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2012年6月 2日 (土)

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅳ 南部氏との抗争

 南朝の陸奥守・鎮守府将軍北畠顕家は奥州勢を率いて1338年上洛の途につきます。一時は青野原(岐阜県大垣市)の決戦で足利方の大軍を撃破しますが、武運つたなく和泉国堺浦石津で敗死してしまいました。
 
 腹心南部師行もこれに同行し顕家と運命を共にしました。南部家家督は弟の政長に継承されます。
 
 ここで安東氏の宿敵として大きく関わる事になる南部氏について見ていこうと思います。
 
 
 
 南部氏は新羅三郎義光五世の孫にあたる甲斐源氏加賀美次郎遠光の三男光行が甲斐国南部御牧を領したことから始まったといわれています。家系伝説では光行が父遠光とともに鎌倉幕府創業に功をあげ陸奥国糠部郡を賜ったとされます。
 
 しかしこれは確証に乏しいそうです。糠部郡の地頭は北条得宗家のもので南部氏が地頭になったはずはありません。地頭代なら可能性は高いでしょう。が、北条得宗家が己が領地の地頭代に任命したのは工藤氏、曽我氏ら自分と関係の深い伊豆・相模の御家人たちで余所者が入り込む隙があったかどうか?しかも傍系とはいえ北条氏が最も警戒する源氏の一族。
 
 それなら平賀氏はどうか?と反論される方もおられるでしょうが平賀氏は北条氏が傀儡の将軍にしようとしたくらい結びつきが強い家で源氏では例外扱いでした。それに糠部郡地頭代なら北条氏の御内人。安東氏と同様北条氏と運命を共にするのが自然な選択でした。
 
 それが最初から南朝支持だったということも腑に落ちません。南朝に味方したのは多くが悪党と呼ばれる正規の武士ではない人たち。もしかしたら南部氏もこの類であった可能性があります。私は鎌倉末期の混乱した時期に奥州に流れてきた馬商人ではなかったかと推理しているくらいです。
 
 南部氏の所伝で、建久二年(1191年)南部光行が糠部の新領地に赴くために、家臣七十三名を引き連れて六艘の船で鎌倉の由比ヶ浜から船出したとあります。ところが頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦1189年、藤原氏の残党が蜂起した大河兼任の乱でも活躍したふしがないのです。もちろん私が知らないだけで当時の資料にちゃんと載っている可能性はありますが…。
 
 また由比ヶ浜出航を1219年という資料もあります。正規の武士だったら一族郎党を連れて威風堂々陸路から新領地に赴くはずだと思います。領民を威圧する目的もありますからね。最大公約数的に見て南部氏が甲斐源氏の一族であったらしいというのは認めるにしても鎌倉時代を通じて糠部郡を支配していたというのは眉唾。鎌倉末期に糠部郡八戸の根城を中心に勢力を張ったのが南部氏と見て良いでしょう。
 
 武家家伝によれば1322年の安藤の乱(蝦夷大乱の事か?)において南部長継が鎮圧に派遣され、その際兵糧代として幕府より糠部に所領を与えられたのが南部氏の陸奥との関わりの始まりとありますが、これなら納得できます。
 
 武家家伝では、さらに南部氏惣領は鎌倉に出仕し庶流の並木井南部氏がその代官として糠部に下向していた時鎌倉幕府滅亡があり並木井南部の師行が台頭したのではないかと見ています。
 
 
 さて顕家の死去で奥州における南朝方の退潮は明らかになりました。しかし陸奥北部では南部氏による安東氏攻撃が続いていました。1339年南部政長は数百騎を率いて安東領に侵入します。どうも安東氏は海の戦いには強くても陸上ではそうではなかったようです。馬を巧みに操る関東武士出身の南部勢に苦戦が続いたといいます。
 
 一時多賀城攻めで政長が本拠を留守にしていた間に、北朝方の諸将と共に南部氏の本拠糠部郡根城に攻め入ったそうですが南部氏の頑強な抵抗にあって攻略失敗。逆に南朝方は北畠顕家の血を引く北畠一族が津軽浪岡の地に土着するなど陸奥においては安東氏の劣勢が目立ちだします。
 
 さらに間の悪い事には、海外情勢においても元を滅ぼして成立した明の三代皇帝永楽帝によって黒竜江下流域を含む全満州が平定され、明軍は樺太にまで出兵しました。
 
 シベリア沿岸部、樺太は安東氏の領土ではないにしても重要な交易圏であった事は間違いなく、安東氏はこの大動乱に巻き込まれ北海道のアイヌ統治さえおぼつかなくなっていきます。緩やかな間接統治だったアイヌも動乱の余波を受けて動揺していたとされます。北海道における安東氏の拠点だった道南十二館の原形はこのころにできたともいわれ、安東氏が北海道統治にも苦慮していた事が窺われます。
 
 南部氏は安東氏の苦境を静かに観察していました。当時南部一族では南朝方から北朝方に転じた三戸南部守行(もりゆき)が一族惣領の座についていました。
 
 守行は1409年鎌倉公方足利光兼死後いち早く新公方持氏支持を打ち出すなど政治力を発揮し陸奥国司に任ぜられるなどなかなかの策士でした。1416年の上杉禅秀の乱でも幕府方に付いて功をあげるなどその外交手腕は見事といってよいものでした。
 
 一方、安東氏は直接京の将軍家に結び付く外交策を取ります。1395年下国十三湊安東盛季の弟鹿季に土崎湊のある秋田郡の領有を将軍義満に認めてもらうなどこちらも外交攻勢で対抗していきます。この秋田湊上国安東氏についてはもともと鎌倉時代蝦夷大乱で敗れた本来の嫡流季長の子孫が土着していたという説が近年有力になっていますが、この時公式に上国湊安東家が認められた事になります。
 
 以後湊安東氏は京との外交を担当していきました。京都扶持衆に抜擢されたのもその一環だと思います。
 
 
 外交ではほぼ互角でしたが、南部守行のほうが戦では一枚上手でした。出羽仙北地方を手中に収めると連年のように津軽、秋田に出兵して安東領を蚕食していきます。
 
 次回は安東氏嫡流下国十三湊安東氏の滅亡、そして再興、さらには北海道で起こったコシャマインの乱と梟雄武田信広の台頭を描きます。

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