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2012年7月 3日 (火)

ロシア帝国の中央アジア侵略  ウズベク3ハン国滅亡余話

 前記事で、ウズベク3ハン国滅亡の話があっさりしすぎていたと自己反省したもので(汗)、新たに本棚を探して参考文献を発見しました。
 
 「世界の歴史5 西域とイスラム」(岩村忍著 中公文庫)より、中央アジアとロシアの関わりを見て行きましょう。
 
 ロシアがこの地域に目を付けたのは17世紀中ごろだといわれています。当初はコサックを東方進出の尖兵として送り込みました。しかしまだこの当時は先込めのマスケット銃装備ですからまだまだ遊牧民族の騎兵のほうが強力でした。
 
 ヒヴァ・ハン国に侵入したコサック軍は逆襲に遭い全滅しました。コサックは仕方なく中央アジアをスルーして東へ東へと向かいます。1661年にはバイカル湖畔のイルクーツクまで達したそうです。
 
 ピョートル大帝(在位1682年~1725年)が即位するとロシアの東方進出に拍車がかかります。1714年大帝はトルコ系でコーカサス地方の族長であったダウルト・ギレーイをベコーヴィチ・チェルカツスキーと改名させ、それに4千の軍隊を授けます。
 
 名目上ブハラ・インドへの通商路を開くという理由でしたが、ヒヴァの人々は信用しませんでした。通商に4千もの軍隊は必要ないからです。ヒヴァ・ハン国は近代的装備のロシア軍と正面からぶつかっても勝ち目がないと悟り表面上服従しながら反撃の機会を待ちます。そしてロシア軍を奇襲しこれも撃滅しました。
 
 
 これで直接侵略は一時中断しました。しかしロシアは草原地帯で着実に地歩を固める政策に転換し植民を進めます。ロシアの領土に対する執着と粘り強さには驚くばかりですが、1865年ついにロシアはアラル海に達し要地に要塞を建設するようになりました。
 
 西トルキスタンの君公たちはロシアの脅威を目の当たりに感じ、ブハラ・ハン国のムザッファール・エッツディン・ハーンを盟主として同盟を結び共同してロシアの侵略に当たることにしました。
 
 ムザッファール・エッツディンはジハード(聖戦)を唱え、かれのもとに4万の騎兵が集結したといいます。一方ロシアも西トルキスタンの情勢に危機感を感じ、オレンブルク総督チェルナイエフのもとで歩兵14個中隊、コサック騎兵6集団、大砲16門(兵力数で5千ほどか?)を集めます。
 
 ロシア本国政府は、兵力の劣勢に不安を感じ新たにロマノフスキー将軍をオレンブルク総督に任命し増援を送り込みました。それでも総兵力は1万には満たなかったと思います。
 
 イスラム軍の兵力は歩兵5千、騎兵3万5千、旧式大砲2門でした。
 
 
 両軍は1866年5月ザラフシャン山脈北麓コージェントとジザークの中間でぶつかります。しかし近代装備のロシア軍は火力でイスラム軍を圧倒、撃破します。ロシア軍は敗走するイスラム軍を追ってコージェント城に入城しました。翌1867年までにザラフシャン盆地、シル川流域をほぼ占領します。
 
 ソ連軍の満洲侵攻を考えると、野蛮なロシア人の事ですからこの時も各地で略奪暴行強姦殺人の限りを尽くしただろうことは容易に想像できます。
 
 1867年、ロシア総督はカウフマン将軍に交替しました。カウフマンはイスラム側へ天文学的な賠償金を要求し、それが拒否されると待ってましたとばかり侵攻を開始しました。堂に入った侵略の芸でした。
 
 カウフマンは、ブハラの要衝サマルカンド占領を策し3600の兵を率い行動を開始します。このときもブハラ軍は4万に騎兵を集め抵抗したそうですがザラフシャン川の戦いでまたも敗北しました。
 
 ロシア軍がサマルカンドに達すると意外にも市民は城門を開いて出迎えます。しかしこれは弱者であるブハラ側の計略でした。カウフマンが若干の守備兵を残して転戦するとサマルカンド市民はイスラム軍を迎え入れ残ったロシア軍を奇襲します。部下が殺された事に怒ったカウフマンは直ちに軍を返しサマルカンドに攻め込みました。この時多くの市民が虐殺されたそうです。
 
 ロシア軍は、寛大にもムザッファール・エッツディンの命を奪おうとはしませんでした。むしろ傀儡としてブハラを間接支配する事を目論んだのです。ブハラ国民はロシアの狡猾な意図を見抜きムザッファールの息子カティ・トゥラを奉じて反乱を起こしました。
 
 
 しかし近代装備のロシア軍に敵う訳もなく、反乱はまもなく鎮圧。捕えられたカティ・トゥラは父ムザッファールのもとへ送られロシア軍の命令で処刑されてしまいます。
 
 
 こうしてだいたい1870年代までに西トルキスタンの組織的抵抗は終わりました。あとは兵力が費え孤立したウズベク3ハン国を各個撃破で滅ぼすだけです。最後のヒヴァ・ハン国が滅ぼされたのは1873年。
 
 
 以後中央アジアは、ロシア帝国の圧政に苦しめられる事となります。そして現在も解放されたとは言えません。ロシアの軛はどこまで続くのでしょうか?独立したとはいえ未だにロシアの影響下のままです。アラブの春がこの地に訪れる事を願ってやみません。それは中国共産党に占領されたチベットやウイグルの人たちにも言えますが…。

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