク軍も突撃せざるを得ません。戦いは一進一退の攻防を繰り返し昼過ぎまで続きました。
 
 が、実力が互角なら最後に物をいうのは数です。6倍近くの敵軍と互角の戦いを繰り広げたモンゴル軍でしたが、さすがにこの頃になると疲労の色を隠せなくなりました。モンゴル軍の主将キドブハは乱戦の中壮烈な戦死を遂げたとも、敗走して捕えられ処刑されたとも言われはっきりと分かりません。
 
 また戦いの経過も資料によってまちまちで、決戦の後に伏兵でやられたという説もありますが、上記の話の方が合理的なのでこちらを採用させていただきました。 
 
 
 キドブハの首は勝利の証としてカイロに送られ市場(バザール)に晒されたといいます。
 
 
 もしモンゴル軍の指揮官がキドブハではなく郭侃(かくかん)であったら違った結果になったかもしれないと思うと興味は尽きません。クトゥズは敗残のモンゴル軍を追って北上、輜重隊を襲い生き残ったモンゴル軍の家族も虐殺しました。シリアはマムルーク軍によってことごとく奪回され、以後フラグの領土になる事はありませんでした。
 
 
 キドブハの敗報を聞いたフラグ配下の諸将は激昂します。しかしモンケ汗亡き後の後継者レースに参加することを最優先するフラグは、若干の守備隊をシリア国境に送ったのみでした。またマムルーク軍もモンゴルと全面戦争する気はなく、あくまで防衛戦争でしたのでシリアを奪った時点で満足し兵を返します。
 
 
 モンゴル帰還の途中、フラグは同腹の兄弟であるフビライとアリクブカが大汗位を巡る抗争を始めた聞き自分が大汗位を継ぐ可能性がなくなったと悟ります。しかもアリクブカと同心するチャガタイウルスがフラグの帰還を遮ったためペルシャで自立する決意をしました。
 
 一方、フラグと途中まで同行していた郭侃は、フラグの自立に反対、単身東帰して1260年フビライに謁見、そのままフビライに仕える事となりました。その後、元朝の将軍として襄陽城を攻略するなど世界をまたにかけたスーパーマンのような活躍をします。ただあまりにも現実離れした活躍に西域での活躍は架空なのではないかという説もあります。
 
 
 フラグは首都をタブリーズに定め、イル汗国(フラグ・ウルス)を建国しました。シリア奪回とキドブハの仇を討ちたいフラグでしたが、モンゴル帝国の後継者争いとそれにつづく分裂でキプチャク汗国、チャガタイ汗国と対立関係に陥り、これらの対応に追われシリア以西にはついに進出できませんでした。
 
 
 アインジャールートの戦いはモンゴル帝国にとっては致命傷とならない局地的敗北でしたが、その膨張が止まったという意味で欧州史におけるレパントの海戦と同様大きな意味を持つと考えます。
 
 
 以後イル汗国は1353年まで約100年、消長を繰り返しながら続きます。最後はどのようにして滅びたのか分からないように分裂し消え去りました。
 

フラグの西征  ③アッバース朝カリフ国の終焉

 アジアからアフリカにまたがるイスラム帝国アッバース朝の首都として最盛期には人口百万を数えたというバクダード。
 
 しかしセルジュークトルコの侵入、その後のイスラム世界の混乱を経て宗教的権威はあるもののバクダード周辺を支配するだけの小勢力に落ちぶれていたカリフ国。
 
 それでも誇り高きカリフ、ムスタッシルにとってはモンゴルに屈する事は絶対にできない事でした。ハマダーンからバクダードに至るにはザクロス山脈を越えなければなりません。
 
 ムスタッシルは、将軍フサーム・アッデイーン・アカーを派遣してザクロス山脈の峠にある城塞を守らせました。モンゴル軍はキドブハを大将とする先鋒軍三万でこれに攻めかかります。
 
 衆寡敵せずカリフ軍を圧殺するとキドブハはそのままバクダードに攻め下りました。間もなくフラグの本隊も到着しバクダードはモンゴル軍によって十重二十重に包囲されます。
 
 フラグはムスタッシルに降伏を勧告しますが、これは拒否されました。各地を征服しトルコ人、アルメニア人、ペルシャ人などの兵力を合わせたモンゴル軍はバクダードを激しく攻め立てます。二十日間の攻防の末栄華を誇ったバクダードは陥落、ムスタッシルはついに降りました。
 
 
 フラグは、モンゴルが貴人の命を奪う時に行う、敷物に包み軍馬で踏みつぶすという方法でカリフを処刑しました。アッバース朝カリフ国はこれによって滅亡します。
 
 
 モンゴル軍に休息はありません。次はシリアが目標でした。キドブハと漢人将軍、郭侃(かく かん)は競うように別動隊を率いて各地を転戦、それぞれ数十の城を落として現地人を恐れさせました。
 
 
 郭侃はシリアから小アジアに侵入し十字軍とも交戦、連戦連勝で120余りの城塞を攻略し敵軍から「極西の神人」と恐れられました。
 
 一方、フラグの本軍はシリアの要衝アレッポを攻撃します。陥落すると例によって住民の大虐殺、生き残った者はことごとく奴隷に売られました。
 
 アレッポの次はダマスクスでした。アレッポの惨状を目の当たりにしたダマスクスは降伏しキドブハはダマスクスの占領軍司令官に任命されました。ついでシリア全土をモンゴル軍が平定するとキドブハはシリアの総督になります。
 
 フラグがその時どこにいたのかは不明ですが、もしかしたら後にイル汗国の首都になるアゼルバイジャンのタブリーズにいたのかもしれません。
 
 故郷モンゴリア高原と似て高燥であり、遊牧の適地であるばかりか麦の生産地でもある豊かなこの地はフラグを魅了しました。起伏に富みモンゴル人が白い海(チャガン・ノール)と称えるウルミア湖が横たわる美しい風景は戦いに明け暮れるフラグにとって一時の至福の時だったのかもしれません。
 
 
 しかし平穏の時は長く続きませんでした。モンゴルの圧政に耐えかねダマスクスの住民が反乱を起こしたのです。報告を受けたキドブハはすぐさま取って返しダマスクスを包囲すると45日の攻防の末鎮圧。ここでも大虐殺が行われました。
 
 
 シリアにおけるモンゴル軍の猛威は隣国エジプトのマムルーク朝を刺激しました。このままでは自国もモンゴルに滅ぼされるという恐れを抱いたマムルーク朝の第四代スルタン、クトゥズは逆に打って出る事によって活路を見出そうとします。
 
 
 
 次回、モンゴルとマムルークの一大決戦であるアインジャールートの戦い、そしてイル汗国の成立を描きます。

フラグの西征  ②暗殺者教団の最期

 フラグはツルイの五男(正室ソルカクタニ・ベキの子としては三男。妾腹の兄が二人いた)として生まれました。すぐ上の兄フビライほどには目立った存在ではなくどちらかといえば地味な存在でした。
 
 しかし彼はこの西方大遠征でペルシャを中心に西アジアに広大な領土を獲得しイル汗国(フラグ・ウルス)の建国者となります。
 
 フラグの西征軍がまず目標にしたのはアラムート城を中心にペルシャからシリアにかけて勢力を持っていたイスラム教シーア派の異端イスマイリ派ニザリ教団でした。
 
 ニザリ教団は正統イマーム(アリーの子孫でシーア派の指導者のこと)の末裔と称するハサン・イ・サバーが11世紀に開いた教団です。アリーの子孫たる教団のイマーム(指導者)を絶対としそれ以外の権威を認めないニザリ派はイスラム世界の異端として主流派のスンニ派ばかりでなくシーア派からも激しい弾圧を受けます。
 
 しかしその事が逆に信徒を団結させ、敵指導者を暗殺する事で対抗するようになります。絶対者たるイマームの命令を実行する事は死後楽園に行けると信じる彼らにとって暗殺は崇高な宗教儀式でした。
 
 ハサン・イ・サバーはペルシャ北部カスピ海南岸のエルブルズ山脈中にあった山城アラムート城を奪取し教団の本拠に定めます。時の権力者セルジュークトルコの討伐軍の攻撃を受けますが、難攻不落のアラムート城によって退け、逆にセルジューク朝の衰退にともなって教勢を拡大する始末でした。
 
 セルジューク滅亡後アラブ世界では小国が分立し、欧州から十字軍までが攻め込むというカオス状態に陥っていました。
 
 ニザリ教団は、暗殺の術を買われ敵対勢力から報酬を貰っては相手を暗殺するという仕事を引き受け、いわば必要悪として存在していました。アラブ諸侯の依頼を受け十字軍諸侯の暗殺を遂行したばかりか、その逆もありえましたから、どの勢力からも嫌われ、そしてどの勢力からも頼られたのです。
 
 アラブ世界の混乱に乗じ、各地に山城と領土を獲得したニザリ教団は、時には数万の軍勢で戦争できるまでに勢力を拡大します。
 
 モンゴル帝国が西方遠征をする前には、ホラズム帝国と激しい闘争を繰り返していました。そのためチンギス汗がホラズムに攻め込んだ時には「敵の敵は味方」という心理からモンゴルに服属を申し出たばかりかホラズムの情報をモンゴルに提供するということもします。
 
 
 しかしモンゴルの野心がペルシャ支配にある事を悟ると、ニザリ教団は遠くモンゴルの本拠カラコルムまで暗殺者を送るようになりました。この時は未遂に終わりましたが、モンゴル帝国にとってニザリ教団が不倶戴天の敵として認識されたのはこの時でした。
 
 1253年、モンゴル高原を発したフラグ軍はペルシャに侵入します。先鋒軍を率いるキドブハはペルシャ国境のニザリ教団の山城を次々と落とすと破竹の勢いで本拠アラムートに迫りました。
 
 
 この時教団内部では時のイマーム、ムハマッド3世とその子フールシャーが教団の支配権を巡って激しく対立していました。フールシャーは父ムハマッド3世を暗殺するとイマームに就任、各地のニザリ領に即位を宣言します。
 
 しかしそれを認めない領主もおり、教団は動揺しました。そんな中のモンゴルの侵攻だったのです。キドブハの軍がアラムート城に達する頃、抵抗の無駄を悟ったフールシャーはモンゴル軍に降伏、その身柄は遠くカラコルムに送られました。
 
 しかし、アラムート周辺の山城は降伏勧告を拒否激しく抵抗し、これらの鎮圧に半年以上もかかります。
 
 フールシャーはカラコルムへの道を急ぎますが、いまだ教団の城が各地で抵抗していることをモンケに指摘され、それらの降伏後でなければ拝謁を許さず、という厳命を受けすごすごと今来た道を引き返すことになりました。しかし、まもなく追いついたモンゴルの追手によって一行ことごとく斬殺されてしまいます。モンケが教団を生かすつもりは毛頭なかったことが分かります。
 
 
 モンゴル軍は教団に属する女子供も含めてすべてを虐殺しました。一か所で八万人殺戮したという記録もあるそうです。ニザリ教団はモンゴルの攻撃によって四散し、残党はインドに逃亡します。莫大な財産を持つというインドのマハラジャ、アガ・ハーンはニザリ教団イマームの子孫を称しています。近世にはいってからはもはや暗殺者を養う事は許されず、アラブの名馬を多数有する馬主として有名になりました。
 
 
 ニザリ教団を平定すると、フラグはカズヴィン近くに滞在しハマダーンを経て次の目標バクダードに向かいました。
 
 
 次回は、アッバース朝カリフ国の滅亡を描きます。
 

フラグの西征  ①発端

 ユーラシア大陸に史上空前の巨大帝国を築いた一大の英傑チンギス汗。彼の三男オゴタイが後を継ぎ征服事業は続けられます。まず女真族の建てた金朝を1234年に滅ぼし、1236年甥のバトゥ(チンギス汗の嫡男ジュチの子)を総大将とする欧州遠征軍を派遣しました。
 
 バトゥはロシア、ポーランドを席巻し1241年にはドイツ・シュレジェン地方のリーグニッツにおいてドイツ騎士団・ポーランド連合軍を撃破し欧州は風前の灯となりました。しかし1241年12月オゴタイ死去によってモンゴル軍が去ったためひとまず危機を脱します。
 
 モンゴル本国では三代汗位を巡って争いが起こりますが、有力だったチンギス汗の四男ツルイ家のモンケを抑えてオゴタイの子グユクが1246年大汗位を継ぎました。欧州遠征時に従軍していたグユクと不仲になっていたバトゥはモンケを推していた事もあってグユクに不満を持ち、モンゴルに帰還せずキプチャク草原で自立してしまいます。
 
 これがキプチャク汗国(ジュチ・ウルス ウルスはモンゴル語で国の意味)のはじまりです。
 
 その後グユクとバトゥの対立は決定的になりますが、2年後の1248年突如グユクは急死してしまいます。これにはバトゥの暗殺説もありますが酒色に溺れた結果という説もありはっきりしません。
 
 バトゥはそれまで帝国を牛耳っていたオゴタイ家チャガタイ家に対抗するためツルイ家と結び、後押しする形で第四代汗にツルイ家のモンケを就けました。
 
 このためオゴタイ家、チャガタイ家に潜在的な不満がたまります。モンケは帝国内におけるツルイ家の安泰を図るためにも弟フビライを南宋攻略担当、その下の弟フラグを西征担当司令官に任じました。
 
 西征の目的は、ホラズム帝国征服後一時的に統治下においたペルシャで起こった反乱を鎮圧すること、ペルシャ・シリアを中心に反モンゴル闘争を画策するイスマイリ派ニザリ教団(暗殺者教団)の覆滅、アッバース朝カリフ国を滅ぼすことでした。
 
 しかし同時に西アジアに親族を配置する事でチャガタイウルス、オゴタイウルスを牽制することもモンケの頭の中にはあったと思います。
 
 
 その意味では、さしもの大モンゴル帝国も瓦解が始まっていたといえるかもしれません。
 
 
 1253年、フラグは西征軍総司令官に任命されます。総兵力は12万。モンケは特に副将として信頼の厚いキトブハ、唐代の名将郭子儀の後裔と称する漢人将軍郭侃(かくかん)を付けるなど念の入ったものでした。
 
 キドブハという人物は、かってチンギスに対抗して滅ぼされたナイマン部の出身です。ネストリウス派キリスト教徒であり、ナイマン族自体がトルキスタンに接し早くから西方文化の影響を受け地理風俗に明るかったということも選ばれた理由でしょう。
 
 キドブハとはモンゴル語で「去勢した牛」の意味。去勢した牛のように勇猛なことから名付けられたといわれいています。父とともに幼少時からチンギス汗に仕えモンゴル軍の若き勇将として鳴り響いていました。
 
 まずキドブハが先鋒軍として二万騎を率いモンゴル高原を発します。最初の目標はペルシャ内に散在するニザリ教団の山塞群。
 
 
 次回は、暗殺者教団とモンゴル軍の攻防を描きます。

大月氏からクシャーナ朝へ (後編)

 高校世界史で習うクシャーナ朝、あるいはカニシカ王は北インドの征服者で仏教を保護したという事しか紹介されません。
 
 彼らクシャン族の先祖が月氏であり、もとは甘粛省から西域にかけて住んでいた遊牧民族だった事が紹介される事は稀です。
 
 
 遊牧民族が長い旅をはたし本拠から遠く離れた土地で新たな国を建国する、私はその事にロマンを感じます。大月氏しかり、トルキスタンの地に西遼(カラ=キタイ)を建国した契丹しかり…。
 
 
 仏教の保護者として偉大な足跡をはたしたカニシカ王ことクシャーナ朝第四代君主カニシュカ1世ですが、クシャン民族が記録を残していないためいつの時代に即位したかはっきり分かりません。
 
 西暦78年即位説、128年即位説、144年即位説などがあってはっきりしませんがだいたいニ世紀ごろの人物であろうといわれています。
 
 カニシュカ1世はクシャーナ朝の最盛期をもたらした国王です。彼の時代にガンジスまで達する北インドをほぼ統一し首都をプルシャプラ(現ペシャワール)に定めました。北はパミール高原を越え西は同じアーリア民族であったパルティアに接します。中央アジアからイランを通ってトルコに抜ける所謂シルクロードの支配権を巡って両者は激しく戦いました。
 
 パルティアの宿敵だったローマは、このクシャーナ朝に目をつけパルティアを通らずアレキサンドリアから直接海を渡ってインド洋を通る海洋貿易ルートを確立したともいわれます。ただ海の交易路はすでに紀元前から存在していたのは確実なのでローマとクシャーナ朝の連絡路が新たに整備されたということかもしれません。
 
 
 バクトリアのギリシャ・ヘレニズム文化、インドからもたらされた仏教文化はクシャーナの地で融合し花開きます。有名なガンダーラ仏教美術はまさにクシャーナ朝治下のアフガン東部パキスタン西北部のガンダーラの地で栄えたものでした。
 
 クシャーナ朝最盛期を築いたカニシュカ1世の治世は40年つづいたといわれています。
 
 しかし満ちれば欠けるは世の習い、英主なき後の王朝は緩やかな衰退を見せ始めます。一説では征服事業にともなう人民の負担が増大し、その反感を受けたカニシュカ1世の息子コータン王が父を暗殺したともいわれますが伝説にすぎないかもしれません。
 
 後を継いだのは太子フヴィシュカでしたから。
 
 フヴィシュカはさらに西方に国土を拡げたといいますが、帝国の中心は人口の面からも経済力の面からも北インド、ガンジス川上流にあった副都マトゥーラに移っていました。フヴィシュカの治世も40年。ついでヴァースディーヴァ1世(波調)が即位します。彼の時代は3世紀頃。中国魏に使者を送った記録が残っています。
 
 ヴァースディーヴァ1世は魏から親魏大月氏王の金印を授けられました。このことから中国人はクシャーナ朝を大月氏の後身と見ていたことが分かります。日本では邪馬台国、卑弥呼の時代。
 
 しかし、ヴァースディーヴァ1世得意の時代は長く続きませんでした。隣国ペルシャではパルティアを倒したササン朝ペルシャがまさに絶頂期を迎えようとしていたのです。
 
 ササン朝の英主シャプール1世と戦ったヴァースディーヴァ1世のクシャーナ軍は大敗し、ペルシャ辺境を含む西方領土のことごとくを失いました。ヴァースディーヴァ1世は失意のうちに亡くなります。
 
 クシャーナ朝にとって間の悪い出来事は続きました。今度はインドでチャンドラグプタ1世(在位320年 - 335年頃)がグプタ朝を建国、インドにおけるクシャーナ朝領を次々と蚕食していきました。グプタ朝二代サムドラグプタ(在位335年頃 - 376年頃)の時代にはクシャーナ朝はインドにおける領土をことごとく失いインド亜大陸から叩き出されます。
 
 こうしてアフガニスタン、カブールの一地方勢力に落ちぶれたクシャーナ朝ですが滅亡の時期ははっきりと分かりません。といいますのも衰退の過程でいくつもの小王国に分裂し最後は西から進出してきたササン朝ペルシャの支配下に置かれるからです。ササン朝第五代国王バハラーム2世(在位276年~293年)の時代です。
 
 
 以後クシャーナ朝はササン朝の王族を国王とする傀儡国家になります。ですから滅亡時期ははっきりとは分かりませんが大月氏の後裔であったクシャーナ朝は3世紀末には滅んだといえます。ササン朝支配のクシャーナ朝は、月氏クシャーナ朝と区別するためクシャノササン朝と呼ばれます。
 
 
 5世紀中ごろ、嵐は再び東方から起こりました。エフタル(白いフン族、白匈奴)と呼ばれる謎の民族が中央アジアに勃興、小国に分裂しながらも余喘(よぜん)を保っていたクシャーナ朝の残存勢力(キダーラ朝)を滅ぼしトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを制圧します。
 エフタルはササン朝を脅かし、インドにも侵攻してグプタ朝衰退の原因となりました。エフタルの脅威に恐れをなしたササン朝は、さらに東方に勢力をのばしていた突厥と同盟、死闘の末エフタルを挟撃して滅ぼします。
 しかしそれは、さらに突厥というより大きな脅威を招き入れるだけの事でした。エフタル、突厥との戦争で国力を使い果たしたササン朝ペルシャはアラビアの砂漠に起こったイスラム勢力に滅ぼされる事となります。
 大月氏の長い旅の終着点はどこだったのでしょう?いまアフガニスタンの地や、パンシャブ地方、トハリスタンに大月氏の痕跡はほとんど残っていません。わずかにガンダーラの仏教遺跡といくつかの都市遺跡、古墳がのこるのみ。
 シルクロードはあまりにも多くの民族が行き交いました。しかし一瞬ではあっても歴史に輝ける痕跡を残せただけ幸せだったのかもしれません。それ以外の多くの民族は流浪の末消えゆくのみでしたから…。
 遊牧民族大月氏の興亡を見続けたであろうガンダーラの石仏たち。貴重な歴史の生き証人を戦乱で失った事は残念でなりません。タリバンによる石仏爆破で大月氏の夢も同時に消え去りました。
 
                            (完)

大月氏からクシャーナ朝へ (前編)

 中国、春秋戦国時代から秦代にかけて北方では多くの遊牧民族の治乱興亡がありました。
 
 戦国時代、もっとも中国辺境を悩ましたのは東胡でした。ツングース系といわれのちには鮮卑として中国王朝を転覆さえしたほどの大勢力でした。ついで甘粛省から西域にかけて月氏と呼ばれる遊牧民族が台頭します。
 
 意外にも当時の匈奴は、代郡から黄河が几状に湾曲する内部、オルドス地方にかけて逼塞していた小勢力にすぎませんでした。
 
 しかし、秦末から漢初にかけて匈奴に頭曼、冒頓という二人の英主が登場してから北方の勢力地図は大きく変わりました。頭曼単于(ぜんう、匈奴をはじめとした遊牧国家の初期の君主号)は、秦が内乱で衰えたすきに一時秦に奪われていたオルドス地方を奪回。ついで息子の冒頓単于の時に最大の強敵であった東胡を撃破、東胡は東方に逃れ満州の鮮卑山に逃れたグループと烏恒(うがん)山に逃れたグループに分かれます。
 
 東胡は地名をとって鮮卑と烏恒を名乗り、しばらく逼塞の時を迎えました。
 
 次に冒頓は西方の敵、月氏に矛先を向けました。月氏は民族系統が不明ですが最近の発掘調査からアーリア系民族であったといわれます。その故地には諸説あって、敦煌付近が中心地であったという説と、アラル海アムダリア川流域が故地で東方に進出したという説、あるいは中心地はシルクロードを抑える甘粛回廊に移っていたなど諸説あってはっきりしません。
 
 
 冒頓率いる匈奴軍は、月氏を攻撃しその王を殺します。数度にわたる攻撃で月氏は甘粛回廊から完全に駆逐されシルクロードの支配権は匈奴の手に移りました。
 
 
 冒頓は月氏の王の頭蓋骨で酒杯を作ったとされます。残酷な話のようですが遊牧民族にはよくある話です。
 
 
 月氏は恨みを残しつつも匈奴の追撃を逃れ一方は青海省の山岳地帯に、一方はシルクロードを通って西に逃れました。以後、青海省に逃れたグループを小月氏、西方に逃れたグループを大月氏と呼びます。
 
 だいたい漢の孝文帝(前180年~前157年)の時代でした。
 
 
 大月氏はイシク湖畔(天山山脈北西、キルギスの北)に移動しました。しかしここにはすでに塞(さい、サカ族)という民族がいたとされます。大月氏は塞を駆逐しひとまずイシク湖畔に落ち着きます。これも世界史、なかでも遊牧民族の歴史ではよくあること。弱肉強食が当たり前、厳しいようですが負ける方が悪いのです。
 
 ただ、塞と大月氏さらにはスキタイを同一民族とする研究者もおり(どちらもアーリア系で共通している)はっきりした事は分かりません。
 
 大月氏にとってイシク湖畔も安住の地ではありませんでした。匈奴は同じ遊牧民族であった烏孫に命じて大月氏を討たせます。敵は徹底的に殲滅するのが草原の掟なのでしょう。大月氏はここでも敗北しさらに西へ逃れなければなりませんでした。
 
 しかし、烏孫の昆莫呉音:こんまく、漢音:こんばく、君主の呼び名)猟驕靡(りょうきょうび)が野心家であったことが功を奏しました。猟驕靡は匈奴の力を利用してジュンガリア盆地からイシク湖畔までの遊牧に適した土地を占領すると公然と自立し匈奴と敵対するようになります。烏孫も匈奴も月氏どころではなくなりました。
 
 
 大月氏はソグディアナ(アラル海にそそぐアムダリアとシルダリアの両大河に挟まれた肥沃な地)に達します。さらに大月氏はそこから南、トハリスタン(大夏、ギリシャ人国家バクトリア)を征服し新国家を建設しました。
 
 大月氏は五翕侯(ごきゅうこう、休密翕侯,貴霜翕侯,雙靡翕侯,肸頓翕侯,高附翕侯)を置いてこの地を分割統治します。
 
 
 ちなみに、漢の使者張騫が来朝したのは大月氏が大夏を征服し新しい国を建てた頃でした。漢は大月氏が恨みをもっている匈奴を共同して倒すために同盟を求めますが、人口百万とも称される豊かな大夏の地に安住していた月氏は同盟の申し出を断りました。張騫はなすすべもなく月氏の国を去ります。
 
 
 それから100年たちました。五翕侯のなかで貴霜(クシャン)翕侯が次第に勢力を拡大していきます。時の貴霜翕侯丘就卻(クジュラ・カドフィセス)は他の四翕侯を武力で滅ぼし貴霜王を名乗りました。
 
 これが世界史で有名なクシャーナ朝(クシャン朝)の始まりです。
 
 以後、ヴィマ・タクトゥ、ヴィマ・カドフィセスと王朝は拡大を続け四代カニシュカ1世(カニシカ王、仏教保護で有名)の時代にはカイバー峠を越え中央アジアから北インド一帯にまたがる大帝国に発展しました。
 
(後編につづく)

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