脱藩大名の維新
慶応4年/明治元年(1868年)から始まった戊辰戦争は日本全土を巻き込み多くの人々の運命を狂わせます。
なかでも徳川家に忠誠を尽くさなければならない親藩、譜代も時代の流れに翻弄されました。
御三家筆頭尾張藩徳川家、八代将軍吉宗を出した紀州藩徳川家は早くから幕府を見捨て明治新政府に付きます。親藩でも福井藩松平家などはすでに鳥羽伏見以前から薩長と気脈を通じ中立を装いながら事態の推移を見守っていました。
徳川四天王として特に西国の守りを任された彦根藩井伊家、外様ながら準譜代として伊賀・伊勢路の押さえだった津藩藤堂家さえ碌に抵抗せず寝返っています。
酷いのなると、現職の老中として藩主が江戸にいるにもかかわらず主君を見捨ててさっさと新政府軍に降伏した淀藩のような例もあります。
会津藩、桑名藩は例外中の例外なのです。ちなみに尾張藩主徳川慶勝と会津の松平容保、桑名の松平定敬は同じく美濃高須藩松平家から養子に入った実の兄弟でもあります。
もちろん彼らにも言い分はあると思います。個人の考えはともかく藩士とその家族の生活も守らなければならないでしょう。時代の流れに逆らわずその流れに乗るという生き方も必ずしも悪いとは言い切れません。会津や桑名、そして奥羽越列藩同盟の諸藩は悲惨な運命を辿りましたから。正義とか忠義などという青臭い考えでは激動の時代は生きられません。
林家は三河以来の家柄で十一代将軍家斉の時に三千石を加増され大名に列せられました。忠崇は慶応3年(1867年)叔父忠交の急死を受け幼少の子忠広に代わって家督を相続します。このとき二十歳でした。
文武両道に秀で将来は幕閣になると期待されていたそうです。しかし翌慶応4年、主君である十五代将軍慶喜が大政奉還し政権を朝廷に返上してしまいました。
忠崇は藩士に洋式装備と訓練を施し有事に備えたそうです。が、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の敗報を聞くと藩内は恭順派と抗戦派に分裂し激しく対立しました。おそらくこの光景はどの藩でも起こった事だと思います。
そんな中新政府は有栖川宮を征討総督に任命し、東征軍は東海道、中山道、北陸道と別れて江戸に向けて進軍を開始しました。
請西藩にも激動の時代のうねりは近づいていました。撤兵隊の伊庭八郎、遊撃隊の人見勝太郎ら徹底抗戦派の旧幕府軍が助力を要請しにやってきます。
これも関東ではよくある光景で、たいていの藩は金や食料を与え体よく追っ払いました。しかし忠崇だけは違った行動をします。
なんと徹底抗戦派の藩士70名を引き連れ彼らに合流したのです。おそらく藩主自らが脱藩したのは前代未聞でしょう。思い切った行動をしたものだと思います。
伊庭らと行動を共にした忠崇は、幕府海軍の助力を得て房総半島から伊豆に渡り箱根、小田原を転戦します。このとき小田原藩ら譜代の諸藩に迫り徳川家に対する反逆を責めたといいますが、彼らにとっては迷惑千万だったでしょう(苦笑)。
結局多勢に無勢、新政府軍に敗退し忠崇らは幕府艦隊に乗り込み会津に向かいます。ここでも激しく戦ったそうですが列藩同盟の盟主仙台藩が降伏した事を受け孤立し、ついには新政府軍に降伏しました。
おそらく脱藩は、彼の信念と藩の存続という相反する事柄に対するぎりぎりの選択だったのでしょう。しかし新政府にそのような理屈が通用するはずもありません。新政府の怒りを買った請西藩は唯一改易されました。
忠崇自身も幽閉され、明治5年(1872年)ようやく赦免されました。家禄は35石に減らされその後の生活は困窮したと伝えられます。開拓農民、下級官吏、商家の番頭などの職を転々としかつての大名とは思えない辛酸を舐めました。
明治26年(1893年)、旧藩士の嘆願運動で林家は家名復興が許され、忠崇の甥で林家を継いでいた忠広に男爵が授けられます。この時分家していた忠崇も復籍し華族に列せられました。翌年従五位。
宮内省や日光東照宮に勤め、晩年は娘の経営するアパートに住み、そこで波乱に富んだ一生を終えます。享年92歳。昭和16年(1941年)のことでした。
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