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2012年7月

2012年7月 3日 (火)

和仁(わに)人鬼と南蛮毛伝説

 熊本県玉名郡に和水町(なごみまち)があります。2006年旧三加和町と旧菊水町が合併して誕生した町です。和水町の北側、三加和町地区に戦国時代田中城(和仁城)という平山城がありました。
 
 
 
 城主は古代豪族和邇氏の末裔とされる和仁氏。豊臣政権に対する肥後国衆(地侍)の反乱、所謂肥後国衆一揆(1587年)で滅びました。
 
 落城には悲しい伝説がつきものですが、この城にもそれがあります。田中城に籠城した和仁一族のなかに人鬼(じんき)と呼ばれる偉丈夫がありました。和仁三兄弟の末弟親宗(ちかむね)です。
 
 身の丈七尺六寸(228cm)、燃えるような赤い髪と深い海のような青い目をした武将でした。この日本人離れした容貌に勘の良い方なら混血児では?と思われるでしょう。
 
 実はその通り。話は親宗の父、親続の代まで遡ります。時代ははっきりしないのですがおそらく永禄年間から元亀年間(1560年代~1570年代)にかけての出来事だと思います。
 
 この当時、肥後国は守護職菊池家が滅び豊後の大友宗麟が支配していました。五十二人いたとされる肥後の国衆(地方豪族)も強大な豊後の大友家に従わなければ生きていけない時代だったのです。
 
 玉名郡田中城主和仁親続も例外ではありませんでした。豊後に赴いた田舎豪族は精一杯の献上品をささげ、その日は豊後府内の館で酒宴が張られます。親継も相当な大男だったようで、豪快な飲みっぷりを宗麟は気に入りある趣向を思いつきました。
 
 「そなたに与えたいものがある。」宗麟はいたずらっぽい目をします。連れてこられたのは一人の女性。彼女は赤い髪と青い目をしていました。ポルトガル人が宗麟に献上した女性でした。伝説ではオランダ人だといわれています。
 
 おそらく貿易の利権を巡る戦争で捕虜にされたのでしょう。この不幸な女性は言葉も通じない異国で恐怖に震えるのみでした。
 
 「どうじゃ、そなたこの南蛮娘との間に子を成せ。さすればなんなりと望みの物を取らせようぞ」
 
 親継は宗麟に感謝の言葉を発し、女性を受け取りました。内心は嫌だったかもしれませんが、逆らえば宗麟の機嫌を損ね死を賜ります。拒否できるわけありません。肥後に連れてこられた彼女は親継との間に子を成します。こうして生まれたのが三男親宗でした。
 
 オランダ人の女性は、宗麟からの拝領でもあり南蛮様と呼ばれ丁重に扱われますが混血児の親宗は父に疎まれたそうです。
 
 しかしオランダ人の南蛮様にとって、九州特有の高温多湿の気候は堪えたのでしょう。田中城に移り住んで一年半、ついに病を得て他界してしまいます。
 
 「故郷のオランダへ繋がる海が見える所に葬って欲しい」という彼女の遺言通り、和仁一族の菩提寺上和仁光浄山長寿院の近く見晴らしの良い丘に丁重に埋葬されました。その土地は彼女にちなん南蛮毛と呼ばれるようになります。
 
 母を失い、父に疎まれた不幸な幼少時代を送った親宗ですが、母の遺伝子を受け継いでいたのでしょう。力は十人力、武勇に優れた若者に成長します。戦の時は先陣で戦い、その容貌から人鬼と呼ばれ恐れられました。
 
 時代は戦国の動乱が落ち着き、九州でも豊臣秀吉が島津氏を降し統一の時を迎えていました。論功行賞で肥後一国を得たのは佐々成政。
 
 成政は、肥後の一刻も早い領国化を望み検地を強行しようとします。一方、秀吉から本領を安堵されたと思っている肥後の国衆達はこれに反発しました。佐々成政はあくまで肥後の旗頭であって我々はその家臣ではないと思っていたのです。成政と国衆達の中央政権に対する意識の違いが根本原因だったと思いますが、国衆の中でも最大の領地をもつ隈部親永がついに挙兵、これに各地の国衆達が呼応し肥後一国を巻き込む大反乱(国衆一揆)が勃発しました。
 
 成政単独では鎮圧できなかったため、秀吉は周辺の大名に加勢するよう命じます。こうして肥後各地で合戦が巻き起こりまいた。
 
 田中城の和仁一族も例外ではなく領内の百姓も含め二千人が籠城します。田中城は小城ですが周囲を深田に囲まれ攻めにくい城でした。豊臣政権側は小早川秀包を大将とし安国寺恵瓊鍋島直茂立花宗茂筑紫広門など一万余の大軍でこれを囲みました。
 
 和仁勢は敵の猛攻を三カ月耐え抜きます。力攻めでは埒が明かないと悟った寄せ手は内応工作でついに城を落としました。
 
 落城の時、和仁氏の惣領、親実を筆頭に一族郎党ことごとくが命を断ちました。ただ一人、人鬼親宗を除いて…。
 
 親宗は満身創痍になりながら血路を開きついに囲みを突破します。彼が向かったのは最愛の母が眠る南蛮毛の地。峰伝いにたどりついた親宗は、安心し母の墓前で自害したそうです。
 
 
 
 この話は、作家の白石一郎氏も「鷹の羽の城」で描いています。やや脚色してありますが、ロマンチックな話なので興味を覚えた方は一読をお勧めします。
 
 もし読者の皆様が田中城を訪れる機会があれば、南蛮様と人鬼親宗母子にも思いをはせてほしいのです。

町歩(ちょうぶ)と貫高と石高

 歴史書を読んでいると、○○に何貫を与えるだの、○○の領地は何町歩だとかいろんな単位があって混乱してしまいます。
 
 一番人口に膾炙している何石で表記してもらえれば助かるのですが、石高とは太閤検地以降定められたもので、土地の生産性を石で表したものだそうです。それまでは貫高で表記していました。貫とは尺貫法における重さの単位であると同時に1000文を1貫とする通貨単位でもありました。ですから貫高とはその土地で取れる米の収穫量を貨幣換算したものです。
 
 一方、町歩とは土地の広さの単位で長さの単位の町(109.09m)と区別するために町歩(ちょうぶ)と呼ばれます。時代区分で若干変動がありますが太閤検地の時代だと1町歩=3000坪だったそうです。
 
 ですから必ずしも町歩の広さで収穫高は分からないのですが、平均するとだいたい300歩で1石と換算できたそうです。ということは3000歩=1町歩ですから、1町=10石と換算できます。
 
 貫も、銭一貫文で米一石が中世における大体の相場だそうですから1貫=1石で良いと思います。
 
 
 まとめると
 
 1町=10石
 1貫=1石
 1町=10貫=10石
 
 でよろしいんではないかと愚考します(笑)。これでだいぶ整理できましたね♪
 
 
 今手元にある肥後国衆一揆の資料で城久基が三千町歩の領地を秀吉の九州仕置きで八百町歩に削られたとされますから、三万石の領地を八千石に削られた計算になります。って、誰の事か分からないでしょ?(爆)
 
 人名は気にしないでください。わりかし有名人で書いた方が分かりやすいので明智光秀にしますかね。
 
 光秀が初めて織田信長に仕官した時与えられたのが二千貫(だったと思う)でしたから、石高でいうと二千石与えられた計算になります。浪人身分からいきなり二千石ですから破格の優遇だったみたいですね。

北方アジア、遊牧民の興亡

 最近私が中世から近世にかけての遊牧国家の歴史にはまっているのはなんとなく想像できるでしょう。一般受けは全くしないと思いますが(汗)、熱意が冷めないうちにモンゴル高原を中心とした北方アジアの遊牧国家の歴史を纏めておこうと思った次第です。読者の皆様は、あまり興味を覚えられないと思いますのでスルーしてくださいな(笑)。
 
 
 高校世界史などを学んでいると、明朝が成立した時元朝の勢力がモンゴル高原に逃げて何となく滅んだような印象を持たれた方が多いと思います。
 
 これは中国中心の歴史観の弊害で、モンゴル人にとっては割の良い植民地(中国本土のこと)を奪われてもとの本拠地に帰っただけにすぎませんでした。
 
 ただ、明朝側は再びモンゴル勢力が力を盛り返し南下するのを恐れるあまり何度となく討伐軍をモンゴル高原に差し向けました。永楽帝のモンゴル遠征は5次に渡って繰り広げられましたが結局モンゴル側に決定的な打撃を与えることなく失敗に終わりました。
 
 ただ1388年、明将藍玉に破れた北元の皇帝トクズ・ティムール・ハーンを、かつてフビライと大汗位を争って敗れた弟アリクブカの子孫であるイェスデルが暗殺し、大汗位を簒奪したためモンゴル勢力の復活は一時頓挫しました。
 
 イェスデルは、昔チンギス汗に敗れ服従しつつも潜在的には敵国であった外様のオイラート部、ケレイト部、ナイマン部、バルグド部の支持を集めます。これをオイラート部族連合と呼びます。一方チンギス汗→フビライ汗の血筋をひくフビライ家の子孫(大元皇帝の子孫)を正統とする部族は、モンゴル人と呼ばれました。
 
 明代の資料では、モンゴルの事を韃靼(タタール)と蔑称で呼んだため混乱しますが、要するに今のモンゴル人の先祖たちです。
 
 
 明代初期には、モンゴルとオイラートの抗争でとても南下どころではなかったので歴代明朝皇帝は安泰でした。しかし、オイラート部族にエセン・ハーン(?~1454年)という英傑が登場します。
 
 
 エセンは、モンゴル部族との抗争に勝ち久しぶりにモンゴル高原を統一しました。さらに東トルキスタン、西トルキスタンにも進出し元朝以後では最大の勢力圏を築きました。
 
 最初エセンは、大国明とは事を構えない方針でした。しかし朝貢貿易で3千人もの大使節団を送り込んだため明側は困惑します。というのも朝貢貿易は相手側より多くの贈り物をしないといけないため明側の大赤字になるからです。たまりかねた明は、オイラートとの貿易を制限します。
 
 怒ったエセン・ハーンは、ついに挙兵し1449年7月明の長城を越え山西省大同に侵入しました。慌てた明側は、数十万の軍勢を集めこれを防ぎますが各地で敗退を重ねます。そればかりかオイラートを侮り親征してきた時の皇帝英宗正統帝が近衛軍と共に土木堡というところでオイラート軍の捕虜になるという大失態まで演じました(土木の変)。
 
 
 パニックに陥った明朝政府ですが、この時は兵部侍郎于謙という者が北京死守を強硬に主張し英宗の弟を急きょ皇帝に立て(景宗)、必死の防戦でオイラート軍の攻撃を防ぎ切りました。
 
 エセン・ハーンは困り果て、和議に応じ英宗を明側に送り返します。ひとまず事なきを得た明側ですが、前皇帝英宗と現皇帝景宗との関係はぎくしゃくしていました。英宗は、皇帝位を弟に奪われたのが不満で(自業自得ではありますがDQNは自己反省はしないので…)、クーデターを起こし病床についていた弟から皇位を奪還し再び皇帝に返り咲きました。
 
 英宗は皇帝になると、明の救世主于謙などの功臣を粛清するなどその統治は乱脈を極めました。明朝は以後衰退の道を歩み始めます。
 
 一方、オイラートですがエセン・ハーンの死後勢力を盛り返したモンゴル部との抗争が再燃したため南下どころではなくなりました。それが結果的に明朝を生き長らせる事になりました。
 
 
 モンゴル高原の主導権争いは、モンゴル部にダヤン・ハーンが登場するとモンゴル側優位に傾き始めます。ダヤンは自分の11人の息子たちを支配下の各部族に入り婿として送り込みました。各部族を左翼と右翼に分け、左翼をチャハル部、右翼をオルドス部に支配させました。
 
 1524年、ダヤン・ハーンが死去するとモンゴルは一時混乱しますがダヤンの孫アルタン・ハーンが即位すると再び強勢となります。連年のように明に侵入し、一時は北京を包囲するほどでした。
 
 明の隆慶帝はアルタンとの和平に応じ、1571年講和が成立します。莫大な朝貢貿易の利益をモンゴル部に与える事にはなりましたが、明は軍事負担が減ったためトータルでは楽になりました。
 
 
 一方、モンゴルではアルタンの死後再び分裂し各部族が互いに抗争するようになります。明の脅威はひとまず去りました。しかし満洲の地には女直族のヌルハチが興ろうとしていました。明にとって北慮はモンゴルから、ヌルハチの興した後金に移っただけでした。
 
 モンゴル部族でアルタン・ハーン以後チャハル部のリンダン・ハーンが一時強大化した事は前記事で書きました。
 
 しかし結局、後金の後身である清朝に敗れモンゴル高原は女直(=満洲)族の支配下に置かれます。ところでモンゴル族との抗争に敗れ一時逼塞していたオイラート部族はどうなっていたでしょうか?
 
 実は彼らは、モンゴル高原に次ぐ遊牧の適地であるジュンガル盆地に拠点を移しジュンガル部を名乗っていました。ジュンガル部は、1623年モンゴルの支配を覆しその宗主権から脱します。
 
 1671年、ジュンガル部にガルダン・ハーン(在位1671年~1697年)という英主が登場しました。チベットのダライ・ラマの宗教勢力と結びついたガルダンは各地に攻伐を繰り返しモンゴル高原から東西トルキスタンにまたがる大帝国を築き上げました。歴史上これが最後の遊牧帝国といわれます。
 
 
 しかし隣国清には、康熙帝が即位していました。両雄並び立たず、ガルダンと康熙帝は支配下部族の帰属をめぐって次第に対立を深めます。
 
 そんな中、ガルダンの甥ツェワンラブタンが反乱をおこします。その鎮圧に手間取っているのを見た康熙帝は、1696年自ら大軍を率い全軍を東路、西路、中路の三軍にわけジュンガル領に侵入しました。
 
 皇帝直率の中路軍はガルダンの主力軍捕捉に失敗しますが、西路軍が退却するガルダンの主力軍をテレルジで捕捉して大勝利を上げたという報告を受けました。これをジョーン・モドの戦いと呼びます。狂喜した康熙帝は天に向かって感謝をささげたと伝えられます。
 
 一方敗れたガルダンですが、夜の闇にまぎれてアルタイ山脈方面に逃亡、翌1697年病死したと伝えられます。
 
 
 ジュンガル部は英主の死去で衰退し、康熙帝の孫乾隆帝時代の1755年再び皇帝の親征を受け滅ぼされました。
 
 
 こうして最後の遊牧帝国といわれるジュンガル部は滅亡します。以後このような広域を支配する遊牧国家は登場しませんでした。

ロシア帝国の中央アジア侵略  ウズベク3ハン国滅亡余話

 前記事で、ウズベク3ハン国滅亡の話があっさりしすぎていたと自己反省したもので(汗)、新たに本棚を探して参考文献を発見しました。
 
 「世界の歴史5 西域とイスラム」(岩村忍著 中公文庫)より、中央アジアとロシアの関わりを見て行きましょう。
 
 ロシアがこの地域に目を付けたのは17世紀中ごろだといわれています。当初はコサックを東方進出の尖兵として送り込みました。しかしまだこの当時は先込めのマスケット銃装備ですからまだまだ遊牧民族の騎兵のほうが強力でした。
 
 ヒヴァ・ハン国に侵入したコサック軍は逆襲に遭い全滅しました。コサックは仕方なく中央アジアをスルーして東へ東へと向かいます。1661年にはバイカル湖畔のイルクーツクまで達したそうです。
 
 ピョートル大帝(在位1682年~1725年)が即位するとロシアの東方進出に拍車がかかります。1714年大帝はトルコ系でコーカサス地方の族長であったダウルト・ギレーイをベコーヴィチ・チェルカツスキーと改名させ、それに4千の軍隊を授けます。
 
 名目上ブハラ・インドへの通商路を開くという理由でしたが、ヒヴァの人々は信用しませんでした。通商に4千もの軍隊は必要ないからです。ヒヴァ・ハン国は近代的装備のロシア軍と正面からぶつかっても勝ち目がないと悟り表面上服従しながら反撃の機会を待ちます。そしてロシア軍を奇襲しこれも撃滅しました。
 
 
 これで直接侵略は一時中断しました。しかしロシアは草原地帯で着実に地歩を固める政策に転換し植民を進めます。ロシアの領土に対する執着と粘り強さには驚くばかりですが、1865年ついにロシアはアラル海に達し要地に要塞を建設するようになりました。
 
 西トルキスタンの君公たちはロシアの脅威を目の当たりに感じ、ブハラ・ハン国のムザッファール・エッツディン・ハーンを盟主として同盟を結び共同してロシアの侵略に当たることにしました。
 
 ムザッファール・エッツディンはジハード(聖戦)を唱え、かれのもとに4万の騎兵が集結したといいます。一方ロシアも西トルキスタンの情勢に危機感を感じ、オレンブルク総督チェルナイエフのもとで歩兵14個中隊、コサック騎兵6集団、大砲16門(兵力数で5千ほどか?)を集めます。
 
 ロシア本国政府は、兵力の劣勢に不安を感じ新たにロマノフスキー将軍をオレンブルク総督に任命し増援を送り込みました。それでも総兵力は1万には満たなかったと思います。
 
 イスラム軍の兵力は歩兵5千、騎兵3万5千、旧式大砲2門でした。
 
 
 両軍は1866年5月ザラフシャン山脈北麓コージェントとジザークの中間でぶつかります。しかし近代装備のロシア軍は火力でイスラム軍を圧倒、撃破します。ロシア軍は敗走するイスラム軍を追ってコージェント城に入城しました。翌1867年までにザラフシャン盆地、シル川流域をほぼ占領します。
 
 ソ連軍の満洲侵攻を考えると、野蛮なロシア人の事ですからこの時も各地で略奪暴行強姦殺人の限りを尽くしただろうことは容易に想像できます。
 
 1867年、ロシア総督はカウフマン将軍に交替しました。カウフマンはイスラム側へ天文学的な賠償金を要求し、それが拒否されると待ってましたとばかり侵攻を開始しました。堂に入った侵略の芸でした。
 
 カウフマンは、ブハラの要衝サマルカンド占領を策し3600の兵を率い行動を開始します。このときもブハラ軍は4万に騎兵を集め抵抗したそうですがザラフシャン川の戦いでまたも敗北しました。
 
 ロシア軍がサマルカンドに達すると意外にも市民は城門を開いて出迎えます。しかしこれは弱者であるブハラ側の計略でした。カウフマンが若干の守備兵を残して転戦するとサマルカンド市民はイスラム軍を迎え入れ残ったロシア軍を奇襲します。部下が殺された事に怒ったカウフマンは直ちに軍を返しサマルカンドに攻め込みました。この時多くの市民が虐殺されたそうです。
 
 ロシア軍は、寛大にもムザッファール・エッツディンの命を奪おうとはしませんでした。むしろ傀儡としてブハラを間接支配する事を目論んだのです。ブハラ国民はロシアの狡猾な意図を見抜きムザッファールの息子カティ・トゥラを奉じて反乱を起こしました。
 
 
 しかし近代装備のロシア軍に敵う訳もなく、反乱はまもなく鎮圧。捕えられたカティ・トゥラは父ムザッファールのもとへ送られロシア軍の命令で処刑されてしまいます。
 
 
 こうしてだいたい1870年代までに西トルキスタンの組織的抵抗は終わりました。あとは兵力が費え孤立したウズベク3ハン国を各個撃破で滅ぼすだけです。最後のヒヴァ・ハン国が滅ぼされたのは1873年。
 
 
 以後中央アジアは、ロシア帝国の圧政に苦しめられる事となります。そして現在も解放されたとは言えません。ロシアの軛はどこまで続くのでしょうか?独立したとはいえ未だにロシアの影響下のままです。アラブの春がこの地に訪れる事を願ってやみません。それは中国共産党に占領されたチベットやウイグルの人たちにも言えますが…。

遊牧国家はいつ滅亡したか? ウズベク3ハン国の滅亡

 前記事でモンゴル高原の興亡を描いて以来遊牧国家に対する興味が尽きません。かつてチンギス汗のもとで欧亜にまたがる大帝国を築いたモンゴル民族。スキタイに始まり最後の遊牧帝国と呼ばれたジュンガル部まで、遊牧民族は世界史の主役ではないにしても、常に重要な役割を果たしてきました。
 
 では、最後の遊牧国家はいつ滅びたのか非常に興味を覚えたのが本記事を書いた理由です。
 
 高校世界史で皆さまが(私を含めて)おぼろげながら覚えているのは、ロシア帝国に滅ぼされたブハラ・ヒヴァ・コーカンドの三国でしょう。これらはウズベク3ハン国と呼ぶそうです。
 
 
 ウズベク族は、キプチャク汗国(ジュチ・ウルス)の子孫で、支配下の遊牧民をイスラム教に改宗させたウズベク汗に由来するそうです。
 
 後にムガール帝国を建国するバーブルをその故郷のサマルカンドから叩き出したシャイバーニー・ハーンのシャイバーニー朝もウズベク族の王朝。ちなみに、シャイバーニー・ハーンはイラン高原に興ったサファビー朝の創始者シャー・イスマイル1世と戦い1510年敗死しています。シャイバーニーは首を斬られその頭蓋骨は金箔を塗られて杯になったそうです。どこかで聞いた話だな(苦笑)。
 
 この我々から見ると気持ち悪い風習は遊牧民族の間ではよくある事だったそうです。イランももともとは遊牧民族ですから。
 
 
 ウズベク族とは最初モンゴル族ジュチの子孫とその配下を指しましたが、支配下のイスラム化したトルコ系遊牧民全体を指すようになります。
 
 最初に、ウズベク3国の由来を見て見ましょう。
 
◇ヒヴァ・ハン国…シャイバーニー朝の一族、アラブ・シャーが建国。アラル海周辺が領土。
 
◇ブハラ・ハン国…1557年シャイバーニ朝イスカンダル・ハーンが都をブハラに移した後ブハラ・ハン国と呼ぶ。
 
◇コーカンド・ハン国…3ハン国では一番東に位置する。フェルガナ盆地が中心。ウズベク族ではあるが君主はチンギス汗の血をひかないミング部族から出ている。
 
 
 これらはロシア帝国の東方侵略にともない次々と征服されていきました。それも19世紀といいますから近世の出来事です。
 
 鉄砲の普及前圧倒的力を持っていた遊牧民族の騎兵ですが、ライフルと大砲で武装する西欧列強の軍隊とは相手にならないほど力が隔絶していたのです。
 
 ロシア帝国の侵略は、大英帝国との中央アジアを巡る植民地戦争所謂グレートゲームの過程で起こりました。
 
 最初に餌食になったのは意外にも最も東に位置するコーカンド・ハン国でした。一時清国を圧迫するほど強大化したコーカンドでしたが、国内のキルギス人、カザフ人の反乱が絶えず国力が衰え隣国ブハラの傀儡国家になって弱体化していた所にロシアが目を付けたのでしょう。
 
 コーカンドはイスラムの盟主であるオスマン帝国や、インドからアフガニスタンを窺っていた大英帝国と結んでロシアと対抗しようとしましたがロシアの近代的軍隊に完敗、1868年ロシアと保護条約を結び属国とされます。1876年にはロシア軍がコーカンドに入城、これを滅ぼしました。
 
 同じ1868年、ロシア軍はブハラ・ハン国の重要都市サマルカンドを占領します。続いてロシア軍はブハラ全土に侵攻、これでブハラも滅亡しました。
 
 最後まで残ったヒヴァでしたが、その運命は極まっていました。1873年ついに力尽きロシアの保護国に転落、遊牧国家の歴史に幕を閉じたのです。
 
 
 かつて欧亜にまたがる大帝国を築き上げた遊牧国家の末路は哀れを誘いますね。しかも滅ぼしたのは昔モンゴル帝国によって征服され属国にされていたロシア人ですから。それにしてもライフルの発達には改めて驚かされます。
 
 先込めのマスケット銃だったら、次弾装填の間に騎兵が殺到するチャンスもあったと思いますが、この頃には元込め銃が主流になっていましたから速射性で騎兵の突撃を防ぐ事ができましたし、一部にはより近代的なボルトアクションライフル(ドライゼ銃は1836年)さえ登場していました。もし接近できても白兵戦も銃剣があるため騎兵の優位は保てません。
 
 ロシア軍は、方陣をいくつも作りライフルの射程内に収めて互いをカバーし合ったため遊牧民の騎馬軍団は付け入る隙がなかったそうですよ。

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