米原(よなばる)長者伝説と鞠智城(くくちじょう)
熊本県北部、山鹿市から菊池市に入る途中に山鹿市菊鹿町(旧鹿本郡菊鹿町)米原というところがあります。
この地には昔米原(よなばる)長者がいたという伝説があります。おそらく全国各地に広がる炭焼き長者伝説の一つだとは思いますが簡単に紹介すると
【都のさる高貴な姫が夢枕に現れた観音様のお告げで肥後国菊池郡四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む小三郎という男に嫁ぐよう言われた。
姫が都からはるばる下って来ると、小三郎は炭焼きの貧しい生活をおくっていた。信心深い姫は観音様のお告げ通りこの男と結婚した。
ある時姫は小三郎に買い物を頼み金二両を渡したが小三郎は途中鷺を取るために投げつけ金を失ってしまった。
姫がその事を怒ると、小三郎は「そんなものなら裏山にいくらでもある」と答えた。二人が裏山に入って光り輝く場所を掘ると夥しい黄金が見つかった。
二人はこの黄金をもとに数百町の土地を買い米原長者と呼ばれる大金持ちになった。
しかし、ある時作業がはかどらず日没を迎えようとした。長者は黄金の扇を持ち出し、それを扇ぐと太陽を呼び戻した。
ところが田植えはそれでも終わらない。今度は西の日岡山に油を満たした樽3000を用意しそれを燃やす事で明かりを取り田植えはようやく終わった。
天はこういう長者の驕った態度を許さなかった。日岡山を突然突風が襲い夥しい火の粉が天を舞った。そして長者の広大な屋敷に降り注ぎ米や財宝を満たした倉も含めてことごとく灰燼に帰した。一瞬にして一文無しになった長者のその後は誰も知らない。
この影響で日岡山は草木一本生えない不毛の山となり、火の岡山と呼ばれるようになった。日岡山はそこから転じたものである。
ところで、今も長者の屋敷跡からは焼け焦げた米が出るという。】
通常、炭焼き小五郎あるいは炭焼き長者伝説では「姫と結婚し黄金を発見、二人は幸せに暮らした」ところで終わるものです。
ところが、米原長者伝説ではその後があるのです。なぜそうなったかというと、私は実際米原の地で焼け焦げた米が見つかったからではないかと推理します。
といいますのも、この地は大和朝廷時代鞠智城(くくちじょう)という古代朝鮮式山城があったのです。大宰府の管轄にあった6城の一つで白村江の敗戦の後築かれたといいます。
それも前線の大野城・基肄城の兵站基地として大量の兵糧が備蓄されていたらしいのです。唐、新羅の侵攻に備えて築かれたもののその後の情勢変化で重要性を失い打ち捨てられたのでしょう。しかも失火などで倉が焼けたのではないでしょうか。
時代が下り、鞠智城の存在を忘れた地元の人が、焼け焦げた米を発見して炭焼き小五郎伝説と結びつけて語ったのが米原長者伝説だったと考えます。
皆さんはどのように思われますか?
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