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2012年11月

2012年11月 1日 (木)

承久の乱    後編

 後鳥羽上皇は、朝敵になった義時に従うものは千人もおるまいとたかをくくっていました。
 
 北条氏に不満を持ち宮方に奔った三浦胤義(義村の弟)などは
「兄に日本総追捕使の位を授けられますなら、必ずお味方に付く事でしょう」と上皇の機嫌を取ります。
 
 
 上皇方は、三浦義村を含む全国の御家人たちに「朝敵北条義時を討てば恩賞は思いのままに取らせる」との院宣を乱発します。しかし宮方につく武士はほとんどいませんでした。それどころか「いざ鎌倉へ!」と続々と鎌倉方は増幅していきます。
 
 
 院宣と共に弟胤義からも密書を受け取った義村は、逆に書状を幕府に提出しました。義村の読みは、『宮方に勝ち目なし』でした。兵力差もさることながら、御家人たちが自分達の武家政権を選択した以上宮方の勝利する可能性は万に一つもないと思ったのです。
 
 であるなら北条氏に恩を売っておくことが得策。義村は一族をあげ率先して討伐軍に加わりました。感情的になって宮方に加わった弟を捨てたのです。
 
 
 戦は勢いです。朝敵がどうのこうのより勝つ方につくのが生き残る道です。日和見の武士たちも上洛軍が近づくと続々とこれに加わりました。
 
 
 宮方は、思いのほか自軍の集まりが悪いので積極策を捨てました。とりあえず藤原秀康に一万七千余騎を与えて幕府軍主力の東海道軍を美濃・尾張国境で防がせます。
 
 しかし、勢いに乗る幕府軍はこれを鎧袖一触。武田信光らの率いる東山道軍も美濃大井戸で宮方の大内惟信勢二千騎を撃破、宮方は敗走しました。
 
 
 瀬田に最後の防衛線を築いた宮方でしたが、ここも簡単に突破され総崩れになります。
 
 
 美濃・尾張での敗報を聞いた宮方は大混乱に陥りました。後鳥羽上皇は自ら武装し比叡山に登って僧兵の協力を求めましたが、勝ち目のない上皇を見限った比叡山はこれを拒絶します。
 
 幕府軍は京の都に乱入しました。上皇方の武士、三浦胤義、藤原秀康らは最後の一戦をせんと御所に駆けつけますが、すっかり怖気づいた上皇はかたく門を閉ざして武士たちを中に入れませんでした。
 
 「大臆病の君に騙られたわ」とはこの時の山田重忠の発言だと伝えられます。
 
 
 後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り「このたびの挙兵は謀臣たちにたばかられての事で朕は悪くない。義時追討の院宣も取り消す」と泣き言を言ってきました。
 
 哀れなのは上皇に見捨てられた宮方の武士たちです。東寺に立て籠って絶望的な抵抗をしますが、ことごとく自害して果てました。
 
 
 しかし上皇の言い訳が通用するはずもありません。7月、乱の首謀者後鳥羽上皇は隠岐に流されます。またそれに同調した順徳上皇は佐渡に遠島。
 
 哀れなのは土御門上皇でした。父後鳥羽上皇や、弟順徳上皇を諌めながら乱をとどめることができなかったと自ら幕府に申し出、土佐に配流となります。仲恭天皇(順徳上皇の子)は廃され、新たに後堀河天皇が即位しました。
 
 
 このほか、乱に加わった公卿は処刑されるか、流罪になります。宮方の武士への処断は苛烈を極め例え幕府重臣の親族でさえ多くが粛清されました。
 
 後鳥羽上皇の持っていた広大な荘園は幕府に没収され、宮方の公卿、武士の所領も取り上げられ功績のあった武士たちに分配されます。
 
 
 以後、幕府と朝廷の力関係は完全に逆転しました。幕府は新たに六波羅探題を設置し朝廷や西国武士を監視します。朝廷は新たな天皇が即位するのにさえ一々幕府にお伺いを立てるまでに落ちぶれました。
 
 
 持明院統、大覚寺統の皇位争いはまさにこれに端を発します。
 
 
 
 名実ともに武士の世が来たのです。私は鎌倉幕府の覇権確立は結果的に良かったのではないかと考えます。元寇の時、平安時代さながらの摂関政治や院政が続いていたらと想像するとぞっとします。
 
 武士の主導する軍事政権だったからこそ国を滅ぼさずに済んだのです。
 
 
 その意味では、日本の歴史は必然であったと感慨深いものがあります。

承久の乱    前編

 1219年2月2日、鎌倉からの急使が京都に到着します。鎌倉三代将軍源実朝が暗殺されたという報告は京の朝廷にも強い衝撃を与えました。
 
 このとき朝廷を主導していたのは後鳥羽上皇。日本一の大天狗と言われた後白河法皇の嫡孫で歌道、管弦など芸術に通じるばかりか有職故実に詳しく、さらには武芸百般の所謂万能といってもよい人物でした。
 
 後鳥羽上皇にとって、朝廷の力が衰え武士政権が台頭する事は非常に苦々しい事でした。上皇は実朝横死の報告を受けて喜んだとも、これからの戦乱を想像し衝撃を受けたとも言われます。
 
 
 鎌倉幕府成立の時期に関しては諸説ありますが、すくなくとも摂関政治、院政を含めた朝廷統治に完全にとってかわったのは1185年の守護・地頭の設置だと思います。とくに地頭はそれまでの貴族の経済的基盤だった荘園のうち半分の収穫を兵糧米として挑発する権利を持つことから貴族支配そのものを揺るがす大事件でした。
 
 源頼朝は武力を背景にそれを推し進め、後白河法皇はただ黙認するしかなくなります。
 
 
 後白河以上の強烈な個性の持ち主だった後鳥羽上皇が、源家将軍の正統が断絶し鎌倉幕府内に動揺が起こっている今を朝廷が武家政権から権力を奪還する千載一遇の機会と捉えたとしても不思議ではありますまい。
 
 この時代、まだまだ鎌倉幕府の支配は盤石ではありませんでした。幕府に不満を持つ武士たちも多く、これらを糾合すれば朝廷側に十分勝機があると彼が考えたのも理解できます。
 
 
 後鳥羽上皇は、北面・西面の武士(院の警護の武士)や幕府に不満を持つ各地の豪族たちを集め秘かに軍事教練を行います。
 
 
 一方、将軍実朝を失った鎌倉では尼将軍北条政子(頼朝の正室、実朝の母)が政務を代行し、それを弟の執権北条義時が補佐するという体制で難局を乗り切ろうとしていました。
 
 鎌倉方は、京都に使者を遣わし新将軍に後鳥羽上皇の皇子雅成親王を迎えたいと申し出ます。しかし上皇は無理難題を条件に付けこれを拒絶。皇族将軍を諦めた鎌倉方は、摂関家から九条頼経(頼朝とは遠縁にあたる)を新将軍として迎える事となりました。
 
 
 上皇がいつから幕府を討つことを考えていたかは諸説ありますが、もしかしたらこの時には討幕を決意していたのかもしれません。1219年6月わずか2歳の幼い将軍は武士たちに迎えられ鎌倉に下向しました。
 
 
 討幕の直接の引き金は、京都における源頼茂(源三位頼政の孫)一族の討滅でした。皇居の警護を担当していた頼茂は、突如後鳥羽上皇指揮下の西面の武士たちに襲われたのです。
 
 彼が将軍になろうとしていたとも、後鳥羽上皇の鎌倉調伏の祈祷を察知し鎌倉に知らせようとしていたともいわれますが、真相は謎です。ともかく上皇が直接命じて武士を攻め殺す事は尋常ではありません。
 
 
 さらに事件に連座して、院の近臣藤原忠綱が失脚します。こうして見ると後鳥羽上皇は京都内の親鎌倉派を粛清し来るべき日に備えていたことになります。
 
 
 幕府と朝廷の対立は次第に深刻化していきました。後鳥羽上皇の討幕計画はあまりにも危険だと、息子の土御門上皇は諌めますがかえって遠ざけられます。上皇の暴走を恐れる摂政近衛家実ら朝廷の公卿たちも反対しますが、上皇はかえって意固地になって討幕計画を進めました。
 
 
 1221年5月、上皇は流鏑馬揃えを口実に諸国の武士を集め1700騎が結集しました。その中にはたまたま在京していたために無理やり軍勢に加えられた武士たちもいたようです。そしてついに1221年(承久三年)6月、北条義時追討の院宣が発せられます。世にいう承久の乱の始まりです。
 
 
 上皇挙兵の報は間もなく鎌倉にも伝えられます。朝敵になったという衝撃は御家人たちの動揺を誘います。このままでは幕府は瓦解し武士政権は崩壊の危機でした。
 
 尼将軍政子、執権北条義時を中心に主だった重臣たちが集まり善後策を協議します。しかし朝敵になったという衝撃から誰も発言する者はいませんでした。
 
 すると一人、大江広元が言葉を発します。
「朝敵なにほどのものぞ。断固討つべし!」
 
 広元は、ここまま手をこまねいていると座して死を待つことになること、朝廷の軍勢は勢いに乗っている間は強いが、ひとたび不利になると崩れるのも早いことなどを説いて執権義時に決断を迫りました。
 
 そんな中重病で隠棲していた三善康信が病躯をおして御所に参上します。彼も広元と同じ事を主張しました。
 
 朝廷を熟知していた二人の発言を聞いて義時も覚悟を決めます。さらに広元は動揺を抑えるため尼将軍政子に御家人たちへの演説を勧めました。
 
 
 御所の大庭に集められた御家人たちの前に政子は立ちました。故右大将家(頼朝)の恩顧を語り上皇方が勝てば武士政権自体が滅びるという政子の涙の訴えは御家人たちの心を打ちました。これで動揺は収まります。
 
 幕府方は義時の嫡男泰時を大将とする東海道軍、武田信光を大将とする東山道軍、北条朝時を大将とする北陸道軍と三道に分かれて京都に進撃しました。総勢十九万騎。誇張は当然あるでしょうが少なくとも数万を超える大軍であった事は間違いありません。
 
 
                                (つづく)

三代将軍実朝の悲劇

 梶原景時粛清、比企一族の討滅、畠山重忠粛清、和田合戦は北条氏の権力奪取の歴史であると同時に源氏将軍の権力が奪われていく歴史でもあったといえます。
 
 梶原、比企については直近の記事、畠山重忠の乱については過去記事で紹介していますので、和田合戦について簡単にご紹介します。
 
 ↓畠山重忠の乱の記事
 
 
 その前に、畠山重忠は北条時政と息子義時の路線対立の犠牲者だったのではないか?と私は推理しました。
 
 北条氏の傀儡将軍を政子の息子源実朝にするのか、それとも時政の後妻牧の方との娘婿で同じ源氏一族の平賀朝雅(ともまさ)にするのかという対立です。
 
 父子間の権力闘争に勝ったのは息子義時。二代執権に就任した義時は、父時政を隠居に追い込み牧の方も出家させます。実朝に代わる将軍候補だった平賀朝雅は京都で斬られました。
 
 
 和田合戦は新しく鎌倉の独裁者になった北条義時の最初の陰謀でした。
 
 
 和田義盛といえば初代侍所別当、武骨ながら頼朝の信頼厚い御家人として有名です。和田氏はもともと三浦一族で、当時の三浦氏の当主義村とは従兄弟に当たります。
 
 
 ある時和田義盛の甥胤長は、謀反の嫌疑を受け奥州に流罪を命じられます。義盛は胤長が無実の罪であると訴えますが、執権義時はこれを受け付けませんでした。
 
 それもそのはず。謀反云々は義時のでっちあげでしたから。そればかりか義時は和田一族を挑発し立ちあがらざるを得ないところまで追いつめます。
 
 
 1213年5月、我慢の限界に達した和田義盛は一族を上げて反北条の狼煙を上げました。集まった兵は百五十騎。一方待ち構える北条方は三千騎とも伝えられます。
 
 
 さすがに和田勢は武勇の兵。緒戦は和田方が押しまくり大倉御所を焼き討ちします。しかし同族のはずの三浦義村や足利義氏らは皆北条方に味方し和田勢は次第に追い詰められていきました。義時は事を起こす前に周到な準備を行い必勝の体制を作っていたのです。御家人たちも自分達が生き残るには独裁者義時に付くしかなかったでしょう。
 
 義盛ら和田一族は、由比ヶ浜に追い詰められ一族郎党ことごとく自刃して果てました。あるいは一族の朝比奈義秀らは生き残り落ちて行ったともされます。
 
 
 
 三代将軍実朝は、北条政子の子でありながら、血なまぐさい北条氏の権力闘争にすっかり嫌気がさします。といっても兄頼家ほどの気概はなく、もっぱら和歌など芸術の道に逃げました。
 
 
 北条氏の傀儡ではあっても、いや傀儡であればこそ実朝はどんどん昇進していきました。1205年正五位下加賀守右近衛権中将。1206年従四位下。1208年正四位下。1209年には従三位。
 
 そして1218年には権大納言、内大臣を経て12月正二位右大臣という父頼朝をも超える顕官となります。
 
 
 しかし実朝の心は晴れませんでした。宋人陳和卿に命じて唐船を由比ヶ浜で建造したのも現実逃避の表れでしょう。結局唐船は完成せず実朝の唐への逃亡計画は挫折します。
 
 
 そのころ、亡き兄頼家の遺児公暁が京都での修業を終え鎌倉に戻ってきていました。僧になる事で命を助けられていたのです。
 
 公暁の母は三浦義村の縁者で、義村が後見人となっていました。実朝は非業の最期を遂げた兄頼家の遺児を哀れに思い、鶴岡八幡宮の別当職を与えて優遇します。
 
 
 実朝は京の坊門家の姫を正室に迎えていましたが実子に恵まれませんでした。執権北条義時は姉政子と相談し四代将軍として頼朝の遠縁にあたる九条頼経を迎える計画を練っていました。
 
 公暁としては、実朝の次の将軍は源氏の嫡流である自分だと思っていました。それが自分を蔑にし京都から次期将軍を迎えるという話を聞き激怒します。
 
 
 その恨みは、現将軍実朝に向かいました。彼に父の仇は実朝であると吹き込んだ者がいるのです。通説ではこれは北条義時だといわれます。しかし冷静に考えるとすでに実朝は義時の傀儡で、その後京都から新将軍を迎えても北条執権政治に変化はないので義時の可能性はほとんどないと考えます。
 
 さらにもし公暁が新将軍になると、父の仇として義時が狙われる可能性もあるのですから尚更です。むしろ義時にとって公暁は邪魔な存在でした。
 
 
 では誰なのでしょうか?証拠は全くないのですが公暁が新将軍に就任して最も利益を得る人物、三浦義村が浮かび上がってきます。最初にこの説を唱えたのは作家の永井路子氏ですが、日本の歴史(中公文庫)の中で石井進氏もたいへん魅力ある説だと評価しておられます。
 
 
 公暁は鶴岡八幡宮内で側近を集め実朝暗殺の計画を練ります。
 
 
 1219年1月29日、実朝は右大臣就任を祝うため鶴岡八幡宮に参詣しました。この日の朝、正室の坊門氏は「嫌な予感がする」と出発を取りやめるように夫に訴えたそうですが、実朝はこれを拒絶し自分の運命を悟ったような表情で出立したと伝えられます。
 
 
 この日は雪が降り積もっていました。八幡宮の楼門を過ぎ本殿に至る階段を上っていると、大銀杏の陰から一人の男が現れます。(参拝の後、夜に階段を下りる途中という説も)
 
 男は白刃を抜いていました。実朝は男の顔を確認します。甥の公暁でした。実朝はすべてを悟り瞑目します。
 
「父の仇、実朝覚悟!」斬りかかる公暁に実朝はほとんど抵抗せず殺されたといわれます。三代将軍実朝の最期でした。享年28歳。源氏の正嫡はここに断たれました。
 
 
 
 一方、実朝の首をあげた公暁の運命はどうなったでしょうか?側近と共に実朝の首を携えた公暁は、後見人三浦義村の屋敷の門を叩きます。しかし門が開かれる事はついにありませんでした。
 
 
 これは永井路子氏の小説ですが、義村は実朝の首と一緒に北条義時の首があるかどうか確認させたそうです。しかし実朝の首だけである事が分かると、逆に追手を差し向け公暁を討ち果たしたといわれます。
 
 
 いかにもありそうな話です。北条義時は執権として実朝の八幡宮参詣に同行していましたが楼門の手前で急に腹痛を訴え他の者と役目を代わっていました。このわざとらしい行為から、義時が実朝暗殺の首謀者だという説がありますが、暗殺計画を事前に知り難を避けただけという解釈も成り立ちます。
 
 
 公暁は三浦勢に討たれ、事件の真相もまた闇の中に葬られました。
 
 
 北条義時は三浦一族を潜在的敵だと再認識しました。この時は公暁の首をあげた功績から不問にしますが、五代執権北条時頼の時代に、宝治合戦で三浦一族は結局滅ぼされることになります。

比企能員(ひき よしかず)の変と頼家最期

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 最初に人間関係が分からなくなると思って自作の関係系図を作成しました♪
 
 
 皆さま鎌倉時代に興味ないでしょうし、血生臭い権力闘争はあまりお好きじゃないと思いますが、北条氏がどうやって鎌倉幕府の権力を掌握したか御紹介したいと思いまして記事にした次第です。
 
 
 比企能員は、頼朝の乳母比企局に連なる一族です。彼の妻もまた二代将軍頼家の乳母となり、娘若狭はその正室となりました。頼家はすっかり比企一族に取り込まれてしまいます。
 
 
 比企能員が将軍の妻の父として幕府内で権勢を振るうのは自然でした。ただ御家人たちは驕る比企一族を苦々しく思っていました。
 
 
 梶原景時追討から三年後の1203年、比企一族は頼家の嫡男一幡(いちまん)を擁し鶴岡八幡宮に参詣します。これは次の将軍は一幡であるというデモンストレーションでした。
 
 一方、これに対抗して北条一族も頼家の弟千幡(せんまん、後の実朝)を擁し同じように八幡宮参詣を果たします。
 
 
 誰の目にも比企一族と北条一族の激突は必至だと映りました。御家人たちは次にどちらが権力を握るかに注目していました。
 
 
 常識的には、現将軍を擁し、その嫡男を握っている比企一族が有利です。北条氏の台頭は頼家が生きている限り絶望的だと皆が考えました。
 
 
 が、ある時頼家は明日をも知れない重病にかかります。荒淫と深酒で健康を害していたのでしょう。これに絡んで阿野全成(あのぜんせい 頼朝の異母弟、妻は北条時政娘阿波局)が将軍を呪詛したとの嫌疑を受け処刑されてしまいます。
 
 まずは比企側からのジャブでした。この時も北条時政は沈黙を続けます。それが不気味でさえありました。阿波局は千幡の乳母でもありましたから北条側にとっては危機でした。
 
 
 一方、比企一族側にとっても頼家に早く死なれる事は困ります。まだ嫡男一幡は幼児ですし権力の委譲もできていなかったからです。
 
 
 鎌倉中が頼家の病状を固唾をのんで見守っていました。
 
 
 北条時政は、すっかり弱った表情で比企能員に語ります。
「将軍家にもしもの事があったら幕府は危うい。我が家でも病気平癒のために観音堂を建立したので、お主もお参りに来てはくれまいか?」
 
 時政が権力奪取を諦めたと解釈した能員は二つ返事で承諾しました。
 
 
 能員が北条邸に招かれた朝、鎌倉内の物々しい騒ぎを聞きつけた能員の息子時員(ときかず)は能員邸に急ぎ参上します。母(能員の妻)に
「父上はどこにおられる?」と尋ねると、時政に招かれて北条邸に赴いたとのこと。
 
 思わず時員は「謀られた!」と叫びます。
 
 
 
 その頃比企邸は北条氏と同盟を結んだ三浦、和田らの軍勢に囲まれつつありました。時政はこの日のために秘かに有力御家人たちと結んでいたのです。
 
 比企能員が何も知らず観音堂に入ってくると待ち構えていた刺客によって殺害されます。同じころ比企邸は北条方の軍勢によって焼き討ちに遭っていました。
 
 鎌倉の山中に逃れた比企一族でしたが、多勢に無勢一族ことごとくが討ち果たされます。この中には頼家の正室若狭局と嫡男一幡も含まれていました。
 
 
 
 この事件を比企能員の変と呼びますが、資料によっては先に比企一族が北条氏討滅を計画していたともいわれどっちもどっちでした。より緻密に計画した方が勝ったといえます。
 
 
 時政の用意周到さは、この時同時に京の都に使者を出していた事です。使者は頼家死去の報告(まだ死んでいないにもかかわらず!)と弟千幡の将軍就任の許しを願う書状を携えていました。
 
 
 あとは頼家の死を待つばかりでしたが、奇跡的に頼家は回復してしまいます。真相を知った頼家は愕然としますが後の祭り、将軍位は朝廷によって弟千幡に授けられていました。
 
 
 北条時政を恨んだ頼家は秘かに側近を集め北条一族討伐を命じます。しかし、時政の諜報網はすでに将軍側近にも及んでいました。
 
 
 北条氏への討手は、待ち構えていた時政の軍勢によって返り討ちにあいます。頼家はすべての権力を奪われ伊豆修善寺に押し込められました。そして間もなく北条時政の命を受けた武士たちによって暗殺されます。1204年8月。享年23歳。
 
 
 これ以後、鎌倉幕府は執権北条時政によって牛耳られるようになりました。以後二代義時、三代泰時と執権政治は続きます。

梶原景時粛清事件

 源平時代の歴史をちょっとかじった方や源義経ファンの方から見ると梶原景時は義経を兄頼朝に讒言し陥れた大悪人というイメージを抱いていると思います。
 
 しかし、よくよく調べて見ると景時は忠臣であり任務に忠実であっただけだと私は考えます。義経を讒言したというのも、頼朝の命令に逆らって勝手に後白河法皇から官位を貰ったのは義経の方だし、義経の勝手を許すと鎌倉の武士政権自体の存立にもかかわるのですから当然です。
 
 事実、義経と同じく平家追討の大将として西行した異母兄範頼も、義経の専横を苦々しく思い鎌倉に訴えているほどですから。
 
 ただ景時の場合、あまりにも真面目過ぎて融通が利かなかった事は事実です。それが他の御家人から憎まれた原因だと思います。このあたり、石田三成とかぶるんですよね。有能な官僚であった事も、融通が利かなかったところも(苦笑)。
 
 
 景時と頼朝の出会いは、1180年の石橋山の合戦でした。当時平家方の大庭景親に属していた景時は、敗北し山中に隠れていた頼朝一行捜索隊に加わります。
 
 しかし頼朝の将来性に賭けた景時は、頼朝を発見しながらもあえて見逃しました。これが縁で再起した頼朝に仕える事になったのですが、頼朝もただ命の恩人だから重用したわけではありません。
 
 景時が坂東(関東)には珍しい教養人で実務能力が優れていたのが信頼されての事です。
 
 
 景時の有能さを表すエピソードがあります。景時が木曽義仲追討軍に参加していた時の事。鎌倉の頼朝のもとに合戦に勝利したとの報告がもたらされます。
 
 しかし御家人たちの報告書にはただ「勝利しました」の言葉のみで具体的な事は何も書かれておらず頼朝はいらいらしていました。そこへ景時からも書状がもたらされます。
 
 景時は、討ち取った敵将、捕虜の名簿、戦況の詳細を細かく記しており頼朝は初めて満足したそうです。頼朝は景時に絶大な信頼を寄せ、二代目侍所別当(初代は和田義盛)に任じます。
 
 
 そんななか1199年一代の英傑源頼朝が亡くなります。鎌倉幕府二代将軍にはわずか18歳の嫡男頼家が就任しました。
 
 頼家は若輩者で政治的経験もなかったため御家人たちは不安を感じます。そこで主だった御家人十三人が立ちあがり、これからの幕府政治は彼らの合議で決めるという事になります。
 
 頼家は体の良い飾り物になったわけですが、短慮にも自暴自棄になり酒に溺れたり御家人の妻を奪うなど暴虐な行為をくりかえします。これがますます人心を離れさせました。
 
 
 景時は北条時政らとともにこの合議の一員になります。しかし政権内には微妙な空気が流れていました。頼朝存命中は将軍の権勢を恐れ泣き寝入りしていましたが、景時に恨みを持っている御家人は多かったのです。
 
 もちろん景時にしてみれば、当然の行為で逆恨みもよいところでしたが特に三浦、和田ら武断派の御家人たちは景時を憎み抜きます。
 
 
 あるとき有力御家人の一人、小山朝光(結城朝光、結城家の祖)が鎌倉御所内で亡き頼朝の思い出を語っていました。
「忠臣は二君に仕えずというが、あの時(頼朝が死んだ時)出家しておくんだったなあ。今の世は薄氷を踏むような思いがする」
 
 それがどこでどう間違ったのか「朝光に謀反の意あり!」という噂になって幕府内を駆け巡ります。御所に仕える女官、阿波局からこの事を聞いた朝光は血相を変えて親友の三浦義村、和田義盛らに相談します。
 
 噂を調べて見ると景時が将軍に讒言したらしいとの事。怒った御家人たち66名は連署して将軍頼家に景時を糾弾する書状を提出しました。
 
 余談ですが、この連判状を誰も執筆する事ができず公事奉行人の中原仲業(中原親能の家人出身)に頼んで起草してもらったという笑えない話もあります。
 
 
 連判状はまず政所別当の大江広元のもとにもたらされます。広元は最初これを握りつぶしていましたが御家人たちが矢のように催促するので仕方なく連判状を将軍に提出しました。
 
 頼家はこれを読むと、さっそく景時を呼び出しました。書状を読んだ景時は「全くの濡れ衣だ」と弁明しますが頼家は信用せず、景時は鎌倉を追放されました。
 
 大江広元は景時が無実だと知っていましたし、彼を失うのは幕府にとって損失だと分かっていましたが、御家人たちの空気が景時弾劾に傾いている中での抵抗を諦めました。ここで景時を弁護すると自分の地位も危ないと踏んだのです。
 
 
 一方、頼家はやっと将軍の権威を示せるとばかり景時に対し厳しい処置をします。物事の真偽も確かめず損得も考えない大馬鹿者ともいえますが、もし頼家が景時を助けようとしても無駄だったでしょう。これには大きな陰謀が渦巻いていましたから。
 
 
 頼家は鎌倉にある景時の屋敷を打ち壊させ、景時が持っていた播磨と美作の守護職を取り上げました。1200年正月、景時は鎌倉を追放され一族郎党を率いて上洛を図ります。
 
 頼家は報告を受けると京都への沿道の御家人たちに梶原一族追討を命じました。
 
 梶原一族は、駿河国(静岡県東部)清見関(清水市)近くで付近の武士たちに追いつかれ合戦となりますが、一族郎党ことごとく討ち取られました。こうして権勢を誇った梶原景時一族は滅亡します。
 
 
 では、この事件の黒幕は誰だったのでしょうか?いくら御家人たちが景時を憎んでいたとはいえ、連判状一つまともに書けない連中にそれができたでしょうか?
 
 黒幕の存在を匂わせる一つの事実があります。最初に小山朝光に陰謀を伝えた阿波局。実は彼女、北条時政の娘(政子の妹)なのです。
 
 
 朝光謀反の疑いがなければ、そもそも景時追討の動きは存在していません。また梶原一族は駿河で討ち取られますが、秘かに関東を脱出した梶原一族に駿河という近郊で追いつくには待ち構えていないと難しいでしょう。そして、地元の武士にそれを命じる事ができる駿河の守護は北条時政。
 
 こうしてみると景時追討の黒幕は北条時政と断定してもよいかもしれません。連判状の時にも表に出ず、考えの足らない御家人たちを裏で思い通りに操る北条時政。
 
 彼こそ恐るべき陰謀家といって良いかもしれません。そして時政の凄みは次に書く予定の「比企の変」でも遺憾なく発揮されます。

源頼朝側近の文官団

 関東に独自の武家政権を創設し、武士の世をもたらした源頼朝。しかし彼の覇業には大江広元をはじめとする有能な文官たちの働きが大きかったのです。
 
 政権の運営は武力だけでは成り立ちません。文書を司り朝廷との外交に携わり、ときには頼朝に献策する有能な補佐役たちの存在は不可欠でした。彼らなくしては武家政権は誕生出来なかったとも言えます。
 
 大江広元は有名ですがそれ以外にも重要な役割を果たした者たちがいます。今私のマイブームは平安から鎌倉時代にかけての歴史でして、彼らの事を紹介したいと思います。
 
 
◇大江広元
 
 彼に関しては一度記事にしています。
 
 代々学者として名高い大江家の出身で、生母が再婚した中原家で中原親能(ちかよし)の義弟となります。頼朝と近かった親能の縁で、鎌倉に下り頼朝に仕えました。文書に明るく、兵法の家であることから頼朝にたびたび献策しています。
 
 頼朝と義経が対立すると、義経を後押しした後白河法皇の政治的失点を上手く衝き朝廷を脅して守護・地頭の制を導入させたのは広元の功績だといわれています。
 
 初代公文所(のちの政所)別当(長官)。 子孫に長井氏、毛利氏などがあります。
 
 
 
 
◇斎院次官中原親能(ちかよし)
 
 大江広元の義兄。もともと河内源氏(頼朝の家系)に連なる波多野氏と親戚で、頼朝挙兵で平氏に睨まれたことから鎌倉に逃亡。京の朝廷にも人脈があったことから頼朝の絶大な信頼を受け、1183年義経の軍勢と共に上洛、頼朝の代官として権勢を振います。
 
 貴族にかかわらず平家追討に参加するなど頼朝文官団では変わり者だったともいえます。平家滅亡後は九州に下向した大友能直(よしなお)の後見として肥後・筑後の守護を兼任するなど行動力は一番ありました。
 
 なお大友能直には頼朝御落胤説がありますが、これは大友氏が波多野氏と関係あることと、親能の養子になった事のほかにわざわざ頼朝が豊後守護になった能直の後見として親能を九州に送り込んだ事も噂の出どころなのだと思います。
 
 1183年10月公文所寄人。1191年政所公事奉行。子孫は九州各地に広がります。以前記事にした鹿子木氏などもそうです。大友氏とはその成立の過程からほぼ同族といってもよいでしょう。
 
 
 
 
◇三善康信(みよしやすのぶ)
 
 代々太政官の書記官役を世襲する下級貴族。母が頼朝の乳母の妹。その関係から伊豆に流された頼朝のために京都の情勢を知らせていました。平氏政権に睨まれて京にいられなくなり鎌倉に下向。以後は頼朝側近として仕えます。
 
 初代問注所執事(長官)。広元、親能らと違って地味ですが官僚としての実務能力は一番優れていたのではないかと思います。
 
 承久の乱では、鎌倉武士たちが後鳥羽上皇を討つ事をためらう中、広元とともに「断固討つべし!」と強硬論を主張し執権北条義時を説得したことが勝利につながりました。
 
 長年朝廷に仕えていたため、貴族たちが言葉だけは威勢良くても覚悟もなく形勢が少しでも不利になると腰砕けになる事を熟知していたのでしょう。
 
 子孫は筑後で、そのものずばりの問注所氏を名乗ります。
 
 
 
 
◇一条能保(よしやす)
 
 藤原北家中御門流。妻が頼朝の同母妹(坊門姫)。木曽義仲が京に入ると立場が危うくなり鎌倉に下向。頼朝唯一の肉親(範頼、義経は異母弟)の夫であったことから頼朝の信頼厚く、武家政権成立後は京に戻り頼朝の威光を背景に讃岐守左馬頭右兵衛督参議・左兵衛督・検非違使別当権中納言従二位と異例の栄進をします。
 
 頼朝の代官として京の朝廷に睨みを利かせ、後の六波羅探題の基礎を築きました。頼朝の側近というより鎌倉に近い貴族というべきかもしれません。
 
 なお鎌倉幕府四代将軍九条頼経は、頼朝の同母姉妹(能保の妻)の曾孫であることを理由に将軍に擁立されたそうです(ウィキペディアより)。
 
 
 
 
 有名どころはこれくらいでしょうか?あと梶原平三景時も鎌倉武士というよりは教養高く頼朝の代官として軍目付など歴任したことから文官と見て良いかもしれませんね。
 
 鎌倉武士の中では頼朝側近の文官たちと普通に会話できたそうですから。判官贔屓から見ると大悪人のイメージがあるでしょうが、私はどうも彼を憎めないんです。石田三成、本多正信らと同じにおいがするんですよね。
 
 任務に忠実だった事がかえって仇となったのでしょう。武断派から嫌われたことも三成、正信らと共通します。
 

平治の乱    

 歴史解釈は研究者によって様々でどれが正解とも言えないのですが、私の保元の乱(前記事参照)理解は院政派に対して摂関政治復古派が起こした反乱であったというものです。
 
 といいますのは、崇徳上皇方の主勢力が前関白藤原忠実、悪左府頼長親子であったからです。もし崇徳方が勝利すれば頼長が兄忠通に代わって関白に就任する事は間違いなく、後白河天皇方に味方した公卿達は処刑されないまでも政治の中枢からは追われたはずですから自然に院政派の力は弱まったでしょう。
 
 ではなぜ崇徳方=藤原摂関家の勢力が敗れたか?ですが、これはひとえに頼長の政治力・人徳のなさでした。摂関家の武力の主力になるべき河内源氏からさえ棟梁源為義の嫡男義朝が離反したくらいですから。もし頼長に深謀遠慮があれば河内源氏を優遇し、為義、義朝の官位を引き上げておくこともできたでしょう。
 
 それを頼長がしなかったのは、源氏を自家に仕える犬くらいにしか思っていなかった証拠です。その驕りが結局自らを滅ぼす事になりました。
 
 
 保元の乱の結果、摂関政治復活の芽は完全に断たれます。美福門院と藤原信西の主導する後白河体制は、後白河本人が即位後二年で退位し皇位を息子の守仁親王に譲った事で一応の完成を見ました。守仁親王は二条天皇として即位します。1158年のことです。
 
 美福門院は自らの希望通り二条天皇の即位を見届けると政治の第一線からは退きます。後白河院政は、院の近臣第一人者である信西入道の独裁体制といってよい状態になりました。
 
 院政というのは、上皇(あるいは法皇)が治天の君として息子である天皇を指導する体制です。言いかえれば院庁の発する院宣・院庁下文がすべてにおいて優越する政治体制でした。ですから院の近臣であれば必ずしも高い官位は必要ありません。信西入道も正五位下小納言という低い官位のまま、すっかり勢力の衰えた関白藤原忠通以下公卿を支配していました。
 
 信西の権勢を物語るエピソードがあります。忠通の父、宇治入道忠実が軍兵を自分の荘園から集め謀反を企んでいると言いがかりをつけ忠実、頼長の所領であった荘園を没収したのです。本来ならばこれらは忠通に渡るべきものでした。しかし、信西の権勢を恐れ忠通は泣き寝入りします。忠実・忠通父子は、信西に対抗するためそれまでの対立を解消し必死に藤原摂関家を守るしかありませんでした。
 
 信西は後白河上皇の絶大の信頼を楯に強引な政策を推し進めます。1158年忠通は信西の圧迫に堪えかね関白職を息子の基実に譲ると隠棲してしまいました。
 
 信西の権勢は上皇の信頼によるものだけではありません。最大の武力を持つ伊勢平氏の勢力と結びついたことも大きな理由でした。伊勢平氏の棟梁平清盛の娘を自分の息子の嫁に迎えるなど結びつきを深めます。
 
 平氏一門は信西の引き立てもあり、棟梁清盛が大宰大弐に任ぜられたばかりか弟頼盛が従四位下安芸守、同じく教盛が正五位下淡路守、経盛が従五位上常陸介と兄弟で実に四カ国の受領を独占します。清盛の息子たちまで長男重盛が遠江守、次男基盛が大和守と飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
 
 信西の長男、俊憲もまた参議に任ぜられるなど信西に気に入られなければ朝廷内での出世もままならない状態だったのです。
 
 
 ところで、武門の一方の雄河内源氏の棟梁源義朝はどうだったでしょうか?義朝とて信西と誼を通じなければ出世もままならない事は承知していました。そこで信西の息子是憲を自分の娘の婿に迎えたいと申し出ます。
 
 しかし信西の返事は「我が子は学生で武人の婿にはふさわしくない」と冷たいものでした。しかもその舌の根も乾かないうちに清盛と縁組を結んだので義朝は信西に対し深い恨みを抱きます。
 
 
 ここに一人の男が登場します。彼の名は藤原信頼。官位は正三位参議・権中納言・検非違使別当・右衛門督という輝かしいものでした。異母兄基成が陸奥守、自身も武蔵守などを歴任するなど東国の武家とも関わり深い一族です。
 
 東国に地盤を持つ源義朝とも荘園の支配関係などで古くから結びついていました。
 
 
 信頼は、上皇の寵臣である事に驕り信西に対して左近衛大将という武官の最高位を要求しますが、彼の事を軽薄才子として全く評価していない信西はこれを拒絶します。
 
 信西に対する不満分子である義朝と信頼が結びつくのに時間はかかりませんでした。信頼は信西主導の後白河院政では自分が浮かび上がる目はないと、二条天皇親政を自分達が主導する事でこれに取って代わろうと画策します。
 
 しかしそのためには信西最大の頼みの綱である平清盛の武力を何とかしなくてはなりません。両者は慎重に計画を練ります。そしてついに1160年12月9日行動を開始しました。
 1159年12月9日夜、源義朝、藤原信頼らの軍勢は後白河院御所の三条院を包囲、屋敷に火を掛けます。信西とその一族の殺害を図ったのです。反乱軍は後白河上皇とその姉上西門院を幽閉、信西の行方を捜し求めます。
 
 信西の息子たちは捕えられたものの肝心の信西本人は取り逃がしました。ここらあたり信西の野生の勘は見事というしかありませんが、結局自領の田原庄に隠れていたところを探しだされ斬首されました。
 
 クーデター派は、源氏の武力を背景に太政大臣以下百官を集め高らかに新政権誕生を宣言します。
 
 
 では、信西が最も頼りにした平清盛はこの時どこにいたのでしょうか?実は清盛は一族を引き連れ熊野参詣に赴いていました。最大の敵対勢力である清盛が京を留守にした千載一遇の好機を上手く衝いたのです。
 
 京の政変は熊野詣をしていた清盛にも伝えられました。驚愕した清盛は西国へ落ちて再起を図ろうと考えます。しかし、現地の熊野別当や、湯浅氏などが協力を申し出たことから思いとどまり、急いで帰京し六波羅邸に入りました。
 
 義朝の庶長子、悪源太義平は清盛の帰京を摂津阿倍野で待ち伏せし迎え撃とうと主張しますが、またしても戦を知らない信頼の反対で取りやめになりました。もし阿倍野で義平が待ち伏せしていたらその後の平氏政権はなかったかもしれません。
 
 清盛は六波羅邸に入ると、さっそく信頼に名簿(みょうぶ)を差し出します。これは敵対する意思のない事を示したものでした。清盛としても天皇と上皇を敵方に握られている以上、どうしようもなかったでしょう。
 
 しかし信頼・義朝側は甘すぎました。どう考えても清盛がこのままおとなしく引き下がるはずないではありませんか!
 
 クーデター側が清盛に対し何ら有効的な手も打たず自らの官職引き上げに興じている間に、清盛は配下の武士団を京に呼び寄せていました。
 
 そんな中、クーデターに憤った内大臣三条公教らは軟禁状態だった二条天皇を秘かに救い出し清盛の六波羅邸に連れ出します。同時に後白河上皇も脱出に成功し清盛邸に入りました。
 
 形勢は一気に逆転します。六波羅邸には関白基実らも参入したので清盛方が官軍になりました。
 
 
 二条天皇の脱出を知った義朝は、警備を怠った信頼に烈火のごとく怒ります。
「日本第一の不覚人(大馬鹿者)を頼んだ我が誤ったわ!」と激しく罵倒したと伝えられます。確かに痛恨のミスでした。天皇・上皇を握っているからこそクーデター軍は官軍なのです。それが今や賊軍。大義名分を失った賊軍に味方する者はありません。
 
 一方官軍になった清盛軍には続々と各地の武士団が駆けつけました。清盛は大軍を背景に一気に決着をつけるべく出撃します。
 
 クーデター派は大敗し、散り散りになって潰走しました。首謀者の一人信頼は仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭し、清盛の前に引き出されても泣訴の限りをつくして命だけは助かろうとしますが、もとより許されるはずもなく処刑されました。
 
 義朝は本拠の東国へ落ち再起を図ろうとしますが、尾張において代々の家人長田忠致の裏切りに合い暗殺されました。長子義平も近江で捕えられ六条河原で斬られます。
 
 ただ、清盛は信西ほど非情にはなれませんでした。義朝の嫡男頼朝を義母池禅尼の嘆願で死一等を減じ伊豆に島流ししたほか、常盤御前の産んだ幼い子供たちの命を助けるなど戦後処理は中途半端なものになります。
 
 結局この甘さが平氏滅亡の遠因となるのですが、ともかく平治の乱の勝利で清盛は絶大な権力を握ります。
 
 保元の乱で摂関政治が終焉を迎え、平治の乱で院政は止めを刺されました。以後朝廷は清盛を中心とする平家を軸に動きだします。
 
 平氏政権の誕生です。清盛は従一位太政大臣になるなど位人臣を極めました。一族の多くが高位高官に任ぜられ、彼の義弟時忠が「平家にあらずんば人に非ず」と嘯くほどになります。
 
 
 しかし驕る平家は久しからず、東国において清盛が命を助けた頼朝は、父義朝は言うに及ばず信西入道をも超える政治力を持った曲者だったのです。

保元の乱    (後編)

 信西入道と美福門院は、摂関家の実力を恐れていました。いざとなれば河内源氏を中核とする武力を動員できる悪左府頼長側を何とかして葬り去るにはどうしたらよいか、日夜考え続けていたのです。
 
 美福門院側といえば、名ばかりの関白・忠通、権威のない中継ぎ天皇後白河、そして右往左往するばかりの院の近臣。
 
 信西は自陣営の強化のために全国から武士を動員します。中継ぎとはいえ天皇の権威はまだまだ生きていました。河内源氏の棟梁源為義の嫡男で、父とは袂を分かっていた源義朝。同じ源氏一族だが下野で独自の勢力を築いていた足利義康。そして最大の武力を持つ伊勢平氏の棟梁平清盛を自陣営に加えた事で勝負ありました。
 
 
 清盛は実は崇徳上皇=悪左府頼長側につく可能性もありました。というのは清盛の父忠盛が重仁親王の後見
だったからです。彼の後妻(清盛には義母にあたる)池禅尼(藤原宗子)は重仁親王の乳母でした。
 
 結局清盛は池禅尼の決断で後白河方につく事になります。これには美福門院からの働きかけが大だったといわれています。
 
 
 一方、頼長は崇徳上皇を担ぎ出し自分の息のかかった武士を集めさせます。応じたのは清盛の叔父平忠正、大和源氏の兵力。河内源氏の嫡流為義は、息子義朝が後白河陣営に属したので最初は出馬を渋ります。しかし頼長の説得で結局は出馬を決断しました。摂関家の代々の恩を持ち出されて断りきれなかったと伝えられます。
 
 
 美福門院、信西らは大兵力を背景に崇徳方を挑発します。ついに耐えられなくなった崇徳上皇は鳥羽離宮を脱出、鴨川東岸の白河殿に入り頼長と合流しました。1156年7月の事です。世に言う保元の乱の始まりです。
 
 
 劣勢の崇徳方では、実質的な大将為義が作戦会議の席上後白河方への夜討を献策します。万が一の勝利の可能性はそれしかなかったでしょう。しかし頼長の
「王者の軍は堂々とあるもの。夜討などもってのほか」の言で退けられたといいます。
 
 逆に後白河天皇方では、義朝が上皇方への夜討を進言しこれは容れられました。正面を義朝勢二百騎、左翼に足利義康勢百騎、右翼に平清盛勢三百騎を配し三方から白河北殿に攻めよせます。
 
 上皇方は為義の八男鎮西八郎為朝の奮戦もありましたが多勢に無勢、義朝が火を放った事もあって崩れ立ちます。為義は崇徳上皇、頼長を擁して白河北殿を脱出しました。
 
 しかし、上皇は間もなく仁和寺に赴き降伏。頼長は妻子を匿っていた父忠実がいる奈良まで落ちていき、対面しようとしますが忠実はこれを断りました。
 
 もし対面すれば自分はともかく頼長の妻子まで乱に同調していたとされ処刑をまぬがれなかったからです。父忠実にとっては苦渋の選択だったでしょう。しかし、これで絶望した頼長は矢傷を負っていたこともあって失意のうちに亡くなります。悪左府頼長の最期でした。
 
 
 為義は一旦近江に逃れたものの、息子義朝を頼って降伏しました。
 
 
 
 後白河天皇方の上皇方に対する処断は苛烈を極めました。まず乱の象徴とも言うべき崇徳上皇は讃岐に配流。為義とその子供たちは、義朝の再三の助命嘆願も容れられず信西の命で義朝自身に処刑させるという厳しさでした。
 
 信西は義朝が断れないように、先に平清盛に叔父忠正を処刑させています。こうして義朝は、泣く泣く父と兄弟たちを自らの手に掛けました。
 
 が、叔父殺しと親殺しでは世間に対する印象が違います。源義朝には生涯親殺しの汚名がついて回りました。
 
 信西が、摂関家と結びつきが強く再び敵となりかねない源氏の勢力を削ぐ事を重視したためでした。
 
 上皇方の残党は探し出されことごとく斬られます。しかし義朝の弟為朝は、その武勇を惜しまれ伊豆への島流しになりました。
 
 
 恩賞の沙汰も素早いものでした。戦では活躍しなかったものの実質的に平氏の参戦が勝敗を分けたということで平清盛が勲功第一とされ正四位下播磨守。義朝には従五位上左馬頭が与えられます。
 
 一般にこれは信西が平氏を優遇し源氏を貶めたのだといわれますが、違います。元々清盛は正四位下安芸守でしたから、豊かな国の国司に横滑りしたに過ぎません。一方、義朝は初めて昇殿を許されたのですから破格の恩賞ではありました。
 
 以後、朝廷は新たな権力者となった信西を中心に回っていきます。清盛の武力と結びつき信西の権力は絶頂になりました。
 
 
 源氏はしばらく雌伏の時代に入ります。信西の苛烈な政治は、しかし多くの廷臣たちの不満を呼びました。信西に不満を持つ廷臣たちによって、いずれ彼は非業の最期を遂げる事になります。
 
 
 同時にそれは清盛にとっても絶体絶命の危機でした。そしてその危機を乗り越えた時こそ、平清盛が天下の権を握る事となるのです。

保元の乱    (前編)

 平清盛率いる伊勢平氏の台頭を決定付けたといわれる保元の乱。それは同時に皇室と摂関家の争いを発端とし院政と摂関政治を結果的に終焉させたという意味もありました。
 
 武士の時代の始まりとも言うべき保元の乱、本稿で見て行こうと思います。
 まず乱の原因を説明しなければならないのですが、少々複雑なので皇室と摂関家に分けて説明します。
 
 
 
◇「皇室の争い」
 
 院政とは、白河上皇がそれまでの摂関政治に代わって1086年に始めた政体です。藤原摂関家の影響力を削ぐため退位して自分の子(あるいは孫)を天皇の位に就け、天皇の父(上皇あるいは法皇)として統治を行いました。
 
 白河法皇の孫に当たる鳥羽法皇の時代が院政の頂点でした。しかし強烈な個性の持ち主であったため色々なところに歪がおこります。鳥羽院の寵妃美福門院(藤原得子)は、自分の産んだ体仁親王を天皇にするため、鳥羽院を動かし待賢門院(藤原璋子)の子崇徳天皇を強制的に退位させ、親王を近衛天皇として即位させました。
 俗に崇徳天皇は白河院と璋子との不義の子で、そのために父の鳥羽法皇から疎んじられたといわれていますが歴史的史実として確認されたものではないようです(河内源氏 元木泰雄著 中公新書)。むしろ美福門院側の流した工作だったという線も捨てきれません。
 しかし苦労して皇位に就けた近衛天皇は1155年わずか17歳で崩御してしまいます。このままでは次の皇位は、美福門院が嫌った崇徳上皇の子、重仁親王に持って行かれます。一計を案じた彼女は、自分が養子にしていた守仁親王を皇位に就けようと工作を開始します。
 守仁親王は当時12歳、そこでその父雅仁親王(鳥羽院の第四皇子)が守仁親王成人までのリリーフとして即位することとなりました。すなわち後白河天皇です。
 そんな中、1156年鳥羽法皇が崩御しました。中継ぎにすぎない後白河体制は盤石ではありません。強制的に退位させられ、自分の息子も皇太子を廃嫡させられ院政の望みも断たれた崇徳上皇は不満を持ち続けます。そこを摂関家の悪左府頼長に乗ぜられたのが乱の原因でした。
 
◇「摂関家の争い」
 関白藤原忠実は白河院政期に疎んじられます。1120年白河院は忠実の関白職を罷免し忠実の子忠通を関白に任命しました。院政全盛期ですから無論名ばかりの関白にすぎません。忠実は宇治に隠棲します。
 
 ところが捨てる神あれば拾う神ありで、元々白河院政に批判的であった鳥羽院が権力を握ると、上皇に再び召し出され1132年内覧の宣旨が与えられました。
 日本史に詳しい方ならご存知だと思いますが内覧は令外官で摂政関白になる者がその前段階で就任するもので、ほとんど関白と職域がかぶります。この事実上の親子二人関白状態が政治を混乱させました。
 自分の息子とはいえ、関白職を奪われたことから忠実と忠通の親子関係はぎくしゃくしていきました。かわって忠実は晩年の子で忠通とは25歳も離れた頼長を溺愛します。学問好きで目から鼻に抜ける才子というところも忠実の気に入るところでした。
 忠実と関白・忠通の対立は極限まで来ます。忠実は忠通から藤原氏の氏の長者の地位を取り上げ頼長に与えました。しかも忠通を義絶するという念の入れようだったのです。
 摂関家の親子対立は、もともと院政側の陰謀という側面もありました。摂関家の勢力を削ぐために成された工作だったのです。摂関家はまんまと乗せられたとも言えます。
 ところで、頼長とはどういう人物だったのでしょうか?彼が学問好きの才子であった事は間違いありません。しかし冷酷非情な人物だというのが世間のもっぱらの評判でした。頼長は若くして累進し左大臣そして父から譲られた内覧の地位にありました。
 人々は、彼の事を悪左府と噂します。ところが悪左府頼長は近衛天皇崩御後の皇嗣問題になんの関与もできませんでした。ここら辺りが彼の限界だったのかもしれません。
 美福門院は、頼長の手駒となる可能性のある崇徳天皇の皇子重仁親王をいち早く猶子とするなど次々と先手を打ってきていました。彼女とその取り巻きの方が一枚も二枚も上手だったということでしょう。
 自分の才を頼む頼長でしたが、所詮摂関家の御曹司、甘いところがありました。 後白河天皇即位で自分がもとの通り内覧となって権力を握る事を期待していたといわれますが、その夢は美福門院側によって粉々に打ち砕かれます。
 近衛天皇崩御が前関白忠実と悪左府頼長の呪詛によるものと噂を立てられ、失脚してしまいました。頼長は自分が窮地に陥って初めて美福門院側の陰謀を悟ります。怒った頼長は復讐を使いました。ここに崇徳上皇と悪左府頼長結びつきのきっかけが生じます。
 では美福門院陣営に、ここまで絵を描ける人物はいたのでしょうか?はい、一人だけいました。その名は信西(しんぜい)入道藤原通憲(みちのり)。正五位下小納言という摂関家とは比べ物にならない低い官職ですが、代々学問の家系で彼の学識は頼長の趣味の学問の域を超えていました。
 信西入道は、雅仁親王(後白河天皇)を養育していた関係(乳母夫)から利害の一致する美福門院と結託し、陣営の参謀役に収まっていたのでした。信西は次第に頼長を追い詰め蜂起せざるを得ないようにもっていきます。
 さながら、蜘蛛が巣に絡みついた昆虫をゆっくり料理するが如きでした。
 後編では保元の乱の経過を辿ります。

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