城久基 領地関係(九州仕置後)
この記事は資料保存用ですので内緒記事にします。という事で詳しい説明も省きます。
(※ヤフー本ブログでは内緒にしましたが、こちらは時間もたっている事と読者もそれほどいないだろうという事で公開記事にしました)
先日、城久基が秀吉の九州仕置後安堵された八百町歩の領地がどこだっかを調査するため山鹿市鹿本図書館に行ってきました。古文書関係の閲覧はできそうもなかったので、「山鹿市史」「鹿央町史」「菊鹿町史」の該当箇所と別巻の資料集を調査しました。
※結論から言うと、分かりませんでした。
①城氏の元々の領地が飽田郡、託摩郡を中心に三千町歩(主城は隈本城)だった事は確認。
②秀吉の本領安堵の朱印状によって隈本城は召し上げられたものの旧領のうち八百町歩を安堵される。
③そのうちどの領地を安堵するかは国主の佐々成政から別途書状を与えるという内容。
④肝心の佐々からの書状を未確認!
⑤ただ城氏の元々の領地は山鹿郡城村城を中心に山本郡まで広がっていた。
⑥城親冬(久基祖父)の隠棲地が山鹿市鹿央町広の徳栄寺であったことから、寺のあった場所を含む山本郡内で八百町歩を安堵されたと推定。
⑦久基は肥後国衆一揆後の戦後処理で筑後石垣山(久留米市田主丸町)へ国替え。
現在のところはここまででした。
« 今川了俊の肥後侵攻 | トップページ | 中独合作と浸透戦術 »
「 日本史」カテゴリの記事
- 義経=チンギス汗説が物理的に成立しない理由(2024.08.29)
- 中世の兵站(2024.08.27)
- 長州藩諸隊の兵力(2024.08.09)
- 幕末の蝦夷地の話(2024.08.07)
- 会津戦争余話2 ヤーゲル銃とミニエー銃(2024.08.05)
コメント