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2012年9月

2012年9月 1日 (土)

続菊池一族の興亡・余話②  寂心さんの樟(くす)

 熊本県熊本市北迫町(飽託郡北部町北迫)に樹高29mの樟の大木があります。地元の人に寂心さんの樟と呼ばれ親しまれています。樹齢は800年ほど。
 
 お察しの通り鹿子木寂心所縁の遺跡です。大木は戦国時代と思われる古い墓を取り囲むように成長しており、伝説ではこれこそ鹿子木寂心の墓であると伝えています。
 
 鹿子木寂心(親員【ちかかず】生年不明~1549年)は、中原氏流大友庶家の鹿子木氏第十代当主です。鹿子木家は代々肥後守護菊池家に仕える重臣でした。
 
 飽田・詫摩・玉名・山本4郡・560町歩の領主として初め楠原(くすばる)城(熊本市楠野町城ヶ下、現楠野神社)を本拠としていました。
 
 守護菊池家が衰えると、他の国人と同じく豊後の大友氏に仕えます。時の豊後守護大友義長の信望厚く、その子義武が菊池26代を継ぐと田島重賢とともにその家老としてこれを支えました。
 
 隈本城(現在の熊本市第一高校のあたり)を築いたのはこの寂心であると伝えられます。大永・享禄年間(1521年~1531年)の築城といわれますから菊池義武肥後入り後、本拠とするために彼が縄張りしたのでしょう。
 
 武勇だけでなく文雅を愛する風流人であったとも伝えられ、鹿子木本「源氏物語」【肥後隈本の国人・鹿子木親員が享禄二年(1529)、当時の日本を代表する文化人・三条西実隆から二千疋(二十貫文)で購入した『源氏物語』五十四帖】などでも知られています。
 
 菊池義武は、義長の後を継いだ大友義鑑の傀儡である事が我慢ならず独立を画策します。そして菊池家と大友家は戦争状態に陥りました。
 
 寂心は兄に敵対しようとする義武をしばしば諌めたそうですが野望に燃える義武は聞き入れませんでした。何を言っても無駄だと悟った寂心は義武と距離を置きます。寂心は義武と袂をわけたまま1549年死去しました。
 
 義鑑が二階崩れの変(1550年)で非業の最期を迎えると、義武は大友家の混乱に乗じて肥後一国を制圧します。この時は鹿子木氏(鎮有?)も義武方に付いたようですが、間もなく体勢を立て直した大友軍によって義武は隈本城を追われます。
 
 鹿子木氏が大友義鎮(のちの宗麟)にいつ降伏したかは不明ですが、滅ぼされなかったところを見ると義武をいち早く見限ったようです。
 
 戦後処理によって隈本城は義武討伐に功のあった城親冬に与えられます。鹿子木氏は所領を削られ飽田郡の城山上代城に移されました。
 
 ただ一族のうち義武と最後まで行動を共にした者も多かった(寂心の次男親俊など)らしく、鹿子木氏が再び浮上する事はありませんでした。
 
 鹿子木氏がいつ滅亡したかは不明です。戦国時代を生き抜いたとしても1587年の肥後国衆一揆で滅亡したのは確実でしょう。
 
 
 
 
 寂心さんの樟は公園のようになっており、私は幼少時代から訪れて親しみがあります。ですから鹿子木親員入道寂心の名は昔から知っていました。
 
 いつか彼の記事を書こうと思っていたんですが、今回書くことができて満足です。

続菊池一族の興亡・余話①  田島重賢のこと

 資料保存用記事に付き面白くありません。
 
 菊池家最後の当主菊池義武を支えた二人の重臣のうち、鹿子木寂心に関しては割合知られているものの、もう一人田島重賢という人物は謎であると前記事で書きました。
 
 あれからいろいろ調べたんですが、はっきりとしたことはやはり分かりませんでした。ただ断片的資料からこうではなかったか?と推定出来たのでそれを記そうと思います。
 
 
◇出身
 
 玉名市史の資料には玉名郡大野別符内古閑(こが)の社家出身とあります。古閑というのは玉名市岱明町睦合(むつあい)地区の県道168号線を睦合小学校から西照寺地区に抜ける途中、古閑団地から雲雀ヶ丘団地のあたりの地名です。
 実際に現地に行ってみたんですが、168号線沿線に菅原神社があります。もしかしたらそこの出身か?とも思いました。
 
 ただ、社家(しゃけ)とは代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことである(ウィキペディアより)とありますが、さすがにこの神社は小さすぎるような気もします。(当時は大きかったのかもしれませんが…)。
 
 私は大野別符内で最大の神社はどこか?というところに着目しました。当然それは大野別符の荘官で鎌倉幕府の御家人でもあった大野氏が荘園内の総鎮守として建立した繁根木八幡宮(はねぎはちまんぐう・玉名市繁根木)であろうと思います。あるいは山田日吉神社という可能性もありますが…。
 
 どちらにしろ大野氏と関係が深い神社なのです。とすれば田島氏も大野氏と関係があるに違いないと推理しました。
 
 そこでネットで調べてみると大野別符地頭、紀(大野)氏の項に、大野一族として築地(ついじ)氏・岩崎氏・中村氏・二塚氏・田島氏とあります。
 
 大野一族の田島氏と田島重賢の関係は不明ですが、出身地から考えて私は大野一族のうち繁根木八幡宮あるいは山田日吉神社の神職になった一族が田島氏ではなかったかと考えます。
 
 田島氏の所領が古閑にあったのではないでしょうか?多氏族概観でも『大野-肥後国玉名郡繁根木八幡神主家、称紀姓』とありますね♪
 
 繁根木八幡宮は高瀬津のすぐ隣にあるので、もしかしたら菊池氏-高瀬氏の高麗・明交易にも関与していたのかもしれません。大野氏が関与してたのはほぼ推測できますから尚更です。
 
 大友義長は肥後進出の過程で、繁根木八幡宮の神職だった田島重賢を見出だし重用したのだと思います。
 
 田島重賢の所領は玉名郡内で75町歩だと伝えられます。しかし本家大野氏が250町歩、高瀬氏も詳細不明ながらそれくらいはあったでしょうから大野別符内(1万石=肥後では500町歩くらいか?)に分割する余裕はなかったはず。
 
 どちらも大友氏の被官になっていましたから、まさかそこから削るというのも難しいでしょう。私はそれとは別に大友義長が新恩として与えた領地だったと考えています。
 
 もちろん菊池義武が肥後に入部し菊池家督と守護職を継承すると、その重臣になった重賢はさらに加増されたはずだと睨んでいます。
 
 
 
◇生涯
 
 ソース不明ながら死亡年1549年とだけあります。これは義武の兄である豊後守護大友義鑑が殺された二階崩れの変の前年にあたります。
 
 菊池義武は兄に反逆し、当時肥後南部の豪族相良氏を頼って肥後南部に逼塞していました。もちろん何度も肥後奪還を巡って大友方の城を攻めていたようですからその過程で戦死した可能性が高いですね。
 
 この時代の田島重賢の動静を知るにあたって相良家文書に何通かの書信が残されています。
(鹿子木親俊・田島重賢連署書状写)(田島重賢書状)〔年始挨拶〕などです。
 
 このうち後者の(田島重賢書状)の日付は1545年となっていますから、少なくともこの年までは生存が確認されます。
 
 文書によると重賢は伊勢守を称していたようですね。
 
 
 その他の田島一族ですが、おそらく本家の大野氏から離れ独立していたのだと考えられます。元々国人領主であった鹿子木氏が劣勢の義武を見限り大友義鑑方に付いたのに比べ、新興武士団であった田島一族は義武と最後まで行動を共にするしかなかったと思います。
 
 義武が甥大友義鎮(のちの宗麟)に討たれた1554年、生き残った田島一族も義武終焉の地である豊後竹田で運命を共にしたのでしょう。
 

続菊池一族の興亡・滅亡編  ④義武の章

 菊池家最後の当主(二十六代)になった義武については評価が別れています。本家大友家を乗っ取ろうとした野心家であった、あるいは大友氏の肥後支配の矛盾を背負って死んでいった犠牲者だったなどなど…。
 
 私も結局彼の人物像は分かりませんでした。
 
 菊法師丸、義国、重治、義武と何度も名前を変え紛らわしいので本稿では義武で通します。義武の肥後入りについては諸説あります。
 
 1517年という説は、義長死去一年前でこの時すでに肥後守護代になっていたとされますが私は可能性が低いと思います。
 
 有力な説としては1520年で大友義鑑が菊池武包を肥後守護から追った年に肥後入りしたとされますが、こちらのほうが可能性高いでしょう。
 
 
永正17年(1520年)2月10日 豊後府内出発
            4月13日 肥後隈府入り
            4月28日 隈本城入り
 
と史書は伝えています。
 
 義武が何故菊池氏累代の本拠地隈府を選ばず、隈本城に入ったか?ですが旧来の家臣団である隈部・赤星・城氏等を嫌ったためだといわれています。確かに彼らは菊池宗家に対する忠誠心も薄く平気で主君を裏切るという前科がありました。義武は裏切りを行った相手先の大友家出身であったため尚更信用出来なかったのでしょう。
 
 義武は、父義長の代から忠誠を誓っている鹿子木寂心、田島重賢らの補佐を受け隈本城で新しい肥後統治に入りました。隈本移転はもしかしたら兄義鑑の指示だったのかもしれません。
 
 この時以来肥後国の中心は隈府(菊池市)から隈本(熊本市)に移りました。
 
 有能な両名の補佐を受け、義武治世の滑り出しは順調でした。先代武包の抵抗はあったものの戦は兄義鑑の命令を受けた肥後国人たちが担当します。
 
 まもなく武包は島原で死去。名実ともに義武が菊池家督・肥後守護を継承する事となりました。
 
 
 このまま無事に過ごしてくれれば、兄義鑑の傀儡として平穏だったかもしれません。しかし義武には野心がありすぎました。成長するにつれ次第に独立の気配を見せ始めます。強大な大友家に敵対する愚は菊池家臣団の恐慌を呼びました。重臣で菊池一族の木野親則は暴走をはじめた義武を諫言します。
 
 しかしかえって義武の怒りを買い手討ちにされました。これが菊池家臣団との折り合いを悪くさせ義武をますます孤立化させます。
 
 1534年、義武は河崎・三池・西牟田・蒲池ら筑後南部の諸氏と連合して兄大友義鑑に対し兵を挙げます。怒った義鑑は軍勢を肥後に差し向け義武の本拠隈本城を攻めました。多勢に無勢、敗れた義武は南部へ逃亡、緑川を挟んで川尻で大友軍と対峙します。
 
 しかしここでも敗北し相良義滋(よししげ)を頼って相良領に逃れました。菊池家臣団や肥後国人たちの多くが義武に同調せず大友方に付いたのが敗因です。
 
 天文12年(1543年)、大友義鑑はみずから肥後守護になります。これで代々続いてきた肥後守護職を菊池家は失う事となりました。
 
 それでも義武は諦めませんでした。義武を支えた二人の重臣ですが明暗がはっきりと分かれます。鹿子木寂心は義武が大友氏から離反する事に反対でした。最後まで行動を共にせず1536年には大友方に転じたそうです。田島重賢は落ち目の義武に最後まで付き従ったとされます。
 
 鹿子木庄の領主であった鹿子木氏と、大友義長に引き立てられた新興武士である田島氏との違いといえばそれまでですが、この決断で田島氏は結局滅ぶ事になります。
 
 
 義武は、相良氏の援助で何度も旧領奪還の戦を仕掛けたそうですが、強大な大友軍の前になすすべもなかったそうです。
 
 そんな義武に最大のチャンスが訪れます。天文19年(1550年)二階崩れの変です。義鑑が病弱の嫡男義鎮に代わって溺愛する三男塩市丸を後継者にしようとしたため、大友家臣団が義鎮派と塩市丸派に分かれて暗闘した末でのクーデター劇でした。
 
 義鎮派の津久見美作らは大友館二階で寝ていた塩市丸とその生母を斬殺、この時傷を受けた義鑑も数日後に死去します。大友氏家督は戸次鑑連ら家臣に擁立されて義鎮が継承しました。クーデターの首謀者を義鎮本人とする説もありますがはっきりしません。
 
 大友家の混乱は肥後の義武を利しました。義武は瞬く間に肥後を占領します。しかしこれは消えゆく蝋燭の最後の煌きに過ぎませんでした。
 
 
 体制を立て直した大友義鎮(後の宗麟)は、その年のうちに二万の大軍を義鎮自らが率い肥後に侵入します。肥後の国人たちは義武に嫌々従っていたのでしょう。大友軍が隈本城を囲むと義武は碌に抵抗もできず、側近の百余騎を率い金峰山方面(熊本西北部)に逃れました。
 
 この地の豪族山の上の三名字(牛島・田尻氏ら)を頼って大友軍と一戦を交えますが鎧袖一触、漁船で島原に逃亡したといわれています。
 
 義武は旧菊池氏家臣団の決起に期待していたそうですが、 人心は既に離れていました。最後まで菊池義武に従って大友軍に抵抗したのは竹迫(たかば)城の合志氏のみだったそうですから哀れを誘います。
 
 この後義武は、相良氏を頼って肥後南部に移動しますが相良氏にとっても迷惑な話でした。大友義鎮は相良領から義武を追放するよう要求します。相良領にもいたたまれなくなった義武は、今度は薩摩の島津氏を頼ろうとしますが、これも断られ万事休しました。
 
 義武は再び相良領に舞い戻り、球磨郡を通って日向に逃れようと考えます。しかし誰もそれを援助しようとはしませんでした。
 
 義武一行の逃避行は1554年まで続けられます。義武を支えた二人の重臣のうち鹿子木寂心は大友義鎮に早くから仕え飽田郡内に新たな領地を貰うほど優遇されていました。一方田島重賢は最後まで付き従ったようです。途中の合戦で討ち死にしたか、義武の最後の地で殉じたかは分かりません。
 
 1554年10月11日、義武は子の則頼を伴って肥後八代に現れます。大友義鎮は使者を出してこれを豊後国内に迎えようとしました。
 
 義武にも自分の運命が分かっていたのでしょう。八代妙見社や成願寺に参り15日豊後を目指して旅立ったといわれます。
 
 豊後に入った直後義鎮の差し向けた討手に討たれたとも、包囲されたまま覚悟の自害をしたとも伝えられています。最後までつき従った家臣も同じ運命を迎えます。波乱に満ちた生涯でした。享年51歳。
 
 
 義武の墓は、自害の場所である大分県竹田市法泉の法泉庵跡に残っています。こうして名実ともに肥後守護職菊池家は滅亡しました。
 
 
 
 
 菊池家の血脈は、日向米良庄に逃れた能運の子重次によって伝えられます。重次の子孫は米良氏を称し戦国・江戸時代を生き抜き、明治維新後は菊池姓に復し男爵に列せられました。これは南北朝のころの菊池氏の忠節に報いるためだとも言われています。
 
 
                               (完)

続菊池一族の興亡・滅亡編  ③武包(たけかね)の章

 玉名を中心とした菊池肥前家の興亡は、高瀬津を擁する同族高瀬氏との強い絆があって初めて成立したと思います。
 
 強大な大友氏に曲がりなりにも政隆が抵抗できたのは高瀬津、伊倉津を通じた明や高麗との海外貿易の莫大な利益がかなりの部分寄与したはずです。玉名郡内の諸将とも貿易の利潤での結びつきが強かったのかもしれません。
 
 阿蘇氏から入った他所者の武経には海外交易の権利はいかなかったように思えます。大友氏の傀儡であった武経は次第に菊池家中からも軽んじられ、いたたまれなくなった武経は、1511年菊池家督を放り出し隈府を出奔します。
 
 しかし阿蘇大宮司職はすでに弟惟豊のもので、ここにも居場所はありませんでした。大友氏と結んだ惟豊と対抗し薩摩の島津氏と結んで大宮司職奪回をはかります。
 
 1513年、武経は島津氏の後援を受け矢部の惟豊を攻撃、一時惟豊は日向に逃亡します。武経は嫡男の惟前を大宮司職に据えると自分は惟長に名前を戻し阿蘇家の実権を掌握しました。
 
 1517年、肥後を追われた阿蘇惟豊は甲斐親宣らの支援を受け逆襲に転じます。惟長、惟前父子は敗れて薩摩へ逃亡。惟長は後に肥後に戻る事は出来たものの1537年堅志田城で野心に満ちた58年の生涯を終えました。
 
 
 一方、当主に逃げられた菊池家はどうだったでしょうか?豊後の大友義長は1518年に死去しますが、死に際し後継ぎの嫡男義鑑(よしあき)に「必ず十郎義国(義鑑の弟。後の菊池義武)を肥後守護にせよ」と遺言したといわれています。
 
 1511年武経の逃亡はその最大のチャンスでしたが、この時それが実現できなかったのは菊池家と何の関係もないばかりか宿敵でもあった大友氏が後を継ぐのが無理筋であったからに他なりません。
 
 義長は、この時巧妙な手を思いつきます。義国後継の前にワンクッション置く事です。白羽の矢が立ったのは託摩武包。
 
 託摩氏はもともと大友庶流であったばかりか、当時は菊池肥前家から養子が入り菊池一族でもありました。しかも菊池肥前家ですから同じ肥前家出身の二十三代政隆とも所縁がある。
 
 義長は、隈部親氏、長野運貞、内古閑重載ら菊池重臣を動かし託摩武包を菊池家家督に迎えさせました。
 
 武包はこうして菊池家家督を継ぎますが、あくまで大友氏の傀儡にすぎません。義長は武包に菊法師丸(十郎義国)を養子に迎えさせ合法的に菊池家を乗っ取る所存でした。
 
 武包の菊池家家督期間は1511年から1519年の9年間だといわれています。菊法師丸肥後入りの時期は不明ですが、武包は傀儡ながらも大友氏の菊池家乗っ取りに抵抗したようです。
 
 1516年、名和氏と相良氏が豊福城を巡って再び争います。大友義長は菊池家重臣の鹿子木親員入道寂心(かのこぎちかかず にゅうどうじゃくしん)、田島重賢らを派遣してこれを調停させたといいますから実質的な肥後の実権はすでに大友義長が握っていた事になります。
 
 
 ここで出てきた鹿子木寂心は、中原氏流といいますから大友氏とも近い家系でした。一説では大友初代能直(よしなお)の弟師員(もろかず)が初代とも言われ飽田郡鹿子木庄の領主。寂心時代には鹿子木東・西庄を中心に五百五町歩を領していました。
 
 一方、田島重賢は謎の多い人物です。玉名郡大野別符内古閑(こが)の社家出身ともいわれ玉名郡内の在地領主を代表する人物だと考えられています。
 
 これに関し、玉名市史では重賢の重用は大友義長の高瀬津重視の表れではないか?と推理しています。政隆の抵抗が高瀬津からの海外貿易収入で成されたという事は、大友氏にとっても見逃せない事実でした。
 
 大友氏肥後支配のかなりのウェイトが高瀬津・伊倉津を通じた海外貿易にあったのは想像に難くありません。そんな中で台頭してきた人物が田島重賢だったのでしょう。
 
 後に鹿子木寂心と田島重賢は菊池義武が家督を継ぐと、その重臣として隈本城で仕えたそうですから大友義長の信望が厚かったのでしょう。
 
 
 義長の菊池家乗っ取りの野望は、自身が1518年死去した事で頓挫します。彼の遺言はその悔しさから出たのでしょうが、逆に言うと傀儡政権の武包が抵抗したからに他なりません。
 
 義長の後を継いだ大友義鑑は、1520年武包を菊池家督から追います。表向きは菊法師丸に家督を譲った事になっていますが武包が納得したわけではありませんでした。
 
 武包は小代氏を頼って小岱山筒ヶ岳城で挙兵します。義鑑は阿蘇氏等に命じこれを討たせました。敗れた武包は肥前高来(島原半島)に逃亡します。
 
 
 これは菊池肥前家の領地が高来郡にあった事とも関係していると思います。島原の領主有馬氏とも深い関係があったのでしょう。菊池家家督争いで玉名郡内に挙兵、敗れて島原半島に逃亡、有馬氏の援助で高瀬上陸というのはパターン化していますから。
 
 
 これまでは何回も成功した高瀬再上陸ですが、この時は成功しませんでした。それだけ大友氏の肥後支配が強固になってきていたのでしょう。
 
 その後の武包の動静は不明です。1532年大友方との合戦で討死したとも肥前大野城(島原市有明町大三東戊)で病没したとも言われています。
 
 もしかしたら菊池肥前家の領地がこのあたりだったのかもしれません。
 
 
 次回は、菊池家最後の当主菊池義武の生涯と菊池家滅亡を描きます。

続菊池一族の興亡・滅亡編  ②政隆の章  後編

 なかなか政隆が登場しないとご不満の方も多いと思いますが(苦笑)、菊池宗家と菊池肥前家の関係を説明しておかなければ後々分かりにくくなると思いご紹介した次第です(汗)。
 
 
 菊池氏二十一代重朝(1449年~1493年)の時代は肥後守護家菊池氏にとって散々な時代でした。宇土為光の乱だけではなく一族の反乱が後を絶ちませんでした。あるいは先代為邦末期のことともされますが、為邦次男、重朝弟の武邦の乱などもそのひとつです。
 
 武邦はこの時16歳。益城郡豊福城に拠って反守護の兵をあげたとされます。宇土・相良・阿蘇氏が陰で糸を引いていたともされますが、16歳の少年ですから可能性は高いと思います。
 
 重朝は自ら兵を率い豊福城の弟を討ちました。1466年重朝が家督を継いだのも17歳の時でしたからひどく若い家督相続が続いた事になります。
 
 1467年中央で応仁の乱が始まると重朝は初め東軍に味方したといいます。これは西軍の有力武将大内氏を牽制するため細川勝元が筑前の少弐教頼を動かし北九州の大内勢力を攻撃した動きに呼応するものでしたが、筑後支配権を巡る宿敵大友氏も東軍であったことから、まもなく西軍に転じ大内氏と結んで筑後へ出兵します。
 
 守護家菊池氏の混乱は肥後各地に波及しました。肥後南部では八代郡の支配権を巡って相良氏と名和氏が争いを始めますし、阿蘇家でも大宮司職を巡って惟憲・惟家が争っています。
 
 重朝は肥後各地の騒乱に介入します。その一連の流れの中で起こった最大の動きが宇土為光の乱でした。
 
 1484年には菊池重朝・名和顕忠連合軍と宇土為光・相良為続の連合軍が益城木原山麓の明熊で合戦しています。このときは重朝方が勝ったそうです。宇土為光は一時相良領に逃亡しています。
 
 翌1485年には、さらに阿蘇氏の家督争いまで加わって重朝・名和顕忠・阿蘇惟家連合軍と宇土為光・相良為続・阿蘇惟憲の合戦が矢部馬門原で行われました。
 
 幕の平合戦と呼ばれるこの決戦で重朝方は敗れます。合戦の結果名和氏と相良氏の間で争われていた豊福城は相良氏の所有になりました。
 
 重朝は菊池家中に対する統制力も失いました。以後赤星・隈部・城氏ら有力家臣はそれぞれ勝手に動くようになります。能運の死後阿蘇惟長(惟憲の子)を菊池家督に迎えようとしたり隣国豊後の大友義長と結んで息子の重治に菊池氏を継がせようとしたのも元はといえば重朝の家中統制力不足が招いたものでした。
 
 一方、菊池肥前家重安は宗家への忠誠心を失いませんでした。宇土為光の乱は結局重朝の子能運の時代まで続きますが重安は同じ菊池庶流の高瀬氏と共に宗家を支え続けます。
 
 重安は文亀元年(1501年)、反守護方の隈部氏との合戦で戦死します。後を継いだのは子の政朝(1491年~1509年)。生年から考えてもわずか10歳の少年でした。
 
 母は高瀬泰朝の娘。のちに高瀬氏当主となった武基はその甥にあたります。
 
 菊池氏二十二代能運(1482年~1504年)は長年の宿敵宇土為光を滅ぼしますが、玉祥寺原で行われた為光との最後の決戦で受けた矢傷がもとでわずか23歳の若さで亡くなりました。
 
 能運は、これまで支えてくれた肥前家に報いるため遺言で後継に政朝を指名します。政朝は政隆と改名し菊池宗家二十三代と肥後守護職を継承しました。この時14歳。
 
 
 しかし、肥後守護職菊池家の内情はガタガタでした。菊池家臣団の中にも政隆の家督相続に不満をもつものが多くいました。有力家臣内古閑次郎左衛門尉を中心に22名が連名して阿蘇惟長に菊池家督を継ぐよう要請します。これは明らかに反逆でした。しかし隈部・赤星・城ら有力家臣が同調し惟長は隈府(菊池市)に入り家督を相続(というより簒奪)し、菊池武経(たけつね)を名乗ります。惟長、菊池家臣団は大友義長とも裏で通じていたといわれます。
 
 
 14歳の政隆は、惟長の隈府入りに抵抗したそうですが敵方に大友勢まで加勢したので多勢に無勢、敗れて所領の玉名に退去します。
 
 惟長あらため武経の隈府入りは1505年のことでした。惟長は阿蘇大宮司職を弟惟豊に譲って菊池家に入ります。
 
 1505年10月合志郡木庭で両者は合戦しました。このとき城政冬、隈部忠豊、内古閑重載らが政隆方に寝返ったそうです。これらは系図を見るとそれぞれの嫡流ではありませんから同じ家臣団の一族間でも政隆・武経の正嫡論争があったのだと想像されます。
 
 終始政隆方だったのは母の実家高瀬氏や玉名郡内の諸将(小代氏など)だけだったような印象があります。
 
 しかし政隆はこの合戦で敗れます。まだ二十歳にもならない少年、しかも劣勢の中では勝利は難しかったのでしょう。政隆は筑後に逃亡を余儀なくされました。
 
 しかし政隆方の動きも活発で、まもなく政隆は本拠の玉名を回復しました。二年後の1507年7月今度は大友義長が中心になって攻めよせました。これを見ても武経は大友氏の傀儡政権にすぎなかった事が分かりますね。
 
 大友・武経の連合軍は木庭・山鹿・隈本・山本・内古閑と政隆方の諸城を攻め落としました。これを見ると武経は菊池周辺しか抑えていなかったように見受けられます。隈部・赤星・城氏も次第に武経に距離を取り始めていました。
 
 1507年8月20日、政隆は大友・武経連合軍と本拠玉名郡石貫で戦います。しかしここで決定的な敗北を喫しました。
 
 政隆は小代氏を頼り小岱山筒ヶ岳城に籠城しますが間もなくここも陥落、肥前島原に逃亡します。1509年城政元、隈部鎮治の後押しで再び高瀬に上陸、玉名郡臼間荘桜馬場で大友方の将朽綱親満に敗れ、久米原でも敗北を重ね万事休しました。
 
 大友軍に捕らえられた政隆は、合志郡久米庄安国寺で自害させられます。わずか19年の波乱に満ちた生涯でした。
 

続菊池一族の興亡・滅亡編  ①政隆の章  前編

 覚えている方はほとんどいない(というか興味ない)と思いますが、かなり以前名族菊池一族の興亡 という記事を書きました。そのなかで嫡流家である菊池宗家の滅亡(嫡流・能運【よしゆき】の死とその子孫が日向米良氏として残った)については詳しく書きましたが、肥後守護職菊池家としての滅亡に関してはさらっと触れただけでした。
 
 今回、資料がそろいましたので能運以後の政隆(政朝)、武包(たけかね)、義武(大友義長の次子、養子)の歴史を述べたいと思います。
 
 
 
 その前に、菊池宗家と深い関わりのある菊池肥前家について書かなければなりません。菊池肥前家は菊池家十二代武時の六男、武澄(たけずみ、生年不明~1358年)から始まります。兄十三代武重と共に建武の新政に功をあげ肥前守を拝命しました。その後南北朝の戦乱に突入すると一族を説き有能な庶弟豊田十郎武光の菊池家督相続を実現させ南朝方の有力な将として主に肥前・筑後方面で活躍します。その子孫は代々肥前守を称したことから菊池肥前家と呼ばれました。
 
 一方、肥後玉名郡石貫村に大智禅師(だいちぜんじ)を招き紫陽山広福寺を創建したことでも知られています。
 
 武澄の子武安、孫武照も南朝・菊池宗家のために戦い続け劣勢な九州南朝方を支えました。しかし肥前家五代貞雄(武照の孫)の代に北朝方との通謀を疑われ貞雄一族は粛清されました。永享年間(1429年~1441年)の出来事だといわれています。
 
 菊池肥前家は、託摩氏に養子に入った武澄次男武元の家系、肥前に残った武安の次子友安の子孫である姉川氏などが残ります。
 
 菊池肥前家は、広福寺創建でも分かる通り玉名郡玉名荘(現在の玉名市北部から和水町にかけて)と肥前髙来郡(長崎県の諫早市から島原半島全域)に所領も持っていたそうです。さらに養子として託摩氏を継いだため詫摩郡本山城(場所は不明・熊本市東部か?)も受け継ぎます。
 
 菊池肥前家嫡流貞雄の粛清ですが、調べてみると全くの濡れ衣でもなかったようなのです。というのも肥後玉名荘の所領を北朝九州探題今川了俊に安堵されています(澄安時代?)。南北朝時代、全国の武士は家督相続その他の理由で一族が北朝南朝に分かれて争ったそうですが菊池一族も例外ではなかったのでしょう。
 
 しかも菊池家の場合、嫡流を継いだ武光系にとって相続の経緯から肥前家は遠慮しなければいけない家だったらしく、目の上のたんこぶだったのでしょう。
 
 断絶した菊池肥前家は、宗家十九代持朝の子為安が継嗣します。菊池肥前家は南朝色の強い菊池一族の中では例外的に北朝(九州探題渋川氏)の受けが良い一族だったらしく、南北朝合一後も家名を保つ必要があったのだと思います。肥前家系の姉川氏も渋川氏→少弐氏と仕えていますし。
 
 為安は玉名荘を受け継ぎ、彼が没するとその子徳鶴丸が継承しました。徳鶴丸は重安と名乗ります。
 
 宗家では十九代持朝(1409年~1446年)の時代が菊池氏絶頂期だったといわれています。1431年時勢に暗い父兼朝を追放して家督を継ぐと大内氏と結んで少弐氏を攻め足利幕府色を鮮明に打ち出します。幕府の覚えもめでたく肥後守護の他に筑後守護を拝命しました。
 
 菊池一族内の統制も強化し、庶流宇土忠豊の後継に子の為光を送り込むなど勢力拡大に努めました。為安の肥前家継承もこの流れの一環でした。
 
 しかし、1446年持朝が38歳で死去したことにより時勢は混沌としてきました。後を継いだのは嫡男為邦(ためくに、1430年~1488年)。しかしまだ16歳だったため家中の統制に苦労します。
 
 幕府も為邦の継承を不安視し、大友親繁に筑後半国の守護職を与えたことから菊池氏と大友氏は筑後の支配権を巡って争いはじめました。為邦は弟肥前為安を大将として筑後へ送り込みますが筑後高良山の合戦で菊池・筑後国人連合軍は大友軍に敗北、為安も戦死してしまいます。この時三池親在、黒木之実ら筑後国人衆も討死しているそうです。
 
 筑後を大友氏に奪われ為邦は失意のうちに亡くなりました。二十代為邦の時代が菊池氏衰退の始まりだとされます。次の重朝、能運の時代は有力庶家宇土為光との抗争に終始します。
 
 菊池宗家の衰退を見て、重朝の叔父宇土為光が家督相続の野望を抱いたのが原因でした。宇土為光の乱に関しては過去記事で詳しく紹介していますのでここでは略します。
 
 肥前家為安の子重安は一貫して菊池宗家側で戦いました。長くなるので続きは後編で…。

ルーマニア革命の衝撃

 1989年12月21日、ルーマニア大統領チャウシェスクは共産党本部庁舎前広場に10万人の群衆を集め演説をしていました。
 
 その少し前、12月16日ルーマニア西部の町ティミショアラにおいてハンガリー系市民が民主化を求めてデモを起こし、それに治安部隊が発砲して無差別殺戮するという痛ましい事件が起こっていました。
 
 今回の演説でチャウシェスクがこの事に触れるかもしれないと世界中が注目し、確かリアルタイムで私も中継を見ていた記憶があります。
 
 
 ところが、演説の途中群衆の中で混乱が起こります。私はチャウシェスクの演説に怒った民衆が立ち上がったのかと思っていたんですが、後で調べてみるとティミショアラ虐殺生き残りのハンガリー系市民の若者が爆弾を爆発させ、警察が彼を射殺。群衆がパニックを起こしたものだと分かります。
 
 
 顔色が変わる独裁者。中継していたルーマニア国営放送は番組を中断。
 
 
 後に分かった事ですが、チャウシェスクは演説を中止しバルコニーを引っ込みます。そのまま集会は市民虐殺に憤った学生市民によってチャウシェスク独裁体制糾弾大会へと発展します。これが歴史に残るルーマニア革命の始まりでした。
 
 
 元々ルーマニアは第2次大戦の敗戦により王政が崩壊、ソ連の後押しによって共産党政権が誕生していました。
 
 ルーマニア共産党の指導者、ニコラエ・チャウシェスクは大統領に就任し独裁体制を敷きます。産油国でもあるルーマニアは、他の東側諸国とは違いソ連とも一線を引く独自路線を歩んでいました。
 
 しかし1980年代に入ると経済政策の失敗により国家は疲弊します。そんな中支配者であるチャウシェスクは巨大な宮殿を築くなどぜいたくの限りを尽くしていました。妻であるエレナや後継者とみなされた次男のニクらは、権力を笠に民衆を苦しめます。
 
 
 時代はポーランドを皮切りに東側諸国に民主化の波が訪れていました。ルーマニア国内でも民主化を求め各地でデモが湧きおこります。
 
 ところがチャウシェスクは民衆の声など聞く耳持たず、逆に弾圧によって黙らせようとしました。一説ではソ連軍に介入を依頼したともいわれています。さすがにこれはゴルバチョフに断られました。
 
 
 ティミショアラ虐殺事件は、多数の市民の遺体が発見された事によって世界中に報じられます。ですから12月21日の演説は世界のメディアが注目していたのです。
 
 
 
 群衆の怒りを目の当たりにしたチャウシェスクは、国防相に群衆への発砲を命令します。しかし国防相はこれを拒否。怒ったチャウシェスクは彼を処刑しました。
 
 公式発表は自殺でしたが、誰も信じませんでした。そればかりか国防相処刑の噂は軍首脳を恐慌状態に陥らせ大統領に反旗を翻すきっかけとなりました。
 
 後で考えれば国防相処刑がターニングポイントだったと思います。軍の大半が大統領から離反、広場に集まった市民と合流し革命運動を開始しました。
 
 
 しかし、チャウシェスクには彼に忠誠を誓う秘密警察がありました。数十万人規模ともいわれ軍隊よりも優遇された大統領の親衛隊とも呼ばれる部隊です。
 
 
 首都ブカレストを中心に、市民と軍から成る革命軍と秘密警察は各地で激しい銃撃戦を始めます。あくる22日になると圧倒的な国民の支持を受けた革命軍によって政府機関や国営テレビ局などが制圧されます。私も実況中継でこれを見た記憶がありますが衝撃的な光景でした。
 
 
 チャウシェスクは非常事態宣言を出して事態を収拾しようとしますが、これを断念。ヘリコプターで逃亡を図ります。しかし国営テレビは革命軍が掌握。逃亡の様子を生中継されるというお粗末さでした。
 
 首都に残った秘密警察軍は革命軍と激しい市街戦を演じます。捕まったら確実に殺されるので彼らも必死でした。独裁時代国民を弾圧した張本人だったからです。
 
 
 12月23日、さらに多くの市民が革命軍に参加、次第に秘密警察軍の抵抗は弱まります。18時、逃亡したチャウシェスク夫妻がルーマニア南部の町トゥルゴヴィシュテで逮捕されたというニュースが入りました。
 国民全部を敵に回した独裁者に逃れるすべはありませんでした。その後も市街戦は延々と続きます。そんな中大統領派と目される人物の逮捕、戦死の報告が次々と入りました。
 ニュースが入るたびに革命派は勢いづき大統領派の抵抗は弱まりました。
 12月25日、チャウシェスク夫妻は特別軍事法廷で大量虐殺・不正蓄財などの罪で死刑判決を受けます。即日刑は執行されました。裁判の模様、そして銃殺の様子まで世界中で流されまだ若かった私も強いショックを受けました。
 12月26日、革命軍は暫定政権を樹立、大統領夫妻の処刑を発表しました。大統領派の抵抗は次第に弱まり間もなく終息していきます。
 わずか数日の出来事、そして世界中でリアルタイムで見られた革命劇。その強烈な記憶は今でも残っています。特に処刑されたチャウシェスク夫妻の画像はトラウマでした。
 民衆の怒りはそれだけ恐ろしいという事です。私は部外者ですからルーマニア革命についての論評は避けます。しかし為政者が私利私欲に走り国民を苦しめれば最後はこうなるという教訓を与えてくれたといえるでしょう。
 民主党政権の皆さん、今日本人は竹島や尖閣で特亜に怒っています。民衆の怒りが自分たちに向く前に何とかしないといけないのではありませんか?

後漢時代の中国大陸の人口

 たまたま後漢代の官制を調べていて、その副産物として当時の州ごとの人口資料が見つかりました。
 
 本当は郡別で載っていて、戸数と人口数があったんですが全部紹介すると煩雑になりすぎるので大きな区分の州別で纏めてみました♪
 
 一般の方にはまったく需要が無いと思いますが、資料保存のために記事にしておきます。
 
 
 ちなみに、漢代の行政区分は大きな方から「州」「郡」「県」となります。
 
 ◇州の長官は刺史(行政権のみ)あるいは牧(軍事権もある)
  ただし首都(洛陽)を含む特別区は司隷校尉(しれいこうい)が統括。
 
 ◇郡の長官は太守
 
 ◇県の長官は県令
 
 
 
 
 それでは州別人口を見ていきましょう♪(四捨五入)
 
◇幽州(ゆうしゅう)…204万
 
◇并州(へいしゅう)…70万
 
◇冀州(きしゅう)…593万
 
◇青州(せいしゅう)…370万
 
◇兗州(えんしゅう)…405万
 
◇徐州(じょしゅう)…280万
 
◇豫州(よしゅう)…618万
 
◇司隷(しれい)…310万
 
◇涼州(りょうしゅう)…42万
 
◇楊州(ようしゅう)…434万
 
◇荊州(けいしゅう)…626万
 
◇益州(えきしゅう)…724万
 
◇交州(こうしゅう)…110万
 
 
 意外だったのは洛陽、長安を含む司隷が310万しかいないこと。そのうち首都洛陽だけで100万ですから人口密度的には高くないみたいです。
 
 豫州は中原の真っただ中だけにさすがに人口が多いですね。曹操が戦乱で荒廃した洛陽を捨てて豫州の許昌(頴川郡許県)に都を移したのも納得できます。
 
 
 一方現在の湖北・湖南省にあたる荊州と四川省にあたる益州の人口の多さ!二つ合わせると1300万を超えます!諸葛亮の天下三分の計は人口にも裏打ちされたものだったんですね。
 
 
 ちなみに三国時代の人口データと違うと思われる三国志ファンの方もおられると思います。
 
 一般には戦乱で人口が激減し後漢代の十分の一になったと説明される事が多いですが、私は中央政府の統制力が低下し国土の隅々まで人口把握できなくなっただけで、ある程度減ったにしてもそこまで激減はしなかったと解釈しています。
 
 
 また、人口は課税対象になるので広大な私有地を持った豪族たちは部民の数を正直に申告しなかっただろうと推理しています。それを強制する政府の力もなかったはずですから。強制でもしたら反乱起こされますからね(苦笑)。
 
 
 だいたい漢代を通して人口5000万前後で推移したのだと思います。

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