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2012年6月 2日 (土)

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅴ 滅亡と再興

 南部氏の鎌倉府接近は安東氏の京都接近を促しました。外交感覚に鋭敏な南部守行はどうも鎌倉府の将来性が暗い事に気付き始め、1418年嫡子義政を上洛させ将軍足利義持に拝謁させます。献上品も莫大なもので奥州の名馬百匹金一千両でした。
 
 これにより義の字を賜り将軍扶持衆になるなど三戸南部氏は外交攻勢でも安東氏より優位にたちます。安東方の扶持衆は嫡流の十三湊下国安東氏ではなく庶流の上国湊安東氏ですから。ただ安東氏側も手をこまねいていたわけではなく海外交易で得た珍奇な財宝をせっせと将軍家に贈り外交戦でも火花を散らします。
 
 こうした中南部氏の津軽侵攻は続けられ、1420年には安東方の重要な拠点である藤崎城(青森県南津軽郡藤崎町大字藤崎)が陥落します。
 
 安東方はどうも本家と庶流の上国湊安東家が協力して当たっている節が見られません。南部氏とは敵対しながらも互いに家督継承にまつわる感情的なしこりを拭い去れなかったようです。やはり湊安東家が蝦夷騒乱で負けた旧嫡流家季長の子孫という説はあながち間違いではなかったように思えます。
 
 安東嫡流の当主盛季の没年には1414年、1423年、1442年説がありますが子の康季への継承がいつ行われたかもはっきりしません。1420年代には盛季が隠居し当主としては康季が立っていたとして話を進めましょう。
 
1423年、足利新将軍義量(よしかず)が立つと安東康季は賀詞とともに名馬三十匹、鳥五千羽、中国古銭二万貫、海虎(らっこ)皮三十枚、昆布五百把という莫大な献上品を贈りました。自分の本拠が危うい中でよくそんな余裕があるなと不思議に思いますが、劣勢を挽回する為に藁をも掴む心境だったのかもしれません。
 
 康季はこの功績で陸奥守に任ぜられますが、もはや実績を伴わない虚栄でした。1425年将軍に就任したばかりの義量は19歳の若さで急死します。前将軍義持も1428年43歳で死去し六代将軍は籤引きで三代義満の三男で天台座主だった義円が選ばれました。還俗して義教と名乗ります。
 
 この将軍決定に不満を持つ鎌倉公方足利持氏は関東での自立を画策し、京と鎌倉は一触即発の危機に見舞われました。中央情勢の混乱を見極めた南部義政は今が安東氏に止めを刺す好機とばかり兵をあげます。
 
 1432年南部勢は安東氏の本拠福島城を攻略しました。安東一族は津軽半島突端にある詰めの城柴崎城に落ちのびます。
 
 しかしさすがにこれは新将軍義教の怒りを買いました。自分の権威を蔑にするような振る舞いだったからです。義教は御教書で両者に和睦を命じ康季の妹を南部義政に嫁がせることに決まります。これでようやく康季は本拠福島城を取り戻します。
 
 1441年将軍義教は嘉吉の乱で横死してしまいます。これを受けて南部氏の津軽侵攻は再開されました。地元の伝承では妹婿の義政が偽って福島城を訪問し謀略で乗っ取ったともいわれますが、さもありなんと思います。
 
 1443年安東一族は父祖の地津軽を追われ蝦夷ヶ島(北海道)に落ちのびました。
 
 二年後の1445年康季は旧領奪還を図り津軽に再上陸します。岩木山麓に引根館を築き南部氏との対決をしようとした矢先失意のうちに病没しました。
 
 1453年には康季の嫡子義季もまた津軽に上陸、引根館と峰続きの狼倉館(おいのくらたて、中津軽郡岩木町)に籠城しました。
 
 南部方はこれを鎮圧するために六千余騎を集めたとされますが、当時の石高を考えるとさすがにこれは誇張だと思います。騎馬武者に従者三人がついたとして二万四千の大軍になりますから。ただ数千の軍勢だった事は間違いありません。
 
 どちらにしろ北陸奥では未曽有の大軍でした。多勢に無勢狼倉館は落城、安東義季は自害して果てます。こうして下国十三湊安東氏の嫡流は滅びました。
 
 南部氏も旧安東領津軽を完全に掌握したわけではなく安東氏の残党が津軽各地で抵抗を続けたようですが大勢はこれで決します。
 
 
 蝦夷ヶ島に落ちのびた安東氏は、庶流の政季が家督を継いだようです。本拠津軽を追われた安東氏は蝦夷ヶ島の本格領有のために道南十二館(どうなんじゅうにたて)を築き一族・家臣を各地に配置しました。
 
 この安東政季の重臣に武田信広という人物が登場します。名門若狭武田氏の一族と称する人物ですが、定かでありません。一説では交易商人であったともいわれ才覚で安東氏にとりたてられました。
 
 政季に安東宗家継承を説いたのも武田信広、相原政胤、河野政道の三人だったと伝えられます。政季は十二館を三つの地域に分けます。
 
 志苔館(函館市)を中心とする下の国には弟の八郎家政を、花沢館を中心とする上の国には一族の蠣崎季繁(かきざきすえしげ)を、大館(松前町)を中心とする松前には一族の下国定季をそれぞれ守護職とし分割統治しました。
 
 安東氏の権力基盤は和人である渡党に拠っていました。それまでのアイヌは彼らと交易をするだけで支配されているという感覚は無かったと思います。が安東氏が蝦夷ヶ島に移って以来収奪は激しくなりました。
 
 津軽奪還のために安東氏はアイヌたちを圧迫します。もしかしたら軍役もあったかもしれません。安東氏にとって蝦夷ヶ島はあくまで植民地にしかすぎませんでした。
 
 
 この頃宗家滅亡で南部氏の圧力を直接受けるようになった秋田の湊安東氏は南部方の小野寺氏、戸沢氏の侵略に苦しめられていました。そこで湊安東家の当主惟季(これすえ)は、蝦夷ヶ島の政季を出羽北部河北郡に招き入れます。
 
 もちろん河北郡は無主の地ではなく南部方の葛西氏の庶流が領主としていたそうですが、勢力が比較的弱かったのでしょう。政季はこれを滅ぼし檜山城(秋田県能代市)を築城してここを本拠としました。下国檜山安東家の成立です。
 
 政季にとっても山一つ越えれば旧領津軽へ繋がる河北郡への進出は願ったり叶ったりだったのでしょう。植民地の道南十二館は一族に任せ出羽に土着を進めました。
 
 
 ここで目を蝦夷ヶ島(北海道)に転じましょう。アイヌと和人である渡党の対立は決定的なところまで来ていました。収奪に耐えかねたアイヌは渡島東部の族長コシャマインを中心についに蜂起します。これに道南の全アイヌが呼応し一揆勢は一万を超えたといわれています。1457年の事です。
 
 
 アイヌ勢は下の国守護安東家政を茂別館に包囲し、松前守護下国定季を生け捕りにしました。他の館は次々と陥落します。安東勢に残された城は上の国守護蠣崎季繁の籠る花沢館のみ。
 
 花沢館には安東政季の重臣武田信広が客将として入っていました。交易商人上りと噂される信広ですが、この頃の交易商人は海賊と紙一重でした。安東方は信広に総指揮を委ねます。
 
 信広は渡党の軍勢を率いまず松前の大館を奪回しました。次にアイヌ勢主力が包囲する茂別館救出に向かいます。ここでアイヌ勢と合戦になり信広は伏兵を置いてコシャマイン父子を誘い出し弓で射殺しました。
 
 主将をうしなったアイヌ勢は崩れ立ちます。信広はこれを追撃し一揆勢を散々に打ち破りました。絶体絶命だった安東氏を救ったのですから信広の功績は絶大なものになります。
 
 とくに感激した蠣崎季繁は信広を娘婿に迎え家督を譲りました。以後信広は蠣崎氏と名乗ります。
 
 
 一介の交易商人が上の国守護ですからたいへんな出世ですが、アイヌの蜂起を恐れる十二館の諸将は蝦夷ヶ島全体の支配を信広に委ねたいと考えます。野望を持った信広の工作で諸将を動かした可能性は高いですが、信広は松前に入り蝦夷ヶ島全体の守護を名乗りました。
 
 檜山城の政季はこれを黙認するしかありませんでした。武田改め蠣崎信広はしかし完全独立することはせず檜山下国安東家の代官としての立場を明確に打ち出します。この方が支配に都合良かったのかもしれません。
 
 これ以後もアイヌの蜂起は散発的に続きます。蠣崎氏は騙し討ち(和睦の酒宴に誘い出して謀殺など)を繰り返して蝦夷ヶ島を保ち続けました。簡単に騙されるアイヌ側もどうかと思いますが、それだけアイヌの人たちが純朴だったのでしょう。
 
 一方、流人上りの渡党は人間がすれていたばかりか悪も平気で成すような精神性だったのかもしれません。
 
 
 
 次回は、檜山安東氏の発展、英雄安東愛季(ちかすえ)の活躍を描きます。

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