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2012年6月

2012年6月 2日 (土)

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅶ 近世大名 秋田氏  (最終章)

 1587年、英雄である父安東愛季(ちかすえ)が死去し、嫡子実季(さねすえ)が跡を継いだのは角館戸沢氏との戦の最中でした。
 
 愛季の死を隠し撤退する安東勢でしたが、このような情報が漏れないはずもありません。戸沢盛安ばかりか横手城の小野寺義道までが参陣して安東勢と対峙しました。わずか13歳の少年当主、実季絶体絶命の危機です。
 
 しかしこのとき中央では豊臣秀吉が天下人になっていました。1587年秀吉は関東奥羽総無事令を発し大名間の私戦を禁じます。翌1588年3月秀吉の使者を受けた最上義光は出羽での発言権拡大をもくろみ小野寺義道に戦を停止するよう使者を派遣しました。
 
 この一連の動きでひとまずの危機を脱した実季でしたが、今後はお膝元から騒動が起こりました。父愛季が檜山と湊の両安東家を強引に統一した事は前章で書きました。統一された側の湊家にしこりが残ったということも。
 
 湊家の当主が愛季の弟茂季であったときにはそれも表面化しませんでした。しかし茂季の跡を継いだ通季(みちすえ)はこれに不満を持ち虎視眈々と謀反の時を待っていたのです。
 
 通季は宿敵戸沢盛安と通じ湊城で蜂起します。従兄弟の反乱でした。もともと湊城周辺は湊安東家の領地でしたのでこれに呼応する旧臣も多く実季は本拠檜山城に押し込められる形となります。
 
 敵は通季勢、戸沢勢だけではありませんでした。累代の宿敵南部信直までがこれに加わってきたのです。まさに絶体絶命でした。
 
 進退極まった実季は、上杉景勝、そしてそれを通じ豊臣政権の石田三成に助けを求めます。幸いなことに出羽北部に利害関係の少ない上杉氏はこの頼みを聞き入れ配下の本庄氏や由利十二頭に援軍を出させました。
 
 もしかしたら愛季時代に謙信と誼を通じていた事が功を奏したのかもしれません。
 
 豊臣政権の重鎮上杉景勝が安東氏側に付いたらしいという噂は出羽の諸将の動揺を誘いました。諸将は兵を引き上げ残されたのは通季の手勢のみになりました。半年間の籠城を耐え抜いた実季は、檜山城の包囲を解き撤退する通季勢を追撃、敗北した通季は南部氏を頼って亡命しました。
 
 
 湊合戦の発端が安東家の家督争いということで最初秀吉は安東氏から領国を召し上げるつもりでした。これを知って驚愕した実季は家臣を大坂城に派遣して弁明を尽くします。上杉景勝、石田三成の力添えもあったのでしょう。
 
 1590年、実季は秀吉から本領安堵の朱印状を勝ち取ります。これでようやく安堵した実季でしたが、愛季が拡大した所領は召し上げられ五万二千石が実季の所領として認められました。旧安東氏領のうち二万六千石が太閤蔵入地に編入され実季はその代官とされます。
 
 しかし本領だけで実高十五万石以上あったとされるので実季としてはまずまずの成功でした。
 
 一方、秀吉の奥州仕置きにより実季の蝦夷ヶ島宗主権は剥奪されます。蠣崎慶広は独立大名として豊臣政権に仕えました。事実上蠣崎氏は蝦夷ヶ島の主でしたのでこれは仕方なかったことでしょう。
 
 また大浦為信もいち早く秀吉に拝謁したことから津軽の本領安堵を勝ち取り名を津軽為信と改めました。安東氏と南部氏がお互いに大きな犠牲を払ってまで領有を争った津軽は結局梟雄為信に奪われたのですから皮肉です。
 
 津軽氏と南部氏は江戸期を通じても憎しみ合い、南部藩士による津軽侯暗殺未遂事件にまで発展します。
 
 
 安東実季はどうだったでしょうか?上杉景勝、石田三成ラインについた事が良かったかどうか?
 
 
 1600年関ヶ原の合戦が起こると実季は徳川方に付きます。しかし最上に援軍に出ていながら積極的に戦おうとしない安東勢を恨みに思った最上義光は戦後家康に讒言しました。
 
 安東氏としても恩のある上杉氏と戦いたくなかったというのは本音でしょう。が、領土深く攻めこまれ一時は滅亡まで覚悟していた最上義光にそんな事は関係ありません。
 
 義光と実季は江戸で対決します。しかし実季謀反の証拠を示せなかった義光が敗訴、八方弁明を尽くした実季は事なきを得ます。ところが、上杉景勝、石田三成と親しかった実季は結局徳川幕府から白眼視されていたのです。
 
 1602年関ヶ原の戦後処理で秋田五万石を召し上げられ、常陸宍戸五万石へ国替えを命じられます。同じ五万石でも実高十五万石からしたら左遷にはちがいありません。
 
 まだ二十代の実季は失意の晩年を送ります。1616年以降公役は嫡子俊季(としすえ)が勤めました。俊季の母円光院は細川信良の娘でその母は織田信長の妹お犬の方でした。
 
 実季が豊臣政権の時代に娶った正室でしたが、これが後々功を奏するようになります。徳川三代将軍家光と義理のまた従兄弟にあたるからです。家光の母崇源院(江)はお市の方の娘。ということはお犬の方の姉妹です。
 
 肉親の愛情に飢えていた家光にとって、外様とはいえ俊季は好ましい存在だったのでしょう。格別の愛情を注ぎます。「崇源院殿御由緒」として譜代大名格としたのです。俊季自身、律義な性格であった事もよかったのでしょう。感激した俊季は積極的に幕府の公役を務めます。
 
 ですが、いくら譜代大名格になったとはいえ公役は藩の持ち出しです。若年から世間の厳しさを嫌というほど味わってきていた実季は、単純な息子の行動を苦々しく見守ります。俊季にも言い分があったでしょう。徳川幕藩体制の中で生きて行くにはこれしか仕方なかったというに違いありません。
 
 父子は次第に仲違していきました。1628年二人の対立は決定的になります。俊季は一方的に父実季を藩政から締め出します。時に実季53歳、俊季31歳。以後父子が仲直りする事はありませんでした。
 
 1630年幕府から実季は伊勢朝熊(あさま)に蟄居を命じられます。1631年江戸に呼び出された実季は宍戸五万石を召し上げられ改めて嫡子俊季に与えられました。1645年俊季は陸奥三春藩五万五千石に転封され以後幕末までつづきます。
 
 安東氏は、この頃には秋田城介にちなむ秋田氏に改称していたようです。
 
 
 実季は蟄居先の伊勢朝熊永松寺で長い晩年を生きます。およそ三十年、不遇の晩年を偉大なる先祖の記録「秋田系図」作成のために捧げました。その完成を待つように1660年死去、享年84歳。
 
 大和朝廷に果敢に抵抗した安日彦の姿に、亡き父愛季を重ねていたのかもしれません。彼にとって生涯最良の日々は父愛季と共に過ごした幼少期だったでしょうから…。
 
 
 
 
                             (終)

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅵ 英雄安東愛季(ちかすえ)

 檜山安東氏はこの後もたびたび津軽に侵攻したようです。しかし南部氏の津軽支配は盤石でこれを覆すことは不可能でした。
 
 政季のあと忠季、尋季、舜季、愛季と五代を数えます。この頃にはかっての北方の王者日乃本将軍としての面影はすでになく出羽北部の一地方勢力に落ちぶれていました。蠣崎氏を通じての蝦夷ヶ島への宗主権は保っていたようですが往時の海外交易はかなり下火になっていたと想像します。
 
 自然、安東氏は海の大名から陸の大名への脱皮を図らなければなりませんでした。安東一族統一をはたした英雄愛季(ちかすえ、1539年~1587年)登場前後の檜山安東氏はこのような状況でした。
 
 
 有力庶家(本来の嫡流家という説も)湊安東氏は足利将軍家の御扶持衆として代々左衛門佐に任官し湊屋形と尊称される有力国人になっていました。
 
 宗家と並びたつほどの湊家と宗家檜山家は婚姻政策で関係を保ちます。愛季の父舜季は湊安東堯季(たかすえ)の娘婿(愛季の母)。鉄船庵と称した堯季も男子には恵まれず娘婿舜季の次男友季(ともすえ)を養子に迎えますが、これが1544年16歳で早死します。そこでさらに三男茂季(しげすえ)を嗣子に迎えました。
 
 愛季が檜山安東家の当主となった時、奇しくも湊安東家の当主は弟茂季だったのです。
 
 1556年18歳で家督を継いだ愛季は、まず能代湊の整備を着手します。往時の安東水軍再建を夢見たのでしょうか?
 
 愛季は能代湊を通じて越後の上杉謙信、越前の朝倉義景と結びつきます。1562年には比内郡の浅利氏を攻めこれを征服するとさらに鹿角郡に進出します。
 
 鹿角郡はもちろん南部氏の勢力圏でした。ここで鹿角郡を巡って再び南部氏と戦端を開きます。かつては一方的に押しまくられていた南部氏でしたが豊かな津軽地方を征服して安心したのでしょうか?南部氏は安定から緩やかな衰退に向かっていました。
 
 当時の南部当主は晴政。1566年安東軍は巻山峠を越えて鹿角郡になだれ込みます。これを迎え撃った南部軍との間に各地で激しい戦闘が繰り広げられました。この時安東愛季が率いた兵力は六千と伝えられますからおそらく湊安東家の援軍も加えた数でしょう。
 
 安東勢は激戦の末鹿角郡の主城長牛城を攻め落とし、安東氏と南部氏の攻守が初めて逆転しました。晴政は1568年世子信直(一族の石川高信の子)を大将に石川勢をも含めた大軍を派遣します。南部勢の数は不明ですが、おそらく安東勢の数を考えると五千は下らなかったと思います。
 
 安東勢と南部勢は鹿角郡の支配権を巡って激突します。しかし決定的な決着はつかず愛季はひとまず兵を引きました。
 
 次に愛季は外交で南部氏を孤立させようと画策します。南部方だった浪岡御所北畠氏に自分に娘を嫁がせ南部勢力にくさびを打ち込みます。
 
 北畠領は南部氏の本拠糠部郡と豊かな津軽地方をつなぐところで、これにより両地方の連絡を断つ目的がありました。
 
 愛季は浪岡御所北畠氏の権威を借りる形で京に使者を派遣、莫大な献金を行い朝廷との結びつきを深めます。
 
 
 しかし京との外交はもともと将軍家扶持衆である湊安東家の役目でした。自分達が蔑にされていると感じた湊家家臣は愛季の弟であった当主茂季にたいして謀反を画策します。1570年この動きを察知した愛季は先手を打って謀反の首謀者畠山重村を豊島城に急襲、驚いた重村は妻の実家仁賀保氏の由利郡に逃亡しました。
 
 愛季は実弟湊安東茂季を豊島城に入れ、自分は湊城に入ります。事実上の檜山、湊安東氏の合一でした。この強引な両家統一は一方の当事者である弟茂季さえも感情にしこりを残す出来事でした。
 
 
 当時由利郡は由利十二頭という小豪族たちが君臨していました。単独では安東氏に対抗できない彼らは連合してこれに当たる事にします。隣国庄内領主大宝寺義氏まで引き入れ安東愛季の侵攻を迎え撃ちました。
 
 愛季は大宝寺義氏の自壊(家臣の謀反)などにも助けられ由利郡の大半を勢力下に治めました。一時は大宝寺氏の本拠酒田に侵入したこともあったようです。
 
 おそらくこの時安東愛季の勢力圏は二十万石を超えていたと思います。愛季は1577年から中央の支配者織田信長、次いで豊臣秀吉に使者を派遣し1580年には従五位下侍従に任ぜられます。まさに得意の絶頂でした。
 
 一方、安東氏の故郷津軽の地でも動乱が起こっていました。南部氏被官であった大浦為信の自立です。為信は大浦為則の養子で久慈氏の出身とも言われています。
 
 1571年(1581年という説も)、突如挙兵した為信は南部信直の実父石川高信の居城石川城を襲い、高信を攻め殺しました。ついで1578年には浪岡御所北畠氏を滅ぼすなど南部領を蚕食し津軽地方を平定してしまいます。
 
 愛季は大浦為信の動きを利用しようと考えます。大浦氏を援助して南部氏を討たせようというのです。このために鉄砲隊まで派遣したと伝えられます。
 
 しかしさすがに大浦為信は梟雄でした。津軽統一の間は安東氏の援助を利用しますが、このまま安東氏に従属する気はさらさらありませんでした。為信は安東愛季を牽制するために庄内の大宝寺氏と結びます。このあたりの外交謀略戦は恐るべきものがありますが、一人南部氏だけが蚊帳の外に置き去りにされていた感は拭えません。
 
 ちなみに由利・大宝寺合戦の決着がつくのは1582年といわれますから大宝寺義氏の参戦には大浦為信の働きかけもあったのでしょう。
 
 安東愛季は檜山城、湊城のちょうど中間にあたる地に脇本城を築いて居城とし領国支配を固めます。日本海以外の三方を敵に囲まれながら秋田郡、檜山郡、比内郡、由利郡を版図に治める羽後最大の戦国大名に成長していました。
 
 愛季の晩年、秋田城介を称します。名実ともに出羽の支配者である事を示したかったのでしょう。1587年にはさらに雄物川流域の支配権を巡って仙北地方の戸沢氏を攻めます。仙北の先には宿敵南部氏の本拠糠部郡がありました。
 
 しかし角館城の戸沢盛安を攻める仙北淀川の陣中、にわかに病を発し死去します。享年49歳。安東氏最後の輝きでした。彼がもっと生きていたら安東氏はさらに発展していたに違いありません。
 
 「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された不世出の英雄の死でした。
 
 
 あとに残されたのは嫡子の実季(さねすえ)。わずか十三歳の少年です。英雄の死によって安東氏は大きな困難を迎えます。
 
 少年当主はこの危機をどうやって乗り越えたのでしょうか?
 
 
 次回、最終章「近世大名 秋田氏」にご期待ください。

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅴ 滅亡と再興

 南部氏の鎌倉府接近は安東氏の京都接近を促しました。外交感覚に鋭敏な南部守行はどうも鎌倉府の将来性が暗い事に気付き始め、1418年嫡子義政を上洛させ将軍足利義持に拝謁させます。献上品も莫大なもので奥州の名馬百匹金一千両でした。
 
 これにより義の字を賜り将軍扶持衆になるなど三戸南部氏は外交攻勢でも安東氏より優位にたちます。安東方の扶持衆は嫡流の十三湊下国安東氏ではなく庶流の上国湊安東氏ですから。ただ安東氏側も手をこまねいていたわけではなく海外交易で得た珍奇な財宝をせっせと将軍家に贈り外交戦でも火花を散らします。
 
 こうした中南部氏の津軽侵攻は続けられ、1420年には安東方の重要な拠点である藤崎城(青森県南津軽郡藤崎町大字藤崎)が陥落します。
 
 安東方はどうも本家と庶流の上国湊安東家が協力して当たっている節が見られません。南部氏とは敵対しながらも互いに家督継承にまつわる感情的なしこりを拭い去れなかったようです。やはり湊安東家が蝦夷騒乱で負けた旧嫡流家季長の子孫という説はあながち間違いではなかったように思えます。
 
 安東嫡流の当主盛季の没年には1414年、1423年、1442年説がありますが子の康季への継承がいつ行われたかもはっきりしません。1420年代には盛季が隠居し当主としては康季が立っていたとして話を進めましょう。
 
1423年、足利新将軍義量(よしかず)が立つと安東康季は賀詞とともに名馬三十匹、鳥五千羽、中国古銭二万貫、海虎(らっこ)皮三十枚、昆布五百把という莫大な献上品を贈りました。自分の本拠が危うい中でよくそんな余裕があるなと不思議に思いますが、劣勢を挽回する為に藁をも掴む心境だったのかもしれません。
 
 康季はこの功績で陸奥守に任ぜられますが、もはや実績を伴わない虚栄でした。1425年将軍に就任したばかりの義量は19歳の若さで急死します。前将軍義持も1428年43歳で死去し六代将軍は籤引きで三代義満の三男で天台座主だった義円が選ばれました。還俗して義教と名乗ります。
 
 この将軍決定に不満を持つ鎌倉公方足利持氏は関東での自立を画策し、京と鎌倉は一触即発の危機に見舞われました。中央情勢の混乱を見極めた南部義政は今が安東氏に止めを刺す好機とばかり兵をあげます。
 
 1432年南部勢は安東氏の本拠福島城を攻略しました。安東一族は津軽半島突端にある詰めの城柴崎城に落ちのびます。
 
 しかしさすがにこれは新将軍義教の怒りを買いました。自分の権威を蔑にするような振る舞いだったからです。義教は御教書で両者に和睦を命じ康季の妹を南部義政に嫁がせることに決まります。これでようやく康季は本拠福島城を取り戻します。
 
 1441年将軍義教は嘉吉の乱で横死してしまいます。これを受けて南部氏の津軽侵攻は再開されました。地元の伝承では妹婿の義政が偽って福島城を訪問し謀略で乗っ取ったともいわれますが、さもありなんと思います。
 
 1443年安東一族は父祖の地津軽を追われ蝦夷ヶ島(北海道)に落ちのびました。
 
 二年後の1445年康季は旧領奪還を図り津軽に再上陸します。岩木山麓に引根館を築き南部氏との対決をしようとした矢先失意のうちに病没しました。
 
 1453年には康季の嫡子義季もまた津軽に上陸、引根館と峰続きの狼倉館(おいのくらたて、中津軽郡岩木町)に籠城しました。
 
 南部方はこれを鎮圧するために六千余騎を集めたとされますが、当時の石高を考えるとさすがにこれは誇張だと思います。騎馬武者に従者三人がついたとして二万四千の大軍になりますから。ただ数千の軍勢だった事は間違いありません。
 
 どちらにしろ北陸奥では未曽有の大軍でした。多勢に無勢狼倉館は落城、安東義季は自害して果てます。こうして下国十三湊安東氏の嫡流は滅びました。
 
 南部氏も旧安東領津軽を完全に掌握したわけではなく安東氏の残党が津軽各地で抵抗を続けたようですが大勢はこれで決します。
 
 
 蝦夷ヶ島に落ちのびた安東氏は、庶流の政季が家督を継いだようです。本拠津軽を追われた安東氏は蝦夷ヶ島の本格領有のために道南十二館(どうなんじゅうにたて)を築き一族・家臣を各地に配置しました。
 
 この安東政季の重臣に武田信広という人物が登場します。名門若狭武田氏の一族と称する人物ですが、定かでありません。一説では交易商人であったともいわれ才覚で安東氏にとりたてられました。
 
 政季に安東宗家継承を説いたのも武田信広、相原政胤、河野政道の三人だったと伝えられます。政季は十二館を三つの地域に分けます。
 
 志苔館(函館市)を中心とする下の国には弟の八郎家政を、花沢館を中心とする上の国には一族の蠣崎季繁(かきざきすえしげ)を、大館(松前町)を中心とする松前には一族の下国定季をそれぞれ守護職とし分割統治しました。
 
 安東氏の権力基盤は和人である渡党に拠っていました。それまでのアイヌは彼らと交易をするだけで支配されているという感覚は無かったと思います。が安東氏が蝦夷ヶ島に移って以来収奪は激しくなりました。
 
 津軽奪還のために安東氏はアイヌたちを圧迫します。もしかしたら軍役もあったかもしれません。安東氏にとって蝦夷ヶ島はあくまで植民地にしかすぎませんでした。
 
 
 この頃宗家滅亡で南部氏の圧力を直接受けるようになった秋田の湊安東氏は南部方の小野寺氏、戸沢氏の侵略に苦しめられていました。そこで湊安東家の当主惟季(これすえ)は、蝦夷ヶ島の政季を出羽北部河北郡に招き入れます。
 
 もちろん河北郡は無主の地ではなく南部方の葛西氏の庶流が領主としていたそうですが、勢力が比較的弱かったのでしょう。政季はこれを滅ぼし檜山城(秋田県能代市)を築城してここを本拠としました。下国檜山安東家の成立です。
 
 政季にとっても山一つ越えれば旧領津軽へ繋がる河北郡への進出は願ったり叶ったりだったのでしょう。植民地の道南十二館は一族に任せ出羽に土着を進めました。
 
 
 ここで目を蝦夷ヶ島(北海道)に転じましょう。アイヌと和人である渡党の対立は決定的なところまで来ていました。収奪に耐えかねたアイヌは渡島東部の族長コシャマインを中心についに蜂起します。これに道南の全アイヌが呼応し一揆勢は一万を超えたといわれています。1457年の事です。
 
 
 アイヌ勢は下の国守護安東家政を茂別館に包囲し、松前守護下国定季を生け捕りにしました。他の館は次々と陥落します。安東勢に残された城は上の国守護蠣崎季繁の籠る花沢館のみ。
 
 花沢館には安東政季の重臣武田信広が客将として入っていました。交易商人上りと噂される信広ですが、この頃の交易商人は海賊と紙一重でした。安東方は信広に総指揮を委ねます。
 
 信広は渡党の軍勢を率いまず松前の大館を奪回しました。次にアイヌ勢主力が包囲する茂別館救出に向かいます。ここでアイヌ勢と合戦になり信広は伏兵を置いてコシャマイン父子を誘い出し弓で射殺しました。
 
 主将をうしなったアイヌ勢は崩れ立ちます。信広はこれを追撃し一揆勢を散々に打ち破りました。絶体絶命だった安東氏を救ったのですから信広の功績は絶大なものになります。
 
 とくに感激した蠣崎季繁は信広を娘婿に迎え家督を譲りました。以後信広は蠣崎氏と名乗ります。
 
 
 一介の交易商人が上の国守護ですからたいへんな出世ですが、アイヌの蜂起を恐れる十二館の諸将は蝦夷ヶ島全体の支配を信広に委ねたいと考えます。野望を持った信広の工作で諸将を動かした可能性は高いですが、信広は松前に入り蝦夷ヶ島全体の守護を名乗りました。
 
 檜山城の政季はこれを黙認するしかありませんでした。武田改め蠣崎信広はしかし完全独立することはせず檜山下国安東家の代官としての立場を明確に打ち出します。この方が支配に都合良かったのかもしれません。
 
 これ以後もアイヌの蜂起は散発的に続きます。蠣崎氏は騙し討ち(和睦の酒宴に誘い出して謀殺など)を繰り返して蝦夷ヶ島を保ち続けました。簡単に騙されるアイヌ側もどうかと思いますが、それだけアイヌの人たちが純朴だったのでしょう。
 
 一方、流人上りの渡党は人間がすれていたばかりか悪も平気で成すような精神性だったのかもしれません。
 
 
 
 次回は、檜山安東氏の発展、英雄安東愛季(ちかすえ)の活躍を描きます。

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅳ 南部氏との抗争

 南朝の陸奥守・鎮守府将軍北畠顕家は奥州勢を率いて1338年上洛の途につきます。一時は青野原(岐阜県大垣市)の決戦で足利方の大軍を撃破しますが、武運つたなく和泉国堺浦石津で敗死してしまいました。
 
 腹心南部師行もこれに同行し顕家と運命を共にしました。南部家家督は弟の政長に継承されます。
 
 ここで安東氏の宿敵として大きく関わる事になる南部氏について見ていこうと思います。
 
 
 
 南部氏は新羅三郎義光五世の孫にあたる甲斐源氏加賀美次郎遠光の三男光行が甲斐国南部御牧を領したことから始まったといわれています。家系伝説では光行が父遠光とともに鎌倉幕府創業に功をあげ陸奥国糠部郡を賜ったとされます。
 
 しかしこれは確証に乏しいそうです。糠部郡の地頭は北条得宗家のもので南部氏が地頭になったはずはありません。地頭代なら可能性は高いでしょう。が、北条得宗家が己が領地の地頭代に任命したのは工藤氏、曽我氏ら自分と関係の深い伊豆・相模の御家人たちで余所者が入り込む隙があったかどうか?しかも傍系とはいえ北条氏が最も警戒する源氏の一族。
 
 それなら平賀氏はどうか?と反論される方もおられるでしょうが平賀氏は北条氏が傀儡の将軍にしようとしたくらい結びつきが強い家で源氏では例外扱いでした。それに糠部郡地頭代なら北条氏の御内人。安東氏と同様北条氏と運命を共にするのが自然な選択でした。
 
 それが最初から南朝支持だったということも腑に落ちません。南朝に味方したのは多くが悪党と呼ばれる正規の武士ではない人たち。もしかしたら南部氏もこの類であった可能性があります。私は鎌倉末期の混乱した時期に奥州に流れてきた馬商人ではなかったかと推理しているくらいです。
 
 南部氏の所伝で、建久二年(1191年)南部光行が糠部の新領地に赴くために、家臣七十三名を引き連れて六艘の船で鎌倉の由比ヶ浜から船出したとあります。ところが頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦1189年、藤原氏の残党が蜂起した大河兼任の乱でも活躍したふしがないのです。もちろん私が知らないだけで当時の資料にちゃんと載っている可能性はありますが…。
 
 また由比ヶ浜出航を1219年という資料もあります。正規の武士だったら一族郎党を連れて威風堂々陸路から新領地に赴くはずだと思います。領民を威圧する目的もありますからね。最大公約数的に見て南部氏が甲斐源氏の一族であったらしいというのは認めるにしても鎌倉時代を通じて糠部郡を支配していたというのは眉唾。鎌倉末期に糠部郡八戸の根城を中心に勢力を張ったのが南部氏と見て良いでしょう。
 
 武家家伝によれば1322年の安藤の乱(蝦夷大乱の事か?)において南部長継が鎮圧に派遣され、その際兵糧代として幕府より糠部に所領を与えられたのが南部氏の陸奥との関わりの始まりとありますが、これなら納得できます。
 
 武家家伝では、さらに南部氏惣領は鎌倉に出仕し庶流の並木井南部氏がその代官として糠部に下向していた時鎌倉幕府滅亡があり並木井南部の師行が台頭したのではないかと見ています。
 
 
 さて顕家の死去で奥州における南朝方の退潮は明らかになりました。しかし陸奥北部では南部氏による安東氏攻撃が続いていました。1339年南部政長は数百騎を率いて安東領に侵入します。どうも安東氏は海の戦いには強くても陸上ではそうではなかったようです。馬を巧みに操る関東武士出身の南部勢に苦戦が続いたといいます。
 
 一時多賀城攻めで政長が本拠を留守にしていた間に、北朝方の諸将と共に南部氏の本拠糠部郡根城に攻め入ったそうですが南部氏の頑強な抵抗にあって攻略失敗。逆に南朝方は北畠顕家の血を引く北畠一族が津軽浪岡の地に土着するなど陸奥においては安東氏の劣勢が目立ちだします。
 
 さらに間の悪い事には、海外情勢においても元を滅ぼして成立した明の三代皇帝永楽帝によって黒竜江下流域を含む全満州が平定され、明軍は樺太にまで出兵しました。
 
 シベリア沿岸部、樺太は安東氏の領土ではないにしても重要な交易圏であった事は間違いなく、安東氏はこの大動乱に巻き込まれ北海道のアイヌ統治さえおぼつかなくなっていきます。緩やかな間接統治だったアイヌも動乱の余波を受けて動揺していたとされます。北海道における安東氏の拠点だった道南十二館の原形はこのころにできたともいわれ、安東氏が北海道統治にも苦慮していた事が窺われます。
 
 南部氏は安東氏の苦境を静かに観察していました。当時南部一族では南朝方から北朝方に転じた三戸南部守行(もりゆき)が一族惣領の座についていました。
 
 守行は1409年鎌倉公方足利光兼死後いち早く新公方持氏支持を打ち出すなど政治力を発揮し陸奥国司に任ぜられるなどなかなかの策士でした。1416年の上杉禅秀の乱でも幕府方に付いて功をあげるなどその外交手腕は見事といってよいものでした。
 
 一方、安東氏は直接京の将軍家に結び付く外交策を取ります。1395年下国十三湊安東盛季の弟鹿季に土崎湊のある秋田郡の領有を将軍義満に認めてもらうなどこちらも外交攻勢で対抗していきます。この秋田湊上国安東氏についてはもともと鎌倉時代蝦夷大乱で敗れた本来の嫡流季長の子孫が土着していたという説が近年有力になっていますが、この時公式に上国湊安東家が認められた事になります。
 
 以後湊安東氏は京との外交を担当していきました。京都扶持衆に抜擢されたのもその一環だと思います。
 
 
 外交ではほぼ互角でしたが、南部守行のほうが戦では一枚上手でした。出羽仙北地方を手中に収めると連年のように津軽、秋田に出兵して安東領を蚕食していきます。
 
 次回は安東氏嫡流下国十三湊安東氏の滅亡、そして再興、さらには北海道で起こったコシャマインの乱と梟雄武田信広の台頭を描きます。

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅲ 南北朝期の安東氏

 最初に、前章で書き忘れた事を…。
 
 安東一族を大動乱に巻き込んだ蝦夷大乱。その引き金になったのは津軽蝦夷の反乱と鎮圧に失敗した安東氏当主の討死だと書きました。
 
 これには異説があり、元のギリヤ-ク部征服、樺太侵攻に抵抗した樺太アイヌを率いたのが安東氏ではなかったか?といわれているんです。討死も1275年の出来事。元のフビライ汗が南宋を征服したのが1276年。元寇で言えば文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の間。
 
 とすれば安東氏はフビライ汗の日本侵略の一環としての北方攻撃に対して抵抗したのではなかったか?という見方です。この異説はなかなか魅力があります。しかも討死したのは又太郎季長の父貞季か祖父安東五郎(名は不詳)だったとされます。
 
季長と従兄弟の五郎三郎季久との家督争いもこの戦後処理を巡る方針の違いが原因だとされるのです。とすれば季長は処刑されなかった可能性もあります。北からの元寇を防いだ大功労者の息子(あるいは孫)ですからね。
 
 後で出てきますが、嫡流の檜山安東氏(下国家)に対する庶流湊安東氏(上国家)の祖が季長ではなかったかと異説は続きます。鎌倉幕府の裁定で蝦夷管領こそ季久に与えられますが、その代わりに北条得宗家の領地であった秋田(土崎)湊と男鹿半島の地頭代に季長あるいはその子孫を充てたともいわれています。
 
 一般には湊安東氏の初代は室町時代の鹿季(季久の曾孫)だといわれています。1395年兄盛季の命令で出羽秋田郡に分家し上国湊安東氏を名乗りました。
 
 ただ分家にもかかわらず、湊安東家が足利義満に優遇され京都扶持衆(将軍家の側近)となっているなど不自然な点が多いのです。これは室町幕府が安東氏の力を削ぐためにあえて分家を優遇したと説明されていますが、一方湊安東氏の祖が本来の嫡流季長で鹿季はそこへ養子に入っただけだとするなら納得できますし、一番自然なんです。
 
 私の調査でもはっきり分かりませんでした。一応こういう異説もあるということで読み進めてください。(近年の研究では季長を上国湊安東家の祖とする説が有力とのこと)。
 
 
 ところで蝦夷合戦と鎌倉幕府の裁定で蝦夷管領・安東氏家督を手に入れた季久ですが、又太郎宗季と同一人物であろうという説が有力です。彼が下国(しものくに)安東氏の祖となります。
 
 
 安東宗家下国安東宗季は本拠を十三湖北岸の福島に定め現在の青森から北海道に渡る広大な所領を受け継ぎました。しかし彼の人生は後半も安泰ではなかったのです。
 
 1333年、頼みの綱である鎌倉幕府が滅亡します。北条得宗家と深く結びついていた安東氏にとっては寝耳に水でした。
 
 北条得宗領であった糠部郡、外ヶ浜は建武政権によって足利尊氏に与えられます。しかしまもなく尊氏は建武政権に離反、今度は北畠顕家が陸奥守・鎮守府将軍として奥州に乗り込んできました。
 
 この政治の混乱期に安東氏は、足利方に対しては所領を建武政権に安堵されたと主張し、顕家には所領を尊氏に安堵されたと主張するなどどっちつかずの対応をしました。もともと北条得宗家の御内人ということで両陣営に心証が悪かったのですが、曖昧な態度はかえって顕家の怒りを買いました。
 
 顕家は腹心の南部又二郎師行を糠部郡、成田頼時を鹿角郡、平賀景貞を津軽郡の郡奉行に任命し安東氏ら旧鎌倉幕府系御家人の封じ込め政策を行います。
 
 陸奥守顕家は「たとえ鎌倉幕府の下文を持っていても陸奥国府発給の国宣を持っていなければ所領と認めない」と陸奥の豪族たちに厳命しました。
 
 宗季の子高季は、ただでさえ所領を建武政権に奪われ陸奥では津軽半島に押し込められる形になっている上に、本領の津軽さえ危ういという泣きっ面に蜂状態に陥ります。高季は信濃から来た他所者の津軽郡奉行平賀景貞の命に従い北条氏残党の蜂起の鎮圧に駆り出されるなど涙ぐましい努力をします。それでもやっと津軽の本領安堵だけなのです。
 
 ところがそれさえも陸奥国府側に付いた武士たちだけが優遇され恩賞も不公平に分配されます。安東氏だけでなく地元の豪族たちは建武政権に対して不満を持ち始めました。
 
 北条残党の蜂起を鎮圧した顕家は腹心の南部師行とその一族に外ヶ浜と津軽の諸郷を恩賞として与えます。これらは元々安東領だったところです。顕家は安東氏の力を弱めるために安東氏の本拠津軽にも楔を打ち込み始めました。
 
 南北朝の動乱が本格的に始まり足利方の奥州総大将斯波家長が下向してくると安東一族はこぞって味方に付きます。南朝方の南部氏に対抗するという意味もあったでしょう。
 
 1336年、安東家季(高季の弟)を津軽合戦奉行に任命し南部氏の根拠地根城を攻撃させるなど斯波家長は安東一族を優遇します。家長が鎌倉に去り、新しい奥州総大将として石塔義房が赴任してもそれは変わりありませんでした。
 
 結局安東一族のこの選択は、生き残り策としては成功します。南朝側に付いていても未来は無かったでしょう。
 
 しかし、南朝側に付いた南部氏とは中央で南北朝合一が成っても変わらず血で血を洗う抗争が続きました。
 
 次回は宿敵南部氏との抗争を描きます。

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅱ 蝦夷大乱

 現在の十三湖の地図を見ると湖をちょうど塞ぐように南北から半島が伸びています。当時はもっと湖は南に大きく広がっていたそうです。十三湊は地図でいうとちょうど南から湖を塞ぐように伸びた半島状の地形の内側。十三局のある県道12号線の走る当たりです。
 
 大津波で一時滅んだ事を証明するように遺跡にはその爪痕が残っているそうです。当時は日本海と十三湖は繋がっていて外国船も出入りしていたそうですし、異国人街まであったと伝えられています。
 
 安東氏の本拠は湖北岸の福島城。もともとは蝦夷=日高見国時代から防御性集落があったとされ14世紀初頭に安倍(安東)貞季が本格的築城をしたとされる平城です。
 
 当初安東氏の本拠は十三湊にあり、大津波で滅びたために本拠を移したのではないかと私は睨んでいます。
 
 
 さて安東氏ですが、頼朝の藤原氏征伐以降奥州には鎌倉御家人が恩賞として各地を賜ります。安東氏の本拠津軽地方も例外ではなく内陸の内三郡(平賀、鼻和、田舎)、太平洋沿岸の糠部郡、久慈郡、閉伊郡、出羽国平鹿郡、山本郡が北条得宗領(北条義時、泰時の子孫で北条家嫡流)とされるなど旧安東氏領は削られます。
 
 残されたのは稲作に適さない沿岸部だけ。これら得宗領には伊豆・相模の御家人である曽我、工藤氏等が北条氏の目代(代官)として乗り込んできます。
 
 鎌倉幕府滅亡時、九州、四国と共に陸奥の地が北条残党の蜂起の舞台になったのもこの縁でした。
 
 もともと純粋な武士団ではない安東氏は、しかしこれで農業生産力に頼る方向での発展は望めなくなりました。本分である交易一本で進む以外の選択肢を失います。
 
 反抗すれば鎌倉幕府、北条氏に潰されます。ところが、捨てる神あれば拾う神ありでその北条氏自体が安東水軍に接近してきたのです。北条氏、なかでも得宗家は安東氏の持つ交易の利に目を付けたのでした。
 
 得宗家は安東氏を使って日本海交易の独占をはかってきたのです。その証拠に七湊のある日本海沿岸の各国はほとんど北条氏が守護を独占しています。
 
 調べてみると越後、越中、能登、加賀の守護は北条一門、若狭に至っては北条得宗家が守護です。安東氏は北条得宗家の御内人として蝦夷管領に任ぜられます。蝦夷沙汰職、蝦夷代官とも呼ばれ流人達の送致、監視が主な役目で蝦夷との交易にも関与したといわれています。これは安東氏でなければできない仕事でした。
 
 北条義時が1217年陸奥守に就任した時安東太郎堯秀を任命したのが最初とされ、安東氏はこれを世襲しました。
 
 ちなみに元々は蝦夷管領は北条得宗家の私的な機関でしたが、得宗独裁体制が確立するとともに公的機関としての性格を帯びて行ったとされます。
 
 安東氏は北条得宗家の庇護の下繁栄を極め、蝦夷管領の職掌を現地で適用するために日乃本将軍を名乗ったといわれています。日乃本とはもちろん日本の事ではなく日高見国にちなむ名前でしょう。のちには京の朝廷でさえ認める呼称となりました。
 
 そんな安東氏を鎌倉時代末期たいへんな困難が襲います。所謂蝦夷大乱と呼ばれる事件です。
 
 一般には1268年安東氏の収奪に耐えきれなくなった津軽の蝦夷が蜂起し蝦夷代官安東氏を討ったことが発端だとされますが、調べてみると東アジアの動乱が遠因にあったようです。
 
 ユーラシアに広大な帝国を築いたモンゴル、そしてその宗主国であった元朝は世界各地に侵略の手を広げます。日本にも元寇という形で具現化したのですが、一方元は元寇以前にもアムール川(黒竜江)下流地方に出兵しています。
 
 これはフビライ汗が鷹を好み、その産地であるアムール川下流地域を征服したいという身勝手な理由が発端とされ征服されたギリヤ-ク部の人たちにとっては迷惑この上なかったと思いますが、その侵略の過程で樺太にも元軍が来たらしいのです。
 
 そればかりか安東氏と推測される勢力が率いるアイヌ人たちが樺太やシベリア沿岸部で元軍と戦ったとされる記録もあるそうです。
 
 安東氏の交易ルートがこのあたりまで広がっていた傍証になると思います。元の支配は貿易で成り立っている安東氏にとっても都合が悪かったのでしょう。元のギリヤ-ク部征服でシベリヤ沿岸、樺太に住むアイヌ、オロッコなどの諸族がより安全な北海道地方に下ってきた可能性を指摘する研究者もいます。
 
 蝦夷大乱には激動の東アジア情勢を抜きにしては語れないと思います。当時安東氏は当主の安東又太郎季長(貞季の子)と従兄弟の五郎三郎季久が家督を巡って争っていました。
 
 争いの原因は執権北条高時がお気に入りの季久のために季長から蝦夷管領の職を取り上げて彼に渡した事だといわれています。続発する蝦夷の反乱を季長が鎮圧できないというのが表向きの理由でした。蝦夷管領は安東氏嫡流が世襲していたためこれは大問題になり両者は鎌倉で訴訟合戦になりました。
 
 判決を下すべき内管領長崎高資が双方から賄賂も貰うなど裁判は乱脈を極め、判決も到底両者とも納得できない内容でした。
 
 安東氏の所領は津軽平野の一部から津軽半島全域(外三郡)、下北半島全域、日本海沿岸の西浜地方、北海道という広大なものでした。それに蝦夷管領としての莫大な交易の利もかかってくるのですから両者とも引くに引けなかったのでしょう。
 
 当主同士が鎌倉で不毛な訴訟合戦を繰り広げている間に、現地陸奥では家人同士が合戦沙汰に及んでいました。それに蝦夷が加わって手のつけられない状態になります。賄賂合戦では結局季久が勝ったようで季長が叛徒とされたようです。
 
 鎌倉幕府は津軽得宗領の代官である工藤祐貞を総大将とし現地の御家人たちを総動員して反乱鎮圧にあたります。1326年のことでした。季長は捕えられ鎌倉に護送されます(のち鎌倉で処刑)。
 
 しかし反乱はこれだけでは収まらず季長の郎党安東季兼が残党を率いて再び挙兵。翌1327年幕府は関東から大軍を編成して討伐軍を送る羽目になりました。
 
 この合戦は奥州合戦とも呼ばれ地の利に明るい安東勢のゲリラ戦に悩まされ関東の名ある武士も多数討死するほどの激戦だったと伝えれます。1328年ようやく両者は和睦し戦は収まったそうですが、元寇とこの奥州合戦によって鎌倉幕府は衰退しました。
 
 和睦の条件は不明ですが、季久系に安東家督を認める代わりに季長系にも配慮した内容だったと推定されます。残党が出羽秋田湊から男鹿半島に領地を得たといわれていますから、湊(上国系)安東家との関係も指摘されています。
 
 季久(宗季ともいう)は、こうして安東家の家督を勝ち取り蝦夷管領、得宗領内地頭代職として大きな権限を持ちます。こののち季久の系統が安東氏嫡流となっていきました。
 
 しかし間もなく鎌倉幕府は滅亡します。(1333年)北条得宗家と深く結びついた安東氏は南北朝の動乱期をどのように泳ぎきって行くのでしょうか?
 
 次回、南北朝期の安東氏にご期待ください。

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅰ その出自

 津軽半島日本海に面する十三湖。かつてここには十三湊(とさみなと)という殷賑を極めた貿易港がありました。中世、三津七湊(さんしんしちそう)の一つに数えられ、この地を支配する安東一族は遠く中国大陸や朝鮮半島まで交易を行い繁栄します。ちなみに三津とは安濃津(三重県津市)、堺津、博多津、七湊とは十三湊、三国湊(福井県坂井市)、本吉湊(石川県白山市)、輪島湊、岩瀬湊(富山市神通川河口)、今町湊(新潟県直江津市)、土崎湊(秋田県秋田市)をいいます。
 
 三津以外は皆日本海沿岸に集中している事に驚かされますが、中世日本の大動脈である瀬戸内海と同じくらい日本海航路が繁栄していた事がしのばれます。
 
 安東氏は大規模な水軍を有し、北海道や樺太、シベリア沿岸まで交易路を拡げていたといいます。一般には室町時代、十三湊を襲った大津波によって湊は一時的に滅んだといわれていますが安東氏の日本海交易自体は他の湊によって続けられました。むしろ安東氏が衰えたのはもっと別の理由だと思います。南部氏との抗争、被官であった蠣崎(武田)氏の独立、南部被官であった大浦(津軽)為信独立にかかわる周辺紛争、そしてなんといっても安東氏自体の檜山安東氏と湊安東氏の対立などです。
 
 一時は、現在の青森県、北海道を領土とし樺太やシベリア沿岸部にまで交易権を拡げ日乃本将軍、蝦夷管領とまで称した安東氏を中心に陸奥の壮大な歴史をこれから見て行こうと思います。
 
 本稿で「出自」と周辺情勢を記し「蝦夷大乱」「南北朝期における安東氏」「南部氏との抗争」「滅亡と再興」「英雄 安東愛季(ちかすえ)」「近世大名 秋田氏」と続ける予定です。
 
 
 それでは早速見て行きましょう。安東氏はもともと安藤氏と称していました。安藤とはルーツである奥州安倍氏と奥州藤原氏から一字づつを取った名乗りともいわれています。さらに長髄彦の兄の安日(あび)王の子孫と称しそれを誇りにしていました。
 
 明治時代に面白いエピソードがあります。江戸時代安東から秋田城介にちなむ秋田氏に改称していたんですが、華族制度発祥に伴って新政府にその系図を提出する事になったのです。
 
 新政府は逆賊である長髄彦にゆかりのある系図に難色を示します。しかし秋田家側はガンとして譲らなかったそうです。結局秋田家の言い分が通ったそうですが、このあたり一時は北方の王者として君臨していた時の誇りを失わない秋田氏の矜持が窺われます。
 
 
 時代は大和朝廷時代まで遡ります。東日本には日高見国(ひたかみのくに)というおそらく蝦夷(えみし)といわれる人たちの国がありました。最初は常陸国が日高見国の中心だったといわれます。しかし大和朝廷に服する農耕民の進出で次第に圧迫され、北上川流域に移ります。北上はおそらく日高見のなまったものでしょう。そこさえも大和朝廷の侵略で維持できなくなり稲作の北限である陸奥北部に追い詰められます。アテルイの反乱などは大和朝敵征服の過程で起こった蝦夷の側からの反抗でしょう。
 
 蝦夷は農耕をせず狩猟漁労の生活が中心でした。そのため生産力で農耕民に敵わず追い詰められていったのも仕方ない事だったと思います。蝦夷こそ縄文人の最後の生き残りという説もありますがここでは語るべき知識がないので先に進みます。
 
 稲作はせずとも栗を栽培していたらしいというのは青森県三内丸山遺跡などで次第に分かってきていますが、高度な金属加工技術を持っていたともいわれています。これは大陸から交易を通じて人と技術が渡来してきたからだといわれますので、十三湊の歴史はかなり古いのかもしれません。
 
 大和の農耕民たちは、これら陸奥の北辺に住む人々を三つのグループに分類していたようです。「日の本」「唐子」「渡党」です。
 
 「日の本」とは日高見国の住民で蝦夷と呼ばれる人たちだったのでしょう。
 「唐子」は言葉が通じず五穀を知らないということからおそらくシベリアや樺太から渡ってきたオホーツク文化をになう人々かもしれません。ギリヤ-ク人など。
 「渡党」は、大和から流れてきた者と現地の蝦夷との混血でしょう。彼らは外見も現在の日本人に近く言葉も通じたそうです。
 
 このなかで次第に渡党が力を付けてきたのは、日本との交易を始めるのに一番都合が良かったからなのでしょう。奥六郡に君臨した安倍氏、出羽仙北三郡に君臨した清原氏はかつて蝦夷出身といわれてきましたがその後の調査で日本人らしい事が分かっています。
 
 安東氏の出自は安倍氏といわれていますから、その権力の基盤を渡党に持っていた事は想像に難くありません。
 
 安東氏は奥州藤原氏時代にはすでに十三湊を中心に水軍として活躍していたそうです。藤原氏の海外交易は安東水軍を使ってなされたとか。
 
 もともと安東氏が十三湊の支配者だったのか、奥州藤原氏が支配の過程で一族を送り込んだのかは定かではありません。安東氏が安倍氏出身と称するのも奥州藤原氏自体が安倍氏の血を引いている(初代清衡の母は安倍頼時の娘)のでほぼ同族と言って差し支えありませんから。
 
 しかし安東水軍が奥州藤原氏の交易と水軍勢力の主力を担っていた事は間違いありません。
 
 源頼朝の奥州征伐で藤原氏が滅亡すると、多くの遺臣や遺民が津軽の地に逃れて生きた事は容易に想像できます。
 
 中には頼朝の追討を恐れて北海道やさらに遠くに渡った者たちも多かったでしょう。おそらくこの事実が後の義経成吉思汗伝承などの元になったのだと思います。
 
 安東氏と共存共栄を図った奥州藤原氏は滅びました。安東氏は鎌倉幕府という日本全土を覆う強力な武家政権と渡り合っていかなくてはなりません。
 
 
 安東氏が生き残りをかけて幕府とどう関わったか?そしてその過程でどういう事態が発生したのか?次回「蝦夷大乱」で見て行きたいと思います。

玉璽(ぎょくじ)と天命

 三国志演義の愛読者なら、江東の孫堅が董卓討伐戦の最中洛陽郊外で伝国の玉璽を古井戸から発見し、その所有権を巡って孫堅、袁紹、袁術、劉表ら諸侯の間で玉璽を奪い合う大きな争いが起こった事を覚えておられる方も多いでしょう。
 
 伝国の玉璽とは、【始皇帝の時代に霊鳥の巣が見つかり、そこに宝玉があった。これを瑞兆とした始皇帝は、李斯に命じて「受命於天既壽永昌」と刻ませ、形を整え、皇帝専用のとしたという】(ウィキペディアより)というもので、伝国璽は帝位の象徴として歴代中国王朝に伝えられます。玉(ヒスイ)は中国では最も珍重された宝石で、そのために玉体、玉音など玉は皇帝(日本では天皇)の象徴ともなりました。
 
 玉璽を持つ者=天命を受け皇帝になった者という解釈ですから、歴代王朝の創始者が血道をあげて玉璽を捜索したのも理解できます。
 
 
 しかし秦始皇帝由来の伝国璽は五代十国時代946年後晋出帝太宗に捕らえられた時に紛失したそうです。以後の王朝は代替の玉璽を作って伝国璽としました。
 
 それは金や元など異民族王朝でも例外ではなく、フビライ汗が作らせたといわれる元朝の伝国璽は中国だけでなく東アジアのすべてをすべる皇帝=大汗の支配の象徴として周辺諸民族にも認識されました。
 
 
 しかし元の伝国璽は、元末明初の混乱期に失われてしまいます。元朝最後の皇帝ドゴン・ティムールが1368年明の洪武帝(朱元璋)に追われてモンゴル高原に逃亡する際持って行ったまま、彼の死後行方不明になったのです。
 
 
 北元の歴代大汗をはじめモンゴル高原で実権を握った各部族の長たちは元朝の伝国璽を血眼になって捜しました。玉璽を発見することがすなわち自分がアジアの支配者として天命を受けたと解釈できるのですから当然です。
 
 
 伝国璽が行方不明になってから200年余りが過ぎました。あるモンゴル人が崖の下で家畜の番をしていると一頭のヤギが餌も食べず無心に地面の一点を掘っているのを発見します。不審に思った彼がそこを掘り返してみるとなんと行方不明になっていた元朝の伝国璽ではありませんか!
 
 驚いた彼は部族の長の元に届けます。その後玉璽は人々の間を転々とし最後はチャハル部のリンダン汗(ハーン)の所有に帰しました。
 
 
 チャハル部は現在のモンゴル高原東部から大興安嶺山脈の東麓(モンゴル東部三分の一と中国東北部の西半分くらい)に勢力を張った部族で、チンギス汗の正当な子孫(黄金の氏族)として誇りを持っていました。モンゴル各地の部族の盟主でもあったため、リンダン汗は自分が元朝の伝国璽を得たことを天命が回ってきたと解釈したのも不思議ではありません。
 
 
 チャハル部はモンゴル再統一、あわよくば大モンゴル帝国の再興をはたそうと各地に攻伐を繰り返します。しかし不幸な事に、すぐ東隣には女直(ジュシェン)族を統一し後金国を建国した一大の英傑ヌルハチが興っていました。
 
 かつて女直(女真とも呼ばれる。ジュシェンの漢訳の違い)族は、モンゴル騎兵の敵ではありませんでした。チンギス汗の時代、女真族の起こした金はモンゴルに征服され満洲の地は植民地と化していたくらいです。
 
 しかし数百年後のこの時、彼我の軍事力は逆転していました。高麗人参と毛皮の交易で巨利をあげ豊富な経済力を背景に軍事力を強化した後金軍は、チャハル部の侵略を撃退したばかりか、逆に大興安嶺を越えてチャハル部の本拠地にさえ攻め込みました。
 
 
 東への拡大を諦めたリンダン汗は、新天地を目指し西へ進軍しました。この政策は成功しモンゴル高原の諸族を従え黄河湾曲部のオルドスにさえ進出しました。
 
 先祖の偉大な帝国を再建する事を生涯の夢としたリンダン汗は、チベット征服の野望を胸に青海省に進軍します。しかし野望はここで潰え甘粛省武威の地で波乱に満ちた生涯を終えました。1634年の出来事でした。
 
 
 隣国後金では初代ヌルハチはすでになくホンタイジ(太宗)の御代になっていました。ヌルハチ時代の1619年サルフの戦いで明の大軍を撃破するなど日の出の勢いの後金は、防備の堅い山海関方面の攻略を諦め、明を裏口から攻めるべく、その通り道であるチャハル部を攻めました。
 
 英雄リンダン汗の死去もホンタイジにチャハル部侵略を決意させたのでしょう。指導者をなくしたモンゴル軍は各地で後金軍に敗退を重ね、たまりかねたリンダン汗の遺児エジェイは母スタイ太后とともに後金軍に降伏します。そのさいエジェイは元朝の伝国璽をホンタイジに差し出したといわれます。
 
 流転を重ねた元朝伝国璽は結局ふさわしい持ち主のもとに還りました。1636年玉璽を得たホンタイジは満州(女直)族、モンゴル族、漢族の三族から推戴を受け皇帝を名乗ります。国号は大元と同じく「天」を意味する大清と号しました。
 
 
 ホンタイジは1637年明の属国だった李氏朝鮮を討って柵封国とすると明朝を圧迫しつつも1643年死去します。しかしその子フリン(順治帝)の時代についに山海関を抜き明を滅ぼした農民反乱軍の李自成を追い北京に入城しました。1644年のことです。
 
 清は明の故地をことごとく併呑し、さらにモンゴル高原、東トルキスタンにも及ぶ広大な領土を獲得しました。
 
 
 元朝伝国璽を得た清朝は、アジアの支配者としての天命を得たのでしょう。
 
 
 
 元朝伝国璽は清朝滅亡後袁世凱から中華民国蒋介石に渡り、国共内戦で中国大陸を追われた蒋介石によって持ち去られます。現在は台湾故宮博物院に所蔵されているそうです。
 
 
 台湾はまさかアジアの支配者にはなれないでしょうから、次の(天命を受けた)所蔵者は誰になるんでしょうか?案外ロシアとアメリカが狙っていたりして。その前に中国共産党こそ喉から手が出るほど欲しがっているかもしれませんね(苦笑)。

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