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2012年11月 1日 (木)

承久の乱    前編

 1219年2月2日、鎌倉からの急使が京都に到着します。鎌倉三代将軍源実朝が暗殺されたという報告は京の朝廷にも強い衝撃を与えました。
 
 このとき朝廷を主導していたのは後鳥羽上皇。日本一の大天狗と言われた後白河法皇の嫡孫で歌道、管弦など芸術に通じるばかりか有職故実に詳しく、さらには武芸百般の所謂万能といってもよい人物でした。
 
 後鳥羽上皇にとって、朝廷の力が衰え武士政権が台頭する事は非常に苦々しい事でした。上皇は実朝横死の報告を受けて喜んだとも、これからの戦乱を想像し衝撃を受けたとも言われます。
 
 
 鎌倉幕府成立の時期に関しては諸説ありますが、すくなくとも摂関政治、院政を含めた朝廷統治に完全にとってかわったのは1185年の守護・地頭の設置だと思います。とくに地頭はそれまでの貴族の経済的基盤だった荘園のうち半分の収穫を兵糧米として挑発する権利を持つことから貴族支配そのものを揺るがす大事件でした。
 
 源頼朝は武力を背景にそれを推し進め、後白河法皇はただ黙認するしかなくなります。
 
 
 後白河以上の強烈な個性の持ち主だった後鳥羽上皇が、源家将軍の正統が断絶し鎌倉幕府内に動揺が起こっている今を朝廷が武家政権から権力を奪還する千載一遇の機会と捉えたとしても不思議ではありますまい。
 
 この時代、まだまだ鎌倉幕府の支配は盤石ではありませんでした。幕府に不満を持つ武士たちも多く、これらを糾合すれば朝廷側に十分勝機があると彼が考えたのも理解できます。
 
 
 後鳥羽上皇は、北面・西面の武士(院の警護の武士)や幕府に不満を持つ各地の豪族たちを集め秘かに軍事教練を行います。
 
 
 一方、将軍実朝を失った鎌倉では尼将軍北条政子(頼朝の正室、実朝の母)が政務を代行し、それを弟の執権北条義時が補佐するという体制で難局を乗り切ろうとしていました。
 
 鎌倉方は、京都に使者を遣わし新将軍に後鳥羽上皇の皇子雅成親王を迎えたいと申し出ます。しかし上皇は無理難題を条件に付けこれを拒絶。皇族将軍を諦めた鎌倉方は、摂関家から九条頼経(頼朝とは遠縁にあたる)を新将軍として迎える事となりました。
 
 
 上皇がいつから幕府を討つことを考えていたかは諸説ありますが、もしかしたらこの時には討幕を決意していたのかもしれません。1219年6月わずか2歳の幼い将軍は武士たちに迎えられ鎌倉に下向しました。
 
 
 討幕の直接の引き金は、京都における源頼茂(源三位頼政の孫)一族の討滅でした。皇居の警護を担当していた頼茂は、突如後鳥羽上皇指揮下の西面の武士たちに襲われたのです。
 
 彼が将軍になろうとしていたとも、後鳥羽上皇の鎌倉調伏の祈祷を察知し鎌倉に知らせようとしていたともいわれますが、真相は謎です。ともかく上皇が直接命じて武士を攻め殺す事は尋常ではありません。
 
 
 さらに事件に連座して、院の近臣藤原忠綱が失脚します。こうして見ると後鳥羽上皇は京都内の親鎌倉派を粛清し来るべき日に備えていたことになります。
 
 
 幕府と朝廷の対立は次第に深刻化していきました。後鳥羽上皇の討幕計画はあまりにも危険だと、息子の土御門上皇は諌めますがかえって遠ざけられます。上皇の暴走を恐れる摂政近衛家実ら朝廷の公卿たちも反対しますが、上皇はかえって意固地になって討幕計画を進めました。
 
 
 1221年5月、上皇は流鏑馬揃えを口実に諸国の武士を集め1700騎が結集しました。その中にはたまたま在京していたために無理やり軍勢に加えられた武士たちもいたようです。そしてついに1221年(承久三年)6月、北条義時追討の院宣が発せられます。世にいう承久の乱の始まりです。
 
 
 上皇挙兵の報は間もなく鎌倉にも伝えられます。朝敵になったという衝撃は御家人たちの動揺を誘います。このままでは幕府は瓦解し武士政権は崩壊の危機でした。
 
 尼将軍政子、執権北条義時を中心に主だった重臣たちが集まり善後策を協議します。しかし朝敵になったという衝撃から誰も発言する者はいませんでした。
 
 すると一人、大江広元が言葉を発します。
「朝敵なにほどのものぞ。断固討つべし!」
 
 広元は、ここまま手をこまねいていると座して死を待つことになること、朝廷の軍勢は勢いに乗っている間は強いが、ひとたび不利になると崩れるのも早いことなどを説いて執権義時に決断を迫りました。
 
 そんな中重病で隠棲していた三善康信が病躯をおして御所に参上します。彼も広元と同じ事を主張しました。
 
 朝廷を熟知していた二人の発言を聞いて義時も覚悟を決めます。さらに広元は動揺を抑えるため尼将軍政子に御家人たちへの演説を勧めました。
 
 
 御所の大庭に集められた御家人たちの前に政子は立ちました。故右大将家(頼朝)の恩顧を語り上皇方が勝てば武士政権自体が滅びるという政子の涙の訴えは御家人たちの心を打ちました。これで動揺は収まります。
 
 幕府方は義時の嫡男泰時を大将とする東海道軍、武田信光を大将とする東山道軍、北条朝時を大将とする北陸道軍と三道に分かれて京都に進撃しました。総勢十九万騎。誇張は当然あるでしょうが少なくとも数万を超える大軍であった事は間違いありません。
 
 
                                (つづく)

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