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2012年6月 2日 (土)

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅵ 英雄安東愛季(ちかすえ)

 檜山安東氏はこの後もたびたび津軽に侵攻したようです。しかし南部氏の津軽支配は盤石でこれを覆すことは不可能でした。
 
 政季のあと忠季、尋季、舜季、愛季と五代を数えます。この頃にはかっての北方の王者日乃本将軍としての面影はすでになく出羽北部の一地方勢力に落ちぶれていました。蠣崎氏を通じての蝦夷ヶ島への宗主権は保っていたようですが往時の海外交易はかなり下火になっていたと想像します。
 
 自然、安東氏は海の大名から陸の大名への脱皮を図らなければなりませんでした。安東一族統一をはたした英雄愛季(ちかすえ、1539年~1587年)登場前後の檜山安東氏はこのような状況でした。
 
 
 有力庶家(本来の嫡流家という説も)湊安東氏は足利将軍家の御扶持衆として代々左衛門佐に任官し湊屋形と尊称される有力国人になっていました。
 
 宗家と並びたつほどの湊家と宗家檜山家は婚姻政策で関係を保ちます。愛季の父舜季は湊安東堯季(たかすえ)の娘婿(愛季の母)。鉄船庵と称した堯季も男子には恵まれず娘婿舜季の次男友季(ともすえ)を養子に迎えますが、これが1544年16歳で早死します。そこでさらに三男茂季(しげすえ)を嗣子に迎えました。
 
 愛季が檜山安東家の当主となった時、奇しくも湊安東家の当主は弟茂季だったのです。
 
 1556年18歳で家督を継いだ愛季は、まず能代湊の整備を着手します。往時の安東水軍再建を夢見たのでしょうか?
 
 愛季は能代湊を通じて越後の上杉謙信、越前の朝倉義景と結びつきます。1562年には比内郡の浅利氏を攻めこれを征服するとさらに鹿角郡に進出します。
 
 鹿角郡はもちろん南部氏の勢力圏でした。ここで鹿角郡を巡って再び南部氏と戦端を開きます。かつては一方的に押しまくられていた南部氏でしたが豊かな津軽地方を征服して安心したのでしょうか?南部氏は安定から緩やかな衰退に向かっていました。
 
 当時の南部当主は晴政。1566年安東軍は巻山峠を越えて鹿角郡になだれ込みます。これを迎え撃った南部軍との間に各地で激しい戦闘が繰り広げられました。この時安東愛季が率いた兵力は六千と伝えられますからおそらく湊安東家の援軍も加えた数でしょう。
 
 安東勢は激戦の末鹿角郡の主城長牛城を攻め落とし、安東氏と南部氏の攻守が初めて逆転しました。晴政は1568年世子信直(一族の石川高信の子)を大将に石川勢をも含めた大軍を派遣します。南部勢の数は不明ですが、おそらく安東勢の数を考えると五千は下らなかったと思います。
 
 安東勢と南部勢は鹿角郡の支配権を巡って激突します。しかし決定的な決着はつかず愛季はひとまず兵を引きました。
 
 次に愛季は外交で南部氏を孤立させようと画策します。南部方だった浪岡御所北畠氏に自分に娘を嫁がせ南部勢力にくさびを打ち込みます。
 
 北畠領は南部氏の本拠糠部郡と豊かな津軽地方をつなぐところで、これにより両地方の連絡を断つ目的がありました。
 
 愛季は浪岡御所北畠氏の権威を借りる形で京に使者を派遣、莫大な献金を行い朝廷との結びつきを深めます。
 
 
 しかし京との外交はもともと将軍家扶持衆である湊安東家の役目でした。自分達が蔑にされていると感じた湊家家臣は愛季の弟であった当主茂季にたいして謀反を画策します。1570年この動きを察知した愛季は先手を打って謀反の首謀者畠山重村を豊島城に急襲、驚いた重村は妻の実家仁賀保氏の由利郡に逃亡しました。
 
 愛季は実弟湊安東茂季を豊島城に入れ、自分は湊城に入ります。事実上の檜山、湊安東氏の合一でした。この強引な両家統一は一方の当事者である弟茂季さえも感情にしこりを残す出来事でした。
 
 
 当時由利郡は由利十二頭という小豪族たちが君臨していました。単独では安東氏に対抗できない彼らは連合してこれに当たる事にします。隣国庄内領主大宝寺義氏まで引き入れ安東愛季の侵攻を迎え撃ちました。
 
 愛季は大宝寺義氏の自壊(家臣の謀反)などにも助けられ由利郡の大半を勢力下に治めました。一時は大宝寺氏の本拠酒田に侵入したこともあったようです。
 
 おそらくこの時安東愛季の勢力圏は二十万石を超えていたと思います。愛季は1577年から中央の支配者織田信長、次いで豊臣秀吉に使者を派遣し1580年には従五位下侍従に任ぜられます。まさに得意の絶頂でした。
 
 一方、安東氏の故郷津軽の地でも動乱が起こっていました。南部氏被官であった大浦為信の自立です。為信は大浦為則の養子で久慈氏の出身とも言われています。
 
 1571年(1581年という説も)、突如挙兵した為信は南部信直の実父石川高信の居城石川城を襲い、高信を攻め殺しました。ついで1578年には浪岡御所北畠氏を滅ぼすなど南部領を蚕食し津軽地方を平定してしまいます。
 
 愛季は大浦為信の動きを利用しようと考えます。大浦氏を援助して南部氏を討たせようというのです。このために鉄砲隊まで派遣したと伝えられます。
 
 しかしさすがに大浦為信は梟雄でした。津軽統一の間は安東氏の援助を利用しますが、このまま安東氏に従属する気はさらさらありませんでした。為信は安東愛季を牽制するために庄内の大宝寺氏と結びます。このあたりの外交謀略戦は恐るべきものがありますが、一人南部氏だけが蚊帳の外に置き去りにされていた感は拭えません。
 
 ちなみに由利・大宝寺合戦の決着がつくのは1582年といわれますから大宝寺義氏の参戦には大浦為信の働きかけもあったのでしょう。
 
 安東愛季は檜山城、湊城のちょうど中間にあたる地に脇本城を築いて居城とし領国支配を固めます。日本海以外の三方を敵に囲まれながら秋田郡、檜山郡、比内郡、由利郡を版図に治める羽後最大の戦国大名に成長していました。
 
 愛季の晩年、秋田城介を称します。名実ともに出羽の支配者である事を示したかったのでしょう。1587年にはさらに雄物川流域の支配権を巡って仙北地方の戸沢氏を攻めます。仙北の先には宿敵南部氏の本拠糠部郡がありました。
 
 しかし角館城の戸沢盛安を攻める仙北淀川の陣中、にわかに病を発し死去します。享年49歳。安東氏最後の輝きでした。彼がもっと生きていたら安東氏はさらに発展していたに違いありません。
 
 「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された不世出の英雄の死でした。
 
 
 あとに残されたのは嫡子の実季(さねすえ)。わずか十三歳の少年です。英雄の死によって安東氏は大きな困難を迎えます。
 
 少年当主はこの危機をどうやって乗り越えたのでしょうか?
 
 
 次回、最終章「近世大名 秋田氏」にご期待ください。

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