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2012年5月

2012年5月13日 (日)

奥州総奉行 葛西一族

 葛西氏は、桓武平氏平良文(よしふみ)の流れをくむ秩父氏の一族豊島氏の支流です。高望王の子村岡五郎良文の孫中村太郎将恒(常)が武蔵介藤原真枝を討った功によって、下総国葛西郡を与えられたのが始まり(武家家伝より)とされます。
 
 葛西郡は下総国葛飾郡葛西庄から起こった名前で、平良文の孫将恒の時に秩父氏を称し、さらに将恒の曾孫康家の時に豊島氏を称しています。康家の孫清重の時に葛西三郎と称していますから、清重(1161年~1238年)が葛西氏初代だと考えられます。
 
 この葛西清重という人物は重要で、父清光と共に頼朝の挙兵に参加します。同じ秩父一族の江戸重長が平家方であった事を考えると早くから頼朝に従った功は大きかったと思います。大族秩父一族では畠山重忠、川越重頼とともに勝ち組に入ったともいえます。
 
 清重は、富士川の合戦、常陸佐竹氏討伐、源範頼を大将とする平家討伐など一連の戦に参加、奥州合戦では大功をあげ戦後頼朝から殊勲抜群として奥州藤原氏旧領のうち胆沢郡磐井郡牡鹿郡などを与えられます。さらに奥州総奉行に任ぜられ陸奥の国の御家人統率を命じられました。ちなみにこの時伊沢家景も奥州留守職(るすしき)に任じられます。これが留守氏のはじまりです。
 
 葛西氏の奥州との関わりの始まりですが、最盛期(戦国期)には葛西七郡(伊沢、磐井、江刺、本吉、桃生、気仙、 登米)三十万石を数え奥州の有力大名になりました。
 
 葛西氏の初期の本拠は石巻の日和山城でした。清重自身は奥州の安定を見て鎌倉に帰ったようですが一族を代官として現地に派遣していたようです。系図では清重の次男朝清が奥州に下ったようですね。
 
 葛西氏は南北朝時代に登米郡寺池城に本拠を移したといわれていますがはっきりしません。というのも石巻系と寺池系で嫡流争いがあったようなのです。そのために系図もいくつかあり混乱しています。
 
 常識的に考えると初め石巻系(朝清)の葛西氏が土着していて、鎌倉末期嫡流家(清親系)が鎌倉から下向し寺池城に拠ったのではないかと思いますが、逆に石巻が嫡流で寺池系が乗っ取ったという説もあるのです。
 
 南北朝で葛西氏も北朝方と南朝方に分かれて争ったそうですから、最後には寺池系が葛西氏の実権を握り嫡流に落ち着きました。
 
 系図で葛西晴重がどちらの系統かはっきりしないのもそのためです。寺池系葛西氏による系図の操作は当然あったはずですから。
 
 
 晴重の父で葛西氏十三代の政信(1433年~1506年)にも家督相続上の異説があり、本来なら葛西宗清が正当な後継者であったのを、十二代尚信を政信が毒殺し家督を強奪したというのです。私はこの異説の方が信憑性あると思います。系図でも不自然な点が見受けられますし。宗清は石巻城主葛西満重の養子。伊達成宗の次男。
 
 このため政信と宗清は当主の座を巡ってしばしば争ったそうです。
 
 
 ところで葛西氏といえば、すぐ南に隣接する大崎氏との関係が話題に上ります。大崎氏は足利一門斯波氏の一族で奥州探題として南北朝時代に下向し大崎五郡(志田郡、玉造郡、加美郡、遠田郡、栗原郡)に土着しました。
 
 鎌倉幕府の奥州総奉行と室町幕府の奥州探題。職責が似ている事もあってライバル関係となった事は想像に難くありません。しかもどちらも結局奥州全土に威勢を及ぼす事は出来ず一地方勢力に落ちぶれたわけですから。
 
 十四代晴重(政信の三男)も十五代当主として伊達稙宗の六男晴胤を迎えています。この頃の奥州情勢は大国伊達氏の動向抜きには語れなくなっていました。奥州の有力大名家(葛西氏、大崎氏、留守氏など)は伊達家と姻戚関係を結ぶか養子を迎え(=伊達氏から強要されて)緩やかな従属関係を結ばざるを得なくなります。
 
 天文の乱(1542年~1548年)で一度リセットされるものの桑折西山城(こおりにしやまじょう)から出羽国置賜郡米沢城に本拠を移した晴宗、輝宗の時代に盛り返し伊達家は会津の蘆名氏と共に奥州の騒動の中心になっていきました。
 
 伊達氏は本拠の伊達郡、信夫郡、置賜郡(出羽・米沢盆地)だけで三十万石あったといわれ岩代や陸前(現仙台平野)に進出し五十万石の実力はあったといわれています。
 
 葛西氏は三十万石と称されながら、豊臣秀吉の奥州仕置後葛西・大崎領を与えられた木村吉清の石高(三十万石)を考えるとせいぜい十五万石というのが実態だったろうと考えられます。
 
 十五代晴胤(1497年~1555年)の代が天文の乱の時期に当たります。味方した兄伊達晴宗が天文の乱で勝利したため乱による直接の被害は受けなかったようです。晴胤の代に戦国大名葛西氏としての基礎が築かれます。ちなみに兄である伊達晴宗(1519年~1578年)と生没年がおかしいので生没年を繰り下げるべきだという説があります。伊達稙宗から迎えた養子は別におり(葛西牛若丸)、晴胤は養子には変わらないものの一族の葛西稙清の子だという異説あり。
 
 この頃正式に寺池城が葛西氏の本拠として確立しました。十六代親信(晴胤の長男)は1555年家督を相続しますが、間もなく起こった隣国大崎氏との抗争に疲れ1560年病死してしまいます。
 
 十七代は弟晴信が継ぎます。この葛西晴信(1534年~1594年)こそ葛西氏最後の当主です。大崎氏と対抗するために伊達氏と結んだり1569年にははるばる上洛して織田信長に謁見、所領を安堵されるなどなかなかやっているんですが、致命的だったのは1590年の豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった事です。
 
 伊達政宗が参陣を散々迷った末決断したくらいですから、中央の情勢に疎い葛西氏などが迷ったのは仕方なかったかもしれません。それを考えるとさらに僻地(陸奥)の津軽為信がいち早く小田原陣に参陣して本領安堵を勝ち取ったことは恐るべき慧眼と言わざるを得ません。
 
 結局この時参陣しなかった奥州大名は所領を剥奪されました。ただ異説もあり、葛西晴信は秀吉の奥州平定に抵抗し徹底抗戦するものの寺池城あるいは佐沼城で戦死したともいわれます。こうなると言わずもがなですが(苦笑)、このように晴信の最後ははっきりしていません。改易後に諸国を放浪し1597年加賀で死去したという説があります。
 
 
 大名としての葛西氏は十七代で滅亡しますが、一族の多くは伊達氏、南部氏に仕えて細々ながらも家名を残したそうです。

竜造寺水軍の謎

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 私は常々疑問に思っている事があります。佐賀の戦国大名竜造寺氏についてです。肥前佐賀に発祥し隆信の代に突如勃興。最盛期には本拠肥前を中心に、筑前・筑後・豊前・肥後にまたがる領土と壱岐対馬を制し五州二島の太守となったことは戦国史通ならご存知の事と思います。
 
 竜造寺隆信の勢力拡大を見ていると内海である有明海の制海権を握っていたことが大きかった事に気付かされます。ただ竜造寺水軍の実態をネットで調べてもはっきりした事は分からず五里霧中の状態でした。
 
 そんな中一応自分の想像も含めた考えを一度まとめておこうと思ったわけです。ですからこれはあくまで現時点での想像で、今後資料を調べて行くうちに変わる可能性もあります。その時は大幅改定する予定なのでそういうものだと理解して読み進めてください(汗)。
 
 まず竜造寺水軍の存在を匂わせるのは天正8年(1580年)に行われた第2次肥後侵入です。嫡子政家と鍋島直茂に率いられた数万の陸軍と同時に肥前神代(島原半島北部)を発し兵船二百余の水軍が有明海を横断したという記述があります。
 
 おそらく水軍の役目は陸軍の補給を支えるためで、私の想像では玉名郡の荘園大野別符(現玉名市にあった)内にある主城内野城に入り補給基地として整備したのではないかと思います。
 
 陸軍の主力は間もなく引き揚げましたが、その後薩摩の島津氏勢力が北上したため菊池川を挟んで睨み合いが続きました。
 
 両軍は互いに付城を築き長期間の対陣に備えたはずで、竜造寺方の拠点が内野城だったと思うのです。島津方は不明。
 
 天正11年(1583年)には互いの兵力が増強され合戦の危機に陥りますが、和睦によって一時両家の国境を菊池川に定めて引きさがっています。
 
 次は天正12年(1584年)竜造寺と島津の決戦になった沖田畷の戦いの時です。この時も竜造寺軍数万(資料によって18000~60000と開きがある)は鹿島を出港し島原半島北部に上陸しています。
 
 
 という事は少なくても有明海を他家に邪魔されず自由に航行できるだけの制海権を持っていた事になります。島津との数年間の対陣の補給を支えるには制海権がなければとてもできませんから。
 
 
 ここからは私の想像ですが、竜造寺家の水軍基地の有力な拠点の一つは鹿島にあったのではないかと思います。というのも隆信が政家に家督を譲って隠居した須古城がまさに鹿島の近く、白石にあったのです。
 
 須古城はもともと肥前千葉氏の家臣平井氏の城でした。隆信の千葉氏乗っ取りに反発した平井氏が島原半島の有馬氏に通じて反旗を翻したため永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)という実に12年の歳月をかけて攻略した城です。
 
 地図を見ると大した要害ではないような気がしますが、おそらく有馬氏が海路から支援したため長期間の籠城を可能にしたのだと想像できます。
 
 平井氏を滅ぼし須古城を手に入れた隆信は自分の隠居城として整備し入城します。しかし隠居したとはいえ竜造寺家の実権は隆信にありました。ということは須古城は竜造寺領の重要拠点だったと考えられます。須古は鹿島の近く。私は鹿島に竜造寺水軍の基地があったと想像しているのです。
 
 
 では竜造寺水軍の実態ですが、今のところ想像に頼るしかありません。まず可能性があるのは肥前の有力な水軍である松浦党です。隆信は上松浦党最大の勢力である肥前岸岳(唐津市)城主波多親(ちかし)を婚姻政策によって天正11年(1583年)従属させます。これには天正5年(1577年)という説もあり竜造寺家とはそれ以前もつかず離れずの関係だったようです。
 
 一方、下松浦党の松浦鎮信(しげのぶ)が隆信に服属したのはそれ以前(天正元年【1573年】頃か?)でした。
 
 ただこれは単に服属したというだけで水軍を自由に使えるというものではありません。(武力で脅しながら)協力を依頼するという形だったはずです。
 
 
 しかも松浦党の本拠地は松浦半島を中心に玄界灘に面する肥前北部。有明海には島原半島の南からはるばる回航しなければなりません。もちろん竜造寺水軍の有力な構成には松浦党は含まれていたはずですが、元々小規模ではあっても有明海に自前の水軍があったはずというのが私の考えです。
 
 
 このあたり資料が見つからなくて想像に頼るしかないのですが、鎌倉時代元寇後の蒙古再襲来に備えて伊予の河野氏が肥前神埼荘に所領を得て肥前に下向したらしいのです。ネットでみつけた歴史評論に書いてあった記述ですが、再検索したら発見できませんでした。
 
 おそらく玄界灘沿岸の肥前北部は松浦水軍の勢力圏ですので河野水軍は有明海方面に勢力を与えられたはずです。一説では鹿島に近い嬉野(温泉街で有名)の国人白石嬉野氏は伊予河野氏出身だともいわれています。また肥前国彼杵郡の国人、田中氏も河野一族だといわれています。
 
 さらに松浦党の中でも山代氏は本拠を伊万里から神埼荘に移していたとされます。水軍に関係のありそうな一族が神埼荘に集まるのには理由があります。
 
 というのは平安末期、平氏が日宋貿易の拠点としたのがまさに肥前神埼荘なのです。おそらく神崎荘の南端、筑後川河口近くの諸富あたりに貿易港があったのでは?と私は睨んでいます。
 
 山代氏といえば、以前内緒記事(注:ヤフー記事の方)で紹介した姉川氏と関係がありそうなのです。姉川氏と同族である菊池肥前家の一族が菊池家内部の家督争いに敗れ同地に亡命してきた時、山代一族に婿入りするか乗っ取るかで家名を継いでいるのです。実は私とも関係なくはないのですがそれは内緒です(爆)。
 
 姉川氏の当時の当主姉川信安は、1581年竜造寺軍の肥後計略に従軍し菊池川南岸(当時)にあった貿易港伊倉津を制する横島(山)城(玉名市横島町)に入っているのです。1583年と想像される竜造寺・島津の和睦後どうなったのかは不明ですが、当時(干拓前)の横島城は完全な島で水軍を持たなければ入城する意味がありません。
 
 もしかしたら姉川氏は竜造寺水軍の指揮を任されていた武将の一人だったのかもしれません。菊池肥前家の山代一族入りもその一環だった可能性があります。
 
 
 今のところ最大公約数的に言えるのは、
①竜造寺家は松浦水軍の他に独自の水軍を持っていた。
②その水軍には伊予河野水軍関係の一族が含まれていた。
③松浦党のうちでも山代氏は有明海沿岸に進出した一族だった。
④姉川氏は山代氏と何らかの関係を結び水軍の一部を引き継いだ。
⑤そのために一族を婿養子か何かの形で山代氏に送り込んだ。
⑥神埼荘の日宋貿易以来の水軍、河野氏系の鹿島近辺を拠点とする水軍を糾合したのが竜造寺水軍。
 
 
 これくらいでしょうか?今後もさらに調査する必要がありますね。

「ラップランド戦争」  - 極北の知られざる戦い -

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 私の大好物は戦史、とくに一般には有名でないマイナーな戦闘でございます。おそらく第2次大戦でもほとんど扱われる事のないレアな戦闘であるラップランド戦争に最近興味を覚え調べました。
 
 しかし、東部戦線フィンランド降伏後のフィンランドとドイツの戦闘は資料が少なく調べるのに苦労しました。ウィキでも在フィンランドのドイツ軍兵力が分からず海外サイトまで当たってやっと見つけ出したのが上の戦闘序列でございます。ちなみに師団群という戦闘単位が分かりませんでした。おそらく師団に準ずる部隊だとは思いますが…。
 戦闘団(カンプグルッペ)は戦史に詳しい方はご存じだと思いますが、戦車歩兵など複数の兵科をまとめてあらゆる戦闘状況にも対応できるようにした所謂諸兵科連合部隊(コンバインドアームズ)のことでドイツ軍では主に連隊規模でした。
 
 
 
 1944年9月19日それまで枢軸側に立って参戦していたフィンランドは、ソ連軍の攻撃に耐えかねついに降伏してしまいます。ドイツは極北地域でもソ連領を攻めるのと、ベッツァモのニッケル鉱山確保のために遠征軍を送り込んでいました。
 
 この地域のドイツ軍はノルウェーからの援軍も加えロタール・レンデュリック上級大将を司令官とする第20山岳軍に統合されます。ラップランドは地図を見ていただくと分かるように山岳が多く、ドイツ軍は精鋭の山岳師団を中心に編成されていました。
 
 レンデュリックは、フィンランドの脱落を想定しまだドイツ領だったノルウェーに撤退するため部隊をフィンランド北方に集めていました。そこへ講和の条件として領内からのドイツ軍駆逐をソ連から求められていたフィンランド軍が襲いかかります。これは地域の名前を取ってラップランド戦争と呼ばれました。
 
 かつての盟友同士の悲しい戦闘でした。ウィキペディアの資料ではフィンランド軍6万、ドイツ軍20万となっていますがドイツ軍はムルマンスク攻撃などのソ連軍との戦闘で消耗し部隊充足率もかなり悪かったのではないかと想像します。
 
 1944年10月スオムサルミの戦いで北部フィンランドのドイツ軍は敗れます。レンデュリックは部隊のノルウェー領撤退を成功させるため焦土作戦を選択しました。焦土作戦によってこの地域の住居の3分の1が破壊され10万人の難民が出たといわれています。被害総額は3億ドル以上。このためレンデュリックは敗戦後、戦争犯罪人として懲役20年の刑を受けています。
 
 それでも地の利に明るいフィンランド軍は、撤退を最優先にし留まって戦闘する気のないドイツ軍を追い詰めていきました。
 
 局地的には戦闘団単位の遅滞戦闘でフィンランド軍を破ったこともありましたが、極北の厳しい戦闘はより寒さに弱いドイツ軍に不利だったようです。凍死者もかなり出たのではないかと想像されます。
 
 この戦闘を通した損害はフィンランド軍が戦死傷1000、ドイツ軍が戦死傷2000です。戦争期間の割には少ないような気がしますが撤退優先のドイツ軍とそれを追うフィンランド軍の間に損害を増やしてまで戦闘する気がなかった証拠かもしれません。
 
 フィンランドとしてもドイツ軍が自領から撤退してくれればよいだけでしから。
 
 
 最後のドイツ軍がフィンランド領を撤退したのは1945年4月。ドイツ降伏の一月前でした。











鉄の女のエピソード

 イギリス史上初の女性保守党党首にして女性首相。どんな激しい批判にさらされようと自分の信念を貫きとおし英国の威信を守り続けたマーガレット・サッチャー女史。「鉄の女」という異名も伊達ではありません。
 
 私が最も尊敬し理想とする政治家です。現在ならドイツ連邦共和国の首相メルケルがこれに近いのですが、果たして危機に際してサッチャーのような非情な決断ができるかどうかは分かりません。
 
 
【語録】
「あなたの旗は赤旗でしょう? わたしの旗はユニオンジャックです」
 
「その人が自分でできること、また自分でやるべきことを、その人に代わってやってあげても、恒久的な助けにはならない」
 
「われわれは核兵器の無い世界ではなく、戦争の無い世界を目指すべきです」
 
(フォークランド紛争開戦に反対する閣僚たちにむかって)「この内閣に男は一人しかいないのですか!?」
 
「経済で国が滅ぶことは無いが、教育で国は滅ぶ」
などなど…。痺れますね!!!
 
 
 
 そんな彼女の人間性を良く表すエピソードを紹介しましょう♪有名なんでご存知の方も多いと思いますが・・・
 
 
 
 
 ある日、サッチャー首相は男性閣僚とともにSAS(イギリス陸軍特殊空挺部隊=世界最強の特殊部隊といわれる)の要人警護訓練に参加したそうです。
 
 訓練は二人が拉致されているという想定で、そこへSAS部隊が救出作戦で突入するというものでした。おそらくSASのことですから実戦に近い訓練だったと思います。一説ではテロリストに見立てた大型の標的に実弾を撃ち込んだとか…。
 
 男性閣僚は余りの迫力に部屋の隅っこに隠れてガタガタ震えていたそうです。ところがサッチャーは眉一つ動かさず平然とそれを眺めていたといいます。SASに対し絶大な信頼を寄せていたということもあるでしょうが、その度胸は並みの男では絶対敵いません。
 
 しかも、訓練が終わってもまだ震えている閣僚に
「さっさと立ちなさい、この愚か者!」と叱ったそうですから凄いですね♪
(私はこの閣僚、メージャーじゃないかと睨んでるんですが違うかな?爆)
 
 
 彼女のフォークランド紛争における決断は世界史上でも類を見ないほどの英断でした。
 
 
 
 翻って日本の政治家を見ると情けなくて涙が出てきます。尖閣問題における対応など、これが果たして独立国か?と思えるほど酷いものでした。
 
 国家観も愛国心も責任感もない者は、政治家になる資格はありません!有権者もばら撒きとか雰囲気とかつまらない理由で政治家を選ぶのは止めてもらいたい!
 
 サッチャーという偉大な政治家を生んだのは、もしかしたら英国の国民性だったのかもしれません。確かにあの国は悪いところもいっぱいあります。しかし、貴族を中心に愛国心、国家に対する忠誠心、犠牲もいとわない奉仕、公共心など見習わなければならないところが数多くあるのです。
 
 やはりこれは教育の賜物なのでしょうか?

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