2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 肥後各郡の石高 | トップページ | 古代官道と三長者伝説 »

2012年8月 2日 (木)

高瀬津と伊倉津

Img_148849_52902636_0

 これも図書館通いの副産物で、資料保存用の記事ですので面白くありません。
 
 中世肥後北部には高瀬津(地図でいうと玉名市役所の東、高瀬川と菊池川にはさまれた地域)と伊倉津(地図右下、本堂山緑地の岬を中心に周囲の入江までも含む)という二大貿易港があったとされます。
 
 調べていくとこれらの港は古代豪族で玉名郡司だった日置氏が整備したのだそうです。
 
 伊倉津も高瀬津も今ではすっかり内陸になっています。というのも加藤清正時代干拓を大規模に行い菊池川の川道を変えているからです。古代の菊池川は西に湾曲せず伊倉方面に流れていたといわれます。
 
 伊倉津は丹倍津(にべつ)とも呼ばれ三韓時代といいますから古墳時代には存在していました。肥後から海外に出て行く貿易港であり近畿地方への海路の出発港でもあったそうです。
 
 一方、高瀬津が整備されたのは平安時代だとされます。それまでは大湊という現在のJR玉名駅近辺にあった港が使われていました。
 
 大湊は玉名郡衙(=日置氏)の積み出し港として発展し、その外港的役割が丹倍津(伊倉津)だったようです。
 
 
 しかし有明海は干満の差が激しい遠浅の海で当時海に面していた入江だった大湊では干潮の時船が港内に入れなかったのではないか?といわれています。
 
 ということで菊池川流域で干潮時でも船が接岸しやすい高瀬津が整備されたのだそうです。
 
 玉名市史では、日置氏は平安時代に菊池川沿いに東から進出してきた菊池氏に滅ぼされたのではないかと推理しています。
 
 平安末期、高瀬には菊池庶流の高瀬氏が進出し、その上流石貫地区はこれも庶流の菊池肥前家の領地があったそうなのです。ただし高瀬氏、肥前家の成立は南北朝期なので領地を後に継承したという理解で良いのかもしれません。ほかに江田船山古墳で有名な江田にも菊池庶流が土着し江田氏を名乗っています。
 
 この江田こそ日置氏の本拠地と目されますから、菊池氏の進出=日置氏の滅亡と考えるのが自然だといわれています。
 
 中世、高瀬津と伊倉津を通して菊池氏は海外(主に高麗や宋)貿易を行い潤ったそうですから、その現地代官的役割が菊池一族の高瀬氏だったのでしょう。
 
 玉名市の菊池川以西から岱明町地区まで中世には大野別符という荘園があり、その荘官である紀氏が大野氏を名乗り一円支配していたと思っていましたがすくなくとも東部は菊池氏勢力に合法的に割譲したか横領(の可能性が高い)されていたようですね。
 
もっとも大野氏も菊池氏の被官化していたので無理を言えない事情があったのでしょう。その分海外交易の分け前を貰って我慢していたのかもしれません。
 
 
 
 
 あと、本分には関係ありませんが資料として残しておきたい情報があるので記します。
 
 玉名郡内の荘園関係です。
 
 
 野原荘(荒尾市、長洲町)
 
 大野別符(玉名市中~西部)
 
 安楽寺領玉名荘(小田地区)
 
 伊倉別符(伊倉、横島町)
 
 臼間野荘(南関町)
 
 仁和寺領玉名荘(三加和~菊水町。現和水町の大部分)
 
 郡内はこれら6つの荘園で占められていたそうで、律令制度の崩壊が見て取れますね。おそらく他の地方も大同小異でしょう。
 
 
追加:そのうち大野別符と中村(高瀬氏領分?)の石高 10647石
    伊倉別符石高                       7403石

« 肥後各郡の石高 | トップページ | 古代官道と三長者伝説 »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 高瀬津と伊倉津:

« 肥後各郡の石高 | トップページ | 古代官道と三長者伝説 »