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2012年8月 2日 (木)

馬匹牽引と野砲の話

 戦史について語られる中で、日本陸軍は自動車化が進んでいなかったから重い野砲を採用できず砲兵火力では列強中不利であったといわれます。
 
 たしかに改造三八式野砲(1925年より既存の三八式野砲から改修)から、より高性能の九○式野砲にすべてを更新できず、九五式野砲という軽量だという以外は性能で九〇式野砲に大きく劣る野砲を生産せざるを得なかったのもこうした事情があった事は明らかです。
 
 改造三八式野砲1135kg、九〇式野砲1400kg、九五式野砲1108kg。九〇式は当時想定されていた馬6頭輓曳では森林地帯や湿地での機動性に難があるとされ、車両牽引を前提にしたゴムタイヤを付けた機動九〇式野砲になりました。
 
 ただ結局牽引する4トン牽引車の性能も低く、砲自体の生産数も600門前後では話になりません。日本は大東亜戦争を2000門生産された旧式の三八式野砲とその後継の九五式野砲で戦わざるを得なかったのです。
 
 米英ソは生産数でその10倍から100倍、万単位の火砲生産数ですから勝負は戦う前からついていました。日本陸軍が白兵突撃に頼らざるを得なかったのはやむを得ない事情でした。
 
 
 一方牽引する馬自体はどうだったでしょうか?当時の資料を調べているとどうも日本は馬の生産・育成面でも大きく後れをとっていたようです。
 
 農耕民族である日本人は、欧米や遊牧民族と歴史的に関わっていた中国に比べて馬の品種改良に無関心だったらしいのです。遊牧民が優秀な種馬以外の牡馬は去勢し常に馬格改良をしていたのに対し、日本では交雑させた馬の中から優秀な馬を選ぶという方式で、これは一種の品種改悪だったのでは?と指摘されています。
 
 日本人の馬に対する優しさもあるのでしょうが、軍馬として考えた場合これは致命的でした。野砲の牽引云々の話も同じ馬匹牽引前提だったドイツでは寡聞にして聞いた事がありません。ドイツ軍砲兵連隊の主力野砲で馬匹牽引だったleFH18 105㎜軽榴弾砲は「軽」といいながら2040kgもあります。
 
 軍馬の牽引能力でわざわざ性能の低い野砲を選択することなどありえません。
 
 日本がようやくこの事に気付き馬政第一次計画で馬の品種改良を始めたのが1906年。しかし軍馬に限って言えばとても成功したとは思えません。
 
 人間の補給さえままならなかった日本が、人間以上の物資を必要とする軍馬の大量採用を躊躇したのは貧乏であったため仕方なかったとは思います。限られた戦争資源ですから、陸軍は航空機分野にそれを注ぎ、それ以外(戦車・火砲など)はおざなりになったのでしょう。
 
 馬自体も東国では昔から盛んに生産されましたが、西日本は農耕に牛を使っていたそうで国自体の馬の絶対数も少なかったのでしょう。さらに去勢などもしなかったと思います。輸入するにもお金がない!
 
 
 優秀な種馬だけを残して、生産レベルを高めているのは競馬の世界のみ。駄馬は去勢され最後は馬肉になるという悲惨な運命ですから、私たちが能天気に競馬を楽しんでいる裏で馬たちにとっては過酷な状況であるという事を忘れてはなりません。
 
 競馬好きの私が言うのもなんですが、どうも日本はずれているような気がしてならないのです。競馬の世界ではなくまず軍馬の生産でこれをしていれば野砲の馬匹牽引の問題で間違った選択をしなくて済んだはずですから…。

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