肥後における加藤清正② 延慶寺(えんけいじ)の兜梅
前記事で天草合戦における木山弾正と加藤清正の一騎打ちの話を書きました。その中で私は総大将が軽々しく一騎打ちに応じるはずがないと疑問を呈しました。
仏木坂合戦は、加藤勢三千と木山勢五百が真っ向ぶつかり木山勢が全滅するほどの激戦だったようです。乱戦の中遮二無二突進した木山弾正と加藤清正が槍を合わせるほどだったと伝えられますから、その話が誇張されたのでしょう。
木山弾正は壮烈な討死を遂げ、援軍の望み断たれた志岐城は開城します。志岐麟泉は薩摩に逃亡したと伝えられますが望郷の望み断ちがたく大田尾(新和町)まで立ち戻って病没したという説もあります。
仏木坂合戦でほぼ天正天草合戦の大勢は決しました。加藤勢と小西勢は共同して乱の首謀者天草種元のいる本渡城(地図上の天草キリシタン館の小山)を十重二十重に包囲しました。
落城も時間の問題という中、一人の騎馬武者に率いられた三十騎ほどの小勢が城から突出します。
武者は「我こそは木山弾正なり!」と叫ぶや加藤勢の中に突っ込みました。そして家来三十騎とともに縦横無尽に駆けまわり当たるを幸いに槍で加藤勢を突き崩します。
おそらく加藤勢の中では、大勢の決した戦で怪我するのは馬鹿らしいという思いもあったのでしょう。あえて敵勢に打ちかかる者もいませんでした。
そんな中、梅の木の近くを通った騎馬武者は、兜を梅の枝に絡ませてしまいます。はらりと落ちる兜。出てきたのは長い黒髪でした。
「ややっ!あの武者は女だぞ!」加藤勢は一瞬驚きますが、女であることが分かると嵩にかかって攻めかけました。
女武者は家来ともども加藤勢に討たれ全滅します。よくよく見てみると家来たちもみな男の鎧を着た腰元たちでした。
彼女こそ、亡き木山弾正の正室、お京の方でした。死ぬ間際、彼女は呟きます。
「口惜しや、この梅よ。以後花は咲かせど実は生らせまじ」
不思議な事に、以後梅の木は花は咲いても実は成らなかったそうです。これが有名な延慶寺の兜梅です。
本渡城は落城し、天草一族は当主種元をはじめことごとくが討死し滅亡します。天草氏の中では久種だけが降伏し許された(たぶん本渡城とは別のところにいた)そうです。小西家に仕え、関ヶ原後は小早川家に再仕官したそうですがこれも改易され没落します。天草氏の中では久種の弟の家系が細川家と四国松山の松平家に仕え血脈を伝えました。
お京の方がなぜ負けると分かりきっている中で敵陣に突撃したのでしょうか?私は最愛の夫を失い敵勢に討たれる事でそれに殉じようとした覚悟の自殺だったのではないかと思います。
それにしても戦国の世、武家に生まれた女性の覚悟は凄まじいものがありますね。
お京の方の墓は、木山弾正の墓の隣に寄り添うように立っています。二人の墓が現在も残っているという事は、地元の人たちが大切に祀ったからでしょう。人々も勇将木山弾正とお京の方の死を惜しんだのかもしれません。
国民的歴史作家、司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで兜梅のエピソードを紹介しています。樹齢は五百年ほど。見事な花を咲かせる梅に感心した司馬は
「ともかくも、こういう梅の古木も花の色もみたことがなく、おそらく今後も見ることがないのではないかと思われた」
と結んでいます。
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