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2012年6月 2日 (土)

日之本将軍 安東(秋田)一族 Ⅱ 蝦夷大乱

 現在の十三湖の地図を見ると湖をちょうど塞ぐように南北から半島が伸びています。当時はもっと湖は南に大きく広がっていたそうです。十三湊は地図でいうとちょうど南から湖を塞ぐように伸びた半島状の地形の内側。十三局のある県道12号線の走る当たりです。
 
 大津波で一時滅んだ事を証明するように遺跡にはその爪痕が残っているそうです。当時は日本海と十三湖は繋がっていて外国船も出入りしていたそうですし、異国人街まであったと伝えられています。
 
 安東氏の本拠は湖北岸の福島城。もともとは蝦夷=日高見国時代から防御性集落があったとされ14世紀初頭に安倍(安東)貞季が本格的築城をしたとされる平城です。
 
 当初安東氏の本拠は十三湊にあり、大津波で滅びたために本拠を移したのではないかと私は睨んでいます。
 
 
 さて安東氏ですが、頼朝の藤原氏征伐以降奥州には鎌倉御家人が恩賞として各地を賜ります。安東氏の本拠津軽地方も例外ではなく内陸の内三郡(平賀、鼻和、田舎)、太平洋沿岸の糠部郡、久慈郡、閉伊郡、出羽国平鹿郡、山本郡が北条得宗領(北条義時、泰時の子孫で北条家嫡流)とされるなど旧安東氏領は削られます。
 
 残されたのは稲作に適さない沿岸部だけ。これら得宗領には伊豆・相模の御家人である曽我、工藤氏等が北条氏の目代(代官)として乗り込んできます。
 
 鎌倉幕府滅亡時、九州、四国と共に陸奥の地が北条残党の蜂起の舞台になったのもこの縁でした。
 
 もともと純粋な武士団ではない安東氏は、しかしこれで農業生産力に頼る方向での発展は望めなくなりました。本分である交易一本で進む以外の選択肢を失います。
 
 反抗すれば鎌倉幕府、北条氏に潰されます。ところが、捨てる神あれば拾う神ありでその北条氏自体が安東水軍に接近してきたのです。北条氏、なかでも得宗家は安東氏の持つ交易の利に目を付けたのでした。
 
 得宗家は安東氏を使って日本海交易の独占をはかってきたのです。その証拠に七湊のある日本海沿岸の各国はほとんど北条氏が守護を独占しています。
 
 調べてみると越後、越中、能登、加賀の守護は北条一門、若狭に至っては北条得宗家が守護です。安東氏は北条得宗家の御内人として蝦夷管領に任ぜられます。蝦夷沙汰職、蝦夷代官とも呼ばれ流人達の送致、監視が主な役目で蝦夷との交易にも関与したといわれています。これは安東氏でなければできない仕事でした。
 
 北条義時が1217年陸奥守に就任した時安東太郎堯秀を任命したのが最初とされ、安東氏はこれを世襲しました。
 
 ちなみに元々は蝦夷管領は北条得宗家の私的な機関でしたが、得宗独裁体制が確立するとともに公的機関としての性格を帯びて行ったとされます。
 
 安東氏は北条得宗家の庇護の下繁栄を極め、蝦夷管領の職掌を現地で適用するために日乃本将軍を名乗ったといわれています。日乃本とはもちろん日本の事ではなく日高見国にちなむ名前でしょう。のちには京の朝廷でさえ認める呼称となりました。
 
 そんな安東氏を鎌倉時代末期たいへんな困難が襲います。所謂蝦夷大乱と呼ばれる事件です。
 
 一般には1268年安東氏の収奪に耐えきれなくなった津軽の蝦夷が蜂起し蝦夷代官安東氏を討ったことが発端だとされますが、調べてみると東アジアの動乱が遠因にあったようです。
 
 ユーラシアに広大な帝国を築いたモンゴル、そしてその宗主国であった元朝は世界各地に侵略の手を広げます。日本にも元寇という形で具現化したのですが、一方元は元寇以前にもアムール川(黒竜江)下流地方に出兵しています。
 
 これはフビライ汗が鷹を好み、その産地であるアムール川下流地域を征服したいという身勝手な理由が発端とされ征服されたギリヤ-ク部の人たちにとっては迷惑この上なかったと思いますが、その侵略の過程で樺太にも元軍が来たらしいのです。
 
 そればかりか安東氏と推測される勢力が率いるアイヌ人たちが樺太やシベリア沿岸部で元軍と戦ったとされる記録もあるそうです。
 
 安東氏の交易ルートがこのあたりまで広がっていた傍証になると思います。元の支配は貿易で成り立っている安東氏にとっても都合が悪かったのでしょう。元のギリヤ-ク部征服でシベリヤ沿岸、樺太に住むアイヌ、オロッコなどの諸族がより安全な北海道地方に下ってきた可能性を指摘する研究者もいます。
 
 蝦夷大乱には激動の東アジア情勢を抜きにしては語れないと思います。当時安東氏は当主の安東又太郎季長(貞季の子)と従兄弟の五郎三郎季久が家督を巡って争っていました。
 
 争いの原因は執権北条高時がお気に入りの季久のために季長から蝦夷管領の職を取り上げて彼に渡した事だといわれています。続発する蝦夷の反乱を季長が鎮圧できないというのが表向きの理由でした。蝦夷管領は安東氏嫡流が世襲していたためこれは大問題になり両者は鎌倉で訴訟合戦になりました。
 
 判決を下すべき内管領長崎高資が双方から賄賂も貰うなど裁判は乱脈を極め、判決も到底両者とも納得できない内容でした。
 
 安東氏の所領は津軽平野の一部から津軽半島全域(外三郡)、下北半島全域、日本海沿岸の西浜地方、北海道という広大なものでした。それに蝦夷管領としての莫大な交易の利もかかってくるのですから両者とも引くに引けなかったのでしょう。
 
 当主同士が鎌倉で不毛な訴訟合戦を繰り広げている間に、現地陸奥では家人同士が合戦沙汰に及んでいました。それに蝦夷が加わって手のつけられない状態になります。賄賂合戦では結局季久が勝ったようで季長が叛徒とされたようです。
 
 鎌倉幕府は津軽得宗領の代官である工藤祐貞を総大将とし現地の御家人たちを総動員して反乱鎮圧にあたります。1326年のことでした。季長は捕えられ鎌倉に護送されます(のち鎌倉で処刑)。
 
 しかし反乱はこれだけでは収まらず季長の郎党安東季兼が残党を率いて再び挙兵。翌1327年幕府は関東から大軍を編成して討伐軍を送る羽目になりました。
 
 この合戦は奥州合戦とも呼ばれ地の利に明るい安東勢のゲリラ戦に悩まされ関東の名ある武士も多数討死するほどの激戦だったと伝えれます。1328年ようやく両者は和睦し戦は収まったそうですが、元寇とこの奥州合戦によって鎌倉幕府は衰退しました。
 
 和睦の条件は不明ですが、季久系に安東家督を認める代わりに季長系にも配慮した内容だったと推定されます。残党が出羽秋田湊から男鹿半島に領地を得たといわれていますから、湊(上国系)安東家との関係も指摘されています。
 
 季久(宗季ともいう)は、こうして安東家の家督を勝ち取り蝦夷管領、得宗領内地頭代職として大きな権限を持ちます。こののち季久の系統が安東氏嫡流となっていきました。
 
 しかし間もなく鎌倉幕府は滅亡します。(1333年)北条得宗家と深く結びついた安東氏は南北朝の動乱期をどのように泳ぎきって行くのでしょうか?
 
 次回、南北朝期の安東氏にご期待ください。

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