フラグの西征 ①発端
ユーラシア大陸に史上空前の巨大帝国を築いた一大の英傑チンギス汗。彼の三男オゴタイが後を継ぎ征服事業は続けられます。まず女真族の建てた金朝を1234年に滅ぼし、1236年甥のバトゥ(チンギス汗の嫡男ジュチの子)を総大将とする欧州遠征軍を派遣しました。
バトゥはロシア、ポーランドを席巻し1241年にはドイツ・シュレジェン地方のリーグニッツにおいてドイツ騎士団・ポーランド連合軍を撃破し欧州は風前の灯となりました。しかし1241年12月オゴタイ死去によってモンゴル軍が去ったためひとまず危機を脱します。
モンゴル本国では三代汗位を巡って争いが起こりますが、有力だったチンギス汗の四男ツルイ家のモンケを抑えてオゴタイの子グユクが1246年大汗位を継ぎました。欧州遠征時に従軍していたグユクと不仲になっていたバトゥはモンケを推していた事もあってグユクに不満を持ち、モンゴルに帰還せずキプチャク草原で自立してしまいます。
これがキプチャク汗国(ジュチ・ウルス ウルスはモンゴル語で国の意味)のはじまりです。
その後グユクとバトゥの対立は決定的になりますが、2年後の1248年突如グユクは急死してしまいます。これにはバトゥの暗殺説もありますが酒色に溺れた結果という説もありはっきりしません。
バトゥはそれまで帝国を牛耳っていたオゴタイ家チャガタイ家に対抗するためツルイ家と結び、後押しする形で第四代汗にツルイ家のモンケを就けました。
このためオゴタイ家、チャガタイ家に潜在的な不満がたまります。モンケは帝国内におけるツルイ家の安泰を図るためにも弟フビライを南宋攻略担当、その下の弟フラグを西征担当司令官に任じました。
西征の目的は、ホラズム帝国征服後一時的に統治下においたペルシャで起こった反乱を鎮圧すること、ペルシャ・シリアを中心に反モンゴル闘争を画策するイスマイリ派ニザリ教団(暗殺者教団)の覆滅、アッバース朝カリフ国を滅ぼすことでした。
しかし同時に西アジアに親族を配置する事でチャガタイウルス、オゴタイウルスを牽制することもモンケの頭の中にはあったと思います。
その意味では、さしもの大モンゴル帝国も瓦解が始まっていたといえるかもしれません。
1253年、フラグは西征軍総司令官に任命されます。総兵力は12万。モンケは特に副将として信頼の厚いキトブハ、唐代の名将郭子儀の後裔と称する漢人将軍郭侃(かくかん)を付けるなど念の入ったものでした。
キドブハという人物は、かってチンギスに対抗して滅ぼされたナイマン部の出身です。ネストリウス派キリスト教徒であり、ナイマン族自体がトルキスタンに接し早くから西方文化の影響を受け地理風俗に明るかったということも選ばれた理由でしょう。
キドブハとはモンゴル語で「去勢した牛」の意味。去勢した牛のように勇猛なことから名付けられたといわれいています。父とともに幼少時からチンギス汗に仕えモンゴル軍の若き勇将として鳴り響いていました。
まずキドブハが先鋒軍として二万騎を率いモンゴル高原を発します。最初の目標はペルシャ内に散在するニザリ教団の山塞群。
次回は、暗殺者教団とモンゴル軍の攻防を描きます。
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