肥後各郡の石高
誰も興味を持つ方はいないと思いますが、貴重な資料として保存するために記事にしました。
実は、年明けから肥後国衆一揆における城氏の所領関係という誰もついてこれない事を調べるために近所の図書館を回っているんです。
その過程で得た副産物ですが、玉名市立図書館の蔵書で発見した貴重な資料をいくつかゲットしました。そのうちの一つがこれです。
おそらくネットを検索しても全国の旧国別石高は載っていても郡単位の石高の資料は皆無であろうと思い載せました(笑)。
肥後国(熊本県)十四郡の郡別検地高(1604年、1608年)です。
一見して分かるのは益城郡(ましきぐん)の石高の高さです。1604年の数字でも12万石。これは小国の石高くらいには匹敵します。ほぼ石高=人口なので戦国~江戸期にはすくなくとも現在の熊本市から緑川北岸、内陸の矢部地方までに肥後の人口が集中していた事が分かりますね。
のちに上益城と下益城の二郡に分割されたのも納得です。
次に高いのは我らが故郷玉名郡。7万石ですから凄いです。玉名平野の生産力がそれだけ高かったのでしょう。
マイナーな話題になって恐縮ですが、以前の記事で全国平均すると1町歩(面積の単位)=10石(米の生産高の単位)に当たると書きましたが、肥後においてはおそらく15石~20石くらい米の生産量があった印象です。
これだとおなじ3000町歩の領地でも45000石~60000石あった計算になります。指出(さしだし)検地という地方豪族の自己申告による肥後全体の石高34万石との差が20万石!
秀吉の九州仕置において肥後の国主になった佐々成政の検地強行に対して国衆(地方豪族)が一揆をおこすはずですよ。石高で軍役が決まるので国衆にとっては死活問題だったでしょうから。
ごく一部の人を除いて反応はないと思いますが、記録として残しておく必要があると思い記事にした次第です。
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