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2012年4月 6日 (金)

世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人    ‐ 第一章 ‐

◇第一章「紅巾の乱」

 古来、漢民族の考える宇大(うだい 天下の事)の範囲は周代の九州(青州とか豫州とか)であったと想像されます。大雑把にいうと北は万里の長城が北限、南は浙江省、江西省、湖南省、四川省。西は甘粛省の東半分くらいまで。(ただし陝西省では黄河の几状湾曲部内、長城から北のオルドス地方は含まない)


 歴代中国王朝でもほぼこの域内が版図で、王朝の国威が高い時だけその域外に勢力圏を広げるというものでした。

 ここに面白いデータがあります。元の成立以前、華北にあった金朝の人口が4500万、華中・華南の南宋の人口が2800万。しかし元朝成立後の人口統計では6000万に減っているのです。単純計算で1300万人ほど人口が減った事になります。

 普通はこういう現象は起きません。統一王朝ができると人口は増えるのが当たり前です。戦乱で死ぬ心配もなく平和になった事で農業生産力が上がり経済も発展します。さらに中国史に詳しい方ならピンと来ると思いますが、中央政府の統制力が強まったおかげで豪族が隠してきた部民(小作人のようなもの)も正直に申告しないといけないためです。人口によって税額が決まるため分裂王朝の時期などは豪族たちが政府を侮り正直に申告しないか無視を決め込むのです。さらに流民も定住するようになり(政府の把握する)人口は増えます。

 が、モンゴル支配下の元朝では一千万以上も人口が減っているのです!これは異常事態といわざるを得ません。それだけ異民族支配が苛酷であったことの何よりの証拠です。


 これは想像ですが、モンゴル人やその下で実務を担当した色目人にとって中国の民衆とは単に搾取の対象でしかなく、彼らからできるだけ税金を搾り取ることには熱心でも経済発展や農業発展による人口増加などには全く関心がなかったのでしょう。


 虐げられた民衆の中から立ち上がる者が出てきても何ら不思議ではない、というのが元朝末期の状況でした。


 ここで話は飛びますが、皆さんは白蓮教という宗教をご存知ですか?マニ教を源流としそれに弥勒下生などの浄土系民間宗教が融合し南宋末期に誕生した宗教結社です。

 いつの日か弥勒菩薩が下生し虐げられた人々を救い理想の地上天国を作る、という教えは過酷なモンゴル人支配下で苦しめられている民衆にとってまさに干天の慈雨ともいうべき教えでした。特に淮河から長江下流域の所謂江南で爆発的に信者を増やしました。

 元朝末期には弥勒教あるいは明教と呼ばれるようになった宗教結社は数十万、あるいは数百万以上の信者を獲得していました。


 明教は幾度も反乱をおこしては鎮圧され、激しい弾圧を受けます。しかし民衆の過酷な生活という現状が改められない以上、滅ぶことはありませんでした。それどころかますます先鋭化し国家転覆まで目論むようになっていったのです。弾圧を受ければ受けるほど信者が増えて行くという現実を元朝政府はなすすべもなく見守るだけでした。


 元朝最後の皇帝順帝の至正11年(1351年)、明教の指導者韓山童は黄河治水工事で集められた数十万の農民を組織し、元朝に対する反乱を計画します。しかし事は露見し韓山童は政府に捕えられ処刑されました。

 一方、韓山童の同志劉福通は韓山童の遺児韓林児を擁して司直の手を逃れ南方に脱出します。

 1355年、江南で蜂起した劉福通らは韓山童を小明王と祭り上げ国号を宋と名乗りました。これは今までの反乱と違い明らかな元朝転覆を目論む行動です。

 反乱軍は頭に紅巾を巻いていたため、この反乱を紅巾の乱と呼びます。他方、湖北でも1351年明教の別系列の徐寿輝が挙兵。国号を天完と名乗ります。韓林児の方を東系紅巾、徐寿輝の方を西系紅巾として区別しますが、反乱は瞬く間に広がりました。


 元は討伐軍を何度も送りますが、かつての草原での厳しい生活を忘れ中国で贅沢三昧をして軍紀の緩みきっていた元軍はこれを鎮圧できませんでした。むしろ地方の有力豪族が自分たちの生活を守るために組織した義軍のほうが手強く、紅巾軍と各地で激しく戦います。


 1357年、東系紅巾の宋は北伐を開始します。一時は元の首都大都に迫り一部の部隊は朝鮮半島北辺まで脅かしました。しかしさすがにここまで危機が至ると元朝側も真剣に反撃を考えます。

 モンゴルの正統貴族ではないチャガン・テムル(察罕帖木児)は領地のある河南で義兵を組織し、また大同ではボロト・テムル(孛羅帖木児)が同じく私兵を組織し紅巾軍に当たりました。


 元の正規軍ではどうしようもなくなっていた現状がすでに王朝にとっては致命的でしたが、新たに誕生したモンゴル貴族の軍閥は流石に強く、紅巾軍の攻撃を凌ぎついには撃退に成功します。

 元の将軍に任命された軍閥たちは、敗走する紅巾軍を追って山東を奪回し、宋の首都開封を占領しました。紅巾軍は彼らの追撃をやっとの事で振り切り安徽省に立てこもります。

 一方、西系紅巾軍は湖北・湖南・江西に勢力を拡大しこちらはさしものモンゴル軍閥も簡単には手が出せない大勢力に発展していました。しかし安定勢力になったことでかえって内部抗争が激化し指導者の徐寿輝は部下の陳友諒に殺され、国を乗っとられました。


 元としては弱体化した東系紅巾をすぐにでも鎮圧できたはずですが、そうならなかったのは元朝内部の勢力争いが再燃したからでした。山西省から内モンゴル南部を支配下におさめたボロト・テムルと、河南から華北にかけて勢力を広げたチャガン・テムルが宮廷のモンゴル貴族も巻き込んで激しく勢力争いを始めたのです。

 喉元過ぎれば熱さ忘れるで、優先順位も分からなくなった元朝は滅びる運命にあったのかもしれません。東系紅巾軍の宋はこれによって生き伸びることができました。


 統治能力を失った元を見限り、中国大陸各地で群雄が立ち上がり出します。有名なところでは江蘇から浙江にかけて勢力を張った張士誠、西系紅巾を滅ぼし大漢国を建国した陳友諒、四川で自立した夏国の明玉珍らが主なものです。


 世間の注目は、これら軍雄のうちで誰が元を滅ぼし天下を統一するか?でした。しかしそれは上記の誰でもありませんでした。

 その人物は、弱体化した東系紅巾の宋国から登場します。



 次回、朱元璋の登場と台頭を描きます。

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