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2012年4月

2012年4月19日 (木)

天空の棚田とハニ(哈尼)族

 最近NHKスペシャルに関する記事が多いですが(汗)、先日NHKスペシャル「天空の棚田に生きる ~秘境 雲南~」を観ました。
 
【中国・雲南省の山岳地帯に驚きの風景がある。険しい山肌に延々と連なる無数の水田。何万本もの畦の曲線が網の目のように重なり、稲穂のじゅうたんが波打つ。「紅河ハニ棚田」。総面積5万4千ヘクタール、国連食糧農業機関が世界農業遺産に認定した“世界最大の棚田群”である。
最大勾配75度にもなる急峻な斜面を、標高1800メートルまで切り拓いた“天空の棚田”。圧巻の光景は、いったいどんな営みによって支えられ、受け継がれてきたのだろうか?
世界一の棚田を、1300年かけて築き上げたのは、少数民族・ハニ族の人々。他民族に追われ、奥深いこの地にたどり着いた彼らは、気の遠くなるような労力で山肌を耕し、独自の灌漑技術と農法を磨いてきた。森や霧など自然を巧みに利用した棚田は、一つの巨大な循環システムでもある。
番組では、モーターハングライダーを駆使し、これまでにない壮大な美しい映像で棚田の全貌を描くとともに、秋から冬にかけ刻々と変化する表情を捉える。日本で里山が注目される今、自然と寄り添う暮らしの原点を“天空の棚田”に探る。】(NHKホームページより)
 
 大自然と共存し自給自足で生きる民ハニ族。とても感銘を受けました。NHKも反日などせずにこういう番組ばかり作ればいいのにと思います。
 
 雲南の山岳地帯に大規模な棚田を築きその考え尽くされた素晴らしい生活システムを作り上げたハニ族とはどのような人たちか非常に興味を覚えました。
 
 
 調べてみると彼らは支那チベット語族の一派でハニ語を話す人たちだそうですね。雲南省の少数民族では人口150万人で第3位。雲南の省都昆明の南、雲南の山岳地帯を発し東京(トンキン)湾に注ぐ大河、紅河流域を中心に分布しているそうです。
 
 もともとチベット高原の遊牧民だったそうですが、民族移動の余波を受け4世紀から8世紀までに千kmの旅をして雲南地方に落ち着きました。唐代には南詔の支配を受け、元や明、清代には直接支配を受けたそうですが現在は紅河ハニ族イ族自治州となっています。
 
 遊牧民でも農耕民になり得るのだなと感心するとともに、ということは秦氏西方遊牧民説もあながち暴論ではないのではないかと思えました。
 
 NHKスペシャルでは、ハニ族が独自に稲作を始め棚田を築いたように紹介しましたが、私はすでにこの地方に稲作・棚田の技術がありハニ族はそれを受け継いだだけだと思います。といいますのも水稲耕作は水の確保と収穫時の水はけを両立しないといけないため最初は棚田方式から始まったと考えられるからです。
 
 ハニ族の人たちは、独自の自給自足生活を営みとても平和な社会を築いているように見えました。もちろん小さないざこざはあるでしょうが、日本のような殺伐とした事件は皆無ではないかと思いました。
 
 物質文明で豊かになるという事は、精神の豊かさを失う事と同義なのかもしれませんね。番組の最後に、ハニ族の主婦が「子供たちや孫たちにお米を食べさせられるのが幸せ」と語っていましたが、彼女の顔は本当に嬉しそうでした。
 
 私たちがハニ族の暮らしに戻る事はもはやできませんが、せめて精神の豊かさは彼らから学びたいですね。
 

投擲器(アトラトル)から弓へ

 だいぶ前の話です。何とはなしにNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」を見ていたんですが、人類がアトラトルという投擲器を発明したためにネアンデルタール人との生存競争に勝ち生き残る事ができたと紹介していました。
 
 恥ずかしながら、私はこの投擲器(アトラトルというらしい)を知らなかったのでネットで調べてみました。
 
 原理は簡単。上図の突起(あるいは窪み)の部分に槍の底(石突のところ)を引っ掛けて梃子の原理で投げる道具です。熟練者が投げると100mくらい飛んだらしいですから凄いです。修業を積めば百発百中になったでしょうが、一見便利そうな道具が何故廃れたのでしょうか?
 
 私は発射速度と馬上での扱いにくさだと思います。一々槍を引っ掛けて投げるより弓の方が速射性が高いんですね。飛翔速度もアトラトルと弓矢では比べ物になりません。もちろん槍のほうが重量があるので当たれば威力は高いでしょうが、弓は軽い矢でも長射程と速射性ではるかに有利に戦えます。しかも馬上からも撃てるという汎用性でアトラトルを駆逐したのでしょう。
 
 ウィキによると『漢民族は東方異民族を「」と呼んだが、この字は「大」と「弓」の組み合わせで、「長弓を使う者」の意味である。ひざまずく人を示す象形文字から生じた漢字であるという説』もあるそうですから遊牧民と弓矢は切っても切れない関係でした。
 
 
 短弓でも曲射弾道なら2~300mは軽く飛びそうですからね。弓が複合弓や弩などにどんどん発展していった事も納得できます。

ナイル河の氾濫

 2011年年末だったと思いますが、NHKワンダー×ワンダーの最終回でナイル川の源流を探る話がありました。私も興味深く見ていたんですが、エジプト文明を築いたナイル河の氾濫は青ナイルの雨季に降った大量の雨が原因だったようですね。
 
 ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と感嘆したように古代エジプト文明とナイルの氾濫は切っても切れない深い関係がありました。
 
 インド洋を吹くモンスーンがエチオピア高原にぶち当たって6月から9月の雨季に大量の雨を降らせます。これが濁流となり青ナイル川に流れ込みます。乾季にはエメラルド色の川面もこの時は茶褐色に変わるそうです。
 
 栄養を含んだ大量の土砂は下流のエジプトに流れます。当然エジプトは洪水になりますが、長大な距離を流れるため増水は緩やかで毎年決まった水位にしかなりません。そして洪水が去った時、ナイル河流域に氾濫原と呼ばれる帯状の黒い土を残します。
 
 この土は、栄養が豊富で農業に適しました。エジプトの人たちは洪水が去った後の氾濫原に小麦の種を捲き収穫します。これがエジプト文明の始まりとなりました。
 
 
 番組ではかつての洪水の写真を紹介していましたが、当時の集落は見事に洪水の最大水位より上に位置していて感心しました。毎年決まった時期に氾濫するため、暦もできたそうですから面白いですね。
 
 
 ところが現在のエジプトにはナイル河の氾濫は起きません。それというのもアスワンダム、アスワン・ハイダムの建設によって下流の水位は年間を通じて安定しているそうなのです。
 
 ダム建設の目的は、水力発電の電力確保と同時に広大なダム湖(ナセル湖)の水利で農地拡大だったようですが、逆に下流域では土地痩せが深刻な問題となります。というのも洪水は肥沃な氾濫原の黒い土ももたらしていたからです。さらに塩害も加わりエジプト政府はこの対策に頭を悩ませているそうです。
 
 他国の事ですからとやかく言う事はできませんが、『あちらを立てればこちらが立たず』で、難しいですね。
 
 
 日本にもこのような例はありそうです(苦笑)。
 

中国人民解放軍Ⅳ 空軍

 2009年現在、作戦機3300機、総兵力33万人、7空軍区、(飛行)師団32個、ミサイル・高射砲旅団17個、空挺師団3個を数える恐るべき規模の空軍、それが中国人民解放軍空軍の実力です。
 
 以前はソ連製MiG21をコピーしたJ‐7などの旧式機が大部分でしたが、近年軍事力の増加と共に上図の国産機J‐10や、ソ連・ロシア製のSu‐27をライセンス生産したJ‐11などの新鋭機を導入し急速に東アジアの脅威になりつつあります。
 
 現在これら新鋭機は400機ほどですが、時が経つにつれ数は増えて行くでしょうから軍事バランスが崩れるのも時間の問題です。J‐10に関してはアメリカのF‐16並みと評価する者もいれば、いやそれほどでもないという意見もありはっきりした事は分かりませんが、J‐11に関してはもとがフランカーだけに侮れません。いくらモンキーモデルといっても中国独自の改造もしているとされ、R-73、R‐77などの新鋭ミサイルも同時に導入しているため航空自衛隊のF-15Jも安心はできません。J-11Bには国産のフェイズドアレイレーダーも搭載しているといいますし。ちなみにJ-10は将来的には1000機以上配備が予定され名実ともに主力となるでしょう。
 
 中国空軍の増勢を最も警戒しているのが台湾だといわれています。台湾空軍の主力はミラージュ2000とF-16、国産の経国戦闘機(F‐CK‐1)ですが、台湾のF‐16はA/B型相当のBlock 20で、これを現用のC/D型相当にバージョンアップするキットもC/D型そのものの販売にも中国が反対しているといわれ台湾空軍は危機感を強めています。私は販売すべきだと思いますね。アメリカにはしっかりしてほしいです。
 
◇作戦機の内訳
戦闘機:1242
攻撃機:1179
爆撃機:222
偵察機:150
輸送機:496
ヘリコプター:80
 
◇防空装備
SAM(地対空ミサイル):1578基以上
対空砲:16000門以上
 
 
 中国空軍はさらにJ‐20(殲撃20型)というステルス機まで開発中です。必要以上に脅威を覚える必要はありませんが、かといって侮るのも禁物です。中国空軍の弱点は早期警戒管制機だとされ、日本は敵の弱点を冷静に眺めつつ必要かつ十分な防衛力を整備すべきでしょう。
 

中国人民解放軍Ⅲ 陸軍

 海軍に引き続き陸軍です。2009年現在総兵力160万人。最盛期には400万人以上いたとされる陸軍ですが、近代化のために大幅削減されています。といっても世界最大規模である事は間違いありません。
 
 全土を7大軍区(瀋陽、北京、蘭州、済南、南京、広州、成都)に分け、18個集団軍(欧米の軍団にあたる)、120個師団(歩兵師団42個、戦車師団9個、砲兵師団7個ほか詳細不明)、ミサイル・高射砲旅団21個という恐るべき陣容です。
 
 師団編成も例えば南京軍区第1集団軍隷下の第1機械化歩兵師団の編制をみると3個機械化歩兵連隊、1個戦車連隊を基幹とするソ連型編制になっており、ソ連の全縦深同時攻撃ドクトリンを中国化した人海戦術に適した編制である事が分かります。戦車師団も3個戦車連隊と1個機械化歩兵連隊となっておりソ連型で機甲重視傾向です。
 
 こういう軍事ドクトリンは、戦車の質より数で押す傾向になりがちで戦車自体は安かろう、悪かろうですが、たとえば最新の99式戦車など複合装甲と爆発反応装甲をミックスさせた新型装甲を採用するなど能力は未知数で決して侮れない実力を有しているといいます。幸いなことに高価なのでそれほど数は配備されていないのがせめてもの救いですが…。
 
◇主要装備
 
戦車:7660両
軽戦車:1000両
装甲車:3500台
火砲:17700門
対地ミサイル・ロケット:2400基
対空ミサイル:290基以上
高射砲:7700門以上
 
 
 
◇主力戦車
 
59式戦車:ソ連製T-54のコピー。旧式。
69/79式戦車:59式の改良型。旧式。
80式戦車:西側の第2世代戦車に当たる。日本の74式戦車とどっこいくらいの性能か?
96式戦車:99式のハイにたいしてローにあたる。1500両生産され現在の主力。ソ連製T-72と同等との見方も?
99式戦車:最新鋭戦車。米製M‐1A2エイブラムスに匹敵するという見方も?
 
 
 
◇その他兵器
 
武直‐10攻撃ヘリ:詳細不明ながら西側攻撃ヘリに近い性能といわれている。
ハ-ピー:イスラエルから導入した無人攻撃機。日本もヘルファイア積んだMQ‐1プレデター早く導入しようよ!
97式歩兵戦闘車:戦車師団にもれなく付いてくる嫌な歩兵戦闘車。ソ連のBMP‐3に近いという噂。
 
 
 いかがでした?中国人民解放軍は軍事費の増大に伴って近代化を急ピッチで進めています。時間が経てば経つほど日本の国防は不利になっていきますよ。無人攻撃機など侵略する側じゃなくて防衛する側がいち早く導入すべきだったんじゃないですか?(怒)
 
 これでどうやって離島防衛するというのだろうか?政治家はもちろんですが国民ももっと防衛問題に関心持ってください。お願いします!!!

中国人民解放軍Ⅱ 海軍

 空母保有など最近話題に事欠かない中国海軍。尖閣問題で衝突の危険性も増大していますが、はたして空母を含めた中国海軍の実力はどのくらいなのでしょうか?おそらく日本の国防を真剣に考える皆さんなら感心あると思い本稿で見て行きたいと思います。
 
 中国海軍は2009年のデータで兵員25.5万人、艦艇860隻(117万t)、海軍航空隊2.6万名、海軍陸戦隊1万名を数えます。
 
 北海(黄海、渤海湾方面担当)、東海(東シナ海担当)、南海(南シナ海担当)の3個艦隊を中心に編成されています。一昔前は旧式艦も多くそれほど脅威ではありませんでしたが、軍事費の増大と共に急ピッチで近代化を進めています。
 
 それでは具体的に各種艦艇について見て行きましょう。
 
◇空母 
 建造放棄されていた旧ソ連のアドミラル・クズネツォフ級2番艦ヴァリャーグをスクラップ名目で購入。実際は大改装を施し戦力化しつつある。ただしょうもない欠陥が露呈し現在はどうなるか未定。艦載機(J-15、Su-33のコピー)も物になるか不明。
 
 
◇駆逐艦
①済南級(15隻)…戦後初めて建造した本格的駆逐艦。旧式だが近代化改装を受けて侮れない。
②哈爾浜級(2隻)…中国艦としては初めて欧米に比肩しうる性能の駆逐艦。
③深圳級(1隻)…中国海軍初の本格的ミサイル駆逐艦。ステルス性も考慮されているらしい。
④広州級(2隻)…中国海軍初の防空担当艦。イージスシステムに比較すると見劣りするが決して侮れない。
⑤蘭州級(2隻)…広州級の改良型。中華版イージスという専門家も?
⑥瀋陽級(2隻+4)…汎用駆逐艦。簡易フェーズドアレイレーダーを搭載し防空能力が高いという見方も?
 
 
◇フリゲート
①053型(44隻)…哨戒型を中心に防空型などのバリエーションがあるフリゲートの主力。
②054型(10隻)…江鎧型ともいう。今後増大するであろう新鋭艦。防空能力が強化されている。
③056型…現在詳しい情報は不明。ステルス性を強化した高性能艦だという噂。
 
 
◇潜水艦
戦略ミサイル原潜は前記事で紹介したので略。
①漢級攻撃型原子力潜水艦…5隻建造され2隻が現役だという。技術が未熟で戦力としては疑問符。
②商級原子力潜水艦…米海軍のロサンゼルス級に匹敵する性能ともいわれるが詳細不明。
③明級潜水艦(17隻)…通常動力型。旧式化しているらしい。
④宋級潜水艦(16隻)…通常動力型。ドイツの技術を導入しそこそこの性能をもっているらしい。
⑤元級潜水艦(4隻+)…中国初の本格的AIP(非大気依存推進)潜水艦。これは驚異だといえる。
そのほかロシア製の潜水艦も10隻以上。
 
 
◇揚陸艦
隻数は不明だが戦車402両 兵員6600人の揚陸能力(アメリカに次いで世界2位)を持つといわれる。これは恐るべき能力と言えるでしょう。6000名といえば旅団規模ですからね。台湾との戦争を想定しているからだとは思いますが、いつこれらが尖閣に来てもおかしくはありません。
 
 
◇航空機
①J‐15戦闘機×1(空母運用試験用か?)
Su‐30MKK戦闘機×24…ロシア製。これが一番の脅威。
③JH‐7戦闘爆撃機×100…旧式。
④J‐7戦闘機×69…同上。
⑤J‐8戦闘機×50…同上。
⑥その他J-8系×290…同上。
⑥輸送機×8
⑦ヘリコプター×39
旧式機が多いとはいえ、この数は驚異ではないでしょうか?これは海軍だけで空軍も数多くの飛行機を保有しているんですからね。
 
 
 以上、中国海軍を見てきましたが決して侮る事の出来ない戦力だという事が理解できました。実戦を見てみないと本当のところは分かりませんが、日本は最悪のケースを想定して防衛力を整備すべきだと思います。
 
 私も調べていて、戦慄を覚えました。最低でも長射程の対地攻撃兵器は必須でしょうね。ヘリボーン作戦で離島に降りられたら目も当てられません。

中国人民解放軍Ⅰ 総合

 孫子謀攻編に曰く「彼れを知りて己を知れば、百戦して殆[あや]うからず」。

 ロシアよりも尖閣諸島などを巡って戦争の危険性が高い中国人民解放軍の実態を知っておく事も無駄ではないでしょう。日本のメディアが意図的かどうかは知りませんがほとんど報じないので日本国民は仮想敵の事を全く知りません。そこで例によって世界軍事情勢(原書房)を中心に甚だ簡単ではありますがその実態を見ていく事にしましょう。
 
 予定では「Ⅰ総合編」、「Ⅱ海軍編」、「Ⅲ陸軍編」、「Ⅳ空軍編」と分けるつもりです。とても一回では紹介しきれないからです(汗)。
 
 
 まず総合編では、人民解放軍の実態を見て行きましょう。人民解放軍は国家の軍隊ではありません。中国共産党の私兵です。建前上は国家の軍隊であると規定(中国人民共和国国防法)しているようですが共産党の政治将校がどっぷり入り込んでいる軍隊のどこが国家の軍隊なのでしょう?
 
 
 人民解放軍は大きく分けて陸軍、海軍、空軍、戦略ミサイル部隊に分かれます。現役総兵力は2009年現在のデータで218.5万人(陸軍160万人、海軍25.5万人、空軍33万人、戦略ミサイル軍10万人)。最盛期には400万人くらいいたのですが、兵力削減して装備の近代化を図っている最中です。このほかに予備役80万人、さらに準軍隊ともいうべき人民武装警察も70万人を数えます。
 
 戦略ミサイル軍については独立して記事に書かないのでここで簡単に記述します。1966年に創設、第2砲兵とも呼びます。戦略核ミサイル、戦略ミサイル原潜、戦略防衛レーダー網部隊から成り兵力10万人。
 
 戦略ミサイル発射基地20か所。それぞれミサイル旅団が管轄します。
◇兵力
 ICBM(大陸間弾道弾:射程3000km以上)×47基
 MRBM(準中距離弾道ミサイル:射程1000km~3000km)×77基
 SRBM(短距離弾道ミサイル:射程1000km以下)×725基
 巡航ミサイル(射程1000km以上)×200基以上(増強中)
 戦略ミサイル原潜「晋」級2隻+2隻建造中(2009年のデータ)
 
 ほかにASBM(対艦弾道ミサイル)も開発中。
 
 
 忘れてはならないのは、もちろん日本も標的になっているという事です。これを見たら日中友好など絵空事だと気付かされるでしょう。戦争はなるだけ避けなければなりませんが、拡大路線を取っている人民解放軍を暴走させないためにも日本はしっかりと防衛力を整備しておくべきでしょう。
 
 少なくとも核保有論議、その前にスタンドオフ(長射程)攻撃兵器保有の論議くらいはすべきでしょう。保有するのが望ましいのは確かですが…。というか遅すぎます。日本人がまじめに防衛論議をしてこなかった間に取り返しがつかないところまで来ているのかもしれません。

ロシア連邦軍

 知られているようで知られていないロシア軍。北方領土を巡っていつ戦争になるか分からないと思いますのでその実態を知っておく事も無駄ではないでしょう。
 
 実は最近、「世界軍事情勢」(史料調査会編・原書房)なる本を手に入れましてそれをもとに簡単に解説しようと思います。何でこの本を買ったかというと、本当はミリタリーバランスという英国の国防戦略研究所が毎年発行している世界各国の軍事力について解説してある報告書が欲しかったのですがアマゾンで検索しても見つからなかったためその代替措置でした(苦笑)。
 
 ミリタリーバランスの日本語版って昔は簡単に日本のちょっと大きな書店で手に入ったんですが(確か1980年版は持っていました。紛失しましたが…)、今は手に入らないんでしょうか?それとも単にアマゾンで扱ってないだけとか?本書はミリタリーバランスに比べるとかなり落ちますが、主要国の軍事情勢に関してはまあまあ記述があります。
 
 前置きはこのくらいにして、本題のロシア軍です。ロシア連邦軍は大きく分けて陸海空軍と戦略軍に分かれます。総兵力は2009年時点で102万7千人。陸軍39.5万、海軍14.2万、空軍16万、戦略軍8万、支援部隊25万からなります。(予備役2000万人!)
 
 ソ連時代の大規模軍から見ると意外と少ないような気がします。予備役を増やして軍のスリム化を図ったのでしょう。
 
 それでは個別に見て行きましょう。
 
 
 
◇「戦略軍」
ミサイル防衛部隊、宇宙軍。海軍から移管した戦略ミサイル原潜部隊も指揮下に収める。
①戦略ミサイル(ICBM)430基
②戦略ミサイル原潜(SSBN)15隻
③戦略爆撃機90機(Tu160×16、Tu95MS6×32、Tu95MS16×32ほか)
 
 
◇「海軍」
北海、バルチック、太平洋、黒海の4艦隊とカスピ海艦隊からなる。( )内はそのうち太平洋艦隊の保有隻数
①空母×1(0)
②巡洋艦×5(1)
③駆逐艦×15(7)
④フリゲート×32(9)
⑤コルベット×50(13)
⑥潜水艦×69(22)
 
ソ連以来の潜水艦戦力重視、そして日本を含めた極東重視が見て取れますね。
 
 
◇「空軍」
戦略(長距離)航空部隊、戦術空軍部隊、航空輸送部隊、ヘリコプター部隊に区分される。
①戦略航空部隊 Tu22M×8、Tu22M/3MR×116
②戦術空軍  戦闘機725機(MiG31×188、MiG29×226、MiG25×30、Su27系×281)
         地上攻撃機800機(Su25×241、Su24×550、Su27IB×9ほか)
③航空輸送部隊 輸送機293機
④ヘリコプター部隊 1520機
※そのうち極東配備は戦闘機(MiG31、Su27)320機、攻撃機・爆撃機(Tu22M70など)110機
 
戦闘機のマルチロール化が進んでないのか地上攻撃機の数が多すぎる気がしますね。Su24など全部Su27フランカー系で代替できそうですがたった9機ですか!
 
 
◇「陸軍」
全土を6軍管区と特別軍管区に区分。2009年陸軍8個師団体制から北方領土警備の第18機関銃・砲兵師団を残し、戦車旅団×5個(そのうち予備1個)、自動車化狙撃旅団×47個(そのうち予備は14個)、空中襲撃旅団×3個、特別任務旅団×8個、ロケット・砲兵旅団×28個他に改編。部隊をスリム化し、機動性を増して緊急展開能力を高めている。
①戦車23000両(T90、T80、T72、T64、T62、T55)
②火砲30000門(牽引砲12765門、自走砲6000門、多連装ロケット砲4000基ほか)
 
数(39.5万)に比べて戦車と火砲の保有数の多さに驚かされます。西側標準の編制ではだいたい20万の兵力で戦車1000両、火砲1000門くらいが普通です。兵力40万弱で西側標準の10倍以上!恐るべき数です。
おそらくソ連時代の数をそのまま残しているのでしょう。予備役2000万人ですから有事には巨大な陸軍ができる計算です。戦車もT90、T80以外は箸にも棒にもかからないとはいえ数で押されるのは恐怖でしょう。T64に関しては微妙。実戦に参加していないのでもしかしたらT72より高性能(のはず)。
 
旅団中心の編成は動きやすい=展開が早い=他国へ軍事干渉しやすいと周辺諸国にとってはいささか物騒な陸軍ではあります。
 
 
 
 
 なるほどよく分かりました。部隊の構成などをみるとまだまだ改編途上という感じはしますが決して侮れない恐るべき力を持っている事が理解できます。日本もロシア連邦軍の実力を十分研究し遅れる事がないようにしなければなりません。
 
 
 次は中国人民解放軍を調べてみますかね♪

杭州(臨安)   ‐ 世界の都市の物語 ‐

 「江浙熟すれば天下足る」これは中国宋代にいわれた言葉です。明代には穀倉が湖北湖南に移って「湖広熟すれば天下足る」となったわけですが、長江下流域の土地の豊かさは現在も続いています。
 
 現在のこの地方の中心都市は何といっても上海ですが、これはアヘン戦争以降(1842年)のこと。
 
 それまでは蘇州、南京とともに杭州が中心でした。
 
 
 杭州の歴史は意外と古く、なんと良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡があります。銭塘江の河口で昔から人の集まりやすい地形だったのでしょう。
 
 春秋時代には、銭塘と呼ばれ越(都は会稽)の領土でした。当時は会稽のほうが都会(首都があるくらいですから)で、銭塘は田舎町にすぎませんでした。
 
 
 ここからは私の想像にすぎませんが、杭州はもしかしたら長江文明の中心都市の一つだったのではないかと考えます。が大洪水で一度滅び、生き残った住民は北方に去ったためしばらく打ち捨てられていたのでしょう。
 
 しかし越建国で、元々人の集まりやすい土地であったことから再び都市として復活したのでしょう。これはあくまで私の想像なのでまじレスされても困ります(汗)。
 
 ちなみに越は漢民族の国ではありません。現在のベトナム人と同族とされる百越という民族の建てた国です。百越は越の諸族の総称で現在の江南(長江南部)からベトナムにまたがる広大な土地に住んでいました。漢民族の膨張と共に南に追いやられ、中国内に残って少数民族化しているか大半はベトナムに逃れました。
 
 さらに余談を続けると長江文明の担い手そのものも越人ではなかったかと考えています。天変地異の後ある者は北上し漢民族と同化し、またある者はかっての文明を失い蛮族化したのではないかと思っているのです。稲作の起源、鉄器伝播の道(以前記事にしましたね♪)を考えるとそう判断するのが自然なような気がします。
 
 
 閑話休題(それはさておき)、本題に戻ります。越滅亡後、楚の領有になった銭塘は秦代には会稽郡の治下になり、南北朝時代江南地方に漢民族が多く避難してくると開発が進みます。この頃は銭塘郡と呼ばれました。
 
 杭州という名は、隋代に初めて散見されます。隋は大陸を縦断する大運河を建設しその南端が杭州だったことから次第に発展していきます。
 
 杭州の発展を決定づけたのはなんといっても南宋の建国でしょう。女真族の金に滅ぼされ江南に逃れてきた宋は、以後南宋と呼ばれますがその首都として選ばれたのが杭州でした。
 
 中国史をかじっている人ならなぜ南京にしないのか?と疑問に思われるでしょう。南京は三国時代の呉(当時は建業と呼んだ)以降南朝歴代王朝の首都となったところでのちの明も初期の都に定めています。
 
 長江とその支流に囲まれた難攻不落の地で、金城湯池とまで謳われた南京はまさに首都にふさわしい都市でした。
 
 私は南京を都にできないほど金を恐れていたと見ます。というのは長江沿岸の南京だともし渡河されたとき逃げ場がないからです。一方、杭州だったら渡河されても時間的余裕があるし、海路からさらに南方に逃れることができます。実際南宋の残党は元に追われて広東近くまで逃げてますし…。
 
 南宋としてはあくまで杭州を臨時首都とし行在(あんざい)と呼び本来の首都は中原の開封であるという立場を崩しませんでした。ちなみにマルコ・ポーロの東方見聞録では行在がなまってキンザイKhinzaiと紹介されています。
 
 南宋は杭州を都に定めるまで揚州、建康、杭州、越州(今の紹興)と遷都を繰り返し1138年ようやく高宗によってここに落ち着きました。杭州は臨安府と改称され大規模な拡張工事によって都としての体裁が整えられます。
 
 北半分を失ったとはいえ、まだまだ当時の経済大国だった南宋の首都として臨安は栄えました。最盛期には人口百万を超えたといいますからその繁栄がしのばれます。
 
 杭州を初め蘇州など江南の諸都市は水の都としての側面を持っていますが、ここも西湖を市域に取り込み風光明媚な建物を建設しました。現在でもこれらは市民の憩いの場所になっているそうです。
 
 ちなみに呉越の戦いのヒロイン、絶世の美女だったとされる西施はここ西湖の畔の出身だといわれています。
 
 
 次の元代明代にも江南地方の中心都市として栄えますが、周辺はそのために穀物生産から次第に茶などの商品作物栽培に移り、そのために穀倉地帯としては湖広地方に中心が移りました。
 
 そしてアヘン戦争以後経済の中心が新興都市上海に移ると、杭州は経済というより文化の中心へと次第にシフトしていきます。
 
 
 現在の人口は約670万、中国はもとより世界各地から観光客が訪れる風光明媚なところとして有名です。あなたも西湖のほとりに立ってみては?古の西施に思いをはせるのも一興かと思います。

諸葛亮と饅頭

 三国志ファンならとうにご存知だと思いますが、饅頭を発明したのは諸葛亮だという伝説があります。
 
 
 
 万が一諸葛亮(字は孔明)を知らない人がいる(わけないか?苦笑)といけないので簡単に紹介すると
 
◇諸葛亮(181年~234年)
 
【中国三国時代の蜀漢(現在の四川省あたり)の政治家、軍人。三顧の礼で劉備に仕えると蜀建国の創業を助け照烈帝(劉備)没後は丞相(総理大臣)として内政外交軍事で国を支えた。
 
伝説では神がかり的な軍師として描かれる事が多いが、実像は堅実な用兵を行う常識人だったらしい(陳寿)。軍人としてより優れた政治家としての評価が高い。諸葛亮の死後二十年足らずで蜀は滅びた。】
 
 
 照烈帝が崩御し、劉禅(後主)が即位した後の話です。劉備の遺言で後事を託された諸葛亮は魏や呉と対抗するために交易で国力を高めるべく南蛮遠征に向かいます。
 
 南蛮の首長孟獲との七縱七禽の故事はあまりにも有名です。実はこの策は「泣いて馬謖を斬る」の馬謖(ばしょく)の建策だったともされますが閑話休題(それはさておき)。
 
 あのころが馬謖の全盛期だったなあ(しみじみ)。馬良(白眉)の弟だから遺伝子は優秀だったんですよね~。
 
 
 いかん三国志ネタだとどんどん脱線してしまう(爆)。
 
 
 
 本題に戻ります(汗)。
 
 南蛮遠征が無事に終わり蜀軍は帰途につきます。その途中川が増水して通行できなくなりました。土地の古老によるとこういう時は生贄として人間の首を斬ってお供えするのだとか。
 
 しかし、諸葛亮はそんな事で無益な殺生をする事を嫌います。そこで小麦粉で人間の首に似せた団子をつくりその中に肉を入れてお供えしました。すると不思議な事にあれほど荒れくれていた川はぴたりとおさまり穏やかな流れに変わります。
 
 諸葛亮は、「今後川が荒れても決して人の首は生贄にしないように。小麦粉で団子を作りお供えしなさい」と命じました。これが饅頭(まんとう)の起源だといわれています。
 
 肉まんのはじまりですね。日本へは禅宗の僧侶が伝え肉食を禁じていたために餡に小豆を使ったものが考案されたとか。これが饅頭(まんじゅう)になりました。
 
 
 諸葛亮は半ば伝説化され雲南地方でも神のごとく崇められていたといわれていますから、あくまで伝説にすぎないとは思います。が、彼の性格を考えるとあり得ない話でもないなと考えています(笑)。
 
 
 皆さんはどう思われますか?

2012年4月 6日 (金)

緒方三郎惟栄(これよし)のこと

 緒方三郎惟栄(これよし 惟義とも書く)という人物の事を聞いた事のある方はほとんどいないでしょう。源平合戦に詳しい方なら、「ああ、義経に味方して豊後に義経一行を迎えようとした人ね。岡城は義経のために惟栄が築いたともいわれているね!」と思い出すかもしれません。
 
 生没年不詳。三輪大社に関係のある古代豪族大神(おおみわ)氏から分かれたといわれている豊後大神(おおが)氏の一族で豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方町を領したことから緒方氏を称しました。
 
 だいたい平安末期から鎌倉初期の武将です。
 
 私が不思議に思うのは、平安末期あれほど大勢力を誇りながら惟栄本人の没落と共に緒方氏は振わなくなり武家としてはほとんど勢力を失ったことです。
 
 もともと惟栄は平家の家人で平重盛と主従の関係を結んでいたとされます。が、機を見るのに敏だった彼は1181年には鎌倉で挙兵した源頼朝にいち早く誼を通じ平家に反旗を翻します。
 
 というのも九州における平家方の大勢力、筑前の原田氏(大蔵氏の嫡流)に対する根強い反発があったためともいわれます。原田種直が大宰権少弐に任ぜられ、平重盛の養女を妻に迎えるなど優遇されていたのに対し自分達大神一族が冷遇されているという僻みもあったのでしょう。
 
 もともと平家は筑前や肥前に縁を持ち(平清盛は国司を歴任し神埼荘という大荘園をもっていた)地元の大勢力である原田党と結びつく必要があったのに対し、豊前や豊後とは縁が薄かったということもありました。
 
 惟栄は、同族の臼杵氏、長野氏らとともに豊後目代(平家の代官)を追放し、反平家方の松浦党、菊池氏、阿蘇氏らとともに九州における平家方と激しく戦いました。惟栄の活躍で九州における源氏方が増加したのは彼の功績だと思います。
 
 しかし、1183年平家が都落ちすると九州における平家方の原田種直、山鹿秀遠らが反撃を開始、九州源氏方は一時劣勢に立たされます。
 
 が、惟栄は豊後国司藤原頼輔を通じて平家追討の院宣を受け再び源氏方を糾合します。緒方惟栄は肥後口から、日田永秀は日田口から、臼杵惟隆は豊前口から筑前に攻め込み大宰府を落としました。原田種直は激しく抵抗するも敗れ芦屋の山鹿城(福岡県遠賀郡芦屋町にあった山城)に撤退します。
 
 源範頼が山陽道に侵攻した際兵糧が不足するとこれを提供し、壇の浦の戦いでは豊後水軍の兵船を提供するなど大きな功績をあげました。
 
 
 実は緒方惟栄は以前平家方の宇佐大宮司家と対立し宇佐神宮の焼き打ちなどを起こし上野国沼田に配流が決まっていたのですが、平家追討の功績で不問に付されます。
 
 これだけ大きな功績をあげた惟栄ですが、源頼朝はあまり高くは評価しなかったようです。惟栄としては源氏の総大将として西国に来た源義経に近づいただけでしたが、それが裏目に出たのでした。
 
 政治力のない義経は後白河法皇に利用され頼朝と対立し、頼朝はそのために義経に近い武将にも猜疑の目を向け始めました。
 
 鎌倉との対立が決定的になった義経は惟栄ら西国武士団を糾合して挙兵しようと摂津大物浦から出航するも暴風雨に遭って難破、押し戻されてしまいます。
 
 この時惟栄が義経一行を迎えるために築いたのが岡城(大分県竹田市)だったといわれますが、これには否定的な意見もあります。
 
 
 一方、惟栄は先手を打った鎌倉方によって捕えられ領地没収、沼田に配流されました。その後赦免され故郷に戻って病死したとも配流先で死去したともいわれ最期ははっきりしません。
 
 
 平家方の原田種直が、壇の裏の後捕えられ鎌倉扇谷(おうぎがやつ)で幽閉されるも13年ののち赦され筑前怡土庄(福岡県糸島市あたりか?)を与えられ曲がりなりにも戦国時代まで続くのと比べると緒方氏はその後忽然と消えているのです。もちろん直系以外の緒方氏や大神一族の同族である臼杵氏などは生き残っています。
 
 
 その後幕府から豊後の守護を拝命したのは頼朝落胤伝説まである大友能直。落胤かどうかは眉唾でも頼朝愛妾であった利根局の子としてお気に入りの側近であった能直が守護になったということは、頼朝の九州支配の方針を物語っているような気がしてなりません。
 
 外様の緒方氏ではいつまた反旗を翻されるか分からないので頼朝は心の底では信用していなかったのでしょう。惟栄も頼朝の猜疑を敏感に感じているからこそ義経に賭けたのかもしれません。 
 
 
 豊後の佐伯氏ら大神一族はその後大友氏被官として支配体制に組み込まれ生き残りました。

藤原道長は私の仲間(爆)

 藤原道長(966年~1028年)を知らない人はまさかいないでしょう?藤原摂関政治の頂点にたち摂政・太政大臣、準三后と位人臣を極めた人です。
 
 
 彼と私に一体何の共通点があるのかと疑問に思われるでしょうが、お察しの良い方はお分かりの通り道長も糖尿病で亡くなったらしいのです。(注:これは過去記事です。ヤフーブログの読者じゃないと分からないネタですが、去年半月ほど糖尿病で入院しました)
 
 
 平安時代といえば、平均寿命30歳もあったか疑問なくらいで、幼児死亡率が異常に高い時代でした。医療もももちろん発達してなかったでしょうが、庶民の食生活は貧しく病気での死亡率も高いものでした。
 
 そのなかで熾烈な権力闘争を生き抜き62歳まで生きたのですから十分長命ではあるんですが、藤原道長の晩年の健康状態を記した記録(藤原実資の日記「小右記」に見られる)を読んでみると病気の症状が糖尿病と酷似しているのだそうです。
 
 
 実はこの話は、入院中に病院で読んだ糖尿病患者用の雑誌で仕入れました(笑)。
 
 
 しかも調べてみると藤原一族に糖尿病が多いらしいのです。砂糖は奈良時代に鑑真和上が伝えたとされますが、平安当時でも貴重品で輸入でしか手に入れられない事から医薬品扱いという代物でした。
 
 そんな時代に糖尿病になるってどんだけ贅沢してるんだ!(怒)と思いますが、鎌倉武士は非常に塩分の高い食事で短命だったそうですからそれと比べるとなんだかなあ、という気持ちになります。
 
 平均身長も平安貴族は180cm近くあったそうですよ。たしか鎌倉武士は150cmそこそこくらいでしょう。もう別の人種といってもいいですね(苦笑)。
 
 
 道長も私と一緒で甘いものに目がなかったんだろうな。さすがに饅頭はなかったでしょうが醍醐(幻のお菓子。ヨーグルトに似た甘い味だったといわれている)を毎日頬張っていたんでしょうな。いえね、饅頭を食べながらお茶を飲むと最高に美味しいんですよ(爆)。道長さんも醍醐と宇治茶(当時あったか???)が好物だったりして。
 
 
 気持ちは分かる(爆)。醍醐天皇も醍醐が大好物だったから諡(おくりな)されたという俗説がありますな。まさかこちらも糖尿病???
 さ、明日ヘモグロビンA1Cはどれくらいかな?白状しますと今日誘惑に負けて餡ドーナツを1個食べてしまったんですよ(核爆)。

脱藩大名の維新

 慶応4年/明治元年(1868年)から始まった戊辰戦争は日本全土を巻き込み多くの人々の運命を狂わせます。
 
 なかでも徳川家に忠誠を尽くさなければならない親藩、譜代も時代の流れに翻弄されました。
 
 御三家筆頭尾張藩徳川家、八代将軍吉宗を出した紀州藩徳川家は早くから幕府を見捨て明治新政府に付きます。親藩でも福井藩松平家などはすでに鳥羽伏見以前から薩長と気脈を通じ中立を装いながら事態の推移を見守っていました。
 
 徳川四天王として特に西国の守りを任された彦根藩井伊家、外様ながら準譜代として伊賀・伊勢路の押さえだった津藩藤堂家さえ碌に抵抗せず寝返っています。
 
 酷いのなると、現職の老中として藩主が江戸にいるにもかかわらず主君を見捨ててさっさと新政府軍に降伏した淀藩のような例もあります。
 
 会津藩、桑名藩は例外中の例外なのです。ちなみに尾張藩主徳川慶勝と会津の松平容保、桑名の松平定敬は同じく美濃高須藩松平家から養子に入った実の兄弟でもあります。
 
 もちろん彼らにも言い分はあると思います。個人の考えはともかく藩士とその家族の生活も守らなければならないでしょう。時代の流れに逆らわずその流れに乗るという生き方も必ずしも悪いとは言い切れません。会津や桑名、そして奥羽越列藩同盟の諸藩は悲惨な運命を辿りましたから。正義とか忠義などという青臭い考えでは激動の時代は生きられません。
 
 
 そんな中、吹けば飛ぶような小藩の藩主が己の義を貫きました。彼の名は林忠崇(はやし ただたか)。上総国請西藩(今の千葉県木更津市)の若き藩主でした。
 林家は三河以来の家柄で十一代将軍家斉の時に三千石を加増され大名に列せられました。忠崇は慶応3年(1867年)叔父忠交の急死を受け幼少の子忠広に代わって家督を相続します。このとき二十歳でした。
 文武両道に秀で将来は幕閣になると期待されていたそうです。しかし翌慶応4年、主君である十五代将軍慶喜が大政奉還し政権を朝廷に返上してしまいました。
 忠崇は藩士に洋式装備と訓練を施し有事に備えたそうです。が、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の敗報を聞くと藩内は恭順派と抗戦派に分裂し激しく対立しました。おそらくこの光景はどの藩でも起こった事だと思います。
 そんな中新政府は有栖川宮を征討総督に任命し、東征軍は東海道、中山道、北陸道と別れて江戸に向けて進軍を開始しました。
 請西藩にも激動の時代のうねりは近づいていました。撤兵隊の伊庭八郎、遊撃隊の人見勝太郎ら徹底抗戦派の旧幕府軍が助力を要請しにやってきます。
 これも関東ではよくある光景で、たいていの藩は金や食料を与え体よく追っ払いました。しかし忠崇だけは違った行動をします。
 なんと徹底抗戦派の藩士70名を引き連れ彼らに合流したのです。おそらく藩主自らが脱藩したのは前代未聞でしょう。思い切った行動をしたものだと思います。
 伊庭らと行動を共にした忠崇は、幕府海軍の助力を得て房総半島から伊豆に渡り箱根、小田原を転戦します。このとき小田原藩ら譜代の諸藩に迫り徳川家に対する反逆を責めたといいますが、彼らにとっては迷惑千万だったでしょう(苦笑)。
 結局多勢に無勢、新政府軍に敗退し忠崇らは幕府艦隊に乗り込み会津に向かいます。ここでも激しく戦ったそうですが列藩同盟の盟主仙台藩が降伏した事を受け孤立し、ついには新政府軍に降伏しました。
 おそらく脱藩は、彼の信念と藩の存続という相反する事柄に対するぎりぎりの選択だったのでしょう。しかし新政府にそのような理屈が通用するはずもありません。新政府の怒りを買った請西藩は唯一改易されました。
 
忠崇自身も幽閉され、明治5年(1872年)ようやく赦免されました。家禄は35石に減らされその後の生活は困窮したと伝えられます。開拓農民、下級官吏、商家の番頭などの職を転々としかつての大名とは思えない辛酸を舐めました。
 明治26年(1893年)、旧藩士の嘆願運動で林家は家名復興が許され、忠崇の甥で林家を継いでいた忠広に男爵が授けられます。この時分家していた忠崇も復籍し華族に列せられました。翌年従五位。
 宮内省や日光東照宮に勤め、晩年は娘の経営するアパートに住み、そこで波乱に富んだ一生を終えます。享年92歳。昭和16年(1941年)のことでした。

世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人    ‐ 第四章完結編 ‐

◇第四章 「明の太祖」
 
 
 朱元璋が着々と南部で勢力を拡大する中、元朝側は何をやっていたのでしょう?
 
 実は相変わらず、国家の危機も顧みず内紛の真っただ中でした。世界を征服した蒼き狼たちの子孫としては情けない限りですが、結局元朝内で実権を握ったのは河南軍閥チャガン・テムル(察罕帖木児)の養子(甥)のココ・テムル(擴廓帖木児)でした。
 
 しかし大都の宮中まで巻き込んだ内訌で実態はボロボロでした。
 
 朱元璋がこのチャンスを見逃すはずはありません。1368年北伐の大号令はついに発せられました。
 
 総大将は、挙兵以来の同志で朱元璋の忠実な部下である徐達。率いるは総勢百万とも号する大軍です。
 
 
 明軍は破竹の進撃で内紛で疲弊した元軍を圧倒します。三方から元の首都大都を攻め、たまらず元朝最後の皇帝順帝は首都を捨て北走します。以後モンゴル高原で北元としてしばらく余喘を保ちますが、統一はまだ1368年中の出来事でした。
 
 
 漠北や満州で元朝残党の抵抗は続きましたが、大勢はこれによって決します。明の太祖朱元璋はついに異民族支配を覆し、天下統一をはたしたのです。時に朱元璋41歳。
 
 実は洪武帝朱元璋の生涯はこれからが長いのです。71歳で死去するまで30年間帝国の安定に腐心します。
 
 愛していた皇太子朱標は、父と違い優しい性格でした。このため自分の死後帝国の安泰を図るにはどうしたらいいのか悩みぬきます。
 
 そして朱元璋の出した結論は建国の功臣達の粛清でした。まず1375年、劉基が宰相胡惟庸によって毒殺されます。これは朱元璋の指示ではなく創業の功臣グループである淮南閥と、劉基を指導者とする浙江閥との権力争いの結果だといわれますが、この事件を朱元璋は最大限に利用します。
 
 1380年、朱元璋は劉基毒殺の首謀者として宰相胡惟庸の罪を問います。さらに外国と通謀し謀反を企んだとして胡惟庸派の重臣たちをことごとく逮捕、処刑しました。本人だけでなくその家族まで皆殺しになったといいますからすさまじい事件でした。連座して殺された者が一説では三万人もいたとされますから驚かされます。
 
 世にいう胡惟庸の獄です。さらに1390年には大功臣李善長までが胡惟庸の獄との関係を問われ死を賜りました。
 
 明朝建国で功績のあった諸将のうち9割が粛清されたともいわれ、このため朱元璋は後世非常に悪いイメージを持たれています。主要な功臣で生き残ったのは湯和一人でした。彼は天下統一後間もなく引退していたので助かることができました。徐達も1385年病死していたため被害に遭いませんでしたが、生きていたら確実に粛清されていたに違いありません。
 
 胡惟庸謀反の容疑として外国勢力と結んだとされますが、なんとその国とは日本なのです。我々日本人はその時代南北朝の混乱期から足利義満の統一の時期で外国に野心を抱く余裕があるはず無いと分かります。
 
 当然これは胡惟庸を罪に落すためのでっちあげでした。もしかしたら劉基は本当に病死で、朱元璋が胡惟庸を陥れるために濡れ衣を着せただけかもしれません。
 
 以後、明は宰相制度を廃止し皇帝独裁の国家体制を築きます。
 
 しかし、朱元璋が後世の誹りを覚悟しつつ皇太子の継承を確実なものにした努力は、1392年肝心の朱標が病死した事で無に帰しました。朱元璋の衝撃は計りしれませんでした。後継者は朱標の息子、皇太孫朱允炆(後の建文帝)に定められます。
 
 朱元璋は、このかわいい孫の治政を確実なものにするためさらに粛清に力を注ぎました。
 
 臣下を信じず、軍の指揮権はすべて自分の皇子たちに委ねます。しかし朱元璋の臣下に対する厳しい姿勢は、建文帝の時代には軍の指揮権を握る皇子たちへの圧迫となりました。
 
 それに耐えかねた朱元璋の四男、燕王朱棣(後の永楽帝)が建文帝に対し反乱をおこし、これが靖難の変に繋がるのですから結局朱元璋の努力は水泡に帰しました。永楽帝はいきすぎた皇族や臣下圧迫策を緩和する事が真っ先に行った政策だったそうですから、それだけ明朝の群臣は不安を感じ苦しんでいたのでしょう。
 
 
 朱元璋は死の間際まで功臣を殺し続け、1398年71歳で波乱の生涯を終えました。
 
 
 朱元璋の功罪を考えると、ここまで功臣を殺し尽くした事は大きな罪です。王朝成立後の功臣粛清は中国ではよくある事ですがここまで徹底したのは彼だけでしょう。いくら王朝安泰のためだとはいえ、例えば宋の太祖趙匡胤のように平和的な手段で引退させることもできたはずです。後継者が年端もいかない少年だったことも大粛清を拡大させた原因の一つだったと思います。猜疑心が無用な犠牲を出しすぎました。
 
 一方、功は異民族支配で塗炭の苦しみを味わっていた漢民族を解放し平和をもたらしたことでしょう。明の時代に入って人口は増え、農業生産は上がり商業も発展しました。永楽帝の時代、大規模な外征ができたのは、洪武帝時代の富の蓄積のおかげだと思います。
 
 
 欠点も多いのですが、トータルで見た場合功の方が勝る、それが明の太祖洪武帝、朱元璋という人物でした。まさに善と悪を超越した巨人といえます。

世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人    ‐ 第三章 ‐

◇第三章「鄱陽湖の決戦」
 
 南京応天府(集慶)を拠点に朱元璋は外征を繰り返します。こうして百キロ四方ほどの領土を手に入れました。
 
 東系紅巾では最大勢力となり、いつ独立してもおかしくないほど成長しました。朱元璋は明らかに天下を意識して行動します。その軍は軍紀厳正で紅巾の反乱軍としての性格を捨て去り元朝を滅ぼし漢民族の国を再び建国することを目標としました。
 
 しかし、朱元璋は完全に小明王との関係を断つことはしませんでした。というのも江蘇から浙江にかけての豊かな江東の地を支配する「呉」の張士誠、湖広から江西にかけての広大な領土を持ち漢民族反乱軍で最大の勢力を誇る「漢」の陳友諒という大敵に挟まれていたからです。
 
 小明王の紅巾軍残党は、朱元璋と元朝の間の緩衝材としての役割を果たし、直接の圧力を受けなくて済んでいました。
 
 その間に朱元璋は、同盟を結んで自分を滅ぼそうとする呉と漢に対抗することができました。ちなみに応天府を首都としたことから朱元璋も「呉」国を名乗ります。このため朱元璋の方を西呉、張士誠の方を東呉と区別しますが紛らわしいので張士誠の方だけを呉と呼びます。
 
 1360年、陳友諒は大軍を率い応天府近くまで攻めよせます。この時は諸将の必死の防戦でなんとか撃退できましたが、朱元璋はこの戦いをうけて、まず陳友諒の漢を打倒することが最優先だと悟りました。
 
 張士誠は豊かな江東で満足し、自分から撃って出る事は無かろうという判断です。
 
 
 1363年、陳友諒は60万の大軍をもって再び侵攻してきました。朱元璋は諸将の反対を押し切ってこちらもありったけの兵力である20万を率いこれを迎え撃ちます。
 
 三倍の兵力とまともに戦ったら不利ですから、朱元璋は策を弄します。部下に偽りの降伏をさせ陳友諒の大水軍を鄱陽湖におびき出すことに成功しました。こちらも水軍を繰り出し、長江への出口を塞いだうえで焼き討ちを敢行します。不意を突かれた陳友諒軍は大軍であったことも災いして大混乱に陥りました。
 
 決戦は三日間にも及び、朱軍はついに宿敵陳友諒を撃破することに成功します。陳も戦死し漢軍の残党は本拠地武昌に逃げ込みました。翌年には後を継いだ陳理が降伏、漢は滅亡しました。
 
 最大の宿敵を滅ぼした朱元璋は、もう一つの大敵呉の張士誠を討つべく1364年攻撃を開始しました。
 
 張士誠との激闘が続いていた1366年、長江の北では紅巾軍の勢力がついに元軍に滅ぼされ、小明王は朱元璋を頼って南下します。が、もはや利用価値のなくなった小明王を朱元璋が生かしておくはずもなく、船の底に穴をあけて渡河中に溺死させたのです。
 
 やり口があまりにもえげつないような気がしますが、これが朱元璋のやり方でした。自分にも部下にも厳しく利用価値のなくなった者は容赦なく切り捨てました。
 
 このため、朱元璋の厳しいやり方に付いていけなくなる諸将が出てくるのはやむを得なかったのかもしれません。中でも挙兵以来の宿将である邵栄の謀反は衝撃でした。以後朱元璋はますます自分の部下に対しても猜疑心をつのらせていきます。
 
 ただ朱元璋のために弁護しておくと、厳しかったのは自分の部下たちに対してだけで、領民たちには善政を布きました。天下統一のためには領民の支持が絶対条件ですから当然ではありましたが、これが朱元璋による天下統一の最大の要因でした。
 
 1367年、蘇州を中心に頑強に抵抗した張士誠がついに降伏します。朱元璋はこれを処刑しついに天下取りレースの再先頭に躍り出ました。
 
 1368年、朱元璋は応天府で即位、元号を洪武とし国号を大明と定めます。
 

世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人    ‐ 第二章 ‐

◇第二章「朱元璋の登場」
 
 
 元朝末期順帝の至正年間、安徽省は大干魃(かんばつ)と蝗害(イナゴの被害)で大凶作に襲われました。悪い事は重なるもので疫病が猛威を振いここ濠州鐘離太平郷(現在の安徽省鳳陽県)でも一日に数十人も死者が出るという日が続きます。
 
 孤荘村の朱家でも父朱五四が64歳で亡くなったのを皮切りに半月のうちに長男の朱重四、母親の陳二嬢が次々と世を去り、残されたのは次男の重六、末子の重八だけになりました。
 
 朱五四の家は、他所からの流れもので土地もなく日雇いで生活していたため貧しく蓄えもありませんでした。
 
 残された兄弟は、父母を埋葬する金もなくボロ布に遺体を包んで近くの山裾を当てもなく彷徨っていました。ところが一点かき曇り豪雨が襲ったため遺体をそのままにしてしばらく雨宿りする事にします。ようやく雨が止みもといた場所に戻ってみると雨で崖が崩れ自然に両親の遺体を埋葬していたのです。
 
 土地の持ち主にこの事を告げると、好意でそのまま墓にして良いとのことでした。
 
 この兄弟は気付きませんでしたが、この墓は自然にできた風水上の大吉地を形成していたのです。
 
 
 もとより兄弟にそんな知識はありませんから、二人は今後の事を相談します。兄の重六は成人していましたからどこかに職を探すことになりましたが、まだ15歳の重八は一人で生き抜くことが難しいだろうと寺に預けられることになりました。
 
 こうしてただ一人の肉親と別れ、重八少年は皇覚寺の小僧となります。重八はここで読み書きを習い人として最低限の知識を得ることになりますが、平穏は長く続きませんでした。
 
 世相は大飢饉の真っただ中、紅巾の大乱が間もなく起こるように殺伐としてしました。貧しい田舎寺に蓄えがあるはずもなく、重八はお経をやっと覚えたかどうかで托鉢に放り出されます。ていのよい口減らしです。
 
 重八は生きるために諸国を放浪します。極貧の中必死に書を読み世間を見ました。人を学び人を見る目を養います。勘の良い方ならもうお分かりでしょうが、この重八こそ後の明の太祖朱元璋その人です。
 
 おそらくこの厳しい諸国放浪時代に学んだ文字で改名したのでしょう。以後は彼の事を朱元璋と呼ぶ事にします。
 
 朱元璋の托鉢という名の放浪の旅は数年に及びました。そして懐かしい故郷に帰ると寺は荒れ果て故郷の風景も随分変わっていました。
 
 時代は激動のうねりの中にありました。1351年紅巾の乱勃発、ここ濠州でも生きていけなくなり流民と化した人々が続々と反乱に身を投じます。
 
 朱元璋のもとにも同郷の幼馴染、湯和から紅巾軍参加の誘いの手紙がきます。湯和はすでに反乱軍に参加し手柄を立てて千人の部下を持つ身分になっているとのことでした。
 
 迷う朱元璋でしたが、皇覚寺が紅巾軍と元軍の戦いで焼き討ちにあったのを機に紅巾軍に参加する決意をしました。
 
 朱元璋は、紅巾軍の武将でこのあたりを支配している郭子興の部隊に参加します。初めは一兵卒でしたが、たくましい体格と智謀、人と捉えて離さない人心掌握力で命じられる以上の働きをし部隊の隊長も朱元璋の意見を聞くようになります。
 
 朱元璋のめざましい働きはいつしか総大将、郭子興の目にとまりました。郭は朱元璋を親衛隊に抜擢、試しに小部隊を指揮させてみると数々の大功を立てます。これを見ていた郭将軍の妻、張氏は有能な朱元璋をいつまでも引き留めておくために夫に朱元璋を養女馬氏の婿とするよう進言しました。
 
 馬氏は、郭子興の亡くなった旧友の遺児で子のない張夫人が引き取って育てていたのでした。
 
 こうして朱元璋は郭将軍の腹心、親族となります。馬氏は決して美人ではありませんでしたが聡明で優しい女性でした。賢婦人として名高い後の馬皇后です。
 
 
 朱元璋は郭子興を助け紅巾軍内の地位をあげるのに功がありました。しかし、紅巾軍の主力が元軍に大敗し安徽省に逃げてくると郭子興の籠る濠州城にも敗残の他の武将たちが逃げ込み、それを追ってきた元軍に包囲されます。
 
 狭い城内で、統制の取れてない諸将がひしめき合うのですから争いが無いはずありません。元軍包囲下にありながら逃げ込んできた紅軍の武将孫徳崖らと郭子興は仲違し互いに暗殺を計画するほど関係が悪化します。
 
 このような状況の中、濠州城は七カ月も包囲されました。兵糧の尽きた元軍が撤退し危機を脱した紅軍でしたが、打開策を考えようにも両陣営の対立は抜き差しならぬものになっていました。
 
 朱元璋は、郭子興の命を受け一部の兵を率い兵糧確保と募兵のために城外に出ます。この部隊には徐達、周徳興ら後の明軍幹部となる人材が集まりました。中でも後に文官の長となる李善長の参加は朱元璋を喜ばせました。
 
 小さいながらも人材を集めた朱元璋の軍は、次第に膨れ上がっていきます。李善長は朱元璋に劉邦のように行動し、軍紀を厳しくしなければならないと進言したため、朱軍は反乱軍でありながら略奪もせず次第に人心を集めて行きました。
 
 1355年、郭子興が死ぬと彼の軍も吸収し朱元璋は紅巾軍の中でも有力な武将になっていました。
 
 朱元璋は将来の大望のために我慢のできる男でした。軍紀厳正な朱軍は住民に信頼され、募兵しても多くの兵が集まります。
 
 朱元璋は、このまま安徽にいてもいずれ元軍に滅ぼされると悟り、単身長江を渡り江南の集慶(後の南京)に拠点を移す決意をします。紅巾軍の他の武将はこれを無謀と笑いましたが、朱元璋には確信がありました。
 
 激しい戦いの末集慶を落とすと朱元璋はここを本拠と定め、一族郎党をすべて呼び寄せます。紅軍の指導者小明王(韓林児)は、朱元璋を大元帥に任命し、このあたりの攻略を任せる事にしました。
 
 朱元璋としてもいきなり独立するより、紅軍の傘の下で実力を蓄える方が得策と考えていました。集慶を拠点に朱軍は各地を攻略します。
 
 と同時に人材の発掘に努めます。この時参加した劉基は漢の張良、蜀の諸葛亮に並び称される人材でした。こうして朱元璋は着々と地盤を固めて行ったのです。

世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人    ‐ 第一章 ‐

◇第一章「紅巾の乱」

 古来、漢民族の考える宇大(うだい 天下の事)の範囲は周代の九州(青州とか豫州とか)であったと想像されます。大雑把にいうと北は万里の長城が北限、南は浙江省、江西省、湖南省、四川省。西は甘粛省の東半分くらいまで。(ただし陝西省では黄河の几状湾曲部内、長城から北のオルドス地方は含まない)


 歴代中国王朝でもほぼこの域内が版図で、王朝の国威が高い時だけその域外に勢力圏を広げるというものでした。

 ここに面白いデータがあります。元の成立以前、華北にあった金朝の人口が4500万、華中・華南の南宋の人口が2800万。しかし元朝成立後の人口統計では6000万に減っているのです。単純計算で1300万人ほど人口が減った事になります。

 普通はこういう現象は起きません。統一王朝ができると人口は増えるのが当たり前です。戦乱で死ぬ心配もなく平和になった事で農業生産力が上がり経済も発展します。さらに中国史に詳しい方ならピンと来ると思いますが、中央政府の統制力が強まったおかげで豪族が隠してきた部民(小作人のようなもの)も正直に申告しないといけないためです。人口によって税額が決まるため分裂王朝の時期などは豪族たちが政府を侮り正直に申告しないか無視を決め込むのです。さらに流民も定住するようになり(政府の把握する)人口は増えます。

 が、モンゴル支配下の元朝では一千万以上も人口が減っているのです!これは異常事態といわざるを得ません。それだけ異民族支配が苛酷であったことの何よりの証拠です。


 これは想像ですが、モンゴル人やその下で実務を担当した色目人にとって中国の民衆とは単に搾取の対象でしかなく、彼らからできるだけ税金を搾り取ることには熱心でも経済発展や農業発展による人口増加などには全く関心がなかったのでしょう。


 虐げられた民衆の中から立ち上がる者が出てきても何ら不思議ではない、というのが元朝末期の状況でした。


 ここで話は飛びますが、皆さんは白蓮教という宗教をご存知ですか?マニ教を源流としそれに弥勒下生などの浄土系民間宗教が融合し南宋末期に誕生した宗教結社です。

 いつの日か弥勒菩薩が下生し虐げられた人々を救い理想の地上天国を作る、という教えは過酷なモンゴル人支配下で苦しめられている民衆にとってまさに干天の慈雨ともいうべき教えでした。特に淮河から長江下流域の所謂江南で爆発的に信者を増やしました。

 元朝末期には弥勒教あるいは明教と呼ばれるようになった宗教結社は数十万、あるいは数百万以上の信者を獲得していました。


 明教は幾度も反乱をおこしては鎮圧され、激しい弾圧を受けます。しかし民衆の過酷な生活という現状が改められない以上、滅ぶことはありませんでした。それどころかますます先鋭化し国家転覆まで目論むようになっていったのです。弾圧を受ければ受けるほど信者が増えて行くという現実を元朝政府はなすすべもなく見守るだけでした。


 元朝最後の皇帝順帝の至正11年(1351年)、明教の指導者韓山童は黄河治水工事で集められた数十万の農民を組織し、元朝に対する反乱を計画します。しかし事は露見し韓山童は政府に捕えられ処刑されました。

 一方、韓山童の同志劉福通は韓山童の遺児韓林児を擁して司直の手を逃れ南方に脱出します。

 1355年、江南で蜂起した劉福通らは韓山童を小明王と祭り上げ国号を宋と名乗りました。これは今までの反乱と違い明らかな元朝転覆を目論む行動です。

 反乱軍は頭に紅巾を巻いていたため、この反乱を紅巾の乱と呼びます。他方、湖北でも1351年明教の別系列の徐寿輝が挙兵。国号を天完と名乗ります。韓林児の方を東系紅巾、徐寿輝の方を西系紅巾として区別しますが、反乱は瞬く間に広がりました。


 元は討伐軍を何度も送りますが、かつての草原での厳しい生活を忘れ中国で贅沢三昧をして軍紀の緩みきっていた元軍はこれを鎮圧できませんでした。むしろ地方の有力豪族が自分たちの生活を守るために組織した義軍のほうが手強く、紅巾軍と各地で激しく戦います。


 1357年、東系紅巾の宋は北伐を開始します。一時は元の首都大都に迫り一部の部隊は朝鮮半島北辺まで脅かしました。しかしさすがにここまで危機が至ると元朝側も真剣に反撃を考えます。

 モンゴルの正統貴族ではないチャガン・テムル(察罕帖木児)は領地のある河南で義兵を組織し、また大同ではボロト・テムル(孛羅帖木児)が同じく私兵を組織し紅巾軍に当たりました。


 元の正規軍ではどうしようもなくなっていた現状がすでに王朝にとっては致命的でしたが、新たに誕生したモンゴル貴族の軍閥は流石に強く、紅巾軍の攻撃を凌ぎついには撃退に成功します。

 元の将軍に任命された軍閥たちは、敗走する紅巾軍を追って山東を奪回し、宋の首都開封を占領しました。紅巾軍は彼らの追撃をやっとの事で振り切り安徽省に立てこもります。

 一方、西系紅巾軍は湖北・湖南・江西に勢力を拡大しこちらはさしものモンゴル軍閥も簡単には手が出せない大勢力に発展していました。しかし安定勢力になったことでかえって内部抗争が激化し指導者の徐寿輝は部下の陳友諒に殺され、国を乗っとられました。


 元としては弱体化した東系紅巾をすぐにでも鎮圧できたはずですが、そうならなかったのは元朝内部の勢力争いが再燃したからでした。山西省から内モンゴル南部を支配下におさめたボロト・テムルと、河南から華北にかけて勢力を広げたチャガン・テムルが宮廷のモンゴル貴族も巻き込んで激しく勢力争いを始めたのです。

 喉元過ぎれば熱さ忘れるで、優先順位も分からなくなった元朝は滅びる運命にあったのかもしれません。東系紅巾軍の宋はこれによって生き伸びることができました。


 統治能力を失った元を見限り、中国大陸各地で群雄が立ち上がり出します。有名なところでは江蘇から浙江にかけて勢力を張った張士誠、西系紅巾を滅ぼし大漢国を建国した陳友諒、四川で自立した夏国の明玉珍らが主なものです。


 世間の注目は、これら軍雄のうちで誰が元を滅ぼし天下を統一するか?でした。しかしそれは上記の誰でもありませんでした。

 その人物は、弱体化した東系紅巾の宋国から登場します。



 次回、朱元璋の登場と台頭を描きます。

世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人   ‐ 序章 ‐

 明の太祖 朱元璋(1328年~1398年)を描いた肖像画には異なる二種類のものが残されています。その一枚は温厚な表情の朱元璋、もう一枚は醜い顔をしたもの。
 
 これには有名なエピソードがあります。
 
 元朝を滅ぼし明朝を建国した朱元璋。彼はある時偉大な足跡を示した自分を後世に残すため絵師たちに肖像画を描くよう命じます。
 
 しかしどの絵師も後者のような肖像画を描いてくるため朱元璋は激怒し、次々と処刑しました。そこである絵師は、輪郭だけ実物と似せあとは柔和な表情になるよう描き変えて提出したところ、はじめて満足したそうです。
 
 
 これだけ聞くとどれほど暴君なのかと呆れるでしょうし、これほど醜悪な人間がよく天下を統一できたと驚きもするでしょう。しかも天下を統一した後粛清した功臣の数は漢の高祖劉邦も遠く及ばないとされますから尚更です。
 
 しかしマイナス面だけでなく良い面もあったからこそ人は付いてきたのだと思います。これから4回に分けて描く世界史英雄列伝第40回「明の太祖 朱元璋」では彼の人間性まで伝えられたらと思っています。
 
 予定では
①元末の情勢と紅巾の乱
②紅軍との決別
③鄱陽湖の決戦
④明の太祖
となります。
 
 中国史において貧しい農民階級から天下を取ったのはたったの二人。一人は漢の高祖劉邦、そしてもう一人が明の太祖朱元璋です。
 
 農民とはいいながら劉邦の出身は中農で日々の暮らしに困ることはなかったと伝えられますが、朱元璋は一家離散まで経験した壮絶な過去をもっています。しかしその逆境がバネとなり後に天下を取る事が出来たのだから人生は分かりませんね。
 
 以前不思議書庫でちょっと触れた朱元璋ですが、今回ようやく英雄列伝で描くことができます。
 
 
 ところで最初の肖像画のエピソードですが、実物に似ているといわれる醜い肖像画が残っているところに朱元璋の食えなさがあると思いませんか?案外肖像画のエピソードは朱元璋自身が広めたものだったのかもしれません。
 
 善悪を超越した巨人朱元璋の生涯にどこまで迫れるか分かりませんが、精一杯描ききろうと思いますので皆様よろしくお願いいたします(拝)。

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