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2012年8月 2日 (木)

今川了俊の肥後侵攻

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 今回の調査で最大の収穫はこれでした(笑)。
 
 今川了俊肥後侵攻の詳細です。ちなみに彼を知らない人のために…
 
今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝室町時代武将守護大名室町幕府九州探題遠江駿河半国守護。九州探題赴任中は備後安芸筑前筑後豊前肥前肥後日向大隅薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。】(ウィキペディアより)
 
 
 了俊は足利幕府の九州探題として九州の南朝勢力を滅ぼし一時強大な力を得ますが、時の将軍足利義満に警戒され探題職を解任、最後は駿河で失意の晩年を送った人物です。
 
 了俊の絶頂期ともいうべき九州南朝勢力最後の牙城、肥後をどのようにして攻略したか?その詳細が分かりましたので記事にして残しておくことにしました。ちなみに北朝年号と南朝年号があって混乱しますので、西暦で表記します。
 
 
 了俊の肥後侵攻は大きく分けて二段階あります。最初の侵攻は菊池氏の本拠隈府城を目前にした水島陣で頓挫。第2次侵攻では託摩原の敗戦はあったものの、最終的に南朝勢力を肥後南部八代の古麓城に追い詰めついに九州平定をはたします。
 
 
◇第1次侵攻
 
1374年11月 大津山関(南関)着陣 
 
1374年12月 目野原進出。ちなみ目野原は岩原から堂米野、姫井に至る米野山麓一帯を指していたようです。         今川軍はここを策源地にして周囲を平定。
         同月、了俊嫡男義範、弟仲秋が豊後勢、肥前勢を率い岩原着陣。
 
1375年4月 山鹿日岡(山鹿市鹿本町石の風車公園あたりか?)に布陣。台(うてな)城に籠った菊池軍と対陣。
 
1375年5月? 日岡表(水島?)で菊池勢と合戦。勝負はつかず。
 
1375年7月 今川軍、内田川を渡河し水島に布陣。台城包囲戦。
 
1375年8月26日 了俊、少弐冬資謀殺。これにより九州諸将の反発を買い水島陣崩壊。
 
1375年9月 了俊、水島を撤退。
 
1375年10月 筑後瀬高、蒲池、酒見を経て肥前杵島郡塚崎に至る。第1次侵攻失敗。
 
 
◇第2次侵攻
 
1377年1月 肥前千布、蜷内(になうち)合戦で菊池武安(菊池肥前家・菊池氏の肥前・筑後司令官)を破る。
 
1377年春? 筑後川渡河、肥後北部山鹿志々木原に着陣。
 
1377年7月 白木原合戦(玉名郡臼間野荘内、現玉名市から南関町に至る一帯だと推定)
        郡内各地で南朝方と合戦し、かなりの長期戦になった模様。最終的に今川軍の勝利に終わる。
 
1378年9月20日~29日 託摩原(たくまばる・熊本市東部)合戦。今川軍、菊池武朝に敗北。肥後攻略、一時頓                挫す。
 
1379年7月 了俊、平鹿倉城(玉名郡内?)攻略、前原(菊水町)に陣を移す。
 
1379年7月12日 伊倉、高瀬攻略。これでやっと海路からの補給が可能になる。
           6月から8月にかけて南朝方と玉名郡内で合戦とあるので完全平定までは至らなかった模様。
 
1379年8月14日 山本郡平尾城(植木町)入城。
 
1379年8月18日 合志郡板井城攻略、本陣を移す。
 
1379年8月~9月 菊池氏の重臣赤星氏の本拠木野を攻撃。史料では木野とあるが赤星、深川のあたりか?
 
1381年4月 木野城落城
 
1381年5月12日 深川城落城
 
1381年5月23日 染土城落城(懐良親王居所)
 
1381年6月22日 了俊、隈府(守山)城攻略。菊池氏、宇土から八代に退去。
 
1383年4月30日 懐良親王死去。
 
1383年9月   了俊、益城の飯田山、吉野山に布陣。
 
1386年秋    了俊、川尻・宇土攻略
 
1391年9月   了俊、八代古麓城攻略。良成親王、名和顕興降伏。菊池武朝は行方をくらます。
          日向米良へ逃亡か?
 
 
 今川了俊が肥後を平定して九州南朝を滅ぼしたのは南北朝合一(1392年)の一年前でした。

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