元朝の成立 アリクブカの乱とフビライ汗(ハーン)
皆さんはフビライ汗(ハーン)【1215年~1294年】という人物の名を聞いたことがあると思います。モンゴル帝国第5代大汗であり元朝の初代皇帝世祖。日本史では元寇を起こした憎っくき敵として記憶している人も多いと思います。
しかしこのフビライという人物、なかなかの英雄でした。モンゴル帝国第4代モンケ汗の弟であり、兄から漠南漢地大総督として南宋攻略を任されていた人物です。
同じ兄弟で弟のフラグが西アジア(ペルシャ方面)の征服を任されたと並び、モンゴル帝国内で重要な地位を占めていました。
しかしあまりにも有能であったため兄モンケ汗から警戒され、南宋攻略は途中からモンケ自身が担当し一時フビライは冷や飯を食う状態に置かれます。
ところがそのモンケ汗が1259年、四川省の南宋領を攻略中に病で突然死去してしまったのです。
俄然現実味を帯びてきたモンゴル帝国大汗位を巡る争い。後を継ぐ資格があるのはモンケの幼い皇子たちと父ツルイの子のうち嫡流(正室の子)であるフビライ、フラグ、アリクブカの兄弟たち。
このうちモンケの皇子たちはまだ幼いという理由で却下されました。フラグはペルシャで従軍中でしたので間に合わず、フビライとアリクブカが次期大汗位を巡る有資格者となりました。
モンゴルをはじめとする遊牧民族では末子相続が普通です。実際弟アリクブカはモンゴルの本拠地であるモンゴル高原を受け継ぎ首都カラコルムにいました。
一方、フビライは遠征中という非常に不利な立場に立たされます。しかもモンケとフビライが生前対立していたことからモンケの遺臣たちもこぞってアリクブカ支持に回りました。
政治的立場では絶体絶命のフビライでしたが、圧倒的多数の軍隊を握っていたというアドバンテージがありました。大モンゴル帝国の東半分の兵力。しかも人口過密地帯の華北華中を手中に収め経済力でもアリクブカ陣営を圧倒していました。総兵力はおそらく数十万から下手したら百万は超えていたかもしれません。
一方アリクブカ陣営は、実戦から離れて久しいモンゴル貴族たちの兵。
フビライは自陣営の強化のためにすぐにはモンゴル高原には向かいませんでした。あえて南宋攻略を続け軍隊の掌握に努めます。
フビライのもとには、漢人、色目人、女真人やモンゴルの成長過程で服属した遊牧民族たちが集っていました。彼らはアリクブカが後継者になれば追放されるか良くても冷遇されるかでした。しかしフビライが勝てば、その戦争で功績をあげることができ新政権で高い地位に就くことができます。
フビライ軍は、これらの諸勢力の運命共同体的性格を帯びたのです。
フビライが華北の地で大兵力を握って不気味な沈黙を続けていることは、アリクブカ陣営に無言の圧力を与えました。モンゴル貴族のうちでも少なくない者たちがアリクブカを見限りフビライ陣営に投じます。
こうして戦略的に優位に立ったフビライは、やっと重い腰を上げ1260年北上を宣言します。
本拠地であったドロン・ノール(現在の内蒙古自治区中部)でクリルタイ(モンゴルの部族会議)を開き大汗即位を宣言します。
一方、アリクブカはフビライ即位の報を受けて慌ててクリルタイを開く始末でした。この時点でモンゴル帝国に二人の大汗がたったことになります。
モンゴル帝国の兵力は征服事業のために南と西に集結し、本拠地モンゴル高原は兵力が手薄であったこともアリクブカ陣営にとっては誤算だったかもしれません。
アリクブカはフビライに潜在的に敵対心を持つオゴタイウルス、チャガタイウルスと同盟すべきでした。チャガタイウルスはフラグの東帰こそ妨害しましたが、アリクブカから積極的働きかけがなかったためいまだに沈黙を保っていました。
1261年、北上するフビライの大軍を迎え撃ったアリクブカはシムルトゥ・ノールの戦いで大敗してしまいます。
モンゴル高原に敗走するアリクブカは、やっとチャガタイウルスとの連携を模索しますが後の祭りでした。しかもチャガタイウルスとの国境での小競り合いでチャガタイ家の人間を捕虜にしたばかりか殺すという致命的なミスを犯します。
チャガタイ家から奪ったイリ渓谷で再起を図りますが、フビライ軍に戦略的に追い詰められ1264年ついにアリクブカは兄に降伏しました。最後には部下にも見限られ軍が解体するという哀れさでした。
アリクブカは命だけは助けられますが、二年後寂しく病死したといいます。
フビライは1260年即位のとき、国号を「元」と定めます。漢人官僚を集め中国風の中書省をはじめとする官僚制度を確立、王朝の基礎を築きました。アリクブカとの内乱中の1262年山東省で漢人軍閥の反乱がおこりますが、これを鎮圧しかえって中国支配を強化しました。
国政の基礎を固めるとフビライは懸案の南宋攻略を再開しました。1279年には将軍バヤンによって南宋の首都杭州が陥落、事実上南宋を滅ぼします。高麗やビルマのパガン朝などをあるいは征服しあるいは服属させ空前の大帝国を築きました。元の拡大過程で起こったのが二度にわたる元寇です。(文永の役1274年、弘安の役1281年)。
しかし晩年は、征服地で反乱が相次ぎ日本への三度目の遠征は沙汰やみになりました。フビライは1294年崩じます。
元朝は1368年まで約百年間続きますが、最後は農民反乱(紅巾の乱)で追い詰められ明を建国した朱元璋に長城以北に叩き出され北元としてしばらく命脈を保ちました。
1388年最後の皇帝トグス・テムルが殺されフビライ直系の血は絶えました。フビライ家断絶後はアリクブカの子孫が汗位を継いだりしますが、その後フビライ家が復権したりして良く分かりません。15世紀末明を苦しめたダヤン・ハーンはフビライ家の子孫(ただしオゴタイ家の後裔とも?)だといわれています。
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