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2012年10月

2012年10月 1日 (月)

ソ連参戦時における関東軍の状況

 最近「関東軍全史」(新人物文庫)や「関東軍全戦史」(別冊歴史読本 戦記シリーズ)などを読み、関東軍に関する関心が非常に高まっております。
 
 
 かつて「泣く子も黙る」と恐れられた関東軍が、いかに物量の差があったとはいえ1945年8月9日ソ連侵攻で何故ろくに防衛戦もせずああも簡単に滅び去ったか?常々わたしは大いに疑問を持っていました。
 
 といいますのも他の戦線では、硫黄島にしても沖縄にしても最終的には敗れるにしても米軍に一度は痛撃を与えているのに、早くから準備して防御陣地も十分だったはずの関東軍がほとんど抵抗のあともないくらいに敗北したのか?もし関東軍がもう少し頑張ってくれたら満洲にいた邦人で助かった人も多かったのではないか?
 
 歴史にIFは禁物ですし、彼ら日本軍将兵も一生懸命頑張っただろうから後世の我々が批判するのは酷だとは思います。ただ調べれば調べるほど、あれが精いっぱいだったという事実が分かり暗澹たる気持ちになりました。
 
 
 なぜなら、精鋭を誇った関東軍も戦局の悪化に伴い精鋭師団を引き抜かれ1945年当時まともな戦力を持った師団が一つもなかったからです。
 
 
 関東軍の最盛期は1942年だといわれています。その当時関東軍に属していた精鋭師団の終戦時の配置を調べてみると、例えば第1師団は比島戦線、第9師団は台湾、第24師団は沖縄で玉砕とほとんど満州に残っていないのです。
 
 満洲に残っていた師団で、戦力になりそうなものを拾ってみても第39師団は1939年創設の治安師団あがり、第59師団も1942年創設でこれももとは治安師団。第63師団は1943年創設で2つの独立混成旅団を合わせた治安師団と、常備師団や1939年以前に編成された一線級師団と比べると戦闘力で6~7割(これでもかなり贔屓目)と大きく劣っていました。
 
 それ以外の師団は、100番台以上の1944年以降に創設されたものばかりで訓練はおろか兵器さえも十分に行き渡ってない惨憺たる状況でした。
 
 帝国陸軍師団の精鋭度を調べる簡単な方法は師団番号を見る事です。若い番号で日露戦争に参加したくらいなら間違いなく精鋭師団。これは常備師団といって早くから整備されていました。次に1939年以前、支那事変に際して編成された師団。これも支那大陸での実戦を想定して創設されたため即戦力です。最悪なのは100番台以降の急造師団。ろくに武器もなく訓練も行き届いてない部隊と思ってほぼ間違いありません。
 
 なかには小笠原兵団(第109師団)があるじゃないか?と仰る方もいるでしょうが、109師団は兵の質としては精鋭師団に劣っていたのだと思います。ただ指揮官(栗林中将)が優れていたためあれだけ抵抗できたのでしょう。
 
 1945年の関東軍は、質が落ちたため員数合わせだけで急増された言わば張り子の虎状態だったのです。酷いのになると野砲兵連隊もましてや山砲兵連隊もなく、代わりに噴進砲(ロケット)部隊が入るという有様。
 
 「ロケット砲?カッコいいじゃん!」なんて思っている人がいたら大間違いです。ネットで当時の噴進砲を調べて見てください。まだ迫撃砲連隊のほうがましなくらいです。威力はあったかもしれませんが、機動力は無きに等しい。おそらく牽引車両も馬匹もなかったでしょうからその場に張り付いて全滅を待つだけという怖ろしい状態だったと思います。
 
 全盛期の精鋭師団が他戦線に引き抜かれて一つも残っていない状況、治安師団が最強戦力という絶望的な中よく頑張ったと褒めてあげるべきかもしれません。
 
 しかも現地動員で多くの在満邦人が徴兵され、戦後はシベリア抑留の辛酸を舐めたのですから悲しすぎます。
 
 
 こんな状況でも、国境線は簡単に突破されたものの終戦まで占領された満洲の大都市は一つもなかったそうですからよく頑張りました。在満邦人への連絡が遅れ犠牲者を増大させたなど不手際は数多くありますが、少なくとも戦闘に限っては合格点をあげて良いような気がします。
 
 
 日本は、大東亜戦争の教訓を学ぶべきです。日頃から防衛力を整えなければ結局犠牲になるのは一般国民です。尖閣問題も防衛問題をなおざりにしてきた結果ですし、竹島などまさに日本人に覚悟がないからいまだに不法占拠されたままなのです。北方領土も然り。
 
 
 今度こそ我々は間違えてはいけません。戦争をしないためには必要十分な防衛力と「いざとなったら戦争も辞さず」という国民の覚悟なのです!

坂東八平氏Ⅱ 貞盛の子孫とそれ以外

 NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」を久々に観賞して以来、関東武士団に対する興味が尽きません。
 
 承平天慶の乱、中でも平将門の乱の鎮圧は後の武士政権の萌芽だったように思います。例えば源経基。承平8年(938年)武蔵介として赴任し、上司の武蔵権守興世王と共に現地豪族と揉め、仲裁に入った平将門が自分を殺しに来たと疑心暗鬼になり京都に逃げ帰って将門を讒言したのが反乱の大きな原因の一つでした。
 
 源という名前から想像できるように、彼こそが源義家、頼朝などを出した清和源氏、その中でも河内源氏の始祖です。
 
 後に武家政権を樹立する源氏の初代がここまで情けない人物だという事は滑稽の極みですが、最終的に将門が反乱を起こすため怪我の功名で讒言の罪を許されたばかりか、征東将軍の副将となって関東に再び入るほどの強運(というより悪運か?)の持ち主でした。
 
 ただ将門の乱自体は現地の大豪族である藤原秀郷、平貞盛らの活躍ですでに鎮圧された後だったのでこの時は恩賞に与れませんでした。さらに西国の藤原純友の反乱鎮圧にも赴きますが、これも小野好古が鎮圧した後。馬脚を現さずに済みます。
 その後各地の国司を歴任し最後は鎮守府将軍に任ぜられるという強運ぶりでした。繁栄する一族の初代には、能力よりもこのような強運が必要なのだと改めて考えさせられます。
 ところで関東において、反乱鎮圧に大きな功績を上げた藤原秀郷、平貞盛に対する恩賞は大きなものでした。まず功績第一の秀郷には従四位下下野守、武蔵守、鎮守府将軍という田舎豪族には過ぎたる極官が与えられます。貞盛も最初は従五位上右馬助でしたが次第に累進して陸奥守、丹波守を歴任、最後にはやはり従四位下鎮守府将軍になっています。
 従四位というのは、五位と違って中央で累進できる可能性を持った官位なのです。ただ秀郷の子孫は中央での累進に失敗します。秀郷の嫡子千晴は安和の変で源高明に味方したため失脚。もう一人の嫡子千常(どちらが兄か弟かは不明)の子孫は関東の大族小山(おやま)氏や結城氏として残りました。
 貞盛流の伊勢平氏、経基流の河内源氏が摂関家や院と結びついて最終的には武家政権を樹立する事は皆さんご存知でしょう。
 では、坂東に残ったそれ以外の平氏がどうなったのか?私はとても気になりました。
 まず、貞盛の弟繁盛は兄ほど朝廷に評価されなかった不満は持ち続けましたが常陸大掾(たいじょう 三等官)に任ぜられ子孫に代々官職を引き継ぎます。すなわち常陸大掾氏です。
 一方、国香(貞盛の父)戦死後坂東平氏の棟梁になった国香の弟良兼率いる房総平氏ですが、その後どうなったのかよく分かりません。ただ村岡五郎平良文の子孫と称する上総氏、千葉氏の地盤がまさにこのあたり(房総半島)なので、その繋がりが噂されます。といいますのも、平良文は初期の資料では出てこず実在が疑われているのです。
 一応、現在では千葉氏、上総氏は村岡五郎良文の子孫と言われているので、その線で話を進めますが千葉氏、上総氏共通の祖は将門に続いて関東で大反乱を起こした平忠常なのです。
 忠常は、長元元年(1028年)から四年に渡る大反乱をおこし、源頼信の追討を受けますが降伏します。忠常本人は京都に移送される途中病死しますが、その子孫は許されました。さすがに関東に大きな地盤を持つ房総平氏を根絶やしにはできなかったのでしょう。
 忠常の孫、常長の時に長男常時が上総介、次男常兼が下総介に任ぜられそれぞれ上総氏、千葉氏の祖となりました。
 嫡流常時の孫広常は、頼朝挙兵の時二万騎を集めてこれを助けたといわれますからその勢力の大きさが想像されます。広常は驕慢の振る舞いを頼朝に嫌われ粛清されますが、これは頼朝が広常の勢力を恐れたからでしょう。
 これで房総平氏の嫡流は弟常兼の子孫千葉氏に移ります。千葉氏は頼朝の上総氏への対抗上からか大いに幕府内で優遇され相馬氏、国分氏ら多くの支流を生み栄えました。
 村岡五郎良文流では、他に江戸氏、葛西氏、畠山氏(平姓 重忠を生んだ)、三浦氏、蘆名氏などが有名ですね。
 坂東八平氏で、嫡流貞盛の子孫以外で関東に残った者たちは中央政界の荒波に揉まれなかった事で生き残れたのでしょう。そして中央で出世した貞盛流伊勢平氏に対する反感から源氏の頼朝に味方し鎌倉幕府樹立につながったのだと思います。

坂東八平氏の謎

 NHK大河ドラマ平清盛のあまりのつまらなさに、ひさしぶりに懐かしの大河「風と雲と虹と」を見ました。平将門と藤原純友を主人公とし承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱を描く作品ですが、昔の大河はものすごく面白いですね。
 
 その中でふと坂東八平氏って本当に平良文の子孫だろうか?と疑問に思ったんです。といいますのも国香→貞盛の嫡流ラインは伊勢平氏として後の平氏政権につながるので納得なんですが、国香戦死後房総平氏の棟梁として、反逆した将門と対立した国香の弟良兼や良正の子孫がどうなったかあまりにも曖昧なのです。
 
 金魚のフンの良正はともかく、平高望の正室の子である国香、良将(将門の父)、良兼は父から広大な土地を受け継いだはずだし実際将門との合戦ではあわせて四千騎(当然誇張はあるでしょうが)も集めたほどの大領主でしたから。
 
 
 とここまで書いてきてふと気付いたんですが、一般の方は坂東八平氏自体ご存じないのではないか?と(苦笑)。
 
 
 【坂東八平氏】とは…平安時代中期に坂東(関東地方)に土着して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれた。主に秩父氏上総氏千葉氏中村氏三浦氏鎌倉氏の他、これらの諸氏から派生した土肥氏梶原氏大庭氏長尾氏などが入るが、数え方はその時々の各氏族の勢力により、様々である。(ウィキペディアより)
 
 
 要するに関東地方で平氏の子孫と称する千葉氏や三浦氏など有名どころ全部のことです。
 
 
 彼らは皆、平高望の妾腹で武蔵村岡に土着したことから村岡五郎と称した良文の子孫を名乗っています。
 
 ただ異説では、長尾氏などは平良兼の子孫という説もあるんです。ですから厳密に調べたら良文の子孫じゃない可能性も高いと思います。
 
 
 ではなぜ彼らが良文の子孫を称したかですが、私が考えるにどうもその方が関東支配に都合か良いと判断したのではないでしょうか?
 
 というのも、村岡五郎良文は国香らと異母兄弟である事もあって将門の乱では甥の将門に味方してるようなのです。結局将門は朝廷側の反撃にあって滅ぼされますが、関東の人々に後々まで慕われたといいます。
 
 
 とすれば、将門を滅ぼした側の国香、良兼、良正の子孫と称するよりは将門に味方した良文の子孫と言うほうが支配に都合が良いと考えたのではないでしょうか?案外桓武平氏嫡流の貞盛の子孫が関東に残れず(北条氏などは伊豆に逼塞してますし)伊勢に本拠を移したのもこのような経緯があったのかもしれません。何の学術的裏付けもないのであくまで想像ですが…。
 
 相馬氏も平将門の子孫と称していますが千葉氏の支流っぽいですし、三浦・大庭・長尾・梶原・鎌倉の五氏の祖となった鎌倉権五郎景政などはどうも良兼の子孫らしいといわれています。あえていえば後に大反乱を起こした平忠常も、本拠地の関係からすれば良兼の子孫という可能性は高いと思います。
 
 
 こういうのは言った者勝ちですからね。何世代も経れば誰も真実を追求できないでしょうから(苦笑)。
 
 皆さんはいかが思われますか?というより誰も読んでないか?(爆)

西郷隆盛と会津藩家老西郷頼母(たのも)は遠い親戚???

 発端は「西郷隆盛って菊池一族だよな?誰が初代だっけ?」という素朴な疑問でした。もちろん自称でしょうから本当に子孫かどうかも分かりませんが、一応西郷家は肥後守護職菊池家庶流西郷氏の流れで、戦国時代薩摩に逃れてきて島津氏に仕えたという事になっています。
 
 どうして肥後(熊本県)の西郷氏が薩摩(鹿児島県)に来たか?ですが、これは同じ菊池家庶流で菊池家三家老の一人赤星氏に従って薩摩に来たのではないか?と推理しています。
 
 というのも戦国時代、肥後隈府(わいふ)城主赤星統家は肥前の戦国大名竜造寺隆信に領地を追われ薩摩島津を頼って逃げてきているんです。
 
 
 で、「そういえば肥前にも西郷氏っていたな?これも菊池関係かな?」と思ったらどんぴしゃり!菊池家始祖則隆の子で西郷太郎を称した政隆が初代だそうです。
 
 肥後の西郷氏がいつ肥前諫早に来たかというと、どうも南北朝時代だったようです。一時菊池武光が懐良親王を奉じて九州を統一した時に領地を貰った可能性が高いですね。武家家伝では初代政隆の時に諫早を領したようには書いてますが…。
 
 
 ところで一見関係がなさそうな三河西郷氏はどうでしょう?徳川家康関係の小説などをお読みじゃない方にはチンプンカンプンかもしれませんが、三河(愛知県東部)にも西郷氏はいたんです!
 
 
 地理的にここまで離れている両西郷氏をつなぐカギは、以前記事にした仁木義長です。足利尊氏の重臣、仁木義長は一色範氏と共に短期間ではありますが九州探題になっています。
 
 その時肥前西郷氏の嫡流盛正が、義長に仕えたといわれます。ただこれは三河西郷氏がそう称しているだけであって肥前西郷氏の系図では確認できないので何とも言えません。箔をつけるために勝手に嫡流と称した可能性も?
 
 
 仁木義長は九州探題の任を解かれ三河を始め畿内を中心に9カ国の守護を兼任し室町幕府内で権勢を誇ります。西郷盛正は義長に人生を賭け一族を引き連れて三河に移り住みました。正平年間(1346年~1369年)といいますからまさに南北朝時代です。
 
 三河西郷氏ですが、三河国八名に移り住み、そこを西郷庄と名付けます。三河西郷氏初代盛正は一時三河守護代にもなったそうです。しかし仁木義長の没落と共に泣かず飛ばず、駿河から今川氏が勢力を伸ばしてくるとこれに従い、新興勢力松平清康(徳川家康のじっちゃん)が興るとこれに乗り換えるなど戦国の世でめまぐるしい変転を繰り返しました。
 
 三河西郷氏は萩平城・西川城・月ヶ谷城などの支城を有し、五本松城(愛知県豊橋市石巻中山町)を本城としていました。これってもしかして本家の肥前西郷氏より領地が大きいかもしれません(笑)。
 
 
 三河西郷氏は、今川と松平の間をふらふらし最後は徳川家康に仕えます。西郷家員は家康の下で武功を重ね、関東入部後下総国千葉郡生実で五千石。西郷氏はその後安房東条で一万石の大名にもなりますが寿員の代に職務怠慢で所領半減、結局五千石の旗本となりました。
 
 
 会津藩家老西郷頼母はこの三河西郷氏の一族です。徳川家康の愛妾西郷局も五本松城主西郷正勝の孫(名は昌子)で従兄・西郷義勝の継室になり、夫の戦死後は母の弟・西郷清員の養女として家康に望まれ側室になったといいますからこれも西郷一族。
 
 ちなみに西郷局は二代将軍秀忠、松平忠吉の生母で天正17年(1589年)38歳の若さで亡くなっています。とても美人で、性格も温和だったと伝えられています。
 
 
 肥前西郷氏、三河西郷氏はともに菊池氏と同様鷹の羽の家紋(枚数は違いますが)を使用していますので、真相はどうであれ菊池一族と称していたのは間違いなさそうです。
 
 
 歴史は面白い!それにしても戊辰戦争で攻める側の西郷隆盛と攻められる側の会津藩家老西郷頼母が遠い親戚だったとは驚きですね♪
 
 
 
 
追加情報:三河西郷氏は最初額田郡南部(愛知県岡崎市、幸田町)に勢力があり、15世紀三河守護代西郷稠頼とその子頼嗣によって岡崎城は築城されました。
 
遠江国境に近い八名郡を領した西郷氏の他に支流がいくつか枝分かれしていそうです。

日本の戦車話続き   LST

 最近日本史書庫、戦史話がつづいてますが(苦笑)、戦前の日本では港湾施設のガントリークレーンの能力の低さで15t(無理して18t)以上の戦車が作れなかったという話を前回書きました。
 
 だったらフェリーやRO-RO船のようにランプを下して戦車を自走させて搭載すればいいのでは?と考察しました。ところがフェリーは近海向け、RO-RO船は戦後に普及したもので戦車開発当時実用的ではなかったという結論が出ました。
 
 あれから考えたんですが、ようするにLST(戦車揚陸艦 Landing ship,tank )が遠洋航海に耐えられれば万時解決じゃないの?とはたと気付きました。ランプで自走搭載可能ですから。
 
 で、調べてみたんですが日本の場合は駄目ですね。そもそもLST自体が1941年にイギリスで考案されたもので戦前は存在しなかったそうなのです。一応日本も1930年代から戦車揚陸艦の必要性を感じ研究を進めていたそうですが、完成したのが1942年では話になりません。
 
 日米の代表的なLSTの性能を比較するためにアメリカのLST-1型、日本の第一〇三号型輸送艦を見てみましょう。
 
 搭載能力はほぼ互角(アメリカがやや上)、速度では日本の方が上回っています。ただし致命的なのは航続距離の違いです。日本は2700海里で駆逐艦より短いんです(特型で5000海里)。せめて5000海里ないと有効的な運用はできません。
 
 日本は完全に上陸作戦専用として開発したのでしょうが、アメリカは上陸作戦の他に戦車輸送艦としての性格も持たせたようですね。1052隻という建造数がそれを物語っています。
 
 日本の貧弱な工業力、戦略思想の欠如といってしまえばおしまいですが、せめてLSTの建造込みで戦車開発を進めて欲しかったと思います。海軍と陸軍で開発兵器の連絡が行ってなかったという可能性は多分にありますね。
 
 いくらなんでも戦車の重量制限15tではまともな戦車などできるはずもありません!最低でも20t以上(できれば30t以上)なければ防御装甲も十分に装着できないし、戦車砲の威力も制限されてしまいます。
 
 
 鉄の棺桶とはまさに日本の戦車を揶揄する言葉でした。それを日本の戦車兵が自嘲気味に言っていたんですから絶望的です。
 
 せめて列強戦車と互角に戦える戦車を開発してあげなければ駄目でしょう。これは日本の兵器開発者いや戦争指導者の怠慢ですよ!(怒)

港湾施設と戦車、そして日本人の宿瘂

 戦前の日本戦車は、港湾にあるガントリークレーン能力の限界から15トン(頑張って18トン)が限界だといわれていました。
 
 実際、九七式中戦車(チハ)で15.3トン、一式中戦車(チヘ)で17.3トン、三式戦車(チヌ)で18.8トンと見事にこの制限に引っ掛かります。しかも三式戦車は海外に運ばれた形跡さえないのです。
 
 船舶輸送を諦めた四式中戦車(チト)でようやく30トン、五式中戦車(チリ)で37トンとやっとまともな能力になっています。ただしこれらは本土決戦用で少数しか生産されませんでした。
 
 だったらカーフェリーやRO-RO船のように直接ランプを下して自走させて搭載すればいいじゃないの?という当然の疑問が出てくると思います。
 
 しかし調べてみると、フェリーは近海向けで到底遠洋航海に向かず、車両輸送専門のRO-RO船に至っては世界中で本格運用が始まったのが戦後ということで日本においては実用的ではありませんでした。アメリカのM4シャーマン中戦車は30トン以上ありますから、あちらのガントリークレーンは30トンでも大丈夫だったのでしょう。
 
 こういう例って戦前の日本には多いですね。馬匹牽引能力の限界から野砲を開発する時重量制限したとか本末転倒の話が多すぎます。
 
 8頭以上で野砲を牽引させた場合、その飼料より同重量を牽引する車両のガソリン代の方が安かったそうですから、日本の軍馬の馬格が劣るのならさっさと見切りをつけて車両牽引前提で開発すべきだし、戦車の開発を重量制限で決めるのではなく輸送手段込みで開発するか、でなければ戦車を諦めて歩兵用対戦車火器の開発に力を入れるべきでした。
 
 それ以前の前提条件として、今後海軍の燃料が石油に代わることを真剣に検討した形跡さえないのが絶望的です。イギリスは世界でも有数の良質な石炭産出国でありながら、石油の重要性に早くから気付きフィッシャー提督(ジョン・アーバスノット・フィッシャー 1841年~1920年)を中心に早くから中東に進出し石油資源の確保に走っていたそうですから、その先見性には驚かされます。
 
 一方日本は仮想敵国アメリカからの石油輸入に頼りきり、有事の石油確保をどうするか?という意識が欠如していたように思われます。危機感があるのならシベリア出兵も資源のないシベリアに無駄な兵力を送るのではなく、樺太に傀儡政権でも樹立し北樺太油田の権益を手に入れておくべきでした。また独自に中東や南米、蘭印の産油地帯に進出した形跡もありません。
 
 当然それらの地域は列強の勢力圏下ですから、ぶつかるのは必定です。しかしそれは意味のある衝突で、シベリア干渉戦争のような壮大な無駄では決してありませんでした。
 
 
 日本外交に戦略性がないのは、戦後だけではなく戦前からさえそうでした。明治維新から日露戦争までの期間だけが例外だったのかもしれません。
 
 
 そういえば大戦中、パレンバンの産油地帯を空挺占領したのも陸軍でしたね。海軍は軍事作戦を検討くらいはしたかもしれませんが(それさえ怪しいですが…)結局実行できず、有望な石油資源は回してもらえなかったそうです。海軍も駄目なら陸軍もケチくさい。
 
 
 どうも日本人は長期的な展望を持って戦略を練るのが不得意な民族のような気がします。兵站の意識が決定的に欠けているのも不思議です。戦国時代には兵站意識は他の民族並みにあったんですがね。豊臣秀吉の軍事作戦などまさにそうですから。
 
 どうしてこうなったのか?江戸時代の太平で完全に牙を抜かれたのか?原因を追究しなければ今後の日本の課題は克服できないような気がします。今のエネルギー安保をまったく考慮しない反原発運動などまさに日本人の欠陥を示している典型です。政治家にも官僚にも『エネルギー問題は国家の重要な安全保障』という意識が欠如しているんですから絶望的です。
 
 皆さんはどう思われますか?

統制経済と日本

 最近、「技術戦としての第二次世界大戦」(兵頭二十八、別宮暖朗 共著)なる本を読みました。
 
 兵頭氏、別宮氏ともども軍事と戦史に一家言を持つ人たちで私もこの分野に関しては一目置いているんですが、やや経済に関しては知識が薄いのではないかと疑問を持ちました。
 
 というのも
○1936年を境に日本経済は暗転した。
○これは戦争のためではなく統制経済の失敗である。
○ソ連の5ヶ年計画の成功に影響されて統制経済を始めたが、バクー油田の輸出による外貨などの利点がないため失敗した。
○政府官僚が統制するのではなく軍事産業の育成など民間活力を利用すべきだった。
○国家総動員法の誤った統制経済の結果、官僚の天下りが横行し民間人の創意工夫を阻害した。
 
などなど…の記述があるからです。
 
 同書では一人当たりGNPが1938年を境に低迷し始め、それ以前の水準に回復するのは昭和30年代に入ってからであるとも書いてあります。
 
 
 たしかに大筋ではそうなのかもしれませんが、私がネットなどで調べてみると経済に関しては微妙に間違っているような気が(苦笑)。
 
 
 政府発表の戦前のGNP(国民総生産)あるいはGDP(国内総生産)の数値が見つからなかったので、他サイトからの引用ですが
年次工業生産指数で1913年を100とすると
1936年 169.2
1937年 194.5
1938年 195.2
となっており、それ以降の数字はないもののその後もそれほどの低下はないような印象です。
 
 また別サイトでは、(資料)総務省統計局「日本長期統計総覧」からの引用として
1936年 3.1
1937年 23.7
1938年 3.4
1939年 0.8
1940年 -6.0
1941年 1.6
1942年 1.3
1943年 -0.3
1944年 -3.4
1945年 不明
という経済成長率となっており37年急激な経済成長(支那事変勃発による戦争特需と思われる)のあとも緩やかに成長しているんです。
 
 1943年、1944年のマイナス成長は明らかに戦局悪化の影響でしょう。1937年と1941年のGDPは165017から212594(単位不明)とむしろ増加しているんです。
 
 各国比較でも1940年から1945年までは、程度の差こそあれGDPが低下しているのが普通で例外は世界の工場であったアメリカ一国だけなのです。ソ連も緩やかに上がっていますがこれはアメリカのレンドリースのおかげで特定の分野(戦車など)に集中して工業資源をつぎ込めたからでしょう。
 
 ですから国家総動員法(1938年)による統制経済で経済が停滞したというのは間違い。むしろ経済規模は拡大しています。ただ本書の指摘通り民間の創意工夫が阻害され官僚主義的停滞が起こったのは事実でしょう。
 
 本書で指摘した一人当たりGNPも、1938年から1942年までは緩やかに上昇しています。1939年と1944年はほぼ同じくらいで1945年だけが敗戦の影響でガクンと落ちているだけです。
 
 
 他の分野ではユニークな内容だけにいかにも惜しい!
 
 
 私の結論としては
 
◇統制経済はある程度成果を上げたが、官僚主導だったのは間違い。ソ連のような独裁体制でない限り無責任な官僚を処刑できない。ということは成果を上げるために必死になる事もない。
 
◇別に官僚主導でも良いが、死刑を含む失敗した時の厳しいペナルティも同時に課すべきだった。(これは現在でも言えますね!)
 
◇戦時体制に移行する前からクルップやラインメタルなどのような大規模軍需産業を育成すべきだった。
 
◇ソ連や中華民国のように戦争時に踏み倒す覚悟で精密な工作機械を大量導入すべきだった。赤字になるのを極度に嫌う日本人はまじめすぎ!(これは本書も指摘しています)
 
くらいでしょうか。
 

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