古代官道と三長者伝説
これも資料保存用の記事ですので面白くありません。
肥後北部、菊池川流域に伝わる三長者伝説。下流(西)から玉名の疋野(ひきの)長者伝説、鹿央町の駄ノ原(だのはる)長者伝説、菊鹿町の米原(よなばる)長者伝説。
疋野長者が小岱山麓の製鉄によって財を成し、米原長者が米原台地を中心とする米生産によって財を成したとするなら、国道3号線沿いから山鹿市鹿央町全域植木町にいたる広大な地域を支配したとされる駄の原長者の財は何によってなされたのでしょう?
玉名市史では、古代官道が現在の3号線に沿う形で平行に走っていたことから、馬借などの流通を支配する事で財を成したのではないかと推理しています。さらに、これらの地域は平安時代末期から鎌倉にかけて菊池盆地から菊池川沿いに西進してきた菊池氏勢力と何らかの関連があるのではないか?とまで言及しているのです。
流石に私はそこまで断定はできません。最終的に米生産地、官道の流通支配、小岱山の鉄資源を菊池氏が握ったにしても、最初は別個に発展したはずです。
疋野長者は、平安時代までつづいた玉名郡司日置氏を指すという事は有力視されていますし、駄の原、米原ももともとはその土地の支配者(古代豪族?)の伝承が変質したものだと考えます。
古代豪族鞠智(くくち)氏の後裔とも目される菊池氏は、大宰府官人という特権的地位を利用してこれら三長者勢力を吸収し、拡大したのではないでしょうか?
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