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2012年9月 1日 (土)

続菊池一族の興亡・滅亡編  ②政隆の章  後編

 なかなか政隆が登場しないとご不満の方も多いと思いますが(苦笑)、菊池宗家と菊池肥前家の関係を説明しておかなければ後々分かりにくくなると思いご紹介した次第です(汗)。
 
 
 菊池氏二十一代重朝(1449年~1493年)の時代は肥後守護家菊池氏にとって散々な時代でした。宇土為光の乱だけではなく一族の反乱が後を絶ちませんでした。あるいは先代為邦末期のことともされますが、為邦次男、重朝弟の武邦の乱などもそのひとつです。
 
 武邦はこの時16歳。益城郡豊福城に拠って反守護の兵をあげたとされます。宇土・相良・阿蘇氏が陰で糸を引いていたともされますが、16歳の少年ですから可能性は高いと思います。
 
 重朝は自ら兵を率い豊福城の弟を討ちました。1466年重朝が家督を継いだのも17歳の時でしたからひどく若い家督相続が続いた事になります。
 
 1467年中央で応仁の乱が始まると重朝は初め東軍に味方したといいます。これは西軍の有力武将大内氏を牽制するため細川勝元が筑前の少弐教頼を動かし北九州の大内勢力を攻撃した動きに呼応するものでしたが、筑後支配権を巡る宿敵大友氏も東軍であったことから、まもなく西軍に転じ大内氏と結んで筑後へ出兵します。
 
 守護家菊池氏の混乱は肥後各地に波及しました。肥後南部では八代郡の支配権を巡って相良氏と名和氏が争いを始めますし、阿蘇家でも大宮司職を巡って惟憲・惟家が争っています。
 
 重朝は肥後各地の騒乱に介入します。その一連の流れの中で起こった最大の動きが宇土為光の乱でした。
 
 1484年には菊池重朝・名和顕忠連合軍と宇土為光・相良為続の連合軍が益城木原山麓の明熊で合戦しています。このときは重朝方が勝ったそうです。宇土為光は一時相良領に逃亡しています。
 
 翌1485年には、さらに阿蘇氏の家督争いまで加わって重朝・名和顕忠・阿蘇惟家連合軍と宇土為光・相良為続・阿蘇惟憲の合戦が矢部馬門原で行われました。
 
 幕の平合戦と呼ばれるこの決戦で重朝方は敗れます。合戦の結果名和氏と相良氏の間で争われていた豊福城は相良氏の所有になりました。
 
 重朝は菊池家中に対する統制力も失いました。以後赤星・隈部・城氏ら有力家臣はそれぞれ勝手に動くようになります。能運の死後阿蘇惟長(惟憲の子)を菊池家督に迎えようとしたり隣国豊後の大友義長と結んで息子の重治に菊池氏を継がせようとしたのも元はといえば重朝の家中統制力不足が招いたものでした。
 
 一方、菊池肥前家重安は宗家への忠誠心を失いませんでした。宇土為光の乱は結局重朝の子能運の時代まで続きますが重安は同じ菊池庶流の高瀬氏と共に宗家を支え続けます。
 
 重安は文亀元年(1501年)、反守護方の隈部氏との合戦で戦死します。後を継いだのは子の政朝(1491年~1509年)。生年から考えてもわずか10歳の少年でした。
 
 母は高瀬泰朝の娘。のちに高瀬氏当主となった武基はその甥にあたります。
 
 菊池氏二十二代能運(1482年~1504年)は長年の宿敵宇土為光を滅ぼしますが、玉祥寺原で行われた為光との最後の決戦で受けた矢傷がもとでわずか23歳の若さで亡くなりました。
 
 能運は、これまで支えてくれた肥前家に報いるため遺言で後継に政朝を指名します。政朝は政隆と改名し菊池宗家二十三代と肥後守護職を継承しました。この時14歳。
 
 
 しかし、肥後守護職菊池家の内情はガタガタでした。菊池家臣団の中にも政隆の家督相続に不満をもつものが多くいました。有力家臣内古閑次郎左衛門尉を中心に22名が連名して阿蘇惟長に菊池家督を継ぐよう要請します。これは明らかに反逆でした。しかし隈部・赤星・城ら有力家臣が同調し惟長は隈府(菊池市)に入り家督を相続(というより簒奪)し、菊池武経(たけつね)を名乗ります。惟長、菊池家臣団は大友義長とも裏で通じていたといわれます。
 
 
 14歳の政隆は、惟長の隈府入りに抵抗したそうですが敵方に大友勢まで加勢したので多勢に無勢、敗れて所領の玉名に退去します。
 
 惟長あらため武経の隈府入りは1505年のことでした。惟長は阿蘇大宮司職を弟惟豊に譲って菊池家に入ります。
 
 1505年10月合志郡木庭で両者は合戦しました。このとき城政冬、隈部忠豊、内古閑重載らが政隆方に寝返ったそうです。これらは系図を見るとそれぞれの嫡流ではありませんから同じ家臣団の一族間でも政隆・武経の正嫡論争があったのだと想像されます。
 
 終始政隆方だったのは母の実家高瀬氏や玉名郡内の諸将(小代氏など)だけだったような印象があります。
 
 しかし政隆はこの合戦で敗れます。まだ二十歳にもならない少年、しかも劣勢の中では勝利は難しかったのでしょう。政隆は筑後に逃亡を余儀なくされました。
 
 しかし政隆方の動きも活発で、まもなく政隆は本拠の玉名を回復しました。二年後の1507年7月今度は大友義長が中心になって攻めよせました。これを見ても武経は大友氏の傀儡政権にすぎなかった事が分かりますね。
 
 大友・武経の連合軍は木庭・山鹿・隈本・山本・内古閑と政隆方の諸城を攻め落としました。これを見ると武経は菊池周辺しか抑えていなかったように見受けられます。隈部・赤星・城氏も次第に武経に距離を取り始めていました。
 
 1507年8月20日、政隆は大友・武経連合軍と本拠玉名郡石貫で戦います。しかしここで決定的な敗北を喫しました。
 
 政隆は小代氏を頼り小岱山筒ヶ岳城に籠城しますが間もなくここも陥落、肥前島原に逃亡します。1509年城政元、隈部鎮治の後押しで再び高瀬に上陸、玉名郡臼間荘桜馬場で大友方の将朽綱親満に敗れ、久米原でも敗北を重ね万事休しました。
 
 大友軍に捕らえられた政隆は、合志郡久米庄安国寺で自害させられます。わずか19年の波乱に満ちた生涯でした。
 

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