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2012年3月

2012年3月12日 (月)

肥後における加藤清正③  横手五郎と首掛石

 熊本城を訪れた事がある方で、城内に首掛石という異様な形の石が置いてあるのをご覧になった人もいるでしょう。簡単にいわれが紹介してあるので御存じの方もいらっしゃると思います。
 
 ただそういう方も、今回の記事は微妙に違う解釈をしているので安心してお読みください(笑)。
 
 
 天正天草合戦から十年ほど後、おそらく関ヶ原直後の話だと思います。西軍の小西行長が関ヶ原で敗北、処刑され論功行賞によって肥後一国五十二万石を賜った加藤清正は、己が居城熊本城の完成を急がせていました。
 
 茶臼山を中心に隈本城(現第一高校あたり)と千葉城(現NHK熊本あたり)を包括する巨大な城を築城していた清正は慶長十一年(1606年)に天守閣を完成させたものの、完全に終わるにはさらに数年を要しました。慶長十五年(1610年)が完成の年だそうです。
 
 
 これほどの巨城ですから工事する人夫は領内ばかりか領外からも銭で集められました。その人夫のなかにひと際目立つ若者がいました。背が高いばかりでなく怪力無双で大人でも数人いなければ抱えられない大石でも軽々と抱え運ぶほどでした。
 
 
 若者の名を横手五郎といいました。伝説では熊本城横手堀を一人で掘ったともいわれています。もちろんあくまで伝説でしょうが、これほどの怪力でしたから清正は目をかけ召抱えようと思います。
 
 しかし家臣をやって身元を調べさせてみると、なんと天草合戦で清正が討った木山弾正の遺児だという事が分かりました。
 
 横手と名乗ったのは、肥後横手村(熊本市横手阿蘇神社のあたり)出身だからとも、弾正の親戚を頼って落ちのび肥前国諫早長田村横手で育ったからだともいわれていますが定かではありません。さらには正室お京の方との間の子か妾腹かもはっきりしていません。
 
 
 清正は五郎の正体を知り警戒します。仇である自分を殺しに来たのではないかと恐れたのです。一計を案じた清正は横手五郎を含む数人に井戸を掘るよう命じました。
 
 五郎らが井戸の深い穴を掘っていると、清正は上から大石を落とし他の人足ともども殺そうとします。はめられたと気付いた五郎は、なんと投げ込まれた大石を受け止めてはそれを軽々と投げ返しました。そればかりか石を井戸の底に積み上げだんだん上に登ってくるではありませんか!
 
 石では殺せないと悟った清正は、今度は砂を井戸の中に流し込みます。さすがに砂は投げ返せません。五郎と巻き添えをくった人夫たちは砂に埋まって殺されました。
 
 
 伝説では五郎と一緒に働いていた男が
「五郎どん、あんた人の数倍も働いとるがどうしてじゃ?」と聞いたところ
「もうじきこの城が自分のものになると思えば、仕事もはかどるというものよ」と答えたのを清正が漏れ聞いて殺害を決意したと伝えられますが、実話ではないと思います。
 
 たとえ暗殺に成功したところで、家来たちに必ず殺されるからです。隙を見て親の仇である清正を討とうという意思はあったと思いますが、それなら尚更黙っていたはず。
 
 城内に残されている首掛石は五郎が首に掛けて運んだといわれている800kgもある大石です。しかし私は別の解釈をしています。罪人として殺された横手五郎の首を晒した石ではなかったかと思うのです。巻き添えをくって殺された人足のその後はわかりません。おそらく闇から闇に葬られたはずです。あるいは彼らの殺害さえ五郎の罪に加えられた可能性もあります。
 
 
 
 
 
 こうして木山弾正、お京の方、横手五郎と加藤清正の長い因縁は終わりました。肥後人が彼らの話を今でも語り伝えているという事は、庶民の秘かな同情があったと考えて間違いありません。
 
 いくら善政をしいても清正が中央政権から派遣された侵略者であるという事実は、領民を複雑な気分にさせました。木山父子の話は肥後人の心の奥底にある抵抗の気持ちと合致したのでしょう。
 
 私も肥後人の一人ですが、確かに加藤清正は好きです。ただ素直になれない自分もいます。清正も所詮はよそ者だという意識が抜けないからです。上手く説明できないのですが肥後もっこす気質とでもいいましょうか(苦笑)。
 
 
 今後熊本城を訪れる方、首掛石をご覧になってください。そしてよろしければ若くして殺された横手五郎の冥福を祈って欲しいのです。それが何より彼の供養になると思います。

肥後における加藤清正②  延慶寺(えんけいじ)の兜梅 

 前記事で天草合戦における木山弾正と加藤清正の一騎打ちの話を書きました。その中で私は総大将が軽々しく一騎打ちに応じるはずがないと疑問を呈しました。
 
 仏木坂合戦は、加藤勢三千と木山勢五百が真っ向ぶつかり木山勢が全滅するほどの激戦だったようです。乱戦の中遮二無二突進した木山弾正と加藤清正が槍を合わせるほどだったと伝えられますから、その話が誇張されたのでしょう。
 
 木山弾正は壮烈な討死を遂げ、援軍の望み断たれた志岐城は開城します。志岐麟泉は薩摩に逃亡したと伝えられますが望郷の望み断ちがたく大田尾(新和町)まで立ち戻って病没したという説もあります。
 
 仏木坂合戦でほぼ天正天草合戦の大勢は決しました。加藤勢と小西勢は共同して乱の首謀者天草種元のいる本渡城(地図上の天草キリシタン館の小山)を十重二十重に包囲しました。
 
 落城も時間の問題という中、一人の騎馬武者に率いられた三十騎ほどの小勢が城から突出します。
 
 武者は「我こそは木山弾正なり!」と叫ぶや加藤勢の中に突っ込みました。そして家来三十騎とともに縦横無尽に駆けまわり当たるを幸いに槍で加藤勢を突き崩します。
 
 おそらく加藤勢の中では、大勢の決した戦で怪我するのは馬鹿らしいという思いもあったのでしょう。あえて敵勢に打ちかかる者もいませんでした。
 
 
 そんな中、梅の木の近くを通った騎馬武者は、兜を梅の枝に絡ませてしまいます。はらりと落ちる兜。出てきたのは長い黒髪でした。
 
 「ややっ!あの武者は女だぞ!」加藤勢は一瞬驚きますが、女であることが分かると嵩にかかって攻めかけました。
 
 女武者は家来ともども加藤勢に討たれ全滅します。よくよく見てみると家来たちもみな男の鎧を着た腰元たちでした。
 
 彼女こそ、亡き木山弾正の正室、お京の方でした。死ぬ間際、彼女は呟きます。
 
 「口惜しや、この梅よ。以後花は咲かせど実は生らせまじ」
 
 不思議な事に、以後梅の木は花は咲いても実は成らなかったそうです。これが有名な延慶寺の兜梅です。
 
 
 本渡城は落城し、天草一族は当主種元をはじめことごとくが討死し滅亡します。天草氏の中では久種だけが降伏し許された(たぶん本渡城とは別のところにいた)そうです。小西家に仕え、関ヶ原後は小早川家に再仕官したそうですがこれも改易され没落します。天草氏の中では久種の弟の家系が細川家と四国松山の松平家に仕え血脈を伝えました。
 
 
 お京の方がなぜ負けると分かりきっている中で敵陣に突撃したのでしょうか?私は最愛の夫を失い敵勢に討たれる事でそれに殉じようとした覚悟の自殺だったのではないかと思います。
 
 それにしても戦国の世、武家に生まれた女性の覚悟は凄まじいものがありますね。
 
 
 
 お京の方の墓は、木山弾正の墓の隣に寄り添うように立っています。二人の墓が現在も残っているという事は、地元の人たちが大切に祀ったからでしょう。人々も勇将木山弾正とお京の方の死を惜しんだのかもしれません。
 
 
 国民的歴史作家、司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで兜梅のエピソードを紹介しています。樹齢は五百年ほど。見事な花を咲かせる梅に感心した司馬は
 
「ともかくも、こういう梅の古木も花の色もみたことがなく、おそらく今後も見ることがないのではないかと思われた
と結んでいます

肥後における加藤清正①  仏木坂の一騎打ち   

 皆さん、加藤清正(1562年~1611年)というとどのようなイメージをいだかれていますか?豊臣秀吉子飼いの武将、賤ヶ岳の七本槍、朝鮮での虎退治など勇猛な武将というイメージを持たれる方も多いと思います。一方内政にも意を尽くし領民から慕われる存在だったという話を知っている方もいらっしゃるでしょう。
 
 
 清正は肥後52万石(現在の熊本県)の領主として、その後幕末まで支配した細川氏よりもはるかにイメージが強いというのも事実です。
 
 しかし地元肥後でも、優れた統治者として感謝しつつも結局は中央政権から派遣された支配者だったという側面から微妙な感情を持っている人も多かったそうです。
 
 加藤清正を語る上で、ある一族との関係を肥後人は伝えています。この話を語り伝えたのは肥後人の心の奥底に潜む複雑な感情だったのかもしれません。
 
 その一族とは木山氏。おそらく余程熊本の郷土史に詳しい方でないと御存じないと思いますが、木山弾正、その妻、息子の横手五郎の三つのエピソードが残っています。本稿では最初に木山弾正と加藤清正とのエピソードを紹介しましょう。
 
 木山氏は肥後益城郡木山(現熊本県上益城郡益城町木山)を治める国人でした。しかし天正十三年(1585年)薩摩の島津氏の侵略を受け本拠木山城が落城、木山氏は滅亡しました。その中で一族の赤井城主木山弾正も城を落とされ妻の実家であった天草氏(天草下島南半分くらいの領主、本拠は本渡城)を頼りその客将となります。
 
 その後豊臣秀吉が島津氏を征伐し、肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長が賜りました。行長は宇土城を築城するため天草氏を筆頭とする天草五人衆(天草地方の国人領主)に普請手伝いを命じます。
 
 行長としては天草の領主として当然の事を命じただけでしたが、在地領主として秀吉に本領安堵されたという理解の天草五人衆は、小西行長の寄騎ではあっても家来ではなく手伝ういわれがないとこれを拒否します。
 
 こうして天正十七年(1589年)、天草氏らは小西氏にたいして反乱をおこす事になりました。五人衆とは天草氏、志岐氏、大矢野氏、上津浦氏、栖本氏です。これを天草国人一揆あるいは天正天草合戦と呼びます。
 
 烈火のごとく怒った小西行長は、これを鎮圧するため軍勢を派遣しますが地の利に明るい天草勢に敗北してしまいます。反乱を放置していては豊臣政権自体を揺るがしかねないと危惧した秀吉は周辺大名に行長を手伝って反乱を鎮圧するよう命じました。
 
 行長とは犬猿の中であった隣国加藤清正も渋々軍勢を派遣する事となりました。いや、このときはそうでもなく天草合戦での確執が後の深刻な対立につながったとも言われています。
 
 ともかく清正は、ふがいない小西勢とは別行動をし軍船を直接天草下島に回し(おそらく島原半島の有馬氏経由)上陸しました。この時の軍勢は諸説ありますが三千騎だったと伝えられます。
 
 加藤勢は反乱の首謀者の一人、志岐麟泉(りんせん)の籠る志岐城(天草郡苓北町)に攻めかかります。急使を受けた本渡城の天草種元は援軍を派遣する事となりました。率いるのは客将木山弾正。五百騎だったと伝えられます。
 
 加藤清正は天草氏の援軍を仏木坂(天草市本町の東向寺【とうこうじ】付近から苓北へ抜ける農面道路のちょうど峠付近。地図の茶屋峠あたり)で迎え撃ちました。
 
 この時清正は弾正の申し出を受け一騎打ちで勝敗を決したとされますが、現実的にはたかが反乱鎮圧で総大将が軽々しく一騎打ちに応じるだろうかと疑問がなくもありません。
 
 ともかく伝説では清正の方が不利で組み敷かれて下になったといわれています。夕方になり心配になった弾正の家来たちが見に来ると上にいる男が今にも下の男を刺し殺そうとするところでした。
 
 夕闇で確認できなかったのでしょう。家来たちは「殿は上か?下か?」と尋ねました。とっさに清正は「下じゃ!」と叫びます。こうして弾正は家来たちに討たれる事となりました。
 
 実は弾正は吃音症(きつおんしょう)でとっさに声が出なかったのだそうです。しかし普段から接している家来が主君の声を聞き間違えるとはちょっと考えにくいです。それに間違いに気付いて動揺したとしても中には殿の仇と清正を討とうとする人間がいても不思議でありません。一騎打ちでへとへとになっていたはずですから。
 その意味ではあくまで伝説にすぎないとは思いますが、こういう話が語り伝えられるという事は肥後人の複雑な感情を現しているのでしょう。
 木山弾正の墓は、本渡城の裏手(現殉教公園、天草市船之尾町)に残されています。昔、天草島原の乱の調査で殉教公園を訪れた時木山弾正の墓を発見して驚いた事がありました。懐かしいような一種不思議な感じになった事を覚えています。

賈充と賈南風  二つの国を滅ぼした父娘

 いきなり余談からですみません(汗)。
 
 三国志で諸葛亮の北伐に際し、初めは魏将夏侯淵や曹真の副将としてのちには大都督雍涼諸軍事(魏の西方総司令官)司馬懿のもとで重要な将軍として蜀軍に立ちはだかった郭淮という武将を覚えておられる方も多いと思います。横山光輝の漫画では眼がぎょろっとして頬骨が高い異相をしてましたね♪
 街亭や斜谷の戦いでは粘り強い指揮で結局諸葛亮の侵攻を防ぎきったなかなかの名将でした。車騎将軍・儀同三司という高官に累進し晩年は雍涼の軍事指揮権まで任された魏の重鎮です。
 この郭淮の弟郭配に娘がおり名を槐(かい)といいました。彼女は同じく魏の重臣で剛直の士として名高かった賈逵(かき)の息子賈充(かじゅう)に嫁ぎます。
 二人の間には南風(なんふう)という娘が生まれました。
 三国志ファンの方は、賈充の名を聞くと眉をひそめられると思いますが(苦笑)、彼こそ権臣司馬炎(司馬懿の孫)の腹心として魏王朝を滅ぼした張本人でした。
 魏王朝にとってはとんでもない逆臣ですが、直属の上司司馬炎にとっては忠臣中の忠臣ともいえます。
 賈充の暗躍によって魏の忠臣であった毌丘倹(かんきゅうけん)や諸葛誕が陥れられ淮南で反乱をおこして自滅させられたかと思うと憎んでも憎みきれません。とくに諸葛誕好きの私などは賈充は昔から大嫌いでした。
 しかし西晋を建国した司馬氏からみると、建国の大功臣であったともいえるのです。そして三国を統一し西晋が天下を平定すると賈充の功績は筆頭としてあげられ司空・尚書令(事実上の宰相)を歴任します。
 西晋一の権臣となった賈充の娘南風は武帝(司馬炎)の皇太子司馬衷(後の恵帝)に嫁ぎます。
 皇太子妃になるくらいだからさぞかし美人だったと想像される方もいるでしょうが、実際は色黒の醜女だったと伝えられます。あまたの皇太子妃候補は賈充の権力により排除されました。おそらく武帝も建国の功臣であった賈充に遠慮して逆らえなかったのでしょう。
 醜女だけならまだしも南風は性格も最悪だったようです。残忍な彼女は気の弱い皇太子をいいように操っていました。
 それでも武帝存命時にはそれほど彼女の暴虐は目立ちませんでした。ところが武帝が290年崩御し恵帝が即位すると彼女は本領を発揮します。父賈充もすでに282年死去してますから何の遠慮もいりませんでした。
 南風は皇后に立てられますから以後は賈皇后と呼びます。
 賈皇后は朝廷の権力を握るためにまず楊太后(武帝の正室で恵帝の母)の一族で外戚として権勢をほしいままにしていた楊駿を滅ぼそうと画策しました。楊一族のために冷や飯を食っていた皇室の一族淮南王司馬亮、楚王司馬瑋らと結びクーデターを起こします。
 楊一族を粛清し今度は司馬亮が権力を握ると、司馬瑋と結託して司馬亮を滅ぼすなどやりたい放題でした。
 気が弱く知恵遅れとも噂されていた恵帝はこれに対し何もできません。残忍酷薄な賈皇后を恐れていたのかもしれません。
 我が世の春を迎えた賈皇后とその一族でしたが、四人の女子は生まれたものの男子に恵まれませんでした。側室の産んだ司馬遹が皇太子に建てられる事になり彼女は面白くありません。
 彼女は陰謀の限りを尽くして皇太子を廃嫡し、自分の息のかかった一族の男子を皇太子に立てようとしますが、これにはさすがに朝廷の群臣達も我慢の限界がきました。
 斉王・司馬冏(賈皇后の異母姉の子)と趙王・司馬倫、その側近の孫秀らが中心となって300年、クーデターを画策します。しかし計画は賈皇后側に漏れ、肝心の廃太子司馬遹が殺され失敗に終わりました。
 ところが動き出したクーデター計画は止められませんでした。4月夏司馬冏・司馬倫らは挙兵します。これが世に言う「八王の乱」です。八王とは淮南王・司馬亮、楚王・司馬、趙王・司馬倫斉王・司馬冏、長沙王・司馬乂成都王・司馬穎、河間王・司馬東海王・司馬越のこと。
 諸王の軍勢は都を制圧し、賈皇后はついに捕えられました。皇太子殺害の罪で賈氏一族は族滅、彼女も毒杯を飲む事を強要され殺されます。こうして一人の女性の権力欲のために国家はズタズタにされました。
 諸王は権力の座に就くと、今度は互いに争うようになります。その過程で周辺に住む異民族を引き入れたため彼らの力が増し司馬一族は皇帝を次々と挿げ替えながら急速に王朝は弱体化しました。
 八王の乱自体は306年集結しますが、晋王朝は有名無実の存在となり中原奥深く侵入した異民族によって国土は勝手に切り取られそれぞれの民族が自立し建国するようになります。これが五胡十六国時代です。
 匈奴の単于、劉淵が304年山西で自立したのが始まりとされますから、八王の乱中に晋王朝は滅び始めていたといえるかもしれません。
 それにしても一人の女性が一国を滅ぼすのですから怖ろしいですね。傾国の美女の場合、男がそれに溺れて国を滅ぼすケースが多いのですが、色黒の醜女、残忍酷薄でありながら彼女は頭も切れる女性だったのでしょう。惜しむらくはそれがマイナス方向に働いたために自分が滅ぶとともに国まで滅ぼす結果になりました。

バルフ    ‐ バクトリア(大夏)の都バクトラの後身 ‐

 常連さんならご存知の懐かしい「都市の歴史シリーズ」。ただ今回は語るべき知識がないので番外編としてお楽しみください。と言っても誰も興味ないだろうが…(苦笑)。
 
 今ちょうど「モンゴル帝国の戦い」(東洋書院)という本を読んでいまして、古代バクトリア王国の首都であったバクトラはバルフと名を変えて、13世紀も健在であったばかりか人口10万を超える繁栄を謳歌していたという話を聞き、ふと興味を覚えたのが始まりでした。
 
 グーグル地図を見てみると、現在の市街地の北小高い丘の上に城壁で囲まれた都市遺跡があるじゃないですか!古代から交通の要衝で幾度か破壊を受けたはずなのにこれほど綺麗に遺跡が残っていて嬉しくなりました。
 
 
 丸い城壁はいつの時代にできたんでしょうね。アレクサンドロスに率いられたマケドニア軍の一部が守備隊としてこの都市に駐屯したそうですが、その時代に築かれたのなら凄いと思います。
 
 まあ円形都市はイスラム勢力が好んだので、7世紀以降と考えるのが自然ですが、古代ギリシャ人が築いて、中心にアクロボリスの神殿があったとすればロマンですね♪
 
 
 ところでヘレニズム時代、人口100万を数えたというバクトリアの範囲はどこまでなのでしょうか?アムダリア、シルダリアの河間地方はソグディアナなのでその南でしょう。ウィキで見てみるとアムダリア(オクサス川)からヒンズークシ山脈にかけての地方がバクトリア=トハリスタン=大夏と呼ばれたそうですね。おそらくカブール盆地もぎりぎり含まれるかもしれません。
 
 シルクロードの南に位置し、オアシス都市が林立し肥沃なバクトリアの地は古代から文化が栄えていたんでしょうね。
 
 今内戦の真っ最中で観光どころではないかもしれませんか、いつの日か訪れたいですね。
 
 
 それにしてもアフガニスタンはいい国だ。ヒンズークシの北はバクトリア、南はガンダーラ。戦争さえなければ観光で世界中から人を集められるはずなんですよ。

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