後漢時代の中国大陸の人口
たまたま後漢代の官制を調べていて、その副産物として当時の州ごとの人口資料が見つかりました。
本当は郡別で載っていて、戸数と人口数があったんですが全部紹介すると煩雑になりすぎるので大きな区分の州別で纏めてみました♪
一般の方にはまったく需要が無いと思いますが、資料保存のために記事にしておきます。
ちなみに、漢代の行政区分は大きな方から「州」「郡」「県」となります。
◇州の長官は刺史(行政権のみ)あるいは牧(軍事権もある)
ただし首都(洛陽)を含む特別区は司隷校尉(しれいこうい)が統括。
◇郡の長官は太守
◇県の長官は県令
それでは州別人口を見ていきましょう♪(四捨五入)
◇幽州(ゆうしゅう)…204万
◇并州(へいしゅう)…70万
◇冀州(きしゅう)…593万
◇青州(せいしゅう)…370万
◇兗州(えんしゅう)…405万
◇徐州(じょしゅう)…280万
◇豫州(よしゅう)…618万
◇司隷(しれい)…310万
◇涼州(りょうしゅう)…42万
◇楊州(ようしゅう)…434万
◇荊州(けいしゅう)…626万
◇益州(えきしゅう)…724万
◇交州(こうしゅう)…110万
意外だったのは洛陽、長安を含む司隷が310万しかいないこと。そのうち首都洛陽だけで100万ですから人口密度的には高くないみたいです。
豫州は中原の真っただ中だけにさすがに人口が多いですね。曹操が戦乱で荒廃した洛陽を捨てて豫州の許昌(頴川郡許県)に都を移したのも納得できます。
一方現在の湖北・湖南省にあたる荊州と四川省にあたる益州の人口の多さ!二つ合わせると1300万を超えます!諸葛亮の天下三分の計は人口にも裏打ちされたものだったんですね。
ちなみに三国時代の人口データと違うと思われる三国志ファンの方もおられると思います。
一般には戦乱で人口が激減し後漢代の十分の一になったと説明される事が多いですが、私は中央政府の統制力が低下し国土の隅々まで人口把握できなくなっただけで、ある程度減ったにしてもそこまで激減はしなかったと解釈しています。
また、人口は課税対象になるので広大な私有地を持った豪族たちは部民の数を正直に申告しなかっただろうと推理しています。それを強制する政府の力もなかったはずですから。強制でもしたら反乱起こされますからね(苦笑)。
だいたい漢代を通して人口5000万前後で推移したのだと思います。
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