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2012年8月

2012年8月 2日 (木)

中独合作と浸透戦術

 1912年中華民国成立後、蒋介石の国民政府は1920年終わりころから急速にドイツに接近し大量のドイツ製兵器を輸入しドイツの軍事顧問団を受け入れていた事は戦史に詳しい方は御存じでしょう。歴史上これを中独合作と呼びます。
 
 1933年、ドイツの元参謀総長フォン・ゼークトが軍事顧問団長に就任すると、蒋介石はゼークトに国民政府軍(以後国府軍と略)の訓練を一任しドイツ式の軍隊建設を目指しました。
 
 もともと蒋介石の国民党軍といえど軍閥の一つで、とても近代軍とは言えませんでした。しかしゼークトはこれを兵站組織をもつ近代軍に改編します。軍閥の兵は正面装備はともかくまともな兵站組織をもたないため正規軍とぶつかるとひとたまりもありませんでしたから。
 
 その証拠に満州事変でも張学良の軍隊は日本軍のわずか1個師団強の兵力に押しまくられ完敗しました。
 
 ゼークトは日本を第一の主敵とし他国とは親善関係を結ぶ事を進言します。蒋介石のドイツ盲信は当時でも有名でしたから、日中の激突はすでに想定されていたのかもしれません。
 
 1937年に勃発した支那事変は、戦後中共と結託した左翼歴史家の手で日本の侵略と決めつけられていますが、経過を見ると公平に見て蒋介石側に100%とは言えなくてもかなりの責任があったと見て間違いないでしょう。
 
 盧溝橋事件が偶発的、あるいは意図的に始まったにしてもこれを支那大陸全土に拡大したのは間違いなく蒋介石による第2次上海事変(1937年8月13日~)からでした。
 
 ゼークトは、わずか帝国海軍上海特別陸戦隊1個(2個大隊基幹、2000名)が守る上海奇襲攻撃を進言します。もし蒋介石に戦争する気持ちがなければこれを拒否する事もできたはず。それをしなかった以上彼も日本との戦争の意思があったと思います。
 
 ゼークトはそのために入念な準備を行います。上海の周辺にトーチカ陣地を中心とする複郭陣地帯(ゼークトライン)を構築、ここを起点にして出撃し陸戦隊を包囲殲滅、日本の当時の動員力から大陸に派遣できる兵力を数十万と試算、一方300万動員できる国府軍を使って陣地帯に日本軍を誘引、消耗を誘うという作戦案でした。
 
 日本は欧州の激しい市民戦争を経験していませんから、数十万単位の戦死者を出せば世論が騒ぎ出し有利な条件で講和できると踏んだのです。第1次大戦で数十万単位の戦死者をだしても市民に戦争反対の世論が起こらずむしろ抗戦意欲が増したドイツやフランスのような国民性と日本人は違うという鋭い分析でした。
 
 たしかに今の日本の国民性を見る限り、国家防衛の義務を市民が負うという意識が先天的に希薄だと感じます。第2次大戦後独伊は連合軍が押し付けた憲法をさっさと反故にし再軍備をはたしまともな国になったのに、日本は後生大事に占領憲法を護持し独立国家としてあるまじき歪な安全保障意識しかなく周辺諸国に舐められているではありませんか!
 
 明治の一時期だけが日本史上特異な時期で、基本的に日本国民は戦争は他人がするもの、自分はその利得を得るだけという町人根性が骨の髄まで染みついていると断ぜざるを得ません。
 
 
 第1次上海事変の停戦協定で「ここに陣地を設けてはならない」と定められた中立地帯に国府軍はどんどんトーチカを設置します。国際条約も何もあったものではないばかりか、あきらかに侵略の意図を持っていたのは蒋介石の国府軍でした。
 
 一説では上海周辺に建設された国府軍のトーチカは2万基にも及んでいたそうです。支那事変における日本軍の泥縄式戦争指導が糾弾されますが、その前に蒋介石の侵略の意図を冷静に分析しなければいけません。
 
 しかし戦闘が始まると日本の海軍上海特別陸戦隊は頑強に抵抗します。日本は国府軍の攻勢に驚き不拡大方針を撤廃、8月15日第3師団と第11師団に動員命令を下し、上海派遣軍を編成します。
 
 海軍航空隊も渡洋爆撃を開始し、上海上空の制空権を確保し反撃に備えました。
 
 一方国府軍は最初に攻撃を開始した第87師、88師に15、36、118の3個師団を加え7万の兵力に増強されます。日本軍は佐世保・呉・横須賀の陸戦隊を急派し6300名ほどが当座の兵力でした。
 
 苦戦を続ける日本軍でしたが、8月23日ようやく陸軍の2個師団が上海に上陸、次第に国府軍を押し返し始めます。
 
 ここまではゼークトの作戦通りでした。あとは強固な複郭陣地帯に日本軍を誘引、多大な出血を強いればよいだけです。
 
 このために国府軍は最精鋭部隊を上海戦線に集結させていました。当時参戦していた日本軍将兵は「今度の支那兵はなかなか歯ごたえがあるな」と感じていたそうですが、実際国府軍最強部隊を相手にしていたのです。
 
 時間が経てば経つほど日本軍は敵の術中にはまり犠牲が大きくなるばかりでした。しかし上海派遣軍司令官松井石根大将はある戦術を採用し敵陣地突破を図ります。
 
 勘の良い方なら分かると思いますが、その戦法こそ浸透戦術と呼ばれるものでした。
 
 それまでの陸戦戦術は、部隊単位で行動し突撃移動を行っていました。しかし第1次大戦で機関銃が猛威をふるい始めると集団での行動はいたずらに犠牲を増すばかりだと悟り、部隊を少数に分割し広く散会して攻撃をする戦術が採られます。
 
 5~6名の分隊単位に分割し、各分隊長には作戦目標を大まかに示しそれぞれの判断で臨機応変に攻撃させることにしました。強固な陣地帯といっても人間がする事ですから中には弱点があります。そこを発見し分隊単位で浸透して戦線を突破後方に回る事(多方面同時突破)で大まかな包囲を完成させるのが浸透戦術と呼ばれるものでした。
 
 浸透戦術は下士官の質が一番ものをいいます。日本軍はその点優秀な下士官が多かったそうですから浸透戦術を採用するにも有利だったのでしょう。
 
 一方、ゼークトは浸透戦術などという欧米で主流になりつつあった高級な戦術を日本軍が取れるはずがないと舐めていました。自分達が相手をしている支那人のレベルを見て日本人の能力を低く見積もっていたに違いありません。
 
 しかし、日本軍はやりました。上海から南京にかけて国府軍は75万もの大軍を集結させていたといいます。それを杭州湾に上陸させた増援部隊も含めてわずか7個師団半20万の日本軍が破ったのですからこれは偉業でしょう。
 
 第2次上海事変は浸透戦術によって寡兵が大軍を破った戦例として有名になります。
 
 
 これまで日本の戦争を思想的フィルターを通してしか見ない歪んだ左翼史観がはびこっていましたが、戦史を公平な目で準軍事的に考察する時期が来ているんじゃないでしょうか?日本が再生するためにも…。
 

城久基 領地関係(九州仕置後)

 この記事は資料保存用ですので内緒記事にします。という事で詳しい説明も省きます。
(※ヤフー本ブログでは内緒にしましたが、こちらは時間もたっている事と読者もそれほどいないだろうという事で公開記事にしました)
 
 先日、城久基が秀吉の九州仕置後安堵された八百町歩の領地がどこだっかを調査するため山鹿市鹿本図書館に行ってきました。古文書関係の閲覧はできそうもなかったので、「山鹿市史」「鹿央町史」「菊鹿町史」の該当箇所と別巻の資料集を調査しました。
 
 
※結論から言うと、分かりませんでした。
 
①城氏の元々の領地が飽田郡、託摩郡を中心に三千町歩(主城は隈本城)だった事は確認。
 
②秀吉の本領安堵の朱印状によって隈本城は召し上げられたものの旧領のうち八百町歩を安堵される。
 
③そのうちどの領地を安堵するかは国主の佐々成政から別途書状を与えるという内容。
 
④肝心の佐々からの書状を未確認!
 
⑤ただ城氏の元々の領地は山鹿郡城村城を中心に山本郡まで広がっていた。
 
⑥城親冬(久基祖父)の隠棲地が山鹿市鹿央町広の徳栄寺であったことから、寺のあった場所を含む山本郡内で八百町歩を安堵されたと推定。
 
⑦久基は肥後国衆一揆後の戦後処理で筑後石垣山(久留米市田主丸町)へ国替え。
 
 
 現在のところはここまででした。

今川了俊の肥後侵攻

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 今回の調査で最大の収穫はこれでした(笑)。
 
 今川了俊肥後侵攻の詳細です。ちなみに彼を知らない人のために…
 
今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝室町時代武将守護大名室町幕府九州探題遠江駿河半国守護。九州探題赴任中は備後安芸筑前筑後豊前肥前肥後日向大隅薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。】(ウィキペディアより)
 
 
 了俊は足利幕府の九州探題として九州の南朝勢力を滅ぼし一時強大な力を得ますが、時の将軍足利義満に警戒され探題職を解任、最後は駿河で失意の晩年を送った人物です。
 
 了俊の絶頂期ともいうべき九州南朝勢力最後の牙城、肥後をどのようにして攻略したか?その詳細が分かりましたので記事にして残しておくことにしました。ちなみに北朝年号と南朝年号があって混乱しますので、西暦で表記します。
 
 
 了俊の肥後侵攻は大きく分けて二段階あります。最初の侵攻は菊池氏の本拠隈府城を目前にした水島陣で頓挫。第2次侵攻では託摩原の敗戦はあったものの、最終的に南朝勢力を肥後南部八代の古麓城に追い詰めついに九州平定をはたします。
 
 
◇第1次侵攻
 
1374年11月 大津山関(南関)着陣 
 
1374年12月 目野原進出。ちなみ目野原は岩原から堂米野、姫井に至る米野山麓一帯を指していたようです。         今川軍はここを策源地にして周囲を平定。
         同月、了俊嫡男義範、弟仲秋が豊後勢、肥前勢を率い岩原着陣。
 
1375年4月 山鹿日岡(山鹿市鹿本町石の風車公園あたりか?)に布陣。台(うてな)城に籠った菊池軍と対陣。
 
1375年5月? 日岡表(水島?)で菊池勢と合戦。勝負はつかず。
 
1375年7月 今川軍、内田川を渡河し水島に布陣。台城包囲戦。
 
1375年8月26日 了俊、少弐冬資謀殺。これにより九州諸将の反発を買い水島陣崩壊。
 
1375年9月 了俊、水島を撤退。
 
1375年10月 筑後瀬高、蒲池、酒見を経て肥前杵島郡塚崎に至る。第1次侵攻失敗。
 
 
◇第2次侵攻
 
1377年1月 肥前千布、蜷内(になうち)合戦で菊池武安(菊池肥前家・菊池氏の肥前・筑後司令官)を破る。
 
1377年春? 筑後川渡河、肥後北部山鹿志々木原に着陣。
 
1377年7月 白木原合戦(玉名郡臼間野荘内、現玉名市から南関町に至る一帯だと推定)
        郡内各地で南朝方と合戦し、かなりの長期戦になった模様。最終的に今川軍の勝利に終わる。
 
1378年9月20日~29日 託摩原(たくまばる・熊本市東部)合戦。今川軍、菊池武朝に敗北。肥後攻略、一時頓                挫す。
 
1379年7月 了俊、平鹿倉城(玉名郡内?)攻略、前原(菊水町)に陣を移す。
 
1379年7月12日 伊倉、高瀬攻略。これでやっと海路からの補給が可能になる。
           6月から8月にかけて南朝方と玉名郡内で合戦とあるので完全平定までは至らなかった模様。
 
1379年8月14日 山本郡平尾城(植木町)入城。
 
1379年8月18日 合志郡板井城攻略、本陣を移す。
 
1379年8月~9月 菊池氏の重臣赤星氏の本拠木野を攻撃。史料では木野とあるが赤星、深川のあたりか?
 
1381年4月 木野城落城
 
1381年5月12日 深川城落城
 
1381年5月23日 染土城落城(懐良親王居所)
 
1381年6月22日 了俊、隈府(守山)城攻略。菊池氏、宇土から八代に退去。
 
1383年4月30日 懐良親王死去。
 
1383年9月   了俊、益城の飯田山、吉野山に布陣。
 
1386年秋    了俊、川尻・宇土攻略
 
1391年9月   了俊、八代古麓城攻略。良成親王、名和顕興降伏。菊池武朝は行方をくらます。
          日向米良へ逃亡か?
 
 
 今川了俊が肥後を平定して九州南朝を滅ぼしたのは南北朝合一(1392年)の一年前でした。

古代官道と三長者伝説

 これも資料保存用の記事ですので面白くありません。
 
 肥後北部、菊池川流域に伝わる三長者伝説。下流(西)から玉名の疋野(ひきの)長者伝説、鹿央町の駄ノ原(だのはる)長者伝説、菊鹿町の米原(よなばる)長者伝説。
 
 疋野長者が小岱山麓の製鉄によって財を成し、米原長者が米原台地を中心とする米生産によって財を成したとするなら、国道3号線沿いから山鹿市鹿央町全域植木町にいたる広大な地域を支配したとされる駄の原長者の財は何によってなされたのでしょう?
 
 玉名市史では、古代官道が現在の3号線に沿う形で平行に走っていたことから、馬借などの流通を支配する事で財を成したのではないかと推理しています。さらに、これらの地域は平安時代末期から鎌倉にかけて菊池盆地から菊池川沿いに西進してきた菊池氏勢力と何らかの関連があるのではないか?とまで言及しているのです。
 
 流石に私はそこまで断定はできません。最終的に米生産地、官道の流通支配、小岱山の鉄資源を菊池氏が握ったにしても、最初は別個に発展したはずです。
 
 疋野長者は、平安時代までつづいた玉名郡司日置氏を指すという事は有力視されていますし、駄の原、米原ももともとはその土地の支配者(古代豪族?)の伝承が変質したものだと考えます。
 
 古代豪族鞠智(くくち)氏の後裔とも目される菊池氏は、大宰府官人という特権的地位を利用してこれら三長者勢力を吸収し、拡大したのではないでしょうか?
 

高瀬津と伊倉津

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 これも図書館通いの副産物で、資料保存用の記事ですので面白くありません。
 
 中世肥後北部には高瀬津(地図でいうと玉名市役所の東、高瀬川と菊池川にはさまれた地域)と伊倉津(地図右下、本堂山緑地の岬を中心に周囲の入江までも含む)という二大貿易港があったとされます。
 
 調べていくとこれらの港は古代豪族で玉名郡司だった日置氏が整備したのだそうです。
 
 伊倉津も高瀬津も今ではすっかり内陸になっています。というのも加藤清正時代干拓を大規模に行い菊池川の川道を変えているからです。古代の菊池川は西に湾曲せず伊倉方面に流れていたといわれます。
 
 伊倉津は丹倍津(にべつ)とも呼ばれ三韓時代といいますから古墳時代には存在していました。肥後から海外に出て行く貿易港であり近畿地方への海路の出発港でもあったそうです。
 
 一方、高瀬津が整備されたのは平安時代だとされます。それまでは大湊という現在のJR玉名駅近辺にあった港が使われていました。
 
 大湊は玉名郡衙(=日置氏)の積み出し港として発展し、その外港的役割が丹倍津(伊倉津)だったようです。
 
 
 しかし有明海は干満の差が激しい遠浅の海で当時海に面していた入江だった大湊では干潮の時船が港内に入れなかったのではないか?といわれています。
 
 ということで菊池川流域で干潮時でも船が接岸しやすい高瀬津が整備されたのだそうです。
 
 玉名市史では、日置氏は平安時代に菊池川沿いに東から進出してきた菊池氏に滅ぼされたのではないかと推理しています。
 
 平安末期、高瀬には菊池庶流の高瀬氏が進出し、その上流石貫地区はこれも庶流の菊池肥前家の領地があったそうなのです。ただし高瀬氏、肥前家の成立は南北朝期なので領地を後に継承したという理解で良いのかもしれません。ほかに江田船山古墳で有名な江田にも菊池庶流が土着し江田氏を名乗っています。
 
 この江田こそ日置氏の本拠地と目されますから、菊池氏の進出=日置氏の滅亡と考えるのが自然だといわれています。
 
 中世、高瀬津と伊倉津を通して菊池氏は海外(主に高麗や宋)貿易を行い潤ったそうですから、その現地代官的役割が菊池一族の高瀬氏だったのでしょう。
 
 玉名市の菊池川以西から岱明町地区まで中世には大野別符という荘園があり、その荘官である紀氏が大野氏を名乗り一円支配していたと思っていましたがすくなくとも東部は菊池氏勢力に合法的に割譲したか横領(の可能性が高い)されていたようですね。
 
もっとも大野氏も菊池氏の被官化していたので無理を言えない事情があったのでしょう。その分海外交易の分け前を貰って我慢していたのかもしれません。
 
 
 
 
 あと、本分には関係ありませんが資料として残しておきたい情報があるので記します。
 
 玉名郡内の荘園関係です。
 
 
 野原荘(荒尾市、長洲町)
 
 大野別符(玉名市中~西部)
 
 安楽寺領玉名荘(小田地区)
 
 伊倉別符(伊倉、横島町)
 
 臼間野荘(南関町)
 
 仁和寺領玉名荘(三加和~菊水町。現和水町の大部分)
 
 郡内はこれら6つの荘園で占められていたそうで、律令制度の崩壊が見て取れますね。おそらく他の地方も大同小異でしょう。
 
 
追加:そのうち大野別符と中村(高瀬氏領分?)の石高 10647石
    伊倉別符石高                       7403石

肥後各郡の石高

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 誰も興味を持つ方はいないと思いますが、貴重な資料として保存するために記事にしました。
 
 実は、年明けから肥後国衆一揆における城氏の所領関係という誰もついてこれない事を調べるために近所の図書館を回っているんです。
 
 その過程で得た副産物ですが、玉名市立図書館の蔵書で発見した貴重な資料をいくつかゲットしました。そのうちの一つがこれです。
 
 おそらくネットを検索しても全国の旧国別石高は載っていても郡単位の石高の資料は皆無であろうと思い載せました(笑)。
 
 肥後国(熊本県)十四郡の郡別検地高(1604年、1608年)です。
 
 
 一見して分かるのは益城郡(ましきぐん)の石高の高さです。1604年の数字でも12万石。これは小国の石高くらいには匹敵します。ほぼ石高=人口なので戦国~江戸期にはすくなくとも現在の熊本市から緑川北岸、内陸の矢部地方までに肥後の人口が集中していた事が分かりますね。
 
 のちに上益城と下益城の二郡に分割されたのも納得です。
 
 
 次に高いのは我らが故郷玉名郡。7万石ですから凄いです。玉名平野の生産力がそれだけ高かったのでしょう。
 
 マイナーな話題になって恐縮ですが、以前の記事で全国平均すると1町歩(面積の単位)=10石(米の生産高の単位)に当たると書きましたが、肥後においてはおそらく15石~20石くらい米の生産量があった印象です。
 
 これだとおなじ3000町歩の領地でも45000石~60000石あった計算になります。指出(さしだし)検地という地方豪族の自己申告による肥後全体の石高34万石との差が20万石!
 
 秀吉の九州仕置において肥後の国主になった佐々成政の検地強行に対して国衆(地方豪族)が一揆をおこすはずですよ。石高で軍役が決まるので国衆にとっては死活問題だったでしょうから。
 
 
 ごく一部の人を除いて反応はないと思いますが、記録として残しておく必要があると思い記事にした次第です。

馬匹牽引と野砲の話

 戦史について語られる中で、日本陸軍は自動車化が進んでいなかったから重い野砲を採用できず砲兵火力では列強中不利であったといわれます。
 
 たしかに改造三八式野砲(1925年より既存の三八式野砲から改修)から、より高性能の九○式野砲にすべてを更新できず、九五式野砲という軽量だという以外は性能で九〇式野砲に大きく劣る野砲を生産せざるを得なかったのもこうした事情があった事は明らかです。
 
 改造三八式野砲1135kg、九〇式野砲1400kg、九五式野砲1108kg。九〇式は当時想定されていた馬6頭輓曳では森林地帯や湿地での機動性に難があるとされ、車両牽引を前提にしたゴムタイヤを付けた機動九〇式野砲になりました。
 
 ただ結局牽引する4トン牽引車の性能も低く、砲自体の生産数も600門前後では話になりません。日本は大東亜戦争を2000門生産された旧式の三八式野砲とその後継の九五式野砲で戦わざるを得なかったのです。
 
 米英ソは生産数でその10倍から100倍、万単位の火砲生産数ですから勝負は戦う前からついていました。日本陸軍が白兵突撃に頼らざるを得なかったのはやむを得ない事情でした。
 
 
 一方牽引する馬自体はどうだったでしょうか?当時の資料を調べているとどうも日本は馬の生産・育成面でも大きく後れをとっていたようです。
 
 農耕民族である日本人は、欧米や遊牧民族と歴史的に関わっていた中国に比べて馬の品種改良に無関心だったらしいのです。遊牧民が優秀な種馬以外の牡馬は去勢し常に馬格改良をしていたのに対し、日本では交雑させた馬の中から優秀な馬を選ぶという方式で、これは一種の品種改悪だったのでは?と指摘されています。
 
 日本人の馬に対する優しさもあるのでしょうが、軍馬として考えた場合これは致命的でした。野砲の牽引云々の話も同じ馬匹牽引前提だったドイツでは寡聞にして聞いた事がありません。ドイツ軍砲兵連隊の主力野砲で馬匹牽引だったleFH18 105㎜軽榴弾砲は「軽」といいながら2040kgもあります。
 
 軍馬の牽引能力でわざわざ性能の低い野砲を選択することなどありえません。
 
 日本がようやくこの事に気付き馬政第一次計画で馬の品種改良を始めたのが1906年。しかし軍馬に限って言えばとても成功したとは思えません。
 
 人間の補給さえままならなかった日本が、人間以上の物資を必要とする軍馬の大量採用を躊躇したのは貧乏であったため仕方なかったとは思います。限られた戦争資源ですから、陸軍は航空機分野にそれを注ぎ、それ以外(戦車・火砲など)はおざなりになったのでしょう。
 
 馬自体も東国では昔から盛んに生産されましたが、西日本は農耕に牛を使っていたそうで国自体の馬の絶対数も少なかったのでしょう。さらに去勢などもしなかったと思います。輸入するにもお金がない!
 
 
 優秀な種馬だけを残して、生産レベルを高めているのは競馬の世界のみ。駄馬は去勢され最後は馬肉になるという悲惨な運命ですから、私たちが能天気に競馬を楽しんでいる裏で馬たちにとっては過酷な状況であるという事を忘れてはなりません。
 
 競馬好きの私が言うのもなんですが、どうも日本はずれているような気がしてならないのです。競馬の世界ではなくまず軍馬の生産でこれをしていれば野砲の馬匹牽引の問題で間違った選択をしなくて済んだはずですから…。

後漢時代の中国大陸の人口

 たまたま後漢代の官制を調べていて、その副産物として当時の州ごとの人口資料が見つかりました。
 
 本当は郡別で載っていて、戸数と人口数があったんですが全部紹介すると煩雑になりすぎるので大きな区分の州別で纏めてみました♪
 
 一般の方にはまったく需要が無いと思いますが、資料保存のために記事にしておきます。
 
 
 ちなみに、漢代の行政区分は大きな方から「州」「郡」「県」となります。
 
 ◇州の長官は刺史(行政権のみ)あるいは牧(軍事権もある)
  ただし首都(洛陽)を含む特別区は司隷校尉(しれいこうい)が統括。
 
 ◇郡の長官は太守
 
 ◇県の長官は県令
 
 
 
 
 それでは州別人口を見ていきましょう♪(四捨五入)
 
◇幽州(ゆうしゅう)…204万
 
◇并州(へいしゅう)…70万
 
◇冀州(きしゅう)…593万
 
◇青州(せいしゅう)…370万
 
◇兗州(えんしゅう)…405万
 
◇徐州(じょしゅう)…280万
 
◇豫州(よしゅう)…618万
 
◇司隷(しれい)…310万
 
◇涼州(りょうしゅう)…42万
 
◇楊州(ようしゅう)…434万
 
◇荊州(けいしゅう)…626万
 
◇益州(えきしゅう)…724万
 
◇交州(こうしゅう)…110万
 
 
 意外だったのは洛陽、長安を含む司隷が310万しかいないこと。そのうち首都洛陽だけで100万ですから人口密度的には高くないみたいです。
 
 豫州は中原の真っただ中だけにさすがに人口が多いですね。曹操が戦乱で荒廃した洛陽を捨てて豫州の許昌(頴川郡許県)に都を移したのも納得できます。
 
 
 一方現在の湖北・湖南省にあたる荊州と四川省にあたる益州の人口の多さ!二つ合わせると1300万を超えます!諸葛亮の天下三分の計は人口にも裏打ちされたものだったんですね。
 
 
 ちなみに三国時代の人口データと違うと思われる三国志ファンの方もおられると思います。
 
 一般には戦乱で人口が激減し後漢代の十分の一になったと説明される事が多いですが、私は中央政府の統制力が低下し国土の隅々まで人口把握できなくなっただけで、ある程度減ったにしてもそこまで激減はしなかったと解釈しています。
 
 
 また、人口は課税対象になるので広大な私有地を持った豪族たちは部民の数を正直に申告しなかっただろうと推理しています。それを強制する政府の力もなかったはずですから。強制でもしたら反乱起こされますからね(苦笑)。
 
 
 だいたい漢代を通して人口5000万前後で推移したのだと思います。

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